真っ暗 まっくら

雨世界

1 ……ずっと一緒にいようね。猫ちゃん。

 真っ暗 まっくら


 本編


 ……ずっと一緒にいようね。猫ちゃん。


 気がつくと、真白は夢の中で真っ黒な毛並みをした一匹の猫になっていた。猫になって、真っ暗な廊下をなれない四本の足を使いながらひたひたと歩きまわっていた。それは暖をとるための行動だった。そこはとても冷たかったから、真白は体を温めることのできる小さな炎を求めていた。

 だけど、どこまで行っても世界は真っ暗なままで、炎はどこにも見当たらなかった。真白は炎が無理なら、せめて古くても、ぼろぼろのものでもいいから一枚の毛布が欲しいと思った。暖かい毛布にくるまって、朝が来るまで、この真っ暗闇の中で静かに眠っていたいと思った。夢の中で眠りにつくというのはなんだか変な話だけど、でもそうしたいと思えるくらい、ここは寒くて仕方がなかった。

 でも結局、どこまで歩いても世界は真っ暗なままで、いつまでたっても現状はなにも変わりそうもなかったのだけど、でも、それでも真白はそんなものたちを求めて、暗い廊下をひたひたと小さな足音を立てながら歩き続けていた。

 お腹がとても空いていた。だから力が出なかった。夢の中だというのにお腹が減るというのも、これまた変な話だった。そんなことを考えていると風が、びゅーという音を立てて真白の周囲を吹き抜けた。寒い風だ。真白はぶるっと体を震わせた。今は春のはずなのに、吹く風はまるで冬の風のように冷たかった。もしかしたらこの夢の中では季節は冬のままで時間が止まっているのかもしれないと真白は思った。そういうことは夢の中では、『よくあること』だった。


 足の裏がすごく冷たかった。この廊下は床が冷たい。まるで氷で作られているようだった。試しに前足の裏を確認してみると、真白の肉球は真っ赤に腫れていた。それを確認した真白は四本の足をできるだけ均等に使うことで、なんとかその冷たさを回避しようとしたのだけど、それはあまり意味がない行動だったようだ。真白の四本の足はすぐに四本とも真っ赤になって、ついにはなんの感覚も無くなってしまった。だから真白はしばらくの間、廊下を歩くことを諦めなくてはならなくなった。

 真白は体を丸めて廊下の真ん中にじっと座り込んだ。寒さは相変わらずで、だんだん足だけではなくて、真白の体全体の感覚が失われていった。きっと、そのせいなのだろう。真白はなんだかとても眠くなってきてしまった。

 ……夢を見ているということは、僕はもうすでに眠っているはずなのに、その夢の中でもまた眠くなってしまうなんて、……僕はそんなに眠ることが好きだったんだろうか? と、真白はそんなことを不思議に思った。

 それとも夢の中で眠るという行為は現実への帰り道なのだろうか? それはありえそうな話だった。現実の世界で眠りにつくことによって夢の世界へと移動した僕の意識は、夢の世界の中で眠りにつくことによって再び現実の世界へと回帰する……。そういう仕組みでこの二つの世界は繋がっているということだ。……うん。悪くない考察だ。それはいかにもありえそうな設定だった。きっと神様がそういう風に、この世界の仕組みを作ったに違いないのだ。


 人間の神様と、……そして、猫の神様。


 夢の中で猫になってしまった僕はいったいどっちの神様を信じればいいのだろうか? そんなことを真白は思った。どうやら僕の思考は少しだけ飛んでいるようだ。それはきっとこの寒さのせいだ。夢の中でも眠くなるのと同じこと。普段、僕は神様なんていう存在をまったく信じていないというのに、どうしてこんなときだけ、僕は神様のことを考えようとしているのだろうか? それはもしかしたら僕が、『いつもよりも死というものをずっと身近に感じている』からなのだろうか? 

 ……うん。そうなのかもしれない。確かにその通りなのかもしれない。

 ……ああ、そうか。僕はこれから、この場所で死ぬのか。そんなことが今更ながら、当たり前のように受け入れられた。人は誰でもいつかは死ぬ。僕もいつかは死を迎える。それが今だということなんだ。つまりそういうこと。僕の人生はここで終わる。猫になって、見知らぬ暗い廊下の真ん中で、うずくまって丸くなったまま、一人ぼっちで死んでいく。僕はそんな小さな命に過ぎない、こんなにもちっぽけな存在だったんだ。そんなことを真白はようやく思い出すことができた。

 でも、それでいいんだ。すべては夢。すべては幻。僕が願ったものも、僕が望んだものも、なにもかも手に入れることができないままに、僕はここで猫になって死んでいく。

 ……意識が、だんだんと遠くなっていった。真白はすべてを諦めたように、そっと二つの瞳を閉じた。

 もう真白はなにも考えない。なにも望まない。なにも感じない。そうやって自分のすべてを手放していく。……そうやって、……もう少しで、真白の世界は完全な終わりを迎える『はず』だった。


 なのに次の瞬間、突然、がらっという音がして眩しい光が暗闇の世界の中に差し込んできた。真白はその光に驚いて反射的に体をくねらせながら跳ね飛ぶようにして後方に移動する。できるだけ光から逃れるように闇の中へと移動する。それは我ながら、どこにそんな力が残っていたのかというくらいに機敏な反応だった。

「誰かそこにいるの?」と可愛らしい声がした。

 光の中になにかがいた。大きななにか。それは人の形をしていた。そこに人間が一人いる。人間はなにかを探していた。その人間が探しているのは……、猫になった真白だった。

 真白はその人間に見つからないようにさらに深い闇の奥へ奥へと移動する。しかし、死を迎える直前だった真白の体にはいつものように軽快な動きで人間から逃れることができるような力はすでに残されていなかった。どうやらさっきの反射的な力が、真白に残されていた最後のエネルギーだったようだ。ふらついている真白の後ろ足は冷たい廊下の上で空回りをしたようで、真白は不格好な格好でその場にばたっと音を立てながら倒れこんでしまった。

「にゃー」と真白の声が出る。

「猫? 猫がいるの?」

 その声に人間が反応した。

「あ、そこに隠れているのね。さあ、こっちにおいで。そこは寒いでしょ?」と人間が真白に手を伸ばす。真白はその手から逃れようとした。だけどそれができない。もう真白の足はまったく動かなくなっていた。だから真白は精一杯威嚇する。牙を出し、目を吊り上げて威嚇する。僕はお前の敵だと人間にわからせようとする。だけど人間はひるまない。人間はゆっくりと真白のそばに近寄ってきて、そのままそっと真白をいたわるような優しい手つきで、真白の体を持ち上げた。噛み付いてやろうかと思ったが、顎がまったく動かない。真白の体はそのまま人間の膝の上に移動する。それから真白はその人間の胸にぎゅっと抱かれた。真白の冷たさが人間に、人間の温かさが真白に、まるでお互いの世界をちょっとだけ交換するように伝わっていく。やがて人間の頬が真白の横顔に押し付けられた。

「……冷たい。体、温めないといけないね」

 そう言って、人間は笑った。


 そこは冷たい廊下とは違いとても暖かい場所だった。赤々と燃える炎を入れた鉄製のストーブと、天井の裸電球の明かりが板張りのぼろぼろの部屋の中を照らしている。ところどころに人の顔のように見える木目の入った薄気味悪い天井に、歩くたびにぎいぎいと変な足音のする古びた板張りの床。吹く風によってかたかたと音を立てる古い造りの窓。床の上には四角い形をした古い木製の机が一つと、その脇に小さな木製の丸椅子が一つ置いてあった。

 ストーブ脇の壁には、ところどころに蜘蛛の巣のはった本棚があり、そこには一冊の古い本が置かれていた。本棚にある本はその一冊だけで、あとは全部空っぽだった。その本の背表紙は空白で、なにも題名が書かれていなかった。

 部屋の扉の横にはこの小さな部屋には似つかわしくない大きな古い柱時計が置いてあった。時計の針は十二の数字を少し回った辺りを指し示している。柱時計の隣には木製の棚があり、その脇の壁際には小さな流し台があって、その壁には曇った鏡が取り付けられていて、床の上には台座があり、そして流し台の上にはコップと歯ブラシが置いてあった。そしてぐるっと回って扉の反対側に瞳を向けると、そこには窓のある壁があって、その壁にぺったりとくっつくようにして、真っ白なベットが一つ置かれていた。それがこの部屋のすべてだった。

 誰もいない部屋の中。真白は一人で、暖かい炎の灯るストーブの前にいて、そこで冷たくなった体を一生懸命になって温めていた。

 すると背後でがらっという音がした。部屋の扉が開いて、そこから二人の人間が部屋の中に入ってきた。一人は真白を拾ってくれた女の子。もう一人は白い服を着た大人の女性だった。


「この子が迷子の猫ちゃんね」大人の女性が真白を見ながらそう言った。大人の女性は言葉を発しながら部屋の中央に移動する。そして、真白の前に来ると、そこに手に持っていた小さなお皿を置き、そこに瓶に入った新鮮なミルクを注いでくれた。お腹が空いていた真白はお礼も言わずに、それに口をつけた。ミルクはとても美味しかった。

「あ、飲んでる、飲んでる。お腹が空いてたんだね」大人の女性は笑っている。しかし、女の子は不安そうな顔をしながら食事をする真白を見ていた。

「秋子さん。猫ちゃん、大丈夫?」

「大丈夫、大丈夫、心配ないよ」

「本当?」

「うん。本当」

 秋子さんと呼ばれた女性の言葉にようやく安心したのか、女の子はやっと笑顔になると、その場にしゃがみ込み「よかったね、猫ちゃん」と言いながら真白の頭を軽く撫でた。真白は人に頭を撫でられることが嫌いだったのだけど、ここまで面倒を見てもらったからには、その行為を無下にするわけにはいかなかった。なので真白は一応、お礼の意味を含めて「にゃー」と小さな声で鳴いた。すると人間たちはとても喜んだ。


「ほら、心ちゃん。いつまでも猫にかまってないで、ちゃんと準備をして、今日はもう寝なさい」

「もう寝なくちゃいけませんか?」

「寝なくちゃだめ。猫のことは私から先生に伝えておくから、ちゃんと面倒みるんだよ」

「はい。ありがとうございました。秋子さん」

「うん」

 秋子さんは心と呼ばれた女の子の頭を撫でた。「じゃあ、また明日ね。おやすみなさい、心ちゃん」「はい。おやすみなさい、秋子さん」秋子さんは扉を開けて部屋を出て行った。

 心は秋子さんに言われた通りに就寝する準備を始めた。着ていた小さな子供用のコートとマフラーを脱いで、それらをベットの横にある壁の出っ張りに引っ掛けた。コートのポケットからは小さな手袋が少しだけはみ出している。

 その作業を終えると心は真っ白なパジャマ姿になった。足元には白いスリッパを履いているが、どうやら心は裸足のようだ。それでは外を歩くのは寒いだろうと真白は思った。


「おやすみなさい。猫ちゃん」心はにっこりと笑った。

 それからいそいそと移動してスリッパを脱ぎ、ベットの上に移動する。心は毛布をかぶりベットの上で横になると、あっという間に眠りの中に落ちていった。そして心はぴくりとも動かなくなった。真白は心の様子を観察しながら、慣れない舌を使ってようやくミルクを飲み干した。そしてしばらくの間、真白は体の中にストーブの中で燃える炎の熱を溜め込んだことで、体が自由に動くことを確かめると、さっきから一つ気になっていることを確かめてみることにした。

 真白は部屋の扉の前まで移動すると、かりかりと爪で扉を引っかくようにして、その扉を開けてみようとした。しかし、それは不可能だった。ついさっき死にかけたばかりなので、本気でこの部屋の外に出ようと思ったわけではないのだけれど、やはり猫になってしまった真白の力では、人間の扉は開けることができないようだ。その確認を終えると、真白は部屋の中央に戻り、そこから勢い良くジャンプをして椅子の上に飛び乗った。そしてさらにそこからジャンプをして、真白は心の眠るベットの上まで移動する。

