骨しか見えない

相心

骨しか見えない

「パパはね、ママの顔が好きで結婚したんだよ」


 幼少の頃から愛というものに憧れていた。お伽噺では王子と姫が困難を乗り越えて、アニメではヒーローがヒロイン含め人類を救って、ドラマでは男女がお互いの想いを伝えて、最後に結ばれる。

 不思議だったのは、物語はそこで終わってしまうということだ。一体愛の行く末はどこなのか。幸い自分には疑問を投げ掛けるのにふさわしい、現在進行形で物語を紡いでいる父と母がいた。なぜ二人は結ばれたのか、子どもの純粋な問いへの父の答えがこれだ。

 笑顔で語る父と呆れながらも満更でもない表情の母。

 その言葉に当時の自分は無性に悲しくなったのを覚えている。おそらく両親には目に見えないもの――心で結ばれていてほしかったのだと思う。子どもであるからこそ純粋だった。そして純粋であるからこそ、反動がでかかったのであろう。

 次の日、目を覚ますと自分の肌は見えなくなっていた。






 小学校に入る前から、骨しか見えなくなった。厳密に言えば、人の皮膚が見えないだけで、他の生物は普通に見える。なので家で飼育している熱帯魚たちの鱗は今日も色鮮やかである。

 餌を与えると我先にと水面に群がる魚たち。毎日同じ食事でよく飽きないものだな、と思うが、自分もほぼ毎日白米を食べていることを考えればそこまで違いはないのだろう。水槽の底でじっとおこぼれを狙う魚に視線が釘付けになるが、通学時間が迫っているため最後まで餌の行方を見届けることはできない。

 母がいつものように二倍速で海外ドラマを視聴している姿を見ながらいってきます、と声をかける。いってらっしゃい、とソファから動くことなく返事がある。果たして彼女の頭に内容は入っているのだろうか。ただの義務感で見ているだけなのではないのかとも思ってしまう。

 通学に利用する電車内ではスーツや制服、私服を纏った骨の大群と二十分ほど時間を共にする。駅に停車する度に電車から吐き出される骨たちと吸い寄せられる骨たちに地獄列車とはこのことか、と高校入学時に感心したことを覚えている。

 目的の駅に到着すると、自分も同様に骨として吐き出される。味はどうだったのだろうかと考えていると、自分と同じ制服で、肩にかかりそうな髪を靡かせながらこちらに向かってくる人物がいる。マナカだ。


「サッシー、おはー」


 藤嶋マナカは一年生の時に席が近かったことからよく話すようになった。乗車時間が必ずしも同じではないが、会えばこうして声をかけてくれる。彼女は校則に遵守した長くもない制服の袖を無理矢理引っ張り、末節骨から基節骨にかけて露にしている。要するに『萌え袖』である。


「おはよう」


「今日もだるー、授業いやー」


 彼女はがくっと項垂れ、リュックに付いた熊のぬいぐるみがこちらを見つめてくる。また装飾品が増えたような気がする。


「学生だからね。仕方ない」


「サッシー、真面目」


 このようにマナカの発言は短く、そして中身がない。この楽観的で脱力したところが魅力だろうか。宿題を見せてと言われることは多々あったが、一度も見せたことはない。

 校門をくぐり、下駄箱で靴を履き替え、二階に上がったところで彼女と別れる。教室に入ると、ほとんどいつも通りの光景が目に入る。

 中央で机を囲んで盛り上がっている骨たちは、スマホのアプリゲームのガチャに夢中で、窓側では骨たちがアイドルのライブチケットをどのようにして手に入れるかで白熱した議論を繰り広げ、その他諸々は部活動や漫画やアニメの話や、教科書を広げて学習に励んでいたりしている。

 そんな中、一人廊下側の席で壁を見つめながら何もせずにいる人物がいる。橋上アキラだ。入学した当初、アキラは校内でも目立つことなく、ごく平凡な存在だった。しかし、ある日を境にそれは反転する。アキラは性別に準じた制服を脱ぎ、社会への迎合すら捨て去ったのだ。話によると髪も背中辺りまで伸びているらしい。


 ねぇ、橋上さんのおかげでウチの部活大変なんだけど。


 アキラに対して唐突にそう告げた骨にクラスの眼窩が一斉に向けられる。朝から他クラスに出向いてご苦労なことだと思いながら自分はゆっくりと机の中に教科書をしまっていく。

