言雨ーことさめー
安倍川 きなこ
言雨ーことさめー
夜のビルの屋上で、少女は眼下に広がる光景を何の感慨もなく見下ろしていた。
やがてその闇に吸い込まれるように足を踏み出す。
「待って!」
いつの間にか少女の背後には女が立っていた。
少女は一瞬ピタリと足を止め、背後をちらりと見やるが、
声の主を知っているが故に驚きも何もなかった。
再び自身の為そうとしていた事に意識を向ける。
「アンタが死んだらお母さんどれだけ悲しむと思ってるの⁉︎お願いだから―」
その言葉は少女に最後の決断を促すのに十分な挑発だった。
そうとも知らず、まくしたてる母親の言葉はもはや耳には入らない。
少女は母親の方へ向き直ると、見せつけるように地を蹴り、背後の闇へと身を預けた。
「アンタなんか産まなければよかった」
そう言われて育ってきた。なのに今、母親は真逆のことを言っているのだ。
きっとそんな言葉で斬りつけた事すら忘れているのだろう。
だからこそ許せない。罵った事は都合よく忘れ、死んだら悲しいなどと並べ立てる目の前の存在が。どうせそれも自殺なんて世間体が悪いから言ってるだけ。心からの言葉だなどとは絶対に信じない。もう、何も。
少女は闇に吸い込まれながら、ずっとそんなことをぼんやりと考えていた。
それはとても長い時間にも思えたし、一瞬でもあった。不思議な時間だった。
そしてドンという嫌な音が夜の街に消えた。
―目を覚ますとそこは病院のようだった。
少女は不安を覚えた。
「もしかして私、失敗したの…?」
思わず誰にともなく問いかける。
だが、意外にも答えはすぐに返ってきた。
「いーえいえ。貴女はこの度無事に死に遂げられたのです。おめでとうございます。」
目覚めたばかりで気が付かなかったのだが、室内には男が一人立っていた。
言っている内容とはおおよそ似つかわしくない明るい声で続ける。
「申し遅れました。私は青里。今日から貴女の研修を担当致します。」
青里と名乗った男は、にこやかというより慇懃無礼な笑みを崩さず告げる。
「は?研修?私死んだんでしょ?ならここはどこよ?」
少女の最もな質問に、青里はよくぞ聞いてくれましたとばかりに頷いた。
「ふふ…ようこそ『サイゴノセンタク』へ。おや?まさか死んだからって全てがなくなって、楽になれるなんて、そんな幻想信じてないですよね?」
青里はとても愉快そうに語り続ける。
「最後の選択…?って何?」
「今日から貴女が所属する組織の名前ですよ。」
「はぁ、それで。その組織は何するところなの?」
「我々の役目は3つあります。一つは自殺しようとする人々を救う事。
自殺しようとする者を最期の選択に導くべく、最後の宣託を行います。組織名の由来ですね。二つ目は…貴女のように、止められなかった人を迎え入れる事。そして最後に、怨霊を討伐する事です。」
突拍子もない話だが、先程までと打って変わって青里にふざけている様子はない。
だが―
「それ、私に何の得があんの?」
少女にそう投げかけられた青里は、目を白黒させた。
「なるほど…メリットですか。二つあります。一つは自ら命を断った我々でも、また転生の輪に入る権利を得られるということ。そしてもう一つは、己の死を知る人間の前に、一度だけ姿を現す権利を得られるという事です。」
「どういう事?」
「貴女は何か、伝え忘れた事はありませんか?もしくは、言いたくても言い出せなかった何か…。我々は死者です。本来ならもう二度と現世に生きる知人の前には姿を現してはいけないという禁止事項があります。この権利はそれをたった一度だけ覆せる魔法の権利なんですよ。」
「一度だけなの?」
「そうです。一度だけでも大変な事なのですよ。生と死とはそれ程に分け隔てられた世界なのです。ただし、どう使うかは貴女次第ですがね。」
「私…次第…」
そう呟くと少女の顔は険しいものへと変わった。
(私のこと、本当はどう思っていたのかを吐かせる。返答次第では…)
殺す。
それが少女が抱いた感情だった。