 真白はさらに移動して、心の胸の上に飛び乗ると、そこからじっと眠り続ける心の寝顔を眺め始めた。それはとても無防備な寝顔だった。なんの警戒心もない無垢な表情。眠り続ける心の表情はとても穏やかで、その顔色は火を灯す前のロウソクのように真っ白だった。真白はそんな心の寝顔を見て、だんだんとなんだか生きている人間を見ているというよりも、なにか死体の顔を眺めているような気分になった。それは見ていてあまり気持ちの良い光景ではなかった。


 真白は気分転換に窓の外に目を向けた。窓の外には雪が降っていた。どうやらこの世界では冬はまだ終わっていないらしい。先ほど廊下で考えた真白の予想はもしかしたら当たっているのかもしれなかった。真白はそれを確認すると丸い瞳を細めてから、ふぅと深いため息をついて、それから真白は再び死体のような心の寝顔に視線を戻した。

 ……こころ。こころか。この女の子は心という名前なのか。真白は心という言葉を頭の中で何回か声に出して繰り返した。

 それから真白は心がちゃんと生きているのか確かめてみるために心の頬をぴしぴしと前足で叩いてみた。するとかすかにだけど、心はきちんと反応を示した。心はちゃんと生きていた。死体のように見えるだけで、本当の死体ではなかったのだ。

 真白はそれから死体のような心の寝顔を眺めて、それに飽きると窓の外に降る雪を見る、という作業を始めた。すると初めはロウソクのようだと思った心の白い顔は、窓の外に降る雪と交互に眺めていたせいか、だんだんとロウソクというよりは雪に似ているように思えてきた。外に降る雪と心の白い顔が真白の意識の中で重なり合って、それは次第に真白の中で溶け出した。雪はいつまでも窓の外で降り続いていた。そして心も、そのまま一度も目覚めることなく、その夜の間は、ずっと眠り続けたままだった。


 それからかなり長い時間が経過したころ、不意にとんとんという音が聞こえてきた。誰かが扉をノックする音だ。

 柱時計を見て時間を確認すると、針は八の数字を指していた。しかし時計の八という数字を見ても、窓の外は常に暗闇の閉ざされていたので、真白にはそれが朝の八時なのか、それとも夜の八時なのかの判断をすることはできなかった。

 真白が扉に注意を向けていると、がらっという音がして扉が開いた。するとそこから白い服を着た年老いた男が一人、心の部屋の中に入ってきた。その年老いた男と真白の視線は空中でしっかりと重なった。男は真白の姿を見てとても驚いていた。その顔はまるで幽霊かなにかでも目撃したような驚きに満ちた顔だった。男はそれから床の上にあったお皿とミルクの空き瓶を見た。

「猫……。それも、よりによって黒猫とは」と年老いた男は言った。

 男の言葉は、真白にはとても失礼な言葉に聞こえたので、真白は男に向かって牙をむき出しにして威嚇をした。すると男も怒ったような顔をして真白のことを見返してきた。

「先生」と男性ではない女性の声が聞こえた。

 その声は年老いた男の後ろから聞こえた。見るとそこには昨日真白にミルクをくれた大人の女性が立っていた。名前は秋子さん。しかし、秋子さんが真白を見る目は昨日とはどこか違っていた。昨日は真白を好意的な目で見てくれていた秋子さんが、今日は真白に敵意のようなものを向けていように感じられた。

「ああ、すまない」

 年老いた男は秋子さんに急かされるようにして、部屋の中央にある机の脇までやってきた。その上に手に持っていたクリップボードを置き、それからどさっとわざと大きな音を立てて木製の丸椅子に腰掛けた。その間、男と真白の視線は常に重なったままだった。

「ふん!」男は真白を見ながら大きく鼻を鳴らした。 

 秋子さんは心の眠っているベットの脇に移動する。

「心ちゃん。起きなさい。診察の時間ですよ」と秋子さんは言った。するとまるでその言葉が心が目覚める魔法の合図でもあったかのように、心がぱっちりと大きな二つの目を見開いた。


 目を開けた心はまず秋子さんを見て、次に自分の胸の上にいる真白を見て、それから顔を動かして丸椅子に座っている年老いた男の顔を順番に見た。

 心はゆっくりと体を起こし始めた。真白は邪魔にならないように空いている空間に移動する。心はそんな真白を見てくすっと笑うと、「おはよう、猫ちゃん」と真白に朝の挨拶をした。それから心は年老いた男と秋子さんのいる方向に顔を向けて「おはようございます。大麦先生。冬子さん」と二人に笑顔で挨拶をした。

「おはよう心ちゃん、今朝の具合はどうだい?」と大麦先生と呼ばれた男が、優しい顔で心に言った。

「……はい。大麦先生のおかげで、だいぶよくなりました。今はとくにどこも痛くなったりしないです」と心は言った。

「心ちゃん。私たちに遠慮しないで、本当のことを言ってもいいんだからね。痛みを感じたり、体の調子が変だなと思ったら、その場ですぐに私たちに報告すること。いいね?」

「はい。わかりました。冬子さん」

 三人は真白の存在を無視して会話をしていた。真白は大麦先生の心に向ける優しい顔を見て、それから冬子さんと呼ばれる女性の顔を見た。どうやらこの女性は似ているだけで、昨日真白にミルクをくれた女性とは別人らしい。この人は秋子さんではなくて冬子さん。

 言われてみれば、どことなく違うような気もするが、真白にははっきりと二人の違いを見分けることができなかった。あえて言えば、機嫌がいいのが秋子さん、機嫌が悪いのが冬子さん、といった感じだ。それくらいしか真白には二人の見分けをつけることができなかった。


「猫ちゃん。おいで」

 真白の存在を最初に思い出してくれたのは心だった。真白は優しい心の声に導かれるようにして心の胸のあたりに移動した。すると心は真白の体を真白を見つけてくれたときと同じように、ぎゅっと優しく抱きしめてくれた。

「心ちゃん。その猫、どうするつもりなの?」と大麦先生が言った。心は伏せ目がちになって、「できれば友達になりたいと思っているんです」と返事をした。大麦先生は秋子さんからある程度僕の話を聞いているのだろう。大麦先生はとても難しい顔をしたが、それ以上の質問はなにもしなかった。

「……もしかして、いけませんでしたか?」と心は言った。

 大麦先生は少しだけ間をおいてから、「……いや、いけないってことはないよ。そうだね。心ちゃんに友達ができることは、とてもいいことかもしれないね」と心に答えた。

 心はその言葉を聞いてぱあっと顔を明るくして大麦先生の顔を見た。大麦先生は無言で心に頷いた。冬子さんはどこか不満足そうだったけど、文句を言わないところを見ると、そのやり取りを認めるつもりらしい。どうやら真白はこの部屋にいることを大人たちに正式に許可されたようだった。

「ありがとうございます、大麦先生」と元気よく心が言った。その言葉を聞いて大麦先生はにっこりと微笑んだ。

「先生。朝の診察をお願いします」と冬子さんが言った。

「ああ、そうだったね。すまない。では早速診察をはじめようか」と大麦先生は言った。

「はい。宜しくお願いします」と心は言った。

 心は真白を自分の枕元に置くと、それから体を動かして、ベットの脇に腰かけるような体勢になった。大麦先生は冬子さんと一緒になって、心の脈を計測したり、体温計を使って心の体温を測ったりした。そんな作業を終えると、大麦先生はクリップボードになにかの文字や数字を書き込んでいった。それはどうやら心のカルテのようだった。つまり、今の作業は心の診察ということらしい。


 真白はこのときになって、ここがどこかの古びた病院の一室であることに気がついた。この部屋は心の部屋ではなくて、心の病室なのだ。大麦先生はお医者さんで、秋子さん、冬子さんは看護婦さん。そして心は入院患者で、真白はそんな名前も知らない病院に迷い込んだ迷子の猫、というわけだ。

 なるほどな。なるほど、なるほど。

 真白は一人自分の考えに頷きながら人間たちの様子を観察していた。

 心の診察が終わると大麦先生と冬子さんは、心に優しく微笑みかけながらお別れの挨拶をして、それからゆっくりとした足取りで、心の病室を出て行った。病室を出て行く際、大麦先生は真白の顔を一瞬だけど、とても厳しい目で睨みつけていった。その目には明らかに憎悪と呼ばれる感情がこもっており、大麦先生が真白のことを嫌っていることは明らかだった。冬子さんも真白に好意の視線はむけなかった。

 真白は多少むっとしたけど、真白も大麦先生のことはあまり好きではなかったので、それはお互い様と言えたし、冬子さんのことは顔がそっくりな秋子さんにミルクをもらった恩があったので、それでちゃらにすることにした。

「ふふ、よかったね、猫ちゃん。許可が出たよ。大麦先生が猫ちゃんと友達になってもいいって」と心は真白の体を抱きかかえながら言った。真白はそんな心に「にゃー」とだけ鳴いて答えた。


 しばらくすると、こんこん、という音がまた聞こえてきた。

 扉が開いて、そこからさっき病室を出て行ったばかりの冬子さんが顔を出した。

「おはよう、心ちゃん」

「おはようございます。秋子さん」

 心の言葉を聞いて、真白はその女性が冬子さんではなくて秋子さんだということがわかった。秋子さんは心だけでなく、真白にもとても優しい表情を向けてくれたので、確かにこの人は秋子さんなのだろう。秋子さんはその手におぼんを持っていた。秋子さんは病室の中に入ってくると、そのおぼんの上にのっていたお皿を机の上に丁寧な仕草で置いていった。

 パンが二つ乗っているお皿。そのパンにつけるためのジャムとバターが一つずつ。白い湯気の出ている暖かい野菜のスープ。温野菜のサラダ。美味しそうなミートボール。そしてミルクの瓶が二つ(これは一つは真白の分だった)と透明なガラスのコップが一つ、そしてからっぽのお皿が一つ。

 それらはどうやら心と真白の食事のようだった(その食事を見て、まるで小学校の給食のようだと真白は思った)。秋子さんはそれらを机の上に並べ終わると床の上に置かれたままになっていたミルクの空き瓶と空っぽのお皿を手にとってそれをおぼんの上にのせた。

「大麦先生、猫ちゃんと友達になっていいって許可してくれた?」

「はい。許可してくれました」

「うん。よかったね、心ちゃん」

「はい。ありがとうございます。秋子さん」

 そんな会話を終えると、秋子さんは笑い、真白の頭を一度撫でてから、心の病室を出て行った。秋子さんがいなくなると、心はベットからスリッパの上に降りてそれを履いた。そして机の前まで移動して小さな丸椅子の上に腰を下ろした。真白は机の上の空いている空間目掛けてジャンプをした。多少、食器が揺れたが、問題なく真白は机の上に飛び移ることができた。場所はちょうど心の反対側になる。心は真白が落ち着くのを見て、ミルクの瓶を開け、それを空っぽのお皿の中に注いでくれた。


「じゃあ朝ごはんにしようね、猫ちゃん」と心は言った。

 先ほどの大麦先生たちの会話や、今の心の発言から、真白は現在の時刻が朝の時間帯であることがわかったのだけど、しかし外は暗いままだった。もしかしたら、この世界では朝も昼も空に太陽は顔を出さず、ずっと真っ暗なままなのかもしれなかった。窓の外に降る雪も昨夜からずっと降り続いたままだった。

「いただきます」

 心は手を合わせてからそう言うと、パンを一口サイズにちぎって、それにバターをぺたぺたと塗りながら、小さな口を大きく開けて、もぐもぐとパンを食べ始めた。真白はそんな心を見ながら、器用に舌を使ってお皿の中のミルクを飲み始めた。

