迷いの先

柳葉まひろ

第1話

 屋上に上る扉の鍵は外れていた。

 なるべく音を立てないようにゆっくりと開く。吹き込む風は湿っていて、ほんのり雨の匂いがした。


 

 転落防止用の柵に手をかけて下を覗く。斜向かいの電気屋のディスプレイが午前4:30を指していた。マンションの間にある小さな公園もプラタナスの道もまだ眠っている。

 靴を綺麗に揃えてから僕は、ゆっくりと柵を乗り越えた。

 幅十五センチの出っ張りに立ち後ろを向いて目を閉じる。心は穏やかだった。

あと数秒で自由になれる。そう思いながら僕は静かに落ちていく……はずだった。

 


 何かがおかしい、そう思って目をゆっくり開けると僕は驚いた。

 周りをシャボン玉の様なものが囲んでいて、フワフワと宙に浮いていたのだ。

 僕は混乱した。その時、僕の耳に「どうしてそんな事をしたの?」という声が聞こえてきた。その声は頭の上の方から聞こえてくる。見上げてみると、プラタナスの木のてっぺんに一匹の黒猫が座っていた。

  目が合うとその猫はニャアと一声鳴いて身軽な様子で、僕の目の高さまでやってきて再び

「どうしてそんな事をしたの?」

と問うてきた。

「どうしてって言われても、まずこの状況が訳が分からないし、君は誰なの?」

 黒猫は面倒くさそうにため息を吐いてから、

「今のあなたは身体と心が離れた状態なの。下を見れば分かるわ」

 そう言われて足元を見るともう一人の自分が、いや、僕の身体だけが真っ逆さまになって止まっていた。地面までは、10mもなかった。

「私は……人間の呼び方で言うと猫又ってやつ?猫は五十年生きると尻尾が別れて化けられるようになるか、私みたいに何かしらの能力を貰えるの。人間に知られているのは化かす方だけみたいだけどね」

と答え、次はお前の番だと言いたげに顎をしゃくった。

「一言で言えば『この世に生きるのが嫌になった』ですかね……。まぁいろいろあって疲れちゃったんです」

「いろいろって何?

 私はこの歳まで生きてきたけど、どうしても分からない事が少しだけある。その一つがあなたみたいな人間の存在なの。今までにもいろいろな人間に聞いたけど、納得できる答えを返された事が無いの。私の能力は万能じゃないから、いつまでもこうしてはいられない。早く話してくれる?」

 

 まだ全く理解が出来ていなかったが、黒猫の言葉には悪意は感じられなかった。僕は、狐につままれたような気持ちになりながらも、ポツポツと語り始めた。



 僕は高校で野球をやってるんです。強さだと中堅くらいの学校なんですけど。

 入学した頃は知り合いがいない不安とか、僕の実力でやっていけるのかみたいな気持ちが頭の中でグルグルしてたのを今でも覚えてます。

 入部当初は当然、球拾いとか練習の手伝いばかりだったんですけど、三ヶ月経ったくらいの時にコーチの目に止まったみたいで、上級生の練習に入れてもらえて。

 そしたら監督に褒められて、たまに試合にも出して貰えたんです。

 でも、僕自身はあまり現実感が無くてとにかく必死でした。

 思い返せば、この時から地味な嫌がらせとかはあったんです。そして、決定的に狂ってしまった出来事がありました。

 ある日、いつもの様に練習が終わって後片付けをしていた時に呼ばれたんです。

「お前、今すぐ倉庫まで来い」って。

 嫌な予感はしました。でも、先輩の命令は絶対だから行くしかなかった。案の定ボコボコに殴られました。


「一年のクセに生意気だ」


「上級生舐めてるだろ」


「ちょっと気に入られたからっていい気になってんじゃねえよ」


とか好き勝手に言われながら。

その日はそれで終わったんです。でも、次の日からが地獄だった。幸い骨は折れて無かったから、目立つ場所をテーピングで隠して練習に行きました。

 そうしたら無くなっていた。グローブもスパイクも。練習着は泥で汚されていました。

 周りの空気も変わっていて、誰も話しかけてこないし、返事すら返してもらえなくなりました。

その日から、道具は全部持ち帰るようにしたり、荷物は別の場所に隠す様にしました。

 でも、先輩のミスを被せられて怒られた時に自分だけではどうにもできないなと思ったんです。とりあえずコーチに報告にいきました。帰ってきた答えは、


「ふーん。で?

その歳で言い訳ばっかりして恥ずかしくないの?」


 目の前が真っ暗になった気がして今すぐ逃げたくて、

「すみません。全て自分の不甲斐なさが原因です」

 なんて嘘をついて、泣きそうになりながら逃げました。

 その日から、監督も、コーチも、先輩も、同級生も、全員が敵になって。上級生の練習はもちろん、グラウンドにすら入れてもらえなくなりました。

 野球が好きだから、甲子園が夢だから、必死に耐えようとしました。

 でも、もう限界なんです。周りにどう思われてるのか、どう見えているのか。怯えながら生きるのは辛すぎる。

 もう夢なんて無いし、苦しみに耐えるだけなんて辛すぎるんです……


 いつの間にか僕は泣いていた。

 話そうなんて思っていなかった事まで、堰を切った様に言葉が溢れ出てきてどうにもでき無かった。

  

 

 黒猫は呆れた様に首を振った。

「なぜあなたは、そんな扱いを受けた場所から離れなかったの?」

「なんでって言われても……」

 猫は怒った様に肩を震わせると一息に捲し立てた。

「そこで続けなきゃいけないって決められてるの?自分のやりたいことも出来ずにムダな時間を過ごすことを受け入れるなんて馬鹿みたい。少し冷静になれば違う選択肢だってあるのに、まるで見えてないじゃない。周りの目が何だって言うの。自分の望む事を叶えるための努力よりも、その場にいる下らないヤツらの評価の方が大事だってこと?


ありえない!

 

人間を見てるといつもそう。目の前にある世界が全てだと思い込んで、そこにあるのは傷つく未来だけだとしても、自分を曲げてまでその環境に止まり続けて、挙げ句の果てに、その現状を納得させるための言い訳を自分自身にするんでしょ。馬鹿ばかしくて馬鹿ばかしくて馬鹿ばかしい。」



……その言葉で思い出した。

ボールを初めて握った時の事 初めてバッティングセンターに行った時の事


甲子園に行きたいと言った時の事。


 そうだ、自分は苦しむためでも悲しむためでもない。好きになった野球をもっと好きになりたくて続けてきたんだ。

 あの場所にはもう居られなくてもどこかに自分の場所があるし、夢を叶えるための道は一つじゃない。


 その猫との話しの中で僕は生きる希望を見いだしていた。凝り固まっていた思考が、心が、自分自身の不甲斐なさを嘆く。でも、彼女のお陰で気がつくことができた。明日からまた頑張ろう。そう決意して僕は彼女の目を見て、

「ありがとう。君のお陰で吹っ切れたよ!

 君は僕に大切な事を気づかせてくれた。忘れていた事を思い出せてよかった。

 これからは『自分』を忘れずに頑張るよ」

 

 だが、黒猫はバカにしたように鼻を鳴らして答えた。

「何を言ってるの?あなたはもう飛び降りてるじゃない。私はずっと聞きたかった質問をするためにこの能力をつかっただけだし、もうすぐ元の状態に戻るわよ。この高さからだと……そうね、即死はできるんじゃないかしら。来世があることを祈っておくわ」

と。


  その瞬間、気持ちの悪い浮遊感が僕を襲う。悲しむ時間も、後悔する時間もない。


  耐え難い程の痛みが全身を駆け抜けた。



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