それを見ていた青里が声をかける。
「で。どうします?やります?仕事。やるなら、研修担当しますけど。」
そう言ってまたにっこりと笑みを作る。
「…やるわ。」
少女はそうはっきりと答えた。
「…そうですか。では、今日はもう遅いので、明日から始めましょう。今日はゆっくりとお休みなさい。」
そうだ、最後に。と青里は付け加える。
「今日から貴女の事は玲韻さんと呼ばせていただきます。それとも、死を覚悟した程の過去を引きずりますか?明子さん?」
「やめて!私は…玲韻になる。」
わかりました、と青里は肩越しに頷き、部屋を出た。
「…。」
後ろ手にドアを閉め、青里は一考する。
(危ういですね…あれは、復讐を望む者の目だった。)
「似て…いますね。」
誰もいない廊下でそう呟くと、青里はクスリと笑ってから歩き出した。
「忙しくなりそうです。」
薄暗い廊下に青里の歩く革靴のコツコツという音だけが響いていた。
―翌日
「さて、では初めに『気』の濃度のコントロールについて覚えて頂きます。」
「なにそれ?」
最もである。
「昨日も申し上げましたが、我々は死者なのです。肉体がない為、何も意識しない状態では、通常は生者に認識されない濃度でしかないのですよ。つまり、透けているわけです。当然、物質に触れる事もできません。」
そうなんだ、と興味深そうに頷く玲韻に向かって青里は続ける。
「しかし、『気』をコントロールする事で、生者に認識可能なレベルまで濃度を上げる術を我々は身に付けました。そして玲韻さん。ここで働くものとして、貴女も当然身に付けなくてはいけない技術なのですよ。そしてこの技術があるが故に、我々には知人の前に姿を現してはいけないという規律が存在するのです。」
たまに見えてしまう生者もいますけどね、と青里は付け加える。
「で。わかったけど、どうやればいいの?」
いきなり『気』とか言われても、と玲韻は肩を竦める。
青里は待っていましたとばかりにどこからともなくリンゴを取り出した。
「まずはこれに触れられるよう、指先だけに集中してください。いきなり全身の濃度をあげるのは至難の業ですからね。」
そう言ってにっこりといつもの笑みを作った。
「え?リンゴに触るくらい簡単…」
玲韻はリンゴに手を伸ばすが、その手はリンゴを透過し、すかっと宙を泳ぐ。
「なにこれ!?え、だって私普通にベッドに座ってるじゃん!」
それを聞いた青里は、ああ、と納得した。
「この部屋や建物は、霊界物質という特殊な物質でできているのです。なので霊体のままでも触ったり乗ったりできるわけですが…。このリンゴは私が現世で買ってきたものですから、先程説明した『気』を使わなければ触れられない物質なのです。実際、今私が手に持っていますが、手の部分だけ濃度を上げている状態なのですよ。」
―数日後
「全くうまくいかないぃぃぃいい!!!」
この数日間、『気』の濃度とやらの鍛錬に苦戦している玲韻から魂の叫びが放たれた。
早く使いこなして、アイツを問い詰めて、殺してやりたいのに。そんな焦りばかりが、玲韻をじりじりと焦がしていく。
「青里さ~ん。なんか、コツとかないんですか?集中しろって言われても…なんかピンと来ない…」
この数日間、玲韻は真面目に、よく鍛錬に励んでいた。それが何の為であれ、青里にとっては喜ばしい事だった。
「コツ…ですか。そうですね…私が勝手にコツみたいなものと思っているのは、つま先から頭のてっぺんまでを一塊に、集中というより、外側にエネルギーを放出するイメージですかね。」
わからない…という顔をする玲韻だったが、早速リンゴに向き直って試しているようだった。
青里は玲韻の焦りを感じ取っていた。元来、ここへ来る誰もがそんな数日でマスターするようなものではないのに、彼女はそれを為さんとしているのだ。
…恐らくは、たった一度の権利を使った復讐の為に。
青里はあの夜、何が起こったのか一部始終を見ていた。何故なら、あの夜の彼の仕事が玲韻を止める事だったからだ。