 心の食事はとても質素なものだった。パンは少し大きめだったけど、おかずはミートボールだけで、ほかにはスープとサラダとミルクがあるだけだった。それは小学校で見る給食よりも量が全然少なかった。真白自身も、あまりごはんを食べるほうじゃないけれど、これでは幾らなんでも量が少なすぎると思った。野菜は多めだけど、栄養だって全然足りないのではないかと心配になる。もっとも心にとってはそれは当たり前の風景のようで、真白に向かって「猫ちゃん。ミルクだけでお腹いっぱいになる? パンも少し食べる?」とか言ったりするくらいだった。

 真白は嫌そうな顔をすることで心の提案を断った。真白の朝ごはんは確かにミルクだけだったけど、猫になった真白にとってはそれだけで十分お腹がいっぱいになることは、昨日の夜に証明されていたことだった。


 心はパンをちぎり、今度はそれにジャムを塗って食べた。そしてスプーンを使ってスープを飲み、小さなフォークを使ってミートボールを一口食べて、またパンを食べた。

「猫ちゃん。さっきのお医者さんはね、大麦先生って言うんだよ。大麦木馬先生。すごく優しい先生なんだ。だから猫ちゃん。大麦先生とけんかとかしちゃ、だめだよ」

 真白は心の言葉に返事をしなかった。大麦先生とけんかをしないという約束ができる自信がなかったからだ。そんな真白の気持ちを知ってか知らずか、心は上機嫌なまま、大麦先生の話を始めた。

 その心の説明によると、大麦先生は心の主治医をしているお医者さんで、本名は大麦木馬と言い、歳は六十を幾つか越えていて、髪は白く、お腹が少し膨らんでいるのが特徴ということだった。確かに心の説明通りだったけど、一つだけ真白と心の認識が食い違っているところがあった。それは心が大麦先生がとても優しい先生だと言ったことに対して、真白はそうは思っていなかったという点だ。真白には大麦先生がとても怖い先生に見えていた。その認識は当たっていると思う。大麦先生はきっと猫に厳しくて、人間の心にだけ優しい先生なのだ。

「それでね、私の面倒を見てくれているのが、秋子さんと、冬子さん。二人はこの病院の看護婦さんでね、見た通り、そっくりな双子さんなんだよ。二人の見分け方はね、優しい方が秋子さん。ちょっと意地悪なのが冬子さん。最初はわからないと思うけどね、慣れるとすぐにわかるんだよ。あ、秋子さんだ、とか、あ、冬子さんだ、だとかね。ちなみに、お姉さんが秋子さん、妹さんが冬子さんだよ」

 秋子さんと冬子さん。

 お姉さんが秋子さん、妹さんが冬子さん。優しいのが秋子さん、少し意地悪なのが冬子さん。真白は心の話を聞きながらそんな風に二人の分類を頭の中で行った。


 心はそれからも楽しそうにいろんな話を真白にしてくれた。しかしそれらは全部たわいのない日常の話ばかりで、真白が一番気になっている肝心な、お話をしている心本人のことはほとんど含まれていなかった。真白は心がどんな病気でこの病院に入院しているのかを知りたかったのだけど、この会話の中ではそれを知ることはできなかった。 


 心はバターを塗ったパン、ジャムを塗ったパン、温かいスープ、ミートボール、パン、そしてミルクの順で食事を続けた(その間に、ときどき、思い出したようにサラダを食べた)。真白はちらちらと心の食事の様子を観察しながら、自分の分のミルクを慣れない舌を使って飲み続けた。

 心の食べ物を咀嚼する速度は、猫になりたての真白の食事のスピードに負けないくらい、とても遅いものだったけど(その代わり心の食事のマナーはとてもよかった)もともとの食事の量が少なかったので、それらを食べ終えることに心も真白もそれほど時間はかからなかった。


 質素な食事が終わると、心は再び両手を合わせて「ごちそうさま」をした。銀色のスプーンと小さなフォーク、それからバターナイフを整え、空っぽになったお皿をトレイの上に重ねて置くと、心は食事のときはなぜか使わなかった朝ごはんと一緒にトイレの上に乗っていた透明なコップを手に持って、流し台の前まで移動して、台座の上に立ち、蛇口をひねって水を出して、そこに透明な液体を注いでいった。

 それから心は木製の棚の引き出しを開けると、その中から小さな瓶のようなものを取り出した。その瓶の中に詰まっているものは、錠剤の薬のようだった。どうやら透明なコップは最初から食事用ではなくて、薬を飲むために必要な道具だったようだ。

 心は瓶の中の薬を無造作に振って手のひらの上に何粒か落とすと、それらを水も飲まずに口の中に放り込み、まるでお菓子のラムネでも食べるかのようにぽりぽりと音を立てて嚙み砕き始めた。しばらく薬をぽりぽりとかじったあとで、心は水を飲み、それらを喉の奥に流し込んでいった。そんな心の様子をじっと伺っていた真白に気がついた心は、真白に視線を向けると顔をしかめながら「まずい」と一言だけ呟いた。確かにそれはどう見ても美味しそうには見えなかった。


 薬を飲み終えた心は小さな瓶を引き出しの中に戻し、流しでコップを洗い、それを重ねられて置かれている食器の近くにそっと置いた。

 次はなにをするのかと様子を見ていると、心は再び流し台に向かった。

 台座に乗って、今度は鏡の下の出っ張った板の上に置かれていた歯ブラシの入ったコップを手に取った。どうやら心は歯磨きをするようだ。コップに水を注ぎ、それから歯ブラシを使って丁寧に、時間をかけて、自分の歯を綺麗に磨いた。歯磨きが終わると、心は曇った鏡の前で大きく口を開けて自分の歯の様子を確認した。歯磨きの出来に満足したのか、鏡の中で心はにっこりと笑っていた。

「よいしょっと」

 そんな掛け声とともに心は台座から降りると、そのままぺたぺたと床の上を移動して、自分のベットの前で立ち止まった。スリッパを脱ぎ、いそいそとベットの上に移動すると毛布をかぶり、「じゃあおやすみ、猫ちゃん」と真白に言ってから、起きたばかりだというのに、すぐにまたベットの中で眠りについてしまった。

 眠りについた心はぴくりとも動かなくなった。

 柱時計を見て時刻を確認すると針は十の数字を指しているところだった。

 とくにすることもない真白は、それから丸椅子を利用して、心のベットの上に移動してから、心の胸の上にちょこんと座って、そこから昨夜と同じように心の死体のような寝顔と窓越しに雪の降る外の風景を交互に眺めて時間を潰すことにした。

 本当は心のように眠ることで時間をやり過ごせれば一番いいのだけど、困ったことに、心に拾われてから真白には眠気というものがまったくなくなっていた。そのことに気がついたのは今朝のことだ。時計の針がいくら進んでも、真白は少しも眠くならなかった。冷たい廊下であれだけ眠かったことを考えれば、それはとてもおかしな話だった。あの強烈な眠気はどこに行ってしまったのだろうか? そのことを考えると、すごく不思議な気持ちになった。


 窓の外に降る雪は止まず、外は相変わらず真っ暗なままだった。心もずっと眠り続けている。時計の針が十二の数字を指したころ、こんこんと扉がノックされ、そこから一人の女性が病室の中にやってきた。女性は無言のまま、真白を見た。そして机の上に置いてある食器類をおぼんに乗せて、そのまま静かに病室から出て行った。

 真白にはその女性が秋子さんなのか、冬子さんなのか、その判断をすることができなかった。

 それから時間がさらに経過して時計の針が六の数字を指したころ、とんとんとドアがノックされ、そこから大麦先生が一人の看護婦さんと一緒に病室の中に入ってきた

 それからのみんなの行動は朝に起こったことの繰り返しのようなもので、大麦先生は真白を睨み、看護婦さんが声をかけると心がぱちっと目を覚ました。そして心がみんなに「おはようございます」と順番に挨拶をしていって、その結果、大麦先生と一緒に居る看護婦さんが秋子さんであることが判明した。

 心は本日二回目の検査を受け、それが終わると先生たちは心の病室をあとにした。そしてそれからしばらくするとドアがノックされて、おぼんを持った看護婦さんが病室の中に入ってきた。

「こんばんは、冬子さん」

「こんばんは、心ちゃん」

 二人の会話からすると、どうやら看護婦さんは冬子さんのようだった。冬子さんは夕食を机の上に綺麗に並べていった。その立ち振る舞いは秋子さんのときとまったく見分けがつかなかった。それに夕食の献立も朝とほとんど同じだった。違っているのは、フルーツのお皿が追加されていることだけ。お皿の上には三日月型に切られたメロンがのっていた。


 心は朝と同じように行動をして、真白も同じような行動をとった。

 お話をしながら食事をして、それが終わると心は薬を飲み、丁寧に歯を磨いた。そしてまた真白におやすみなさいを言って、心はベットの中で眠ってしまった。真白はまた、眠っている心の胸の上に座り込み、そこから死体のような心の顔と、窓の外に降る雪を交互に眺めた。

 それから時が経過して時計の針は十の数字を指したころ、とんとんと扉がノックされた。病室の中に入ってきたのは看護婦さんで、お昼のときと同様に、その人は無言のままだった。片付けられた食器をお盆にのせ、やはりお昼のときと同様に真白を見て、それから病室をあとにした。


 雪は心持ち弱くなっているような気がした。もしかしたら雪は、雨に変わるかもしれないと真白は思った。真白は雨降りの日が好きだった。別に雪も嫌いではないのだけど、真白は雪よりも雨のほうが好きだった。だから真白は窓の外に降る雪が雨に変わればいいな、と思った。

 真白は雨降りを思いながら、窓の外に降る雪をじっと見つめた。

 雪の勢いが弱くなったからなのか、窓の外には一本の木が見えた。それは枯れた柳の木だった。それなりに大きな木だ。その木はただの一本だけで、なんの脈絡も無しに、ぽつんと白い大地の上に立っていた。

 真白はなにか珍しいものでも見るように、その柳の木を見た。枯れた柳の木は、心の病室の窓からよく見える位置に立っていた。

 それから真白は柱時計に目を向けた。


 昨日、真白が心に拾われたとき、柱時計の針は十二という数字を少し回った辺りを指していた。つまりあと二時間くらいで、真白はとりあえずこの病院での一日という時間を一睡もせずに経験したということになる。真白はそのときが来ることをとりあえず待つことにした。真白はなにかの変化を期待したのかもしれないし、期待していなかったのかもしれない。とにかく、今日と同じ一日というものがこれからも同じように繰り返されていくのか、それともなにかの変化があるのか、……そして、この長い夢が覚めるときはいつくるのか、……あるいはそれは永遠にこないのか、真白はそれらのことを見極めたかったのだ。

 だから真白は柱時計の針が時間を進めていく作業を淡々と見守っていた。

 そして時間が経過して、柱時計の針がきっかり十二の数字を指したとき、思いがけない変化が起きた。ぽーん、ぽーん、というとても不思議な音が柱時計の内側から鳴り出したのだ。それはお昼のときに柱時計の針が十二の数字を指したときには起こらなかった変化だった。

 その音はとても小さな音だった。決してなにかを告げることに適した大きさの音ではなかった。

 でも、真白はその音を聞いてとても驚いた。……そして、少しだけ興奮もした。

 柱時計から音が鳴り出した理由は明らかに針が十二の数字を指したからだった。しかしお昼のときには音が鳴らなかったことを考えると、どうやらこの音は時刻が『零時』になったことを告げる音だと推測できた。

 それは一日が終わったということを知らせるための音なのか? それとも、新しい一日が始まったことを知らせる音なのだろうか? あるいはその両方の意味なのだろうか? 音の意味は聞くものの意思に委ねられているのだろうか? だとしたら、僕はどうだろう? 僕はこの音にどんな意味を見出すのだろうか?