 言い寄られているアキラは飄々とした態度を取っており、それがさらに怒りを買うのだが、本人はどこ吹く風である。そこにクラスの学級委員が仲裁に入り、相手も不承不承とした態度のまま教室をあとにした。しかし肝心のアキラは彼女に対して謝辞を述べることもなく、朝のチャイムがクラス内の沈黙を強調させた。






 先週のことだ。生徒からの人望も厚く、部活動でも熱心に指導を行っていたクラスの担任が突然変わった。個人の都合での退職とのことだったが、当然そんなことを信じる骨は少なく、病気だった、○○先生と仲が悪かった――などと元担任に関する根も葉もない情報がSNSを通して拡散された。その中でゲームセンターで十代の少女といる画像がアップされたことにより、話題はその少女が誰なのかに移行した。橋上アキラが有力候補として躍り出たのは、悪意と好奇が入り混じった投稿を共有する骨が多くいたためである。理由としては写真の少女の髪がアキラと同じくらいの長さであることと、担任と一時期面談をしていたことらしい。判断材料としてはあまりにも乏しいはずなのだが、もはや面白ければ骨たちには関係ないらしい。先ほどの一悶着もその噂に流された結果だろう。

 だが、それが誤りであることは明白である。なぜなら、骨は嘘を吐けないからだ。






「隣、いいかな」


 昼休み。校舎の中庭には複数のベンチが存在するが、空席が目立つ。天気が曇りだからと言うよりは、校舎に囲まれた場所で食べることに対する居心地の悪さが原因だろうか。それとも…。

 

「あぁ、どうぞ…なんだ君か」


 アキラは声の主が自分だと分かるやいなや、分かりやすく声のトーンを下げ、ペットボトルの水を飲み始める。そもそも自分の声を覚えていないのだろうか。話しかける人物だって限られているだろうに。


「『君』なんて二人称を同い年相手に使う人がいるとは思わなかった」


「それは君の交友関係の狭さを表しているんじゃないかな。この国は小さいようで大きい」


「また言った。坂下ユウだから『サッシー』とか『ユウ』って呼んでほしいんだけど」


「そうか、坂下さんは英語の自己紹介が『アイ アム ユウ』になるんだね。面白い」


 提案した二択は拒否するし、いきなり小学生の頃にネタにされた話題を出すし、何が面白いのか分からないし。橋上アキラという人物はどうも好かない。


「放課後、保健委員会の集まりがあるらしいから」


「それを言うためにわざわざ来たのかい?」


「だってあなたの連絡先を知らないし」


「教室で話すのは気が引けるか…」


「…」


 どこか憂いを帯びたアキラを横目に、自分も自販機で買った缶ジュースに口をつける。


「何か言いたそうだね」


「いや…何で言われっぱなしで弁明しないのかなって」


「ああ、噂なんて二カ月もすれば落ち着くさ」


 心底うんざりした様子のアキラは、この世の全てに対して不満をぶつけるかのようにベンチの背もたれに勢いよくもたれかかり、空を見上げていた。そしてそこから一言も発することなく、昼休みが終わった。






 自分を含めて人の皮膚がこの世界から失われた時。驚きよりも先に来たのは安堵感だった。これで容姿を見ずに済む――。

 どうやって相手を識別できるのかが問題点として浮上したが、人にはそれぞれ特徴や保持しているアイテムが存在するため、自分は今までこの病を他人に打ち明けずに生活できた。仮に打ち明けたところで冗談と捉えられるか距離を置かれるかの二択だろうから、結局はしないのだが。

 例えば仲裁に入った学級委員の光山アキホは菱形の眼鏡が特徴的だ。山崎ヒデトは制服に隠された状態でも分かるほどの猫背であり、背骨の歪みがどうなっているのか気になる。柴田トシロウは右手根骨付近にミサンガを四つ、大河原ミキの歯並びは芸能人と遜色無い…。

 その点、橋上アキラは周囲からすれば浮いた存在ではあるが、自分からすれば例を挙げた人物たちとの違いは大して感じなかった。むしろ自分の方が異常なのだから当然である。退屈な授業を聞き流しながら、教師が雑に板書した文字をノートに書いていく。途中でアキラを見てみるが、片肘をつきながらペンを弄っていた。