声をかけようとした刹那、母親らしき人物が乱入し、
彼は声をかけるタイミングを失った。
そしてそのまま玲韻は母親の言葉を引き金にしたように、自ら死を選択してしまったのだ。
青里はそのことに少し自責の念を抱いていた。
(無理に割って入ってでも止めるべきだったのか…)
母親なら止められるのではないかと静観した。だがそれが過ちだったのだと、青里は玲韻が母親に対して向き直った、あの時の表情を見て悟った。
しかしそれはもう遅かったのだ。
そしてあの時の表情を見れば、玲韻が誰に復讐しようとしているかは一目瞭然だった。
青里は玲韻と母親の間にどんな確執があるのかまでは知らない。ただ、玲韻にとっては死を選ぶに値する何かであり、復讐するに値する何かなのだ。
(復讐…か)
青里は複雑な表情で玲韻を見やる。鍛錬に熱心なのは良いが、その結末が復讐の為だけだったなんて悲しすぎる。
未だ苦戦中の玲韻を見て、青里は不意に声をかけた。
「玲韻さん。根の詰めすぎもよくありません。少し、出かける用事があるので、気晴らしに一緒に行きませんか?」
ふぇ?と間の抜けた声を出して、玲韻は振り返る。
「出かけるって、どこに?」
「今日はちょっと、用事がありましてね。現世のとある場所に行くのですが、玲韻さんもよろしければ是非。ここへ来てから、ずっと籠りっぱなしでしょう?」
そう青里に促され、玲韻も行くことにする。
そういえば一度も現世どころか、部屋からも一歩も出ていないからだ。
外はどうなっているのか、少しだけ知的好奇心をくすぐられての事でもあった。
初めて出てみた廊下は、殺風景な灰色の世界だった。
ただただ長い廊下といくつもの扉。ところどころに照明が灯っているが、
間隔が広いため薄暗い。
(想像してたのとちょっと違うけど、死者の世界と言われればそうなのかも)
ほとんど色のない世界に、玲韻はぼんやりとそんな印象を抱いた。
「ところで、現世に行くにはどうすればいいの?」
周りを見渡しても特別な何かがあるわけでもないのだから、当然の疑問と言えた。
「大丈夫ですよ。これを使うだけです。」
そう言って青里は内ポケットからICカードを取り出した。
「これを各部屋に付いているカード読取機に翳せば…」
ピピッと音がしてさっき出てきた玲韻の部屋のドアが少し開く。
だが、そこから漏れる空気は明らかに玲韻の部屋のものとは異なっていた。
「これでいつでもどこでも現世に行けますよ。玲韻さんの分は申請中なので、一人での外出はまだできませんけどね。」
そう言って青里はいつもの笑みを浮かべると、ドアを開けて、玲韻に入るよう促す。
玲韻は恐る恐る足を踏み出すが、一歩中へ踏み入ると、そこは墓地のようだった。
「…お墓?」
こんなところに、一体何の用事があるというのだろうか。
「そろそろですね。」
遅れてやってきた青里が意味深長な言葉を投げかける。
と、そこへ墓地に向かって歩いてくる人影が見えた。
黒い服に身を包んだ女性と、その子供らしき人影だ。
女性の手には花束が見えた。
玲韻達が見ている角の二つ手前の墓石の前でその女性は足を止めた。
そして丁寧に墓参りをすると、やがて帰っていく。
現世ではそんなに珍しくもないその光景を、青里だけが表情を消し、ただ一心に眺めていた。
「…青里さん?」
墓参りの景色とは裏腹に、珍しく真剣な様子の青里に玲韻は声をかける。
「二十五回目です。」
青里は、少し寂しげに笑うとそう呟いた。
「え?」
玲韻はそれが何の事なのか最初はわからなかった。
「この日にこの場所で、彼女の姿を見るのは、二十五回目なんですよ。」
それを聞いて、玲韻は理解した。あれは青里の墓で、彼が死んでから今日で二十五年が経つのだと。
「え…じゃあ。あれって奥さんとお子さんですか?」
普通はそう考えるだろう。しかし、それを聞いた青里は盛大に吹き出す。
「っくくく。玲韻さんもたまには面白い事言いますね。」
