XX 審判

 私はキセの苦しみを、本当の意味では知らないのだろう。私の記憶と些かの違いがあったから、すべてを理解するのは難しい。自ずと想像の幅が利き、勝手な同情になってしまうかもしれなかった。

 でも、彼女の苦しみは私の苦しみ。

 私の苦しみの一端を、彼女は預かってくれている。

 道端の雪が、溶け始めていた。

 何を思ったのか、端末の電源を入れると、画面が表示されるのを待つ。日付がそこには記されていて、今日が大晦日なのだと、遅れて気が付いた。

 今日ですべてが終わる。

 今日一日の決断で、私の未来は大きく変化する。

 キセの思いは良く分かっていた。だからその意思を尊重して、ここに預けていくのも一つかもしれない。彼女を自分のことのように大切にするからこそ。そうすべきなのだろう。

 ここを離れるのだと思うと、奇妙なくらい、この街並みが美しく見えた。所々に穴が空いていて、もはや故郷としての面影なんて失われているというのに。けれどこの世界こそが、外を知らない私の生まれ故郷。

 草木や鳥や、流れゆく雲に太陽も。すべてが紛い物であると分かっていて尚、私にとっては本物だった。現実だった。

 キセにとってはどうだったろう。

 意思を取り除かれていたし、台本が流入していたから、違和感を感じる間も無かったかもしれない。だからこそ彼女は今、感情の芽生えに恐れ慄いている。

 現実の外側にはもう、私たちの知る景色は無い。

 だからキセが戻ることで、恐怖を覚える必要だってないはず。

 そうでしょう、キセ。

 この声が聞こえているなら、ここまで来て欲しい。

 もしかすると最後になるかもしれないと言うのなら、せめて今だけは……一緒に語らいましょう。

「何を」と、背後から声がした。「何を語らうと言うのですか」

 子どものように怯えた口振りで、今までの傍若無人な態度もどこへやら。私は苦笑して、ただ目的の無い散歩を提案する。私にとって最後の景色を目に焼き付ける、そのお供をして欲しい、と。

 キセは黙ってついてきた。口数も減って、私の言葉に相槌を打つのに徹している。あれが綺麗だとか、こんな思い出があったね、だとか。そう言う私に対して、どこか心ここに在らずといった様子で、対処する。それはまるで何かを保とうとするかのように慎重で。多分──というより確実に。彼女は私の決心に気が付いている。

 だからこその無言なのか。

 なればこそのタイミングなのか、私は少しばかり唐突に切り出すことにした。

「私は貴方を置いていくつもりは無いよ」と。「だって、どんなに嫌で辛くて苦しい記憶だったとしても、忘れてしまうのは悲しいでしょう」

 ですが、とキセは口を開き、押し黙る。

 だから私は、続けて、

「貴方にはその時の記憶があって、私には編集された記憶がある。同じようで、多分、どこか違う。だから私の決心が、軽く見えるのかもしれない」

「そんなことは」

 私は立ち止まり、彼女を見た。キセは地面を見下ろして、深く目を瞑り、首を振る。

「ありがとう。この思いが伝わっているなら、貴方にも分かるはず。かつて私たちは同じだった。だから私だけが貴方の苦しみを知らないのは、凄く辛い。外に出れば貴方とこうやって話すことは出来なくなるけれど、それでも大事にしていきたいと思う」

 この呪縛は消えて無くならない。

 それでも過去を消そうとは思わない。

 私は私。

 これも私なのだ。

 恐らく、この日の決断を思い出して、後悔することなど無いだろう。背負っていくと決めたのだから。後は全うするだけ。この人生を、役目を、運命を、私という人間を。

 この世界に良いも悪いも無い。更に言えば、この世界に意味なんて存在しないのだろう。けれどそれは、赤ん坊が育っていくにつれて価値が高まっていくように。人は老いるにつれて意味を、物語を培っていく。

 だからこそ、後悔の無い人生を選択するのだ。

 人は最期に、自分が何者なのか、私らしさとは何だったのかを見定める。

「未来がどうなるか、なんて分からないけれど。一緒に行こうよ、キセ」

 後悔するようならそれも一興。

 せっかく生まれてしまったのなら、楽しみを見出していくしかない。喜びや悲しみも、すべてを祝福しよう。痛みを引き摺ってでも。心が生きている限り。

 キセは深く、深く頭を下げて、葛藤しているようだった。それから喉の奥でぐっ、と音を鳴らすと、

「分かりましたよ」と根負けする。

 私たちは静かに笑い合って、泣きあった。

 穴が世界を侵食していくのは、装置が壊れかけているためだろう。部屋に戻ると、キセの言い付けに従い、目覚めの準備に取り掛かった。と言ってもやることは簡単。ベッドに倒れ、外側のことを想像して目蓋を閉ざす。

 夜明けは近い。

「用意は良いですか?」横にキセが並んだ。

「良いよ。いつでも大丈夫」

「後悔はありませんね?」

「最高の気分だよ」

「そうですか」キセは目を瞑ってから、口元を緩めると、「そう言えばリセは、外側のことを見ていませんでしたね?」

「どうだった?」

 キセは含み笑いと共に言う。

「最高でしたよ」と。


 手を繋ぎ、二人揃って目を瞑る。

 恐怖を覚えなかったわけではない。

 でも私は一人じゃないのだ。どんな辛いことがあっても、すぐ隣にキセが居てくれる。それが目には見えないのだとしても。それでも、私は、立ち向かえる。

 だからもう、怖くない。


「では、行きますよ」キセの言葉に、

「行こう」私は強がりではなく、笑って応じた。


 自宅だったこの部屋も、抜け落ちて崩れていく。

 体が瞬く間に突き放された。

 まるで落下するように加速して、

 音も、

 光も、

 匂いも、

 何もかも。

 すべてが離れていって、

 やがて闇が広がった。


 ──おやすみなさい、リセ


 そんなイメージを最後に、私は無に帰る。

 ふっ、と。

 息を吹きかけるように。


 そして、

 何も、

 無くなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る