 二カ月も経てば噂は落ち着くと述べていたが、果たして二カ月というのは短いのだろうか。その間に再び尾ひれがつくことはないのだろうか。朝のように言い寄られることはないのだろうか。疑問が涌いて止まない中、授業終了のチャイムが鳴り、ノートが書きかけであることに気付く。スマホのカメラで黒板を撮ればよかったのだが、今はそれよりもやらなければいけないことを考える。そして一つの答えに行き着くのと同時に、黒板からはチョークの粉が消えていた。

 なぜこんな骨が折れそうなことを自分はしようとするのだろうか。また疑問が湧いたが、心の奥底に沈める。






case1水島キョウカ(カチューシャ)

 あの先生の話? 坂下さんが話しかけてくるなんて珍しいと思ったのに。確かに親身に接してくれて指導も分かりやすかったし、ウチの部が強くなった要因だとは思うけど、未成年と、しかも…まぁ、何というか。今の印象は悪いよね。擁護派もいるけど、退職したのは事実だし。知ってるのはこれぐらいかな。部のこれから? もう駄目なんじゃないかな。まぁ、所詮暇つぶしだしね。


case5 光山アキホ(菱形眼鏡)

 橋上さんも大変だよね。あの件に関しては、わたしも画像は見たけど従姉妹とかなんじゃないかな。確かに橋上さんも敵を作りやすそうな態度だけど、それを理由に責めるのは違うと思うし。今の時代、相手を尊重していかないとね。わたし、坂下さんともっと話したかったんだ。坂下さん、『独特』だから。んー、独特だと語弊があるか。『引力』っていうのかな、人を引き寄せる魅力があるんだよね。そうそう、この間も告白されてなかった? 坂下さんってどれくらい交際経験あるの? そんな嫌な顔しないでよ。写真を撮影した人なら知ってるから。うん、だから話を――


case1? 蛯名ハジメ(ズボン裾捲り)

 おー、あの写真ね。日曜の部活終わりにゲーセンに行ったら、あの先生と女の子がいたんだよ。最初は妹なのかなって思ったんだけど、面白半分でこっそり撮っちゃったんだ。や、元々はさらす気なんてなかったよ。ただ、結果的には良かったんじゃないかな。急に辞めた理由も分かったんだしさ。けど、こんなにすぐに拡散されるとは思わなかったなぁ。たかが数人にしか公開していないアカウントだったし。もちろん怖くなって今は消したよ。もう意味ないんだろうけど。俺、捕まらないよね?






 朝。二階から螺旋状の階段を下りていき、トーストを齧り、出かける間際に熱帯魚に餌をやる。倍速視聴中の母の頭頂骨を見ながらいってきます、と声をかけると、普段動かずに返事をする母がこちらを向いた。


「何時頃帰ってくる?」


「別に…いつも通りだろうけど」


「オッケー。いってらっしゃい」


 珍しいなと思いながら靴を履き玄関を出る。もう久しく骨しか見ていないが、一体母はどのような表情で今の疑問を投げかけてきたのだろう。電車内で骨たちと時間を共にする間、今朝の出来事を振り返る。興味本位なのか、はたまた悪巧みなのか。表情が見えない自分にとって、人の感情を読み取るのに声のトーンが欠かせない。もちろん仕草も気にするのだが、判断に乏しい。


「おっはー、サッシー」


 電車を降りると、こちらに向かってくる人物がいる。彼女は今日も元気に萌え袖だ。


「おはよう」


「聞いたよー、サッシーがあの件について探ってるの」


「あー、ちょっとね」


 数えるのを途中で止めていたため、何人に尋ねたのかも覚えていない。

 マナカは真っピンクのスマホを取り出し、件の教師と少女の映った画像を見せてくる。


「この女の子が橋上さんじゃないことなんて私でも分かるのにねー。だって髪の長さぐらいしか似ているところないよね。身長だって違いそうだしー」


 何か知っていることがあるのだろうか。そういえば彼女にはまだ尋ねていなかった。声のトーンが普段よりも低いのが気になりつつ、このまま会話が続いていくはずだった。


「これ、私なのにね」






case? 藤嶋マナカ

 通学路の途中にある公園に場所を移し、自分たちはベンチに腰を下ろしている。この状況で学校に行けるはずもない。公園には申し訳程度に滑り台があるくらいで、周囲は閑散としていた。