余程面白かったのか、まだくつくつと笑い続ける青里に、玲韻は恥ずかしさを隠す様に語気を荒げて問う。
「いやいや、普通そう思いますよ!ていうかそれならあれ誰!?」
その瞬間、青里は笑うのをピタリとやめて、静かに語り出す。
「元、婚約者、ですかね?」
先程まで笑っていたのが嘘のように、今の青里には静まり返った湖面のような表情しかなかった。
「いつも、感謝していると一言言いたくて、ここまで来るのですがね。私には、彼女にお礼を言う事ができないのです。」
玲韻は規律を思い出す。
「知り合いだから?」
青里は正解です、と言いながら少しだけ笑みを作った。
「じゃあ、あの権利を使えば…」
魔法の権利だと青里は言った。たった一度だけ規律を覆せると。
しかし、青里は首を横に振った。
「玲韻さん。私にはもうその権利は残っていないのです。私はたった一度きりの魔法を、人殺しの為に使ってしまったのですよ。」
青里は未だ帰っていく彼女の背中を見送っていた。
「なんで、人を殺そうと思ったの?」
玲韻は、自分の考えを見透かされたような青里の話に、敬語も忘れて訊いた。
ふむ、と青里は一度頷き、話し始めた。己の地獄を―
「当時私は会社員でした。そんなに大きくもないどこかの子会社でしたが、生活していける程度の収入はありました。将来を誓いあった女性もいて、順風満帆。まさにこれからという時でした。ところが私は会社の上層部が組織ぐるみで行っていた、親会社からの資金の横領が露見すると、その犯人に仕立て上げられました。一生かかっても払いきれない巨額の賠償を要求され、もちろんそんなお金、返す当ても道理もない。彼女にも迷惑をかけるわけにも行かず、別れを告げ、奇しくもその数ヶ月前に両親も事故で他界していました。私にはもう、最早何も残されませんでした。
家族も、最愛の人も、仕事も、安定した生活も、何もかも。
文字通りの絶望としか言い様がありませんでした。私に残された道は死ぬことだけでした。死んだ先が地獄でも、今この地獄よりはマシだと信じました。
そして私は、自分で自分の首を切断したのです。」
青里から繰り出される凄惨な過去に、玲韻は息を飲むことしかできなかった。
「それから先は玲韻さんも体験したように、私は気が付いたら『サイゴノセンタク』に保護されていました。そして一度きりの権利にはあまり興味を持たず、ただ普通に働ける事に喜びを感じて、仕事を始めました。
ところが、知ってしまったのです。
私が死んだ後も、私に全ての罪をなすりつけて、あんな絶望を味わわせた奴らが、のうのうと何食わぬ顔で金を分け合って、遊び暮らしているという事を。
その時、初めて私は一度きりの権利に興味を持ちました。これを使って、奴らに己の愚かしさを味わわせ、私に見せた地獄を今度は私が見せてやろうと。」
そこまで言い切って、ふう、と青里は一息つく。
「結果的に私の目論見は成功しました。上層部の三人が金を分け合っているところを狙ってそこに押し入り、姿を現しただけで全員パニックを起こし、
それぞれ不運な事故死を遂げて行きました。
私は天罰を下した気分になって、せいせいしました。
ですが、それは所詮自己満足だったのだと後から気づきました。
そして、それに気づかせてくれたのが彼女だったのです。」
「彼女は私が死んだと報せを聞き、家族のない私の墓へ毎年来てくれるようになりました。
私とは別れ、別の男性と結婚し、家庭を築いてなお、彼女は私の墓へ来るのをやめようとはしませんでした。それが生前酷い仕打ちを受けた私にとってどれ程有り難い事だったか…。
私は己を恥じました。愚かな復讐ではなく、彼女に感謝を伝える為に
あの権利はとっておくべきだったのだと。
そして、もう一つ気付きました。私は自分一人を殺したつもりでいて、その実彼女に大きな傷を残してしまったのだと。
もう私のことなど忘れて、幸せになってほしいのです。」
じっと青里の話に耳を傾けていた玲韻だったが、不意に口を開く。
「青里さん、規律って、『知人』の前に現れてはいけないのでしょう?」