 真白は柱時計の音からそんなことを連想した。

 しばらくの間鳴っていた音は、やがて一分もしないうちに自然と鳴り止んだ。音が鳴り止むと同時に、「……ん」と心が微かに呟いた。心はうっすらと目を開けていた。心にとってあの音は、どうやら一日の始まりを告げる音だったらしい。真白は心が起きることを予測して、ベット脇へと移動した。

 心は毛布を押しのけてゆっくりと上半身を起こすと、そのままうーん、と言いながら、とても大きな背伸びをした。それから真白と心の目があった。

「おはよう、猫ちゃん」心は笑顔でそう言った。

 食事の時間以外、ずっと眠り続けていた心は、真夜中の時間でも元気いっぱいだった。


 ……真っ暗だね。猫ちゃん。


 すぐにベットから床に降りた心は白色のスリッパを履き、とても楽しそうな表情をしながら壁にかかっていた小さな子供用のコートと厚手のマフラーを手に取った。心はすぐにそれらを真っ白な色のパジャマの上から着込み、それからコートのポケットの中に入っていた手袋も身につけた。

 真白はそんな心の行動を黙ってじっと見つめていた。

 どうやら心はこんな遅い時間だというのに、どこかに外出する準備を整えているようだった。その心の格好は、真白が心と初めて出会ったときにしていた格好と同じだった。

「猫ちゃん。おいで」と心が言った。

 真白は「にゃー」と一度鳴いてから、ジャンプをしてそのままの勢いで心の胸元に飛び込んだ。両手を広げて真白を待っていた心はきちんと、真白の体をその小さな両手で『キャッチ』してくれた。

「猫ちゃんも一緒に『真夜中のお散歩』に行こうね」と心は言った。

 真白は了解の意味を込めて一度小さく「にゃー」と鳴いた。すると心は嬉しそうに笑った。

 真白は心のコートの中に潜り込んだ。そしてコートの胸のあたりから頭だけを出して自分の居場所を確保した。「猫ちゃんはそこが気に入ったんだね」と心が言った。心のコートの中はとても暖かかった。確かに真白はこの場所が気に入っていた。

 外出の準備を終えた心は慎重に病室の扉を開けた。

 すると、とても冷たい風が真白たちの周囲を吹き抜けた。思わずぶるっと真白の体が震えた。そのあまりの冷たさに真白は久しく忘れていた死の感覚というものを微かに思い出した。真白は周囲の風景を確認した。真っ暗な通路に一筋の光が伸びていた。だけどその光の中に、怯えた黒猫の姿はなかった。


 真白は闇の中に光が伸びる風景を見ながら、昨夜の出来事を思い出していた。心の行動はとてもてきぱきとしていて無駄がなかった。それは午前、午後の検査と食事のときの動きのように、同じことを何回も繰り返してきたことを感じさせるような手際の良い動きだった。おそらくこの『真夜中のお散歩』という行為は心の日課にでもなっているのだろう。昨日の夜、あんな遅い時間に心が真白を見つけたのも、ただの偶然というわけではなかったということだ。

「お散歩、お散歩。ふふ、楽しみだね、猫ちゃん」

 心はそんなことを呟きながら、病室の中から顔だけを出して、きょろきょろと通路の両側を確認した。廊下はほとんど先が見通せないほど真っ暗だったので、心のその行為にどれだけの意味があるのかはわからないけれど、少なくとも真白の見た限りでは闇の中に人影は見えなかった。心も同じ結論を出したのだろう。

 心はゆっくりと、なるべく音を立てないように廊下に出た。そして妙にこそこそとした態度で慎重に、音がしないように病室の扉をゆっくりと両手で閉めた。それだけ慎重に動いても、立て付けの悪い古い扉は、がらっという音を出した。扉を閉じきった心は数秒間、そのままの姿勢でその場にじっと佇んでいた。

 扉を閉じると世界は完全な闇に閉ざされた。

「……一人で、お留守番は寂しいもんね。だけど大丈夫。私は絶対に猫ちゃんを一人になんてさせないよ。安心してね」そう言い終わると、心は行動を開始した。


 ゆっくりと、ゆっくりと、心は暗闇の中を動き始めた。最初は適当に進んでいるのかと思っていたのだけど、どうやら心は手で病院の壁に触れながら廊下を移動しているようだった。迷いも感じない。お散歩のコースもある程度決まっているのだろう。

 しばらく廊下を進むと、びゅー、という音がして、冷たい冬の風が真白たちの横を再び通り過ぎていった。それは先程の風と同様にとても信じられないくらいに冷たい冬の風だった。真白はまた微かな死への恐怖を感じ、ぶるっと体を震わせてしまったのだけど、心は「うぅー、寒いね猫ちゃん」となぜかとても楽しそうにそう言った。

 心はゆっくりと、ゆっくりと真っ暗な廊下を進んで行く。

 しかし進んでも進んでも、その先には闇が広がっているだけだった。心の移動がゆっくりしているということもあるのだろうけど、病院の真っ暗な廊下が、真白にはやけに長いように感じられた。闇はまるで永遠に続いているかのようだった。

 しばらくすると次第に闇に真白の目が慣れてきた。それでも真白たちの周辺にはうっすらと廊下の壁が見えるだけだった。……真白は嫌な閉塞感を感じた。ここはとても不気味な場所だった。まるでこの道が『死者の国』にでも通じているかのようにすら、……真白には思えた。

「真っ暗だね猫ちゃん」

 ぎし……、ぎし……と、心の足音だけが闇の中に響いている。おんぼろなのは心の病室だけではないようで、真っ暗な廊下の床は歩くたびに、どうしても、ぎし……、という音が鳴ってしまうようだ。


「すごく静かだね、猫ちゃん」

 真白は黙ったまま、ずっと前を向いていた。そのまましばらくの間、壁伝いにまっすぐ進んでいくと、不意に心がその歩みを止めた。「着いたよ、猫ちゃん」そんな心の言葉を合図にして目を凝らして闇の中をよく観察してみると、近くに階段が見えた。階段は下と上に行く両方があった。反対側には休憩所のような場所もある。心はその休憩所に向かって移動を始めた。そしてそこにある木製の丸椅子の一つに「よいしょっ」と言いながらゆっくりと腰を下ろした。

「一旦休憩」そう言って心は真白の頭を優しく撫でた。 

 休憩所の背後には久しぶりに黒以外の色が見えた。それは目の覚めるような白色で、ある一定の空間の中を、上から下へと落ちながら、まるで散る花びらのようにゆらゆらと舞っていた。

 それはもう真白には見慣れた風景だった。

 窓の外に降る雪の色。どうやら休憩所の背後の壁には大きな窓があるようだ。

「ふふ。夜の病院って、なんだかわくわくするよね、猫ちゃん」心は窓の外に降る雪を見ていた。「本当はね、私、勝手に病室の外に出ちゃいけないって言われてるの。大麦先生がだめっていうの。

 でもね、私はどうしても病室の外に出たかったの。だからこうして大麦先生には内緒で、真夜中の時間に一人で病院の中をお散歩してるんだ。ずっと一人ぼっちのお散歩だったけど、そのおかげでこうして猫ちゃんにも会えたし、今は一人ぼっちじゃなくて猫ちゃんと二人でお散歩している。ふふ。なんだか嬉しいね」


 闇の中で見る心の顔は病室の中で見る心の顔よりも一段と白く見えて、そして闇の中で笑う心の顔はなぜかいつもよりも楽しそうな顔に見えた。……きっと、夜が、心の自由な時間のすべてだったのだろう。心は明らかに朝や昼よりも(とは言っても、真白の知っているこの世界はずっと夜のままなのだけど)、夜の中にいるほうが生き生きとしていた。

「どうしたの猫ちゃん。疲れちゃったの? まだお散歩は半分も終わってないよ」

 ずっと黙ってじっとしている真白を見て心はそんなことを言った。その心の言葉で真夜中のお散歩がまだ終わっていないことがわかった。真白は疲れていないことを心に伝えるために、いつもよりも随分と小さな声で「にゃー」と一度鳴き声をあげた。すると心は「うんうん。猫ちゃんは賢いね」と言って満足げに頷いた。

「猫ちゃん。ほら、あそこにね、階段が見えるでしょ?」心の指差す先には階段があった。さっき真白が確認した階段だ。下にも上にも続いている古い木製の階段がそこにはある。

「私ね、いつもは『上に行く』んだけど、今日は特別に猫ちゃんに選ばせてあげるね。猫ちゃんはどっちに行きたい?」

 心の問いを受けて、真白は下と上に続く階段を交互に見た。どちらに行きたいという希望があるわけではなかったのだけど、案外真白の答えはすぐに決まった。そしてそのことを心に知らせるために真白は一度「にゃー」と鳴いた。「決まったんだね」心は丸椅子から立ち上がって、階段に向かって移動した。

「猫ちゃん。どっち?」と心は言った。真白はその顔を『下の階段』に向けた。それが真白の答えだった。「わかった。じゃあ、今日は一階のお散歩だね。猫ちゃん」心はそう言うと、階段脇の壁に手をついて、しっかりと階段を確認しながら、一歩づつ、ゆっくりとした足取りで下の階へと下りていった。

 ……下に降りるにつれて、闇は、その深さを増していった。


 真白はなんだかとても嫌な感じがした。真白は下の階段を選んだことを、このとき少し後悔していた。いや、上の階段を選んだとしても、結果は同じだったかもしれない。そもそも真白はこの真夜中のお散歩にあまりいい感情を抱いてはいなかった。最初は確かに少しわくわくしたけど、先に進むにつれて、どこか『本当は行ってはいけない場所に、今から自分たちが行こうとしているのではないか?』 という薄気味悪い気持ちを強く感じるようになった。今からでも病室に戻りたいくらいだった。

 しかし心は足を止めずに、そして真白の心配事とは裏腹に何事もなく一階まで移動した。心の顔はずっと楽しさに満ちていた。真白の感じているこの嫌な感じを心は感じていないようだった。 

 一階にたどりつくと(心が一階と言ったのだから、ここは一階なのだろう)、そこには大きめの空間が広がっていた。そこはどうやら病院の玄関と受付を兼ねた空間のようだった。周囲は薄暗いままで、さっきまでいた病院の二階と闇の風景は変わらなかったが、遠くになにやら白い色が見えている場所が存在していた。それはどうやら窓のある場所のようで、見えている白い色は外に降る雪の色だった。

 心は先ほどまで以上に周囲をきょろきょろと見渡しながら慎重に、なるべく音を立てないようにゆっくりと行動するようになった。一階に降りても心が歩くたびに、ぎい……、ぎい……という音がした。

 心はゆっくりとだけど、確実に闇の中に向かって歩いて行った。


 階段のすぐ近くには、こぢんまりとした古びた病院の待合室があった。受付の横には観葉植物が一つ置いてあった。その隣には電話があった。待合室の床には、誰も座っていない椅子がいくつか並んで置かれていた。視線を動かして玄関のほうを見ると、そこには暗い夜の闇があるだけで、その先に白い色は見えなかった。どうやら病院の玄関は病院の窓とは違って、『夜の時間には硬く、完全に閉ざされている』ようだった。

 真白は闇の中にぼんやりと見えるそれらの風景を観察することで、自分の意識を闇から遠ざけようとした。しかし、それはあまり意味のない行動だった。心が移動を続けると、それらの風景もすぐに見えなくなった。


 心はお散歩がとても楽しそうだった。だけど真白は嫌な感じがした。なにか心の奥底から湧き上がってくる不気味な感情の塊のようなものを感じていた。それは上の階にいたときも感じていた不気味さや不安といった感情に似たなにかだったのだけど、一階にやってくると、それは上の階にいたときよりもはるかに強烈な力を伴うようになっていた。

 びゅー、という冷たい冬の風が吹いた。真白はその冷たさに身を震わせた。そして真白は『死というもの』をまた思い出した。

 真白の体がまたぶるっと震えた。今度は風は吹いてはいなかった。

 ……これ以上はいけない。これ以上先に進んではいけないんだ。

 真白は心の中でそう叫んだ。でも、それは実際の声にはならなかった。実際の真白はただ、心のコートの中で、小さな体を震わせているだけだった。

 心が歩くたびに、ぎい……、ぎい……、という音がした。

 それはまるで、目に見えない死神が、真白たちを死の国に連れて行くために、近づいてくる足音のようにすら真白には思えた。


 びゅー、という風の音が聞こえた。

 ぎい……、ぎい……、という心の足音が聞こえた。

 壁伝いに移動する心は少しでも明かりを求めて窓のそばを歩いていた。見上げると、空に舞う白い雪の色が見えた。

 びゅー、という風の音が聞こえた。

 ……この風はいったい、どこから吹いてくるのだろう? という疑問を真白は思った。どこか病院の窓が開けっ放しになってるのだろうか? 雪が降っているのに、誰もそのことに気がついていないのだろうか? それともこの風は、もっと『別の場所』から吹いてくる風なのだろうか?

