XXI 世界
そして夜は死に、朝は生まれた。
まるで止まっていた時間が再び流れ始めたように。意識が昇り詰めた時、最初に感じたのは寒さだった。冷凍睡眠装置がもたらす冷気に震え、闇の中で腕を動かそうとする。長い年月を眠りに費やしたからか、筋肉が衰えていて、骨が軋むようだった。どうにかして、闇の中で蠢き、天井に手を掛ける。
一筋の光。
あれは星だろうか。
腕を伸ばし、天井を動かす。
そして、蓋が開いた。
陽光が目蓋越しに突き刺さる。
恐る恐る目を開き、私は外を見た。
青く澄んだ空が目に入り、小さな影が羽ばたいている。装置から漏れ出る冷気に視界が曇り、何度か瞬いた。これは夢なの、と呟こうとして、喉が詰まる。咳が止まらなくなって、目に涙が滲んだ。
と、床面が大きくうねり、桃色の水が泉のように湧き出して、私の体を、目を、耳を、顔もすべて包み込む。硬直した筋肉は揉みほぐされ、液体が全身に浸透。思わず飲み込むと、柔らかな甘さが感じられた。やがて液体は乾き、繊維となって衣服に代わり、纏わりつく。
薄かったけれど、今の気温には丁度良い。
補助されるがままに背中を押され、私は上体を起こす。
しばらく呆然とした。
私は何をしていたんだっけ。
何か夢を見ていたような気がしたけれど、何もかも覚えていない。大切なことを忘れてしまった気がする。
頭は明瞭としていた。
多分、思い過ごしだろう。そのうち忘れたことさえ忘れてしまうに違いない。
それにしても、と思う。
私はどうして冷凍睡眠装置に掛けられていたのだったっけ。記憶の幾つかが抜け落ちている。でもそれも、覚えているほどのことでは無いのだ。
……きっと。
我に帰ると、私は、小さく息を吐く。
それから大きく息を吸い、
私は涙を流した。
涙のために世界が煌めいて見える。
手の甲で拭うと、一気に視界は開け、外の様子が良く分かった。樹々は生い茂り、大小様々な実がなっている。どこからか鳥の囀りと、小川のせせらぎが聞こえてきた。
日差しはどこまでも暖かい。
季節にして、春を思わせた。
花が咲いている。
力を込めて腕を突き、両足で以て立ち上がってみた。凄く軽く感じられて、少しだけびっくりする。それだけ体重も落ちているということ。そう納得して、一人頷いた。
一人?
さっきまで、隣に誰か居なかったっけ。
誰か、なんて分からないけれど。
何故だろう……涙が止め処なく溢れて止まらない。私は一体、どうして泣いているのだろう?
悲しくなんて無いはずなのに。生まれ直して、喜んでいるはずなのに。何故だろう……。
分からない。
ただひたすらに、涙が止まらなかった。
装置から抜け出ると、木から熟した果実を捥ぎ取って、そっと齧ってみる。涼やかな風が口の中に広がった。それから──私は静かな丘の上を歩き、小川まで向かう。清らかな水を手で掬い取り、一口啜った。冷たさが体中に染み渡って、ああ、生きているんだ、と実感する。
何という奇跡だろうか。
私はまだ生きている。
周りは何もかも変化してしまっているというのに。かつての風景など見る影も無い。まるで宇宙が一巡して、生まれ変わったみたいな。そんな世界を、私は生き延びた。
生きることを許された。
そう思って、天を仰ぐ。
どうしてそう思ったのかは分からない。
深く目を瞑り、それから目を開ける。
どこまでも空が続いて見えた。ここに私の知る場所はどこにも無い。果てしなく自然が覆い尽くしている。私の居場所は無いけれど、その代わり、どこに存在していようと構わない。そんな気がする。
私以外に人間の姿は無かった。それでも構わない。こうして無事に、この世に生まれたのだから。私は今、生きる喜びを噛み締めている。
「おはよう」と、誰にともなく独りごちた。
分かってはいたけど、誰も何も言わない。
それでも良かった。
安らぎに満ちた陽光に照らされて。私は一度大きく呼吸する。
見渡す限り平原が続く、まるで楽園みたいな丘の上。たった一人きりの天国に、私は立ち尽くしている。
爽やかな一陣の風が吹いて、私の頬をそっと撫でた。
空を見上げて、私は、また涙を滲ませる。
ここがあまりにも美しかったから。
ここはあまりにも寂しかったから。
私は声にならぬ声で、未来を想った。
Electrical Eden 八田部壱乃介 @aka1chanchanko
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