手に据えた鷹

ばーとる

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 私は、自分の「いぬ」という名前が嫌いだ。


 小学生の頃、お母さんにその由来を聞いたことがある。


「犬は可愛くて強いでしょ? そんな子に育ってほしいって願いを込めて付けたの」


 当時は、なんだか自分の根源を知ることができた気がして嬉しかった。


 でも、今の私はもう「犬」という漢字の意味を知っている。中学校に上がってから、その意味に気づいてしまったのだ。


 つまらないもの、役立たずなものの例え。


 それを初めて見たとき、この文字列が私の頭に刻まれた。そしてそれは、日常のふとした瞬間に浮かび上がってくる。


 別に、私は自分のことをつまらない人だとか、役立たずな人だとかは思っていない。学校には友達がいるし、勉強も部活もそれなりに頑張っている。


 でも、やっぱり浮かび上がってくる。


 つまらないもの。役立たずなもの。


 そうではないと頭では分かっているけど、どうしてか不安になってしまう。


 だから、つまらなくない人、役に立つ人になるにはどうしたらいいのかということばかり考えるようになってしまった。


 そして、今年も新年度が始まった。


 新しい教室に入り周りをみると、友達がいる人は少数派で、大人しく自分の席についている人がほとんどだ。


 そんな中、一際大きな音で入り口のドアが開く。


「おはよう!」


 彼女の快活な挨拶を聞いて、私は直感的に、この人と仲良くならなければと思った。この人はきっとこのクラスの中心になる。この人はきっとつまらなくない人だ。本能が私にそう囁きかけた。


「おはよう!」


 少し恥ずかしかったけれど、私も元気な声になるように挨拶を返した。


 これをきっかけにして、私は彼女と仲良くなることができた。名前はたかちゃんだ。


「今度カラオケに行かない?」


 そう聞かれて、私は迷いなく「行きたい!」と返した。あまり歌は得意ではないけど、せっかく誘ってくれたのだから、一緒に行きたい。……というのもあるけど、やはりつまらない人だと思われたくないという理由が大きい。


「悠鷹ちゃんってどんな歌を歌うの?」


「なんでも歌うよ。J-POPでもアニソンでも歌謡曲でも、有名なのだったら大体いける」


 流れで悠鷹ちゃんのレパートリーを聞いておこうかと思ったけど、これは少々期待はずれの答えだった。家に帰って予習をしようかと思ったけれど、これでは仕方がない。


「犬子は?」


「私もなんでも歌うタイプかな」


「ほんと? 一番得意なのは?」


「えあっ? えっと……」


 まずいことになってしまった。胸を張ってこれが得意だと言える歌が私にはない。しかし、ここで答えに詰まると(いや、もう詰まっているけど)不自然に思われる。私は、有名なバンドの、当たり障りのない歌の名前を出した。


「それならわたしも歌える!」


 今の私、絶対におかしかったはず。それなのに、悠鷹ちゃんは気づかなかったふりをしてくれたのか、そこには触れないでいてくれた。


 これでは私は彼女に気を遣わせる存在になってしまっている。これでは私はつまらない人になってしまう。


 放課後になり、私は真っ直ぐにカラオケボックスに向かった。いつカラオケに行くかを決めているわけではないから、別に急ぐ必要はない。でも、今のままの私がつまらない人なのだと思うと、居てもたってもいられなくなった。得意だと言ってしまった以上、それなりに歌えるようになっていないといけない。私は喉がヘトヘトになるまでマイクを握り続けた。


 翌朝、声が死んでいて悠鷹ちゃんに心配されたのは言うまでもない。


*   *   *


 2週間が経ち、再びカラオケの話題になった。


 終礼後、日常となりつつあるこの放課後の喧騒をかき分け、悠鷹ちゃんが私の席にやってきた。


「ねえ、この前カラオケに行こうって話してたでしょ?」


「うん」


「わたしの友達を1人呼んでいい?」


「いいよ。誰?」


はるって子」


 私は耳を疑った。なぜなら、彼女は悠鷹ちゃんとは真逆の存在なのだ。


 雉春はこのクラス一の鉄道オタクで、春休みの間にホームに転落して多くの人に迷惑をかけたらしい。人に迷惑をかける人は、つまらない人だと思う。それに、役に立つどころか社会の足を引っ張っている。


 一方悠鷹ちゃんは、私を含めてクラスのみんなに気を遣ってくれるとても優しくて頼れる強い存在なのだ。そんな彼女が、社会のお荷物をカラオケに誘う理由が、私には全く分からない。


「私その子とあんまり喋ったことがないんだよね」


「でしょ? でも、喋ってみると結構面白い人だよ」


 悠鷹ちゃんと雉春の2人が、一体どんな話をするのか見当もつかない。雉春のオタク話を悠鷹ちゃんは本当に面白いと思っているのだろうか? なんだか、雉春がクラスの中で浮いた存在にならないように頑張っているだけのような気がする。とはいえ、もう4月も終わろうとしているのだ。今更雉春のクラス内での立場が動くことはないだろう。


 これは、優しさではなくお人好しなのではないだろうか?


 当然、みんなと仲良くできるのが一番いいに決まっている。私だって、できることなら誰かを仲間外れになんかしたくない。でも、学校と言う環境はそんなことが実現できるほど易しくはないこともまた事実なのだ。


「そうなんだ……」


 雉春の席に目を遣る。しかし、彼女の姿は見当たらない。部活動にも属していなさそうだし、一緒に帰る友達がいるとも思えない。真っ直ぐ家に帰ったのだろう。


「今度の日曜日ならわたしも雉春もオッケーなんだけど、犬子はどう? 来れそう?」


「大丈夫」


 思うことはいろいろあるけれど、ここは本音を隠すべきところだ。


「じゃあ駅に10時集合ね。それからカラオケに行ってご飯を食べて、その後はその時に考える」


「わかった」


「じゃあまた明日」


「また明日」


 それから日曜日が来るまで、私は雉春のことを観察した。まず気づいたのは、移動教室に行くのがとても早いということだ。前の授業が終わったときには次の授業の道具を机の上に出していて、チャイムが鳴ると速攻で教室を出る。


 そこまでして人と関わりたくないのだろう。でも、そこまでしなくても雉春に話しかけようと思う人は悠鷹ちゃんくらいだし、自意識過剰にもほどがある。どうしてそんなに、自ら好き好んでつまらない人になろうとするのか。私にはまったく理解できない。


 次に分かったことは、彼女の友達が悠鷹ちゃんただ1人であるということだ。学校の外での様子まではさすがにわからないが、教室内での彼女を見る限り、そうであると言える。しかも、話しかけるのはいつも悠鷹ちゃんからだ。雉春が口を開くのは、いつも悠鷹ちゃんの言葉に反応するときだけ。そんなので、本当に「結構面白い人」なのだろうか? 疑念は深まるばかりである。彼女と会話をしている時の悠鷹ちゃんが、あまり笑顔を見せないのも気になる点だ。


 金曜日の終礼を迎えるころには、私はある結論にたどり着いた。悠鷹ちゃんは無理して雉春と一緒に居る。そう、確信を持つことができるくらいには2人のことを見ていた。そんな自己犠牲を払っても、誰も幸せにならない。誰も楽しくない。毎日がつまらないものになってしまう。だったら、さりげなく2人の関係を切ってしまうのがいい。


 そして迎えた日曜日。私は、悠鷹ちゃんの横に並んでも恥ずかしくないように服を選び、肌荒れを隠し、髪をセットした。駅に着いて2人の姿を探す。いや、探すまでもなくそのうちの片方を見つけることができた。おしゃれなんかとは無縁のその存在は、学校で見たときと何一つ変わらない姿で立っている。私は、彼女に気づかれないように、少し遠くで悠鷹ちゃんを待った。私と雉春が合流したって、気まずくなるだけなのは目に見えている。


 それから、集合時刻である10時直前に悠鷹ちゃんが雉春と合流した。なんだか2人でスマホを覗き込んでいる。ほどなくして私のカバンが震えた。中からスマホを取り出す。


「今どの辺?」


 画面には悠鷹ちゃんからのメッセージが表示されている。


「ごめん。もう近くまで来てる。ちょっとだけ待ってて」


 私はすぐにそう返信する。


 2人の様子をちらちらと伺いながら、私はわざと遅刻することにした。3分や5分だとわざとらしい気がして、4分の遅刻。


 「ごめんごめん。ちょっと準備に時間がかかっちゃった」


  私はなるべく怪しまれないように縁起をした。


「全然いいよ。てかめっちゃ可愛い!」


「ほんと? 悠鷹ちゃんも、その服とても似合ってる!」


 悠鷹ちゃんはとても楽しそうにしているけれど、雉春はそうではなさそうだ。遅刻した私を値踏みするような視線を感じる。


「雉春ちゃんだっけ? ごめんね。初めてなのに遅刻しちゃって」


「私は全然気にしていないから」


 嘘だ。その顔は絶対に私の遅刻を気にしている。


「あっ、呼び方は犬子さんでいい?」


「犬子でも何でもいいよ」


「じゃあ犬子さんで」


 3人が集まったところで、予定通り、いや、予定を4分遅れてカラオケボックスに向かう。


「犬子の服めっちゃ可愛くない?」


「悠鷹さんさっきからそればっかり」


「えー? だって可愛いものは可愛いじゃん! ねえ、その服どこで買ったの?」


「駅ビルだよ。後で見に行く?」


「行きたい! 雉春も来る? 服選んであげる!」


 驚いたことに、それなりに3人での会話が成立している。これは悠鷹ちゃんのコミュ力が高いからなのかもしれない。でも、気まずくならずに済んだのは助かった。


 ただ、問題はここからだ。果たして、雉春のような性格の人とカラオケを楽しめるのか。どのように悠鷹ちゃんと雉春の関係を絶つのがいいか。潮時をしっかりと見極める必要がある。


 カラオケボックスの5階の個室に入ると、悠鷹ちゃんが真っ先にマイクを握った。そして、2本あるうちのもう片方を私に手渡す。


「この前言ってたあれ、一緒に歌おう」


 最初から来るとは思っていなかったけど、準備は万全である。なにせ、あれだけ練習したのだ。怪しまれることは、たぶんない。


 2人で1曲目を歌う。本当は聞いたことがあるくらいで、大して思い入れのある曲ではない。でも悠鷹ちゃんと歌うと、なんだか楽しい。友達と一緒のこういう感覚はとても好きだ。


「ふう。次、どうしようか。雉春は何か歌う?」


「いいよ。私は聞いているだけで楽しいから」


 その発言に、なんだか怒りが込み上げてきた。どうして場の空気を壊すようなことを、彼女は言うのか。よく考えればそうだ。移動教室に行くとき、彼女からは「近づくなオーラ」のようなものを感じた。周りのことなどお構いなし。そもそも、「空気」という物があって、日本人はそれを「読む」のだということを知らないのかもしれない。


 どうして?


 どうして私はこんなに人のことを考えて動いているのに、彼女はそんな態度を取るのか? 私は考えて悠鷹ちゃんの横に居る。なのに、雉春は自分の事ばかりだ。配慮という物をひとつも見せない。そんなことだから駅のホームから落ちて人に迷惑をかけても平気でいられるんだ。やはりこんな奴とは一緒に居るべきではない。こんな奴と居たってつまらない。こんな奴は何の役にも立たない。


「どうしてそんなことを言うの?」


 私は雉春に聞く。


「一曲くらい歌えばいいじゃん」


「別にカラオケは歌う権利を買っただけで、歌う義務まで付いてくるわけではないでしょ? それに、私は私の分のお金を自分で払うんだから、その権利をどうしたって私の勝手のはず」


 本性を現したな。


「そんなのつまんないじゃん!」


「私は別につまらないなんて思っていない」


 私が何かをするまでもない。こんなことが起きたら、さすがの悠鷹ちゃんも雉春を見限るに違いない。


「もうこんな奴ほっといて行こ」


 私は悠鷹ちゃんの顔を見た。しかし、彼女は私の見方をしてはくれなかった。


「わたしは、雉春が間違ったことを言っているとは思わないと思う」


「えっ?」


「つまらないとかつまらなくないって人それぞれじゃん。雉春には雉春のそれがあって、犬子には犬子のそれがある。それでいいじゃん。わたしは、犬子はそういうことをわかっている人だと思っていたけど、それは違ったみたいね。友達に同調圧力をかけるってそれ、本当に友達って言えるの? 仮面をかぶって付き合うのしんどいでしょ? ていうか、わたしはしんどいよ?」


 正直、ここまで言われるとは思っていなかった。何も言い返せない。そして気づく。今ここで一番つまらない存在は私なのだ。黙っていればみんながそれぞれに楽しい思いをしていたはずなのにそれを壊してしまった。ここで一番楽しさに寄与していない役立たずは私なのだ。


 今までの努力の全てが水泡に帰したのを感じる。私は財布から千円札を出して、それをテーブルに置いた。そして逃げるように部屋を出る。それしかできない自分が情けなくて仕方なかった。


 私は努力して悠鷹ちゃんと友達になったのに、どうしてこいつは自分を演じているだけで彼女と友達になれるんだろう。ずるい。ずる過ぎる。


*   *   *


 翌日、私はとても学校に行きたくなかった。それでも、重い体を何とか教室に向かわせた。どうか悠鷹ちゃんに話しかけられませんように。


 本当なら、ひとことごめんと言えばいいのに、つまらないプライドが邪魔をしてそれができない。


 つまらないもの、役立たずなものの例え。


 そのような存在にならないように気を付けていたはずなのに、なぜかその存在を体現する人物に成り下がっている。


 私は犬子だ……。


「ねえ」


 そんなことを考えていると、声を掛けられた。


「犬子さんって私の事を友達だと思っている?」


 質問の意味が分からない。


「友達も何も、昨日初めて喋ったばかりでしょ?」


「昨日初めてだったら、友達に離れないの? 犬子さんの友達になる条件って何?」


「そんなの明確に決めているわけないでしょ?」


「じゃあ何なら決めている? 昨日言っていた『つまらない』の定義は?」


 そう言われてはっとした。私はつまらない人になるのを恐れているくせに、どのような人間がつまらないのかということを十分に考えることができていなかったのだ。


「…………」


「別に強い意志があってそれを口に出したわけじゃないんだ」


 何も言い返せない。


「だったら、犬子さんは悪い考えに支配された人間じゃないはず。悠鷹さんと中折してよ。私からも話をしておくから」


 そう言って雉春は去った。


 なんだか、私の中の靄が晴れた気がした。今なら悠鷹ちゃんと仲直りができる気がする。あとで、きちんと話をしよう。私はそう思った。

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