 ぎい……、ぎい……という心の歩く足音が聞こえた。

 真白はだんだんと気持ちが悪くなっていった。今にもこの場所から逃げ出したいと思った。でも、逃げる場所なんてどこにもなかった。

 ……びゅー、という風の音が聞こえた。

 その音はやはりどこか遠い世界から聞こえてくる音のような気がした。それはまるで悪魔の吹く笛の音のようだった。その音を聞いていると、なんだか次第に、真白の頭の中は混乱をし始めた。

 ……そして、『それ』は、その認識のすぐあとに、なんの前触れもなく、『突然』、やってきた。

 それは、本当に唐突な出来事だった。


 心の顔がいきなり、……『ぐにゃ』と溶け出した。世界が歪んで見えた。

 意識が朦朧とした。

 ……なにか、……たくさんの、……残像のような、いろんな無秩序で断片的なイメージが、真白の頭の中に飛来した。

 その無秩序で断片的なイメージの洪水に流されるようにして、……真白はそのまま、頭をくらくらとさせながら、まるで眠るようにして、心のコートの中で気を失った。


 誰にも言えないあなたの夢が、いつか必ず叶いますように。


 気がつくと、真白の意識は闇の中に一人ぼっちで放り出されてしまっていた。ここにはもう、誰もいない。本当に、誰も、ただの一人も存在しない空間だった。

 闇がぐにゃぐにゃっとうねりだし、それはある一つの形をとった。それは猫の形。闇の中に一匹の黒い猫がいた。

 それが今の真白だった。真白は空虚な意識となって、黒い猫になった真白自身と対面していた。

 その猫は緑色の瞳から涙を流していた。真白は夢の中で、自分自身から意識を手放すことによって、そうすることでようやく今になって、……『いつも自分は泣いていたのだ』、ということを理解することができた。

 それができたことが、真白は、……とても嬉しかった。


「やあ、こんにちは」

「こんにちは」

 真白は言った。

「ようやく、気がついてくれたんだね」気がついた? いったいなんのことを言っているのだろう? 真白は疑問に思った。

「君は意地っ張りだね」

「意地っ張り?」

「意地っ張りだよ。ずっと、ずっと我慢してきたんだからね」その声はどこか笑みを含んでいた。真白は馬鹿にされたような気がして、その声にむっとした。


「僕は我慢なんてしていない」そうだ。僕は我慢なんてしていない。

「ふふ、もしかして、怒った?」

「怒ってない」

「そうかな? 僕には怒っているように見えるけどな?」

 真白はもう一度「怒ってない」と少し強い調子で声に言った。

「わかったよ。そういうことにしておくよ。君は怒っていない。今はそれでいいんだね」

 声は明らかに真白をからかっていた。真白は声のことが少し嫌いになった。だから言葉をしゃべることをやめた。真白はずっと黙っていることにした。

「僕は君とお話をしにきたんだよ」真白は言葉をしゃべらなかった。

「これはとても大切なお話なんだ。君にとっても、もちろん、僕にとってもね」真白は横目でちらっと声の様子を伺った。声はじっと、真剣な眼差しで真白を見ていた。声の目はとても澄んでいて、綺麗で、どこか優しい感じがした。

「僕は君が大好きなんだ」真白は黙っている。

「君は僕のことが嫌いなのかい?」

「好きでも、嫌いでもないよ」と真白は声に言った。声は真白が会話をしたことで、とても嬉しそうな顔をした。

「世界を救ってみないかい?」

「世界?」

「そう。世界」と声は言った。

「救わない」と真白は言った。

「どうして?」

「この世界が嫌いだから」それは本当のことだった。真白は世界が嫌いだった。

「君はこの世界が本当に嫌いなのかい?」

「嫌いだ」と真白は答えた。

「この世界のどこが嫌いなんだい?」

「全部」と真白は答えた。

 すると声は優しく微笑んで、それからそっと空を見上げた。

「ほら、空を見てごらん」

「空?」真白は声の言う通りに空を見上げた。するとそこには、いつの間にか満天の星空が広がっていた。

「綺麗だね」と声は言った。

「うん」と真白は答えた。

 その風景は本当に美しかった。たくさんの星と少しだけ青みがかった透明な夜がそこには広がっていた。それはきっと冬の夜だ。星座の位置と形で、真白にはそれがわかった。


「宇宙は好き?」

「好き」

「宇宙のどこが好き?」

「綺麗なところ」

「君は優しいね」

「優しくないよ」と真白は言った。

「全然、ちっとも優しくない」と真白は言った。

 声は足を組み、その膝の上に両手を乗せてから、横目で真白の顔を見た。それが真白には声の姿を見ることもなくわかった。真白は宇宙から視線を移して、声の顔に目を向けた。

「ずっとさ、こういう時間が続けばいいよね」

「うん」

 真白は声の言う通りだと思った。ずっとこの時間が続けばいいと思った。だけど、ずっとは続かないということも知っていた。夜は明けるのだ。どんなに美しい夜でも、必ず夜は終わってしまう。どんなに美しい夜にも、夜明けが訪れてしまうのだ。太陽が顔を出せは、夜はあっという間に消えてしまう。それに抗うすべはない。

「ねえ、あそこを見て」

 真白は声の指差す方向に目を向けた。それは遠い遠い宇宙の果てだった。そこにはきらきらと輝く一筋の白い光の線があった。それはどうやら宇宙を漂う一つの彗星のようだった。

「あれの名前、知ってる?」

「知らない」

「あれはね、『サイレント彗星』っていうんだよ」

「サイレント彗星?」

「そう、サイレント彗星。質量を持たない不思議な彗星。ずっと、ずっと誰にも見つかることもなく宇宙を漂い続けている孤独な彗星の名前。それがサイレント彗星なんだ」と声は言った。

「サイレント彗星」と真白は呟いた。

 真白はサイレント彗星を見つめた。彗星は星々の中で、ひときわ大きく輝いて見えた。それは、とても綺麗な彗星だった。あんな彗星の存在を誰も気がつかないなんてことがあるのだろうか? と真白は疑問に思った。

「でも、今君が見つけた。だからあの彗星は、もう『サイレント彗星』じゃないんだ」

「え?」

 その言葉を聞いて真白は声のほうに目を向けた。でも、もうそこに声の姿はなくなっていた。声はいつの間にか真白のそばから消えてしまっていたのだ。真白は、……真白のそばから声がいなくなってしまったことを悲しいと思った。

 宇宙には彗星が、そして地上には真白一人が残された。


「……猫ちゃん?」

 その声で真白の意識は覚醒した。真白は二、三回瞬きをしてから、周囲の様子を伺った。世界は真っ暗な闇に包まれていた。びゅー、という冷たい冬の風が吹いた。でも、体はそれほど寒くはない。なぜなら真白の体は心の体温によってしっかりと守られていたからだ。

「猫ちゃん、大丈夫?」

 心は心配そうな顔で真白を見ていた。真白はこのときも瞬きをした。それから心の顔をじっと見つめた。二人の視線が重なった。やがて真白はその場で小さなあくびをした。

「ふふ。猫ちゃんはお眠なんだね」と、どこか安心したような顔で心が言った。

 ……お眠? 僕はいつの間にか眠っていたということなのか? 真白はぼんやりとする頭の中でそんなことを考えた。……では、先ほどの経験は夢? ……僕は夢の中で夢を見た、ということなのか? ……意識の、無意識の、そのまたもっと深い場所まで、僕の意識は沈み込んで行ったということなのだろうか?

 ……よく、わからない。

 首をぐるりと動かして世界を見ると、一箇所だけ、そこに白い色が混ざって見えた。それは窓の外に降る雪の色。だからあそこには窓がある。そして反対側の闇の中には薄っすらとだけど階段が見えた。上と下に続いているあの階段だ。


 よく観察してみると、心は丸椅子に座っていた。あの、休憩室の丸椅子だ。なにもかもがあのときと同じ。真白は一瞬、自分が過去にタイムスリップでもしたのかと錯覚した。しかし、そんなことはありえない。なら、真白と心がここにいる理由は一つだけ。つまり心が自分の足で一階から階段を上がってこの場所まで戻ってきたということだ。その間、真白はずっと眠っていたのだろう。眠っていて、あの不思議な夢を見ていたのだろう。

「猫ちゃん。ごめんね。私、猫ちゃんがお眠だって気がつかなかった」

 心は真白にそう言って謝ったが、真白は別に怒ってはいなかった。真白自身、自分の眠気に気がついていなかったのだから、それは当然のことだった。

「今日は、もう帰ろうね」

 そう言って心が丸椅子から立ち上がったとき、ぎい……、ぎい……、という嫌な音が聞こえた。それは階段の上のほうから聞こえてきた。その音を聞いて、心はぴたっと動きを止めた。

 ぎい……、ぎい……。

 しばらくして闇の中に突然、小さな明るい光が出現した。それはおそらく手持ちライトの光だろう。光は上の階からやってきた。心はとっさに丸椅子の後ろに体を丸めてその姿を隠そうとした。しかし、隠れるにしては丸椅子は小さすぎた。光に照らされて仕舞えば、心の存在は一発でばれてしまうだろう。


 光は闇の中をふらふらと彷徨い、やがて闇の中で丸まっている心の体を捉えようとした。心はぎゅっと、その体を縮こめた。

 その瞬間、真白は心のコートの中から飛び出した。

 すると光はすぐに闇の中を動いた真白の気配に気がついて、真白の小さな体をその光の中に照らし出した。

「猫?」と女性の声がした。 

 周囲は真っ暗で、しかも一瞬だったので、その顔まではわからなかったのだけど、その人はこの病院の看護婦さんのようだった。

 もしかしたら秋子さんか、あるいは冬子さんだったのかもしれない。

 とにかく真白は闇の中を心の病室とは反対方向に向かって走り出した。

「あ、待って、猫ちゃん」と看護婦さんは言った。

 それから真白は寒くて暗い病院の廊下を風のように走り抜けた。走って、走って走り続けた。後ろからはぱたぱたという音がした。看護婦さんが真白を追いかけて走ってくる足音だ。

 すると、それから少しして、真白は行き止まりの壁に突き当たった。どうやらこの病院はコの字型やロの字型ではない、L字型の、もしくはI字型の作りをした建物のようだった。

 行き止まりの壁のすぐ手前でくるりと回転すると、真白は壁を蹴って加速をつけて、今度は自分を追いかけてくる光に向かって、……思いっきり突進した。

 看護婦さんとのすれ違いざまに「きゃ!」という声がした。

 しかし真白はそんな声には構わずに暗い廊下の上を走り抜けた。そして階段の前まで戻ってくると、そこには心がいた。

「猫ちゃん」と小さな声で心が言った。

 真白は両手を広げている心の胸元に飛び込んだ。

 心は真白をしっかりと受け止めると、すぐにこちらに向かって戻ってくる光から逃げるようにして、寒くて暗い病院の通路を、いつもよりも少しだけ急ぎ足で、一生懸命、駆け抜けていった。


 自分の病室の前までたどり着いたところで、「くしゅん!!」と心がくしゃみをした。それから心は大きく鼻をすすった。

 そのくしゃみで心の存在がばれたかと思ったが、どうやらあの看護婦さんは真白を追いかけることを諦めたらしく、光は闇の中を下に向かって移動していて、そのころには周囲に人の気配はなくなっていた。