玲韻の突然の質問に、青里は意図を理解できなかったが、そうです、と答えた。
それを聞いた玲韻は、弾かれたように帰っていく彼女の背中を目がけて一直線に駆け出した。
「玲韻さん?何を…」
青里が玲韻を制止しようとしたその時だった。
玲韻の身体が、少しずつ具現化しはじめたのだ。
「⁉︎」
青里は驚きを隠せない。
つい先程まで、指先すら具現化できていなかったはずだ。
それなのに今、玲韻は全身を具現化させかけているのだ。
「はぁっはぁっ…あの、すみません!待って!!」
青里の話を聞いているうちに、墓参りに来ていた女性達はだいぶ先へ行っていた。
「何か、ご用でしょうか?」
女性がやわらかく問いかける。
「あの、いつも、ありがとうって!」
「え?」
女性は流石に意味を理解しかねた様子だったが、玲韻はそれでも続ける。
「今でも貴女に感謝してるって!他に家族ができたのに、忘れずにいてくれて、いつも、ありがとうって言いたいけど言えなくて、でも二十五年もありがとうってずっと伝えたいんです!」
玲韻は思い浮かぶ事を途切れ途切れではあるが、青里の気持ちを伝えようと必死に彼女に言葉の全部をぶつける。
そして、それは女性にとっては充分な言葉だったようで、いつの間にか彼女の目には涙が溢れていた。
「見てて…くれてたんですね。」
玲韻はこくりと頷いた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。あの時、私がせめて支えになってあげていれば…」
彼女から溢れた言葉は、青里への謝罪だった。
それを聞いた玲韻は青里の言葉を借りて続ける。
「彼は貴女に感謝こそすれ、怨んでなどいません。新しい家族を持った今、自分の事など忘れて幸せになってほしいと…」
彼女は涙こそ止まらないものの、微笑むと
「優しい人…変わっていないのね」
そう言って顔を拭うと、再び玲韻の方へ向き直る。
しかし、そこに玲韻の姿はなかった。
「あら…?」
女性は狐につままれたような顔で目を瞬かせる。
しかし、どこを見回しても先程までの少女の姿はなかった。
(夢…を見ていたのかしら?)
仕方なく女性は道具をしまい終えた子供を連れて、家路につく。
そして、その様子を二人の霊体が見守っていた。
「結構無茶しますね、玲韻さん。」
やれやれと言った顔をした青里が少し嬉しそうにそう言葉をかける。
「だって、私はあの人の知人じゃないもの。」
玲韻は言い訳をして、ぷいとそっぽを向く。
「…なんで。自分の事でもないのに、そんなに必死にならなくても良かったじゃないですか。」
青里は確かに感謝を伝えたいとは言ったが、それは叶わぬ夢で、それは自分の過ち故の罰なのだと、ずっとそう思っていた。
「だって、お互いずっと思い合っているのに、お互いずっと悲しいままなのは嫌じゃない。だから…何かしたいと思ったの。」
それを聞いた青里は、心の中で静かに決意を固める。
(玲韻さん…貴女は優しい人ですね。だからこそ、貴女には私と同じ道を辿って欲しくはない…今度は私が貴女を止めましょう。)
「あの女性、来年は来てくれないかもしれないけど、そしたら私が青里さんにお花を買ってあげる。」
玲韻は照れながら青里にそう言った。
「ふふ…大丈夫ですよ。彼女が来ても来なくても、私には嬉しい報せなのですからね。」
そして最後に青里は静かに玲韻に告げた。
「…ありがとうございます。」
と。
短い現世への旅を終えて、玲韻は一人、部屋で今日あったことを思い出していた。
「復讐は自己満足…か。」
玲韻は何故青里が今日という大事な日に自分を連れ出したのか、わかってしまったのだ。
―じゃあ、私のこの権利は何の為にあるの?
玲韻はわからなくなっていた。
姿を現さなければいい。もう一度、もう一度会えば、自分はどうするべきなのかわかるのではないか。
玲韻は大嫌いな母親に会う決意をした。
(私が死んで、あなたは今どんな顔をしているの?)