 マナカと元担任は幼馴染らしく、彼がこの高校で勤めていることを知り、彼女は受験をしたそうだ。周囲に関係を悟られないために、普段はカツラを被っていた。元担任は生徒と教師の関係での交際に乗り気ではなく、デートのような行為はできなかったそうなのだが、その日は違った。それが男子生徒に写真を撮られた日である。彼女からすれば一年以上に渡るカモフラージュが身になった瞬間だっただろう。しかしどうやら元担任はその時点で退職を決断しており、その最後に彼女の望みを叶えようとした――これが真実らしい。未成年との交際がバレたから退職したわけではなく、退職を決意してから幼馴染と休日に外出したという、ただそれだけのことだった。

 彼女がなぜ自分に打ち明けたのかを尋ねると、だって友達だから、と当たり前のように言う。


「まぁ、サッシーにしかこういう話はできないけど」


「それは…どうも?」


 語尾が上がった返答にマナカは何で疑問なの、と笑みを含んだ声色を発す。

 確かに、彼女がカツラを被っていることも、熊のぬいぐるみがあの写真のクレーンゲームにあった景品と一致していることも知っていた。驚きはしたが、なぜカツラを被っていたのか合点がいったのも事実だ。

 カツラはデートの時に被ればよかったのではないか、と聞いてみる。


「だってデートでは本来の自分を見てほしいじゃん。それとサッシー、これはウィッグって言ってほしいなー。その方が可愛いから」


 カツラとの違いが分からないが、語感の問題なのだろうか。骨しか見えないことで、自分は人の本質を勝手に見えているように思い込んでいた節がある。だが、実際は藤嶋マナカという人間のガワしか見ていなかった。見ようとしていなかった。『ウィッグを被った萌え袖のJK』という人物像が、瓦解した。地面を見つめると蟻がせっせと餌を運んでいる。


「…まだ付き合ってるの?」


「いやー、あれっきりだよ。結局教師と生徒っていう関係性に憧れてただけなんだよねー。何て言うんだっけ? 後ろめたさみたいな」


「背徳感?」


 そうそれー、と俯いている自分の眼に刺さりそうな勢いで人差し指をこちらに向けてくる。


「まぁ、でもこうやって橋上さんとかに迷惑かけてること考えるとさー、ボーンヘッドだったね」


 そう言うと彼女はウィッグ越しの頭に握り拳を落とした。






 気付けばベンチには自分しかいなかった。マナカは何か言ってから立ち去ったとは思うのだが、全く記憶がない。未就学児向けの滑り台に登ってみたが、低すぎるため景色が変わった気がしない。昔の自分とは違うことを強く実感する。仕方なく滑ってみるが、一瞬で地面に着地してしまう。


「坂下さん、何してるの」


 頬が熱くなるのを感じる。橋上アキラは頭蓋骨の上に呆れた表情を浮かべていることだろう。


「…例の件の女の子と話していた」


「君もモノ好きだね。放っておけばいいものを」


 ため息を吐いた後、マナカと話したベンチに自分を誘う。


「それで? 何か落ち込んでいるみたいだけど」


「勝手に理解して見えた気になっていたけど、何にも見えてなかったんだな、って…」


「それはそうだろ。いくら親しくしている人でも他人だしね。私の両親も離婚しそうになったらしいし」


 アキラはさも当然であるかのように言う。そういう無遠慮なところが嫌いだ。きっと、自由奔放に生きている人間にはこのショックが分からないのだろう。

 沈黙が二人の間に流れる。芸能人がさ、と呟き声が聞こえた。


「え?」


「好きだった芸能人がさ、死んだんだ。理由は分からないけど。動画の急上昇にはその人ばかり出てきてさ。メディアもこぞって取り上げてたのに、一週間で取り上げられる回数は減っていって、一カ月もすれば話題にもならなくて…こうやって人は忘れられていくんだなって、その時思ったんだ」


 急な話に理解が追いつかない中、アキラは伸びをしながら続ける。


「忘れられていくのなら、もういいかなぁ、って。何かの歌詞でもあったんだよね、『百年後には死んでいるから暴れましょう』みたいな」


「本当に暴れたら迷惑だけどね」


 それもそうだね、と賛同したアキラが静かに肘を膝に置く。


「けど、実際は難しいね。百年って宇宙の誕生から数えれば些細な数字だけど、人間からしたら長すぎる。こうやって好きな服装をしているのも、気にしないふりはしていても、周囲からの目は気になるし。だけど、もう引き下がれないしね」


 そこにいたのは、常識に対して飄々とした態度ですり抜ける人物ではなく、虚勢を張ることで世界に対して己の存在を示そうと足掻くただの人間だった。一体今日だけでどれだけ自分の無知を思い知らされるのだろう。


「石川先生はお節介な人でね。度々面談をしていたんだけど、それで疑われることになるとは思わなかったよ」


「どうして急にそんなこと…」


「何でだろうね。お礼も兼ねてかな。さっき藤嶋さん…に会ってね、頭を下げられたよ。別にいいのに」


 そうか。彼女はあの後アキラに接触したのか。素直にすごいな、と思う。


「まぁ、本当は自分の愚痴を話したいだけなんだろうけどね。藤嶋さんもなんだろうけど、君は実に話しやすい。人を見かけで判断してなさそうだからなのかな」


「…それは、そうかも」


 嘘を吐いた。どれだけ外見を装っても、骨は装えない。前頭骨や下顎、スカートからはみ出た大腿骨…。自分からしたらアキラの性別は一目瞭然だ。


「ごめん、さっきのは嘘」

 

 子どもの頃に愛に憧れていたこと。親の一言に幻滅したこと。そして現在進行形で骨しか見えないこと。特徴や性質で他者を判断していること。

 考えるより先に口から言葉がこぼれる。人の本音を聞きすぎたせいか、自分も楽になりたくなったのかもしれない。自分の中に溜まった黒い靄が、言葉にすることで消えていくように感じる。

 黙って聞いてくれてはいたが、アキラからすれば突然訳の分からないことを言われて戸惑ったことだろう。


「…じゃあ、今も私は骨に見えてるってこと?」


 制服は見えていることを伝える。


「坂下さん自身も見えないってこと?」


 首を縦に振る。


「今までその環境で過ごしてきたってこと?」


 そうだけど、と勢いに気圧されながら答える。アキラは肩を震わし始め、口元を手で覆っていたが、やがて上を向いて笑い出した。


「君は本当…うん、でも納得だよ。実は月から来た、って言われても驚かないつもりだったんだけど。想像を超えてくるよね」


「それは…どうも」


 自分の返答がツボに入ったのか、再度笑い出す。どこが面白いのか分からないが、笑ってくれることはそんなに嫌ではなかった。


「そんなに笑うことないじゃん」


 怒った素振りをしてみせると、アキラがごめんごめん、と言う。


「でも、もしそれが本当だとしたら、実は坂下さんが自分で自分を縛っているだけなのかもしれないね」


 意味が分からず、自然と眉間に力が入る。


「つまり、ユウは幻想を見ていた自分が許せないだけなんじゃないかな。許してあげなよ、過去の自分を」


 脳に雷が落ちたような衝撃が走った。そうかもしれない。あの時、自分は親の発言に落胆した。理想と現実のギャップを痛感し、子どもながらの淡い夢が壊れていった。でも、骨しか見えなくなったのは親でも現実のせいでもない。眠る間際、何に対して腹が立っていたのか。それは紛れもなく自分に対してだった。

 太陽や上空を舞う鳥、地面の蟻、座っているベンチ、公園――全てのモノが、滑り台を登った時とは明らかに異なり、より鮮明に見えた。


「それじゃ、私は帰るよ。今から学校に戻る気は起きないしね」


 よくよく考えれば、学校では午後の退屈な授業が行われている時間だ。マナカから自分が公園にいると教えられてアキラがここに来たのか、それとも先日のような理不尽な目に遭って学校を抜け出した結果、偶然自分を見かけたのか、その真相は不明だ。けれど、今それを聞くのは野暮である。