 真白は心に「にゃー」と鳴いて、大丈夫かと尋ねた。

「心配してくれているの? ありがとう、猫ちゃん。でも大丈夫だよ」と笑いながら心が言った。

 心は笑顔でごまかしているが、その体はかすかに震えていた。どうやら体を冷やしてしまったようだ。習慣になっている行動だとはいえ、あの寒さの中を出歩いたのだから、無理もないことだと真白は思った。普段の心がどんな風にお散歩をしているか、真白にはわからないけれど、どうやら今日の心はいつもよりも少し無理をしてしまったようだ。

「それよりもさっきの猫ちゃんはすごかったね。おかげで助かっちゃった。ありがとうね、猫ちゃん」と言って心は真白の頭を撫でると、それからそっと病室の扉を開けて、暖かい部屋の中に移動した。

 真白は心の小さな子供用のコートの中から飛び出してテーブルの上に乗り、心はコートと厚手のマフラーと手袋を脱いでそれらを壁の出っ張りに引っ掛けた。それから心はストーブの炎を少し強めにして、すぐにベットの上で横になった。


「おやすみなさい。猫ちゃん」

 そう言うと心はいつものようにすぐに眠りについてしまった。

 一人ぼっちになってしまった真白はテーブルから心の眠るベットの上に飛び移ると、いつものように心の胸の上に移動した。そしてそこから心の顔をじっと見つめた。心は相変わらず死体のような顔をしていた。そして窓の外では相変わらず雪がずっと降り続いていた。

 いつもと変わらない風景がそこにはあった。雪は弱くはなったけど、結局、雨には変わらなかった。窓の外には枯れた柳の木があった。それをじっと見ていると、まるで真白が枯れた柳の木を見ているのではなく、枯れた柳の木に真白がじっと見られているような、そんな不気味な気持ちになった。

 真白は視線を心の病室の中に戻した。

 真白は瞳を閉じてみた。

 そして、自分が眠ることができるのか、試してみることにした。真白はとても長い間そうしていた。かたかたとなる窓の音。ごーっという燃えるストーブの中の炎の音。そんな音を聞きながら暗闇の中でじっとしていた。しかし、真白は眠ることができなかった。真白の中からは眠気というものがやっぱり消えていた。真白は眠りたいなんてこれっぽっちも思わなかった。

 瞳を開けて、柱時計を確認すると、時計の針は一の数字の辺りを指していた。病室を出てから、約一時間が経過していた。心が目覚めるまでは、あと七時間もある。真白は昨日と同じように、このまま心の胸の上に居座って、心の死体のような寝顔と窓の外に降る雪を交互に眺めながら、時間が経過するのを待つことにした。猫になっても、夢の中でも、人間のときと同じように、一人の夜は長く、そしてとても孤独だった。


 ……ありがとう。あなたに会えて、私、本当によかった。


 ……とんとん、という音が聞こえた。

 その音を聞いて、真白は閉じていた瞳を開き、その視線を病室の扉に向けた。柱時計の示す時刻は八時。それは心が目覚める時間だった。がらっという音がして扉が開くと、そこから大麦先生と一人の看護婦さんが病室の中に入ってきた。

 大麦先生は真白を見るなり、「ふんっ」と鼻を鳴らして嫌そうな顔をした。看護婦さんも同じような顔をして真白を見ていた。だからこの女性はきっと冬子さんだろうと真白は予想した。

 大麦先生は丸椅子に腰掛けた。冬子さんはベット脇に移動して「心ちゃん。起きて。診察の時間だよ」と、心を深い眠りから目覚めさせる呪文を言った。心はぱちっと両目を開けてすぐに目覚めた。そして昨日と同じようにみんなの顔を順番に見てから、「おはようございます」と朝の挨拶を順番にしていった。

 心は看護婦さんのことを冬子さんと呼んだ。真白の予想は当たっていた。

「心ちゃん。今朝の気分はどうだい? どこか痛いところとか、変だなと感じるところはないかい?」

「……いえ、とくにありません」

 そんな会話をしながら、朝の診察が始まった。とくに何事もなく経過すると思われた診察だったが、不意に大麦先生の顔色が変わった。そしてクリップボードに挟まれた心のカルテを見ながら、冬子さんと小声でひそひそと内緒話を始めた。心はそんな二人の様子を心配そうな表情で見つめていた。

「心ちゃん。大丈夫よ。別に大したことじゃないわ」冬子さんは心の視線に気がついたようだ。


「ただ、今朝は少し数値が高いね。だからいつものとは違う、特別なお薬を服用してもらうことになるけど、心ちゃん、飲んでもらえるかな?」

「……はい。大丈夫です。宜しくお願いします」と心は妙に神妙な態度でそう言った。その数値が高くなってしまった原因が昨日の真夜中のお散歩にあるということを心は自覚しているのだろう。心は反省しているのだ。

 診察が終わると大麦先生と冬子さんは笑顔で病室を出て行った。二人がいなくなると心は「はぁ~」と大きなため息をついた。「特別なお薬って、とっても苦いの。……飲むのやだな」と心は言った。「ま、しょうがないか。元はといえば、私の不注意のせいだもんね」そう言って心は笑顔になった。

 とんとんと病室の扉がノックされた。

 そこから入ってきたのはトレイを持った秋子さんだった。

 心が名前を呼ぶ前だというのに、その看護婦さんが秋子さんであることが、なぜか真白にはなんとなく理解することができた(自分でも不思議だったけど、でも、心の言った通り慣れるとそういうことは、自然とわかるようになるのかもしれない)。

「おはよう、心ちゃん」

「おはようございます。秋子さん」と秋子さんと心は朝の挨拶をした。

 挨拶を交わした二人は、それからとても楽しそうに微笑んだ。看護婦さんはやっぱり秋子さんだった。

「おはよう、猫ちゃん」と秋子さんは真白にも朝の挨拶をしてくれた。真白は「にゃー」と鳴いて秋子さんに朝の挨拶を返した。秋子さんは二人の朝ごはんを机の上に置くと笑顔で病室をあとにした。心はベットから這い出して、朝ごはんを食べる準備を始めた。真白も机の上に移動した。


 いただきます、をして朝ごはんを食べていると、途中でとんとんとドアがノックされた。病室の中に入ってきたのは冬子さんだった。その看護婦さんが冬子さんであることが、秋子さんのときと同じように、なんとなく真白には理解することができた。

 心と冬子さんが挨拶をして、その看護婦さんがやっぱり冬子さんであることがわかった。二人の見分けがつくようになったことは真白の思い違いではなかった。秋子さんと冬子さんの判断ができるようになって、真白はなぜかすごく嬉しかった。

 冬子さんは手に錠剤の入った瓶を持っていた。これが特別なお薬というやつなのだろう。心は「ありがとうございます」、と言っていたが、その表情は少しこわばっていた。冬子さんは「いつものお薬は今日は飲まなくていいからね」と言い、それからその特別なお薬の服用の仕方や使用量などを心に説明してから、やはり笑顔で病室をあとにした。

 冬子さんの説明の中には薬は口の中で噛むこと、というものがあった。変な癖だな、と思っていた心の薬の飲みかたはどうやら正式な服用方法だったようだ。

 ごちそうさまをしたあと、心は冬子さんの説明の通りにその薬を服用した。赤い錠剤を四粒、心は口の中に放り込み、ぽりぽりと音を立ててそれを口の中で噛み砕いた。心はとても嫌そうな顔をしていた。水を飲み、一息つくと、心は真白に「やっぱりこれ、嫌い」と言って、真白に舌を出して見せた。心のピンク色の舌は、ほんのりと赤い色に染まっていた。それはまるで夏の蒸し暑いお祭りの夜の日に、神社の屋台で買った赤い色のシロップのかかったかき氷(きっと、いちご味か、りんご味だろう)を食べたあとのような舌の色だった。真白はメロン味のかき氷が好きだから、その場所にもし真白がいたとしたら、きっと真白の舌は緑色に染まっていただろう、とそんなことを考えていると、真白の三角形の形をした耳には、どこか遠いところから、夏の日の夜の祭り囃子の音が聞こえてくるような気がした。

 心は丁寧な歯磨きをしたあとで曇った鏡の前に立つと、そこで大きな、いー、をした。歯磨きは完璧だったようで、鏡の中で心は満足そうな顔をする。


 それから心はベットに戻り、眠りにつこうとした。そこで心は「猫ちゃん。一緒に寝よ」とベットの上から真白を手招きした。真白は心の提案を受け入れて、心の元まで移動した。「ふふ、猫ちゃんはあったかいね」心は真白をまるでぬいぐるみのように抱きしめて、真っ白な毛布をかぶって眠りについた。

 心は眠ってしまうとぴくりとも動かなくなった。真白はそんな心の胸の中でとりあえず目を閉じた。そして最初から眠れないことはわかっていたので、真白はずっとその場所で心の『小さな心臓』の鼓動の音を聞いていることにした。

 とくん、とくん、という心臓の音は、真白に安心感を与えてくれた。

 途中、その音にとんとん、というノックの音が混ざり、それからさらにがらっという扉を開ける音が混ざり込んだ。真白は心の毛布の中にいたのでそれが誰かはわからなかったけど、きっと秋子さんか冬子さんのどちらかが、食器を下げにやってきた音だと真白は予想した。柱時計の針はきっと十二の数字を指しているのだろう。暗闇の中にいても、それがわかるくらいには、真白はこの不思議な世界に慣れ始めていた。

 時間はさらに経過して、再びとんとん、というノックの音が聞こえた。がらっという音がして扉が開き、誰かが病室の中に入ってきたことが感じられた。


「心ちゃん、起きて」

 女性の声がして、心の体がぴくりと反応した。心は体を起こし、真白も久しぶりに闇の中から抜け出した。「なんだ。姿が見えないから、いなくなったのかと思ったがそこにいたのか」大麦先生は毛布の中から現れた真白を見て嫌そうな顔をした。真白はそんな大麦先生を無視して柱時計を見た。針は六の数字を指していた。

「おはようございます、大麦先生」

「おはよう、心ちゃん」

「おはようございます、秋子さん」

「うん。おはよう、心ちゃん」

 そんな挨拶を交わしたあとで、心の本日二回目の検査が始まった。検査自体はいつもと同じ簡単なものだったが、今回の検査はいつもよりも随分と時間をかけて行われ、しかも同じ検査を数回繰り返して、その正確な数値が複数にわたって、クリップボードに挟まれた紙に記入されていった。検査が長引いたせいなのか、それとも体調があまり良くないのか、検査の間、心はひどく眠そうな顔をしていた。

 検査が終わると大麦先生は心に今朝と同じ量の薬を飲むように言った。心は大麦先生に「わかりました」と返事をして、大麦先生と秋子さんは笑顔で病室を出て行った。

 大麦先生と秋子さんが出て行ったあとも心はどこか眠そうにしていた。言葉もしゃべらずに、なにもない空間をただぼんやりと眺め続けていた。しばらくして心と真白はまた二人でベットの中に潜り込んだ。

 とんとん、と扉をノックする音が聞こえた。がらっという音がして扉が開いて、そこからトレイを持った看護婦さんが一人病室の中に入ってきた。その看護婦さんは冬子さんだった。

 冬子さんは夕食をトレイの上に乗せていた。献立はほとんど昨日と同じものだったけど、今日のフルーツのお皿は輪切りにしたバナナだった。

 心は真白と一緒に夕食を食べ、特別なお薬を飲み、歯を磨いて、ベットの中でまた深い眠りについた。心はこのときも真白をベットの中に呼んだ。真白はまた心のベットの中に潜り込んだ。


 びゅー、という窓の外に吹く風の音が暗闇の中で妙に鮮明に聞こえた。

 それから真白はかなり長い間、その風の音に耳をすませながら、まるで息をひそめるようにして、目を閉じて、もう一度、あの不思議な声の夢の続きを見ることはできないかと努力してみた。でも結局その行為は失敗して、真白の意識の中にはずっと真っ暗な闇が存在しているだけだった。

 真白は試しにその闇の中で「こんにちは」と言葉をつぶやいてみた。でも闇の中から「こんにちは」と返事は返ってこなかった。その闇の中にどうやらあの不思議な声の主はいなかったようだ。真白はそのことに寂しさを覚えた。 

 それからどれくらいの時が流れたころだろう。そんな真白の静かな世界の中に、突然、ぽーん、ぽーん、という音が侵入してきた。

 目を開けてベットの中から這い出した真白が柱時計の針の位置を確認すると、それは十二の数字のところを指していた。……また『真夜中の時間』がやってきたのだ。

 真白はその場で背筋を伸ばして座りなおすと、それからそっと下にいる心の顔を見下ろした。次の瞬間、心はうっすらと両目を開けた。

「……おはよう、猫ちゃん」と心が言った。真白は「にゃー」と小さく鳴いた。

 真白の声を聞いてにっこりと微笑んだ心は、ベットから這い出ると、病室の中をとことこと歩いて移動して、壁にかかっている小さな子供用のコートと厚手のマフラーを背伸びをしながら手に取った。どうやら心は今日も真夜中のお散歩に出かけるつもりのようだ。大麦先生の注意なんて、心はまるで気にしていないようだった。

「猫ちゃん。おいで」と心は言った。

 真白は心の腕の中にジャンプをして飛び込んだ。心は真白をしっかりと受け止めてくれた。「じゃあ、今日も元気に出発しようね」と心は言った。真白は心に「にゃー」と鳴いて返事をした。


 心は昨日と同じように慎重に開いた出入り口の扉から暗い廊下にその小さな顔だけを出して、きょろきょろとあたりを見渡して誰もいないことの確認をした。それが終わると冷たい廊下に出て、両手を使って慎重に病室の扉を閉めた。相変わらず、がちゃという音はしたが、その音が消えてしまうと、闇の中に残ったものは外に吹く風の音だけになった。廊下は冷たい空気で満たされていた。真白はいつの間にか、真白の指定席となった心のコートの中にいて、その胸元のあたりから顔だけを外に出していた。外の冷たい空気に真白はぶるっとその体を震わせた。すると心はなにも言わずにコートの上から真白の体を一度、両手でぎゅっと抱きしめてくれた。

 真白はその心の行動がとても嬉しかったのだけど、そのあとで「猫ちゃんはあったかいね」と心が言ったので、真白を抱きしめることは心にとっても多少はメリットのある行為だったようだ。

 暗い夜の中を病院の廊下の壁に手をつきながら、心はゆっくりとした足取りで進んでいった。病院の廊下は相変わらず完全に闇に閉ざされていた。そしてその廊下は、やはりとても長く、まるで永遠に闇の中に続いているかのように真白は感じた。

 ぎい……、ぎい……、という心の足音は、……びゅー、という風の音にすぐにかき消されていった。


 真白たちはそのまま何事もなく、下と上に続く階段の反対側にある休憩所までやってきた。「よいしょっと」と心は言って、昨日と同じ丸椅子に腰を下ろした。「ふふ、昨日はちょっと大変だったけど、すごく面白かったね、猫ちゃん」と心は言った。心は昨日の追いかけっこのことをとてもいい思い出として自分の中に受け入れているようだった。

「でも、ああいうことが何度も続くと怒られちゃうし、大麦先生や秋子さんや冬子さんにも心配をかけちゃったばかりだから、今日はこのまま、ここでおとなしくしていようね」と心は言った。どうやら心は今日は階段を上にも下にも登らずに、この場所で真夜中のお散歩を終えることにしたようだ。真白はその提案を受け入れて、小さな声で「にゃー」と鳴いた。

 周囲は闇。聞こえてくるのは風の音だけ。その風が死を連想させるほど冷たい、ということを除けば、ここは天国のように居心地の良い場所だった。真白はこの休憩所のことを気に入った。

「静かだね、猫ちゃん」と心が言った。

 心は椅子から投げ出した両足をぶんぶんと小さく動かしながら周囲の風景をきょろきょろと見渡していた。真白の目はだいぶ闇に慣れてきて、うっすらと病院の風景が見えるようになっていたけど、心の目にも真白と同じような風景が見えているのかは、真白にはわからなかった。今の真白は人間ではなく一匹の猫だったからだ。


 真白は視線を休憩所の前方にある下と上に続く階段に向けた。心はこの階段を『いつも上に行く』と言っていた。真白はとくに考えがあったわけではないけれど、昨日、『自然と下に行く』ことを選んだ。

 だから真白は今日は上に行ってみてもいいかな? と心の片隅で少しだけ思っていた。その思いが実現しなかったことが少し残念だったけど、それは明日、そうすればいいと真白は思った。

「猫ちゃん。見て! 見て!」と心が言った。真白が心のほうを振り返ると、心の指は休憩所の背後にある大きな窓ガラスに向けられていた。

 正確に表現すると、その指は窓ガラスの向こう側に『光る、一つの星』に向けられていた。……真白は、その光を見て驚いた。

 ……闇の中に、確かに光があった。……雪は、いつの間にか止んでいた。空を覆っていた雲は、いつの間にかなくなっていたのだ。闇の中で光る真白の緑色の瞳は二つとも、その驚きで大きく見開いていた。心は真白の驚きを感じ取り嬉しそうにはにかむと、「よいしょっと」といって丸椅子から立ち上がり、それからゆっくりと歩いて、真白を窓ガラスのすぐ近くまで連れて行ってくれた。その移動の間も、真白の緑色の二つの瞳は一瞬もその光から離れることはなかった。

「綺麗だね、猫ちゃん」と心は言った。その光は本当に綺麗だった。

 心はコート越しに真白の体を下から軽く持ち上げてくれて、真白の瞳に星の光がよく見えるようにしてくれた。窓ガラスは透明で、その先にある夜空がよく見えた。不思議なことに、星は、あの輝く星の他には一つも出ていなかった。周囲を見渡してみると星だけではなく月もなかった。深い夜の闇の中にあの星だけがとても綺麗に輝きを放っていた。

 ……夜は、あの星のためだけに存在していた。


「猫ちゃん。あの星はね、『きらきら星』っていうんだよ」と心が言った。……『きらきら星』、と真白は心の中でその言葉を反芻した。

「お母さんが教えてくれたの。このあたりではね、たまにね、たった一つの星だけが夜空に輝く夜があるんだって。その夜に輝く星のことをね、きらきら星っていうんだよ」と心は言った。……夜空にたった一つだけ輝くきらきら星、と真白は心の中で、その言葉をさっきと同じように繰り返した。それはとても不思議な星だった。それは……、とても、……とても綺麗な星だった。

「えっとね、きらきら星はね。なかなか見られないんだよ。だからね、それは『幸運の星』って呼ばれているの。私ね、まだお母さんがこっちにいてくれたころはね、二人でどっちが先にきらきら星を見つけられるか競争してたの。だから私ね、夜になるとね、いっつもきらきら星を探しにね、病室を抜け出して、こうしてお散歩をしてたんだ。そうやってきらきら星を見つけてね、お星様にお願いするの。どうか私を、『お母さんとお父さんのところに連れて行ってください』って。それが私のたった一つのお願いごとなんだ」心はそう言ってから、にっこりと笑うと、それから、そっと真白の頭を右手で優しく撫でてくれた。

「だけど今日は猫ちゃんに譲ってあげるね。私はお願いごとをしないから、今日は猫ちゃんがお願いごとをしていいよ」と心は言った。


「私はあとでいいんだ。きっとまたきらきら星を見つけられる。実は今までずっと探してきたんだけど、ずっと見つけられなかったの。でもね、今日は見つけられたね。猫ちゃんのおかげだね。猫ちゃんを見つけて、きらきら星を見つけた。きっと猫ちゃんは『幸運の猫ちゃん』なんだね。だからいいよ。猫ちゃん」と心は言った。


 願いごと? と真白は言った。

 そう、願いごとだよ、と声が言った。

「猫ちゃんはきらきら星になにをお願いするの?」と心が言った。

 願いごと、と真白は言った。

 そう、願いごとだよ、と声が言った。君の願いを言ってしまいなよ。もしかしたらそれは言葉にすれば叶うことかもしれないよ、と声は言った。

 ……願いごと。僕が望んでいること。叶って欲しいと思っていること。それは……、口に出してはいけないこと……、と真白は思った。

 ううん。そんなことないよ、と声は言った。それは口に出していいものだよ。きちんと他の人に伝えてしまって、かまわないことなんだよ、と声は言った。

 ……その言葉を聞いて、……真白は、星に、『ある、一つのお願いごと』をした。


 そして、それが終わったことを心に告げるために、「にゃー」と小さな声で鳴いた。「お願いごと、終わったの?」と心が言った。真白はしばらくぶりに星の光から目をそらして、心の顔を見つめた。「うん。よかったね、猫ちゃん」と心は言った。……真白も、少し恥ずかしかったけど、星にお願いができてよかった、と思った。真白は星にお願いごとをする機会を真白に譲ってくれた心に、本当に感謝した。

「じゃあ、今日は少し早いけど帰ろうね、猫ちゃん」と心は言った。真白は本当はもう少し星の光を見ていたかったのだけど、心はくるりと身体の向きを変えて、ゆっくりと冷たい廊下の上を歩き出してしまった。星の光は見えなくなり、世界は再び真っ暗な闇に閉ざされた。


 ……なんだか、まだちょと眠たいね。


「……くしゅん!」と、その闇の中で心がくしゃみをした。大きなくしゃみだ。真白はその音につられて上を向いてみたのだけど、真白の目は星の光に慣れてしまっていたようで、その闇の中で心の顔をはっきりと見ることはできなかった。

 その病室までの帰り道、心はずっと寒そうに体を震わせていた。休憩所でじっとしていたことがいけなかったのか、どうやら心は今日も随分と体を冷やしてしまったようだった。真白が「にゃー」と小さな声で鳴いても、そのときから心はにっこりと笑うだけで、言葉を話したりはしなかった。

 心はいつもよりもさらにゆっくりとした足取りで病室まで戻っていった。病室の中に入ると、心の顔が真っ赤に火照っていることに真白は気がついた。もともと真っ白な顔をしているせいか、赤みがかった心の顔はいつもよりも正気に満ちているように見えた。実際に今の心の顔はロウソクでも雪でもなくて、きちんとした、『生きている人間の顔』に見えた。

 心は着ていた小さな子供用のコートと厚手のマフラーと手袋を脱ぐと、それらを壁の出っ張りにかけてから、とても小さな声で、「おやすみ、猫ちゃん」と言って、いつものようにベットの中に潜り込んで眠ってしまった。真白は少しだけ間をおいてから、病室の丸椅子とテーブルを利用して、心のベットに飛び乗ると、それから心の胸の上に移動して、そこに座った。


 眠っている心は死体のような顔をしていなかった。生きている人間の顔をしていた。呼吸も感じる。いつもは動かない心の胸も、今日は小さくだけど、上下に動いていることがはっきりとわかった。

 真白の鼓動はどきどきしていた。

 真白は窓の外に目を向けた。するとそこにはぱらぱらと小さな雪が降り出していた。夜空が晴れていたのはどうやら本当に、『ほんの一瞬の出来事』だったようだ。だから窓の外に星は、もう見えなくなっていた。

 ……もしかしたらあの星は、僕に与えられた最後の希望だったのかもしれない。

 あの星に向かって、『元の世界に戻りたい』と願えば、今頃僕は、元の世界で、いつもの見慣れたベットの中で、この長い不思議な夢から目覚めていたのかもしれない。

 再び暗い雲によって閉ざされてしまった、真っ暗な雪の降る冬の空を観察して、そんなことを真白は思った。

 真白の眺めている前で、雪は次第にその強さを増していった。

 後悔してるのかい? と声が言った。真白はなにも答えなかった。

 ずっと真白の耳に聞こえていた、びゅー、という外の風の音は小さくなり、今度は病室の中の音が大きく聞こえ始めた。ごー、という鉄製のストーブの中の炎が燃える音。それから柱時計の文字盤の上でかちかちという時を刻む二つの針の進む音。真白は視点をずらして窓ガラスに映る自分の姿を確認した。そこには一匹の黒猫がいた。黒猫は相変わらず緑色の瞳をしていて、じっと真白のことを見つめていた。

 それから真白は再び心の寝顔に目を向けた。その顔の上にぽつぽつと数滴の水滴が落ちた。

 一瞬、真白はそれは天井からの水漏れだと思った。

 しかし、それは水漏れではなかった。


 それは真白の目から溢れ始めた涙の粒だった。その自然に流れ落ちた自分の大粒の涙を見て、真白はとても驚いた。

(どうやら涙というものは一度流れ始めると、涙腺というやつがとても弱くなってしまうものらしい)

 真白は自分が涙を流していることが、なんだかとても嬉しくて、泣いているのに、にっこりと口角を上げて、声を出さずに笑ってしまった。こんなに自然に涙が流れることは本当に久しぶりのことだった。猫になってよかった、と真白はこのとき初めて思った。人間のときはずっと泣けなかったのに、猫になったら簡単に泣くことができた。

 真白は心の胸の上にうずくまると、そこで体を丸くしてそっとその二つの瞳を閉じた。

 真っ暗闇の中で真白はとくん、とくん、と小さな音を立てている心の心臓の音だけに、その意識を集中していた。いつの間にかそれ以外の音はなにも聞こえなくなっていた。

 真白の中にあるものは心の心臓の音が奏でるとても優しい、ゆったりとした音楽だけだった。真白はずっとその音楽を聞いていたいと思った。だから真白はずっと、ずっと、その心の心臓の音だけに自分の意識を傾けていた。

 それから少しの間(あるいは、もしかしたらずいぶんと長い時間が経過していたのかもしれない)、時間が流れた。

 すると、しばらくして、ぎー、という音が、やけにはっきりと真白の耳に聞こえた。

 それは心の病室のドアが開いた音だった。

 その音を聞いて真白はそっと目を開けて、開いたドアのほうに瞳を向けた。

 するとそこには『真白そっくりの、一匹の緑色の瞳をした黒い毛並みの猫』がいた。


 その自分そっくりの黒猫の姿を見たとき、真白は、『自分が何者であって、そして、なぜ自分が心という女の子と出会ったのか』、その理由がわかった気がした。

 黒猫。

 それは不吉な存在。

 そう。

 僕はきっと、(そしてあの僕を迎えにきたもう一匹の黒猫もきっと)世間でいう、『死神』と呼ばれる存在なのだ。

 黒猫は緑色の二つの瞳でじっと真白のことをドアの隙間のところから見つめていた。

 真白はその黒猫をじっと見つめ返した。

 すると黒猫はそのドアの隙間から、廊下の暗闇に、まるでその闇の中に溶けるようにして、移動した。

 真白にはその黒猫の行動がまるで真白に向かって「ついてこい」と言っているように見えた。

 真白はその黒猫について行こうとした。

 その瞬間、背後に奇妙な視線を感じて、真白は背後を振り返った。

 するとそこには窓があった。

 視線はその窓の向こう側から感じられた。

 真白がその視線を追っていくと、そこには病院の庭に立っている一本の枯れた柳の木があった。柳の木は雪の降る暗い夜の中から、じっと真白のことを窓越しに見つめていた。

 その柳の木を見て、「ああ、なるほど。僕を呼んでいるのは『あなた』なんですね」と今、起こっている不思議な現象の正体を理解した。

 真白は最後に眠っている心の顔を見つめた。

 死体のような顔ではなく、『生きている人間の顔』をしている心の顔。

 そんな心に向かって真白は「……さようなら」と心の中でつぶやいた。

 真白は猫になって、人間の言葉を失ってしまったことをこのとき、少しだけ後悔した。

(……でも、人生に完璧はないのだ。これくらいの後悔はむしろ、幸いと捉えなければいけないだろう)


 真白は心のベットから床の上に飛び降りた。

 そしていなくなった黒猫のあとを追って心の病室から真っ暗な、あの氷で作られているかのように冷たい冬の廊下の上に、移動した。

 真白が廊下に出ると、心の病室のドアは勝手に閉じた。

 それは、まるで目に見えない透明な人間がそこに立っていて、ドアを閉められない真白の代わりにドアを閉めてくれたような風景だった。

 真白は一度、外の世界の冷たさにその体をぶるっと震わせた。

 真白の世界は真っ暗になった。

 そんな真っ暗な闇の中に、ぼんやりと光る二つの緑色の瞳が浮かんでいた。

 やはり黒猫はそこにいた。

 それは真白の道案内をするためだった。

 冷たい廊下に出てきた真白を見て、黒猫は移動を開始したようだった。ぼんやりと光る二つの緑の瞳は見えなくなった。

 真白は真っ暗な冷たい廊下の上を、一人で、黒猫のあとを追って移動を開始した。

 ……びゅー、というとても冷たい風が吹いた。

 その風の冷たさに真白はその体をぶるぶると震わせた。

 真白は懸命になって四本の足を使って、冷たい廊下の上を歩き続けた。

 一人で歩く真夜中の病院の廊下は、心と一緒に真夜中のお散歩をしていたときとは比べ物にならないくらいに、……寒くて、……辛くて、とても厳しいものだった。

 黒猫は真白の予想通りに、休憩所のところにある階段を下に向かって降りて行った。

 真白も同じように階段を降りて病院の一階に移動した。

 一階にたどり着くと、今までよりも強くて、今までよりも冷たい冬の風が真白の周囲を突然、……びゅー、という音を立てて吹き抜けていった。

 それもそのはずで、よく見ると、『以前は固く閉じられていた病院の入り口の扉が片方だけ開きっぱなし』になっていた。

 そこから外の風と、あと外に降る白い雪が少し病院の玄関のところに入り込んでいた。

 黒猫はそんな病院の玄関のところにいた。

 そこからじっと、真白を見ていた。


 黒猫は病院の外に出た。

 真白は階段のところから移動して、病院の待合室を抜けて、さっきまで黒猫がいた玄関の前のところまで移動した。

 そして、開いているドアを抜けて、病院の外に黒猫を追って出て行こうとした。

 すると開いているドアのところから、まるで真白を病院の内側に戻そうとするように、外側から……びゅーと、とても冷たくて強い風が吹いた。

 ……真白はその風のあまりの冷たさに、その透明な風の中に、『死というものの存在』を感じた。

 白い雪が、その風の中で、まるで散る花びらのように舞っていた。

 真白は寒さで一瞬、体を動かすことができなくなった。 

 でも、真白はその風に負けずに、開いているドアを通って病院の外に出た。

 病院の外は真っ暗だった。

 雪が(真白が想像していた以上に)、とても強い勢いで降っていた。

 雪の降る闇の中に光る二つの緑色の瞳が、遠くから真白のことをじっと見つめていた。

 真白はとてもじゃないが、こんな強い勢いのある雪の中を歩いて、あの黒猫のいる場所まではいくことができないと思った。

 ……でも、不思議なことに、それから少しして雪の勢いがだんだんと弱くなり始めた。

 雪は小降りになり、真白はこれならなんとかあの黒猫のいるところまでいくことができると思った。

 真白は雪の中を歩き始めた。

 もう体の感覚はほとんど麻痺していて、あまり寒さなどは感じないようになっていた。だから四本の足の裏も、もう冷たいとは感じなかった。


 黒猫は再び移動を始めた。

 真白はその黒猫を追いかけて雪の中を歩いた。

 すると、ある地点で、黒猫は動きを止めて、後ろを振り返って真白を見た。

 そして「にゃー」と一度鳴いたあとで、まるで最初からそこに『黒猫』なんていなかったかのように、だんだんとその姿が透明になり、やがて黒猫は世界から、吹く風と一緒に消えていった。 

 真白が黒猫の消えた場所までたどり着くと、そこはあの心の病室の窓から見える枯れた柳の木がある場所だった。

 黒猫は柳の木の根元で消えた。

 真白はそこから枯れた柳の木を見上げた。

 柳の木は、近くで見ると思ったよりも、ずっと大きな木だった。

 柳の木のもっと、もっと、高い場所にあるはるか上空からは、ちらちらと白い雪が降ってきた。

 ……疲れた。

 と、真白は思った。

 そして真白はその場所にゆっくりと、体を丸くして、座り込んだ。

 真白は、真白が思っている以上に、とても疲れているようだった。

 真白には、なんだかいろんなことが、この不思議な夢の世界での出来事が、理解できるような気がした。

(でも、その気持ちは、すぐに真白の中から消えて、なくなってしまった)

 ……そうか。ここが僕の夢の終わりの場所か。

 そんなことを真白は思った。


 真白は、ゆっくりと目を閉じた。


 それから真白は不意に、……とても、……とても強烈な眠気を感じるようになった。人の意思では到底抵抗することができないような強烈な眠気だ。それはまるで、ずっと真白の中に溜まっていた眠気が、ダムの水のように一気に放出されたかのような、そんな強い眠気だった。

 真白は、その眠気に対抗しようとした。……しかし、それは儚い抵抗だった。

 真白は冷たい雪の降る枯れた柳の木のしたで、猫になった不思議な夢の世界の中で、……もう一度、……深い、……深い眠りについた。


 すると、世界が暗転し、真白はとても大きな、暗く、そして深い穴の中に、一瞬のうちに落ちていった。真白は、もしかしたらここで自分の意識がなくなってしまうのではないかと思った。この夢の中で真白の意識は暗い闇の中に溶けてなくなってしまうのではないかと直感したのだ。

 それくらいに闇は深く、広大で、そしてとても冷たかった。……でも、それも仕方のないことだと真白は思った。本当はもっと前に、きっと、あのとき、心に見つけてもらわなければ、あの冷たい真っ暗な廊下の上で真白の命は終わっていたはずなんだから……。

 そう考えると、不思議と悪い気分はしなかった。もちろん、それなりに恐怖はあった。でも、どこか誇らしい気持ちもあった。それはきっと『心のおかげ』だ。真白の命は心によって救われて、……しかも、……それだけではなくて、真白は心に『命の意味』を与えてもらった。そのことに真白はこの瞬間に、始めて気がついた。きっと、『僕の命はこの夜のため』にあったのだと真白は思った。

 その思いが(……もしかしたらそんな真白の思いは、ただのひとりよがりな勘違いかもしれないけれど……)、その『小さな誇り』が、真白に『勇気』を与えてくれた。それは嘘でも強がりでもなくて、真白のまぎれもない本心だった。

 だから真白は、それでいいと思った。


 緩やかな浮遊感。……落ちている、というよりは沈んでいるという感じだ。

 それから真白の脳裏に浮かんだ顔は、見慣れた心の寝顔だった。真白の思い出の中で、心の顔は相変わらず死体のような顔をしていたけど、でも、きっともう大丈夫だ。実際の別れ際の心は、生きた人間のような顔をしていたし、それに心はああ見えて、とても強い女の子だし、大麦先生や秋子さん、冬子さんという、心強い大人たちが、ずっと心のそばについている。だから真白は、もう会うこともない心の心配なんてちっともしていなかった。

 闇は深く、真白の体はその冷たい緩さの中をゆっくりと下降していく。

 その途中で、真白は『自分に人間の手足がある』ことに気がついた。闇を下降していく間に、真白はいつの間にか、『一匹の黒猫から一人の人間に戻っていた』。すると、今度は不思議なことが起こり始めた。

 人間のころの真白の記憶がだんだんとしっかりし始めて、それに反比例するようにして、猫だったころの真白の記憶が曖昧になっていった。……真白の中から、強制的に、真夜中の病院での記憶が、……大麦先生の記憶が、……秋子さんや、冬子さんたちの記憶が、……そして、心の記憶が消えていく。

 真白の中から失われていく。

 なくなっていく。

 真白はそのことを、このとき、……素直に悲しいと思った。


 真っ暗 まっくら 終わり

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