それを知れば、全部理解できると思った。
だが玲韻には問題があった。カードを支給されていない為、一人では現世へ行く手段がないのだ。
当然、今この世界で頼れる唯一の人物を思い浮かべる。
「えっと、教えてもらった部屋は確かこの辺…」
玲韻が慣れない廊下をキョロキョロしながら歩いていると、すぐ先の部屋から青里が出て来るところだった。
青里も玲韻に気が付き、咄嗟に持っていたファイルを後ろ手に隠す。
「やあ玲韻さん。どうしました?今日はもう遅いですよ?」
流石二十五年。肝が据わっているというのか、大した動揺を見せず、
いつもの笑みを作っているが、玲韻の目をごまかすことはできない。
「現世に行きたいなって思って…ソレ、なんですか?」
はあ、とため息をつくと、諦めて青里はファイルを手前に持ってくる。
「仕事が入ったんです。ただし、貴女を連れて行くわけにはいきません。
おわかりいただけますね?」
ぱらぱらとファイルをめくり、玲韻はその意味を理解する。
「お…かあさ、ん。」
そこに記されていたのは、玲韻の、いや明子の、母親の情報だった。
「お母さん、死んじゃうの?」
複雑な気持ちで、玲韻は青里に問いかける。
「わかりません。そうならないようにする事が我々の役目です。また、この短期間での自殺願望…怨霊に憑かれている可能性も非常に高いです。」
玲韻の表情は段々と真剣味を増してくる。
「怨霊って?」
青里も先程までの笑みは消し、真面目に答える。
「怨霊は事件や事故で亡くなった死者が、生を憎むようになった姿の事です。
生者に取り憑き、死にたくなるよう唆したり、強力な者になると、我々と同じように具現化して害を及ぼす例もあります。最悪の場合、怨霊とは戦闘になります。なので、接触する人物、戦闘能力の両方を考慮して、今回は貴女には残って頂きたいのです。」
青里の言葉に嘘はなかった。だが、ほんの少しだけ、玲韻を連れて行った場合予期される悲劇を危惧していた。
もし、彼女の母親に対する憎しみがそれ程に深いものだったとしたら―
もし、また彼女を止めることができなかったら―?
「ねぇ、青里さん。怨霊っていうのは憑いてるかもって事で、確定じゃないんですよね?」
青里はマズイ予感を感じ取った。
「そ、そうですけど。可能性としては高いですし、怨霊がいなかったとして玲韻さんは姿を現せないわけで…」
だんだん苦しくなってきた。これはマズイ、非常にマズイ。
そんな青里をよそに、玲韻はにっこりと笑ってこう言った。
「怨霊のせいじゃないのに死のうとしてるんだったら、一発ぶん殴ってやらないとですね!」
(それは権利を使って、って事ですかね?)
青里は多少の疑問を抱いたがこの際しまっておいて、改めて腹をくくる。
玲韻にはもう、行かないという選択肢がこれっぽっちもないからだ。
「では、研修という事でついてきてもいいですけど、一つ約束して下さい。」
「何?」
と玲韻は耳を傾ける。
「怨霊と戦闘になった場合は絶対に手を出さない事。今の貴女では怨霊に太刀打ちなどできません。必ず逃げると約束して下さい。」
玲韻は頷き、一つ疑問を口にする。
「戦闘以外で、怨霊に勝つ方法はないんですか?」
「あるにはありますけど、今日の案件に関しては玲韻さんには無理です。具現化して、取り憑かれている生者に接触し、説得して正気を取り戻させる
という方法ですから。」
そこで玲韻はあっと声を上げる。
―『知人』縛り。
「ですから、絶対に逃げてください。いいですね?」
玲韻はこくりと一度だけ頷いた。
「では、行きますよ。現場は貴女と同じあのビルです。」
ドアをくぐると、ゴウと冷たい夜の風が吹き付けた。
そこは確かに自分が死んだ時に見た光景だった。このビルの屋上へ上がってきて、そして―
今、そのビルの淵には別の人物が佇んでいた。
ぼさぼさに髪や服は乱れ、諦観の漂う母の姿がそこにはあった。
青里は辺りを見回すと、怨霊の気配がないことに安堵した。
「玲韻さんは待機していてください。」
そう言うと青里は具現化し、母親の説得に当たる。
しかしそれは母親に見せかけて具現化していた強力な怨霊だった。
青里のピンチを見てとり、隠された母親を見つけた玲韻は一度きりの権利を使って二人を救うことを決意する。
見事怨霊を撃退した玲韻だったが、そこには悲しい別れがー
「明子ちゃん、たまにでいいから帰ってきて、ご飯作って待っているから。」
と母親に請われ
「まぁ、気が向いたらね。」
玲韻は、気のない素振りの返事で誤魔化した。
―後日
母親はリビングでうたた寝をしていた。
そこへ、室内にも関わらずふわりと風が通り抜けた気がして、母親は目を覚ました。
不思議に思いながらも母親は仏壇のある部屋へと向かう。
そこには空になったお供え物のご飯の器が残されていた。
「あら…」そう言って微笑む母親の姿を、一人の霊体が見守っていた。
言雨ーことさめー 安倍川 きなこ @Kinacco75
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます