XIX 太陽

 私はまだ生きている。

 それが目覚めた最初の感想だった。


 津波が収まったのか、もう揺れはない。

 久しぶりに快く眠れた。朝の目覚めは何とも素敵で、不安なのはともかく、疲れは取れている。目が覚めたのはキセと同時で、私がこの部屋、空間を察知した時に目が合った。

 おはようございます、とキセが言い、

 おはよう、と返事する。

 気分が良い。

 シャワーを軽く浴びて、汗を洗い流す。着替えてから、リビングで衛生映像を視聴するキセに、

「様子はどう」かと訊ねた。

「良い感じですね」キセは画面を消すと、振り返りつつ言う。「もう、何も起こらないと思います」

「そう……それは良かった」

「間も無くですね」

 それはつまり、目覚めるに相応しい環境が整うまでのこと。私は頷いた。でもやっぱり、ここを離れる必要が無いのでは、と思う。

 外側がもう何の問題もないというのなら、この現実という内側に籠っていても、何の支障もない。そもそも出ていく必要性がないのでは、と。けれどキセは否定する。

「もう長いこと冷凍保存されているんですよ。体の負荷は著しいですし、それに、この桃源郷がずっと残り続けるとも限りません」

「でも、外に出たらキセは居なくなっちゃうんでしょう?」

「統合されるだけで、居なくなるわけではありませんよ。まあ形としては、一人っきりということになるでしょうが」

「だったら、私は貴方とここに居たい」

「そうですか?」彼女は寂しそうに笑い、「部屋の外を見てみてください」

 キセは玄関より先を指差した。言われるがまま、私はコートを羽織り、扉を開ける。

 部屋の外は、ところどころ剥がれ落ちていた。変な表現だけど、そう言うほかない。建ち並ぶ家やビルからは、壁のそこら中にぽっかりと穴が空いている。穴はどの角度から見ても同じ形を保っており、それが物理的に作られたものではないことが窺われた。

 穴は概念的なものらしい。

 こうしたアスファルトや針葉樹といったものにのみならず、空中にも存在している。その様子がまるで剥がれ落ちたタイルの跡にも見えた。どこに繋がっているのかは想像も出来ない。そうか、冷凍睡眠装置が劣化してしまえば、自ずと夢から覚めなくてはならなくなるのだ。

 これもまた、私の意思に関係なく。

 まるで現実とは災害に等しい。

 あらゆる意思を奪い去り、後には結果だけが残される。

 私に出来るのは、精々が受け入れることだけ。

 冬の寒さに充てられて、私はすぐに自室へと帰る。どうでしたか、とキセに訊かれて、凄いねと返事。

「まさか、あんな現実離れしたところが見られるなんて」と私。「ああ、そんなの、今更か」

 彼女は目を細め、「強くなりましたね」と言ったけれど、それはまったくの勘違い。これはただの強がりでしかないのだから。本当はもっと、ここで身を休めていたかった。辛いことばかりだったというのに、それでも乗り越えてここまで辿り着いたというのに。

 私は独りになろうとしている。

 果たして夢から覚めた世界には、どれだけの人間が居るだろうか。私はずっと長いこと眠っていて。きっと、私よりも先に目覚めた人はもう、朽ちているに違いない。

 この世界にはもう、私以外に居ないのではないだろうか。ならば、多分、私と同時に目覚める人も居なければ、外側で誰かと出会えることも無いのだろう。

 昨晩に見た地球は、およそ人の過ごせる環境では無かった。だからたとえ、生き延びた人が居たとしても、それはもうかつてのお話。遠くにまで時間は流れ去ってしまった。だから今はもう、何もない。

 だからこれは強がりだ。

 たった一人の生存者としての。

 精一杯の誇りでもあった。

 そうでなければ──私が報われなければ、消えていった人たちに手向けることが出来ない。

 理想郷の外にある天国に目覚めても、私は救われたと思えないだろう。

「それでも」とキセは言った。「貴方は強くなりました。前の貴方だったら、そんなふうに考えることでさえ厳しかったでしょう。貴方は変わりました。ですから、その、最後に一つだけ。言っておかなければならない、ことが……」

 歯切れ悪く言い、彼女は口を噤む。

 気を引かれてしまい、「何のこと」かと訊かずにはいられない。

 キセは思い悩むように、考え込むようにして、俯いた。それから、

「成る程、これが意思ですか。意思が相克すると、これほどまでに苦しいとは」意外にも弱々しく微笑み、「黒子には記憶が与えられる代わりに、意思が取られたことを説明しましたね。だから演者だけでなく、黒子にも台本は与えられていたのです。そのため自発的な補助が可能でしたし、意思が芽生える余地さえ生まれませんでした。何故なら既に、擬似的な意思が用意されているのですから」

 私と同じように、与えられた自我に徹することで、自分というものを補完した──ということ。

 こちらの独白に感応したように、キセは首肯して、

「でも私だけ、貴方から意思を預けてもらいました。だから台本が供給されなくなった後も、こうして貴方と対話が出来ます。これは、何と言う僥倖でしょう。貴方の成長を誰よりも傍から見守り、喜べることの幸福。ああ、リセ、私は幸せなんですよ。貴方が生き延びてくれて……」

 突然、目に涙を浮かべて言うものだから、狼狽えてしまった。あれだけ鬱陶しいと思っていた黒子が、誰よりも私の味方だったなんて。まったく運命というものは、何が起こるか分からない。でもだからこそ、人は未来に希望を抱くし絶望も抱くのだろう。

 キセは泣きながらも喜びに満ちた笑みを浮かべ、その相反する感情に戸惑ってもいた。

「だからこそ、貴方には夢から覚めて欲しいんです。この悪夢という名の理想郷から、本当の桃源郷に。貴方には清らかな心で目覚めて欲しいんです」

 話が見えない。

 私は訝しんで、彼女の肩を揺する。

 一体、貴方は何を言っているの。

 キセは首を揺らしながら、苦悶に満ちた表情で、

「私はまだ、割り切れていないんですよ」と言った。「貴方は亡霊を退けることが出来ましたし、ここへ辿り着くための人との縁も、生き延びるだけの運も持ち合わせていました。でも、私は、まだ祖父のことが忘れられないんです」

 突き飛ばされた時の祖父の目が、忘れられないんです。キセは咽び泣きながら、膝から崩れ落ちた。両手で顔を覆いながら、それでも言葉が止まらない。

「だから私は、貴方と一緒には行けません。統合されてしまえば、貴方は苦しみを抱いて目覚めることになってしまいますから」

 彼女の言いたいことが、何となく分かりかけてきた。

「まさかここに残るって言うの……」訊ねると、彼女はうんと頷く。「そんな、だって、貴方も楽しみにしてたんでしょう?」

 誰よりも熱心に外側の動きを観察していたというのに。あれは彼女の意思ではなかったのか。

「私の意思です。ただそれは、貴方を想ってのこと。自分のことを省みたことは一度だってありませんでした。だからこそ、私は困惑しているんです。初めて私は、私と言うものを知りました。こうも辛いのですね。貴方はこの苦しみと向き合ったのですね」

 ある意味で、私は意思と記憶とが分離されていて良かったのかもしれない。私のように再構築された、紛い物の苦しみならば、祖父の目など気にならなかった。だから苦しんだとは言え、キセほどでは無かっただろう。

 キセは今、私から得た意思の一端を用いて、記憶と向き合った。それも、真正面から向き合ってしまったのだろう。もしかすると、統合された私は、こうなるのかもしれない。ならばこそ、彼女は統合されることを望まず、一人残ろうとしている。

 私はキセのことを好きになり始めていた。他ならぬ自分だというにも関わらず。友愛を抱き始めていたのだ。そんな彼女を置いていくと決断するのは、正直に言って難しかった。

 だから、「もう少し考えさせて」と私は言った。

 このまま二人で消えていくのも悪くないかもしれない。そう思いつつ、消えていった友人たちを想えば、晴れ姿を見せるべきだろうとも思う。身が引き裂かれる心持ちになって、私は家を飛び出した。

 今はただ、外の冷たい空気が吸いたかった。

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