「明日も学校に来るよね」


 立ち去るアキラに声をかけると、振り返って答える。


「まず君が明日は来ないと。そうだな、坂下さんが骨の話をしてくれるなら来るかもね」


 また下の名前で呼べばいいのに。一瞬、アキラの顔が見えた気がした。笑顔が綺麗だな、と思った。






 電車で帰ることも考えたが、ぼんやりと人の皮膚が見えてきていることもあり、歩いて帰宅することにした。人の表情が見えるだけで世界はこんなに彩りができるのかと実感する。熱帯魚とはまた違う綺麗さだ。喜、怒、哀、楽…生まれ変わった気分だ。

 結構歩いたはずだったが、あっという間に自宅に着いた。昼食もとらずに過ごしてきたせいで空腹だ。玄関は鍵がかかっており、バッグから合鍵を取り出そうとする。


「あら、どうしたの?」


 久方ぶりに見る母はあの頃よりも年を重ね、目尻に皺ができていた。骨の時には分からなかったことだ。


「…自主早退してきました」


 本当は学校にも行ってないのだが、そこは語らない。


「そっか、体調は大丈夫? ケーキ買ってきたんだけど」


 母は特に咎めることもせず、手にぶら下げた箱をこちらに差し出す。そして今日が自分の誕生日であることを思い出した。鍵を開けて台所で手を洗い、早速ケーキを食べるためのフォークを取り出す。


「ユウももう十七か。時の流れは速いね」


「うん」


 母は目の前に置かれた苺のショートケーキが消えていくのを眺めている。お腹が空いていたので自分は先に食べてしまったが、後で父と二人で食べるのだろう。


「友達ともたくさん遊んどきなさいよ。今しか関われない人もいるんだから」


「母さんも遊んだの?」


「遊んだよ。けどもっと遊んでもよかったなぁ」


「…そのことを後悔してる?」


「どうだろうね。過去に対していくら文句を言ってもどうにもならないし、今を大切にしていくことをお母さんは考えています」


 そうだよね、としか言えない。その時の最善を選択していくしかないのが人生なのだから。その選択の結果、自分が生まれ、そして『今』は受け継がれていく。






 夕食も終え、自室でごろごろした後、入浴をする。鏡に映る自分を見るのも久しぶりだ。皮膚に触る感覚は同じでも、骨が見えないだけでかなり違う。大きな瞳に骨ほどまでとはいかない白い肌。普段上り下りする螺旋状の階段を想像しながら、あの頃の母に近づいていることを感じる。今は何段目なのだろう。

 そんなことを考えながら、今日あった出来事を振り返る。マナカは元担任との関係を『背徳感』と一蹴した。フィクションではよくある教師と生徒の関係も、現実では全く異なることに気付いたに違いない。彼女は明日もウィッグを被って登校するのだろう。今度言われたら宿題を見せてあげてもいいかもしれない。

 そして、アキラ。周囲の偏見をものともせず、我を通すことを信条としているようで、その内面は凡人と変わりがなかった。確かに外に目を向ければアキラの考えに同意する人もいるだろう。しかしそれまでの期間、一人で信念を貫いていくのだろうか。自分は思い込みによって見える世界の範囲を狭めていた。その世界から解放してくれたアキラに対し、自分ができることは何だろうか。

 きっと、このまま骨が見えなくなれば、アキラは自分から離れていってしまう気がした。そんなわけはない、と思っていても表面上の関係性に落ち着いてしまいそうで。 

 自分を縛った結果、皮膚が見えなくなったのであれば、再び自分を縛れば骨が見えるのではないだろうか――ふと、思った。直感ではあるが、明日になれば完全に骨は見えなくなる気がする。でも、どうすればいいのだろう。あの時の感情は、どうだったのだろう。嘘を吐くのは慣れているつもりだった。そうやって過ごしてきた。でも、今は気持ち悪い。

 アキラに骨の話をする。それができない自分を許せるだろうか。今しかできないことに力を入れずに、いつできるようになるのだろうか。骨になるまで続いていく階段の途中で、自分の後ろにある段数は少ない。

 ぼやけ気味の自分の皮膚から再び骨が現れる。瞳も、鼻も、耳も唇も胸も剥がれ落ち、束の間の世界が失われていく。大丈夫、自分はまた戻ってこれる。なぜなら、あの色彩の豊かさを求めているから。そして、最後には皆の表情をしっかり見たいと思う。

 だからそれまでの間、さよなら自分。また会う日まで。











 ――ああ、骨しか見えない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

骨しか見えない 相心 @aishin

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