Napoleonism

火植昭

Napoleonism

 村雨が過ぎ去っても雨音が鳴りやまないので、道端の犬は身をふるってそれを払いのけている。それを見た少女は、つられて傘を前後にはためかせ、傘で見えなくなった足元の水たまりを飛び越えた。彼女の周りでは数多の蜻蛉が低空を舞っていたが、やがて上昇し、力を出し尽くして散っていった。虹のない空に、金青の空間が幾重にも層をなしていた。



「何があっても、君は僕だけの王だ」

 ある日突然、武(たけし)は私にそう言いました。急行列車の足音がとどろく、赤みがかった踏切の前でのことでした。


 武とは幼稚園からの中で、お互いの両親も親交が深く、家族ぐるみで夕食や小旅行などへ幼い頃はよく行ったものでした。高校生になった今でも、定期的に顔を合わせたりします。というけれど、顔を合わせるも何も、私たちは同じ高校に通っているのですから、週に二、三度は彼と学校の廊下ですれ違いますし、帰りの電車を待つ駅のプラットフォ―ムで英単語帳を見つめる彼を、電車のドアが二つ分離れた待機列からそっと眺めるようなこともあるのでした。

 彼のことは、一般的な幼馴染だと思っていました。親交が深いからと言って普段から特別仲が良いというわけでもなく、顔を合わせるたびに何気ない会話を、一種の儀礼的な態度で済ませるような仲でした。一定の調和が私たちの間にあって、それは決して感じが悪いようなものではありませんでした。

 武の口から、私たちのこれまでの関係に終止符を打つような、そんな言葉が聞こえたので、私は思わず肩を上げてひゃっと声を上げてしまい、周囲の人からの一瞬の注目を浴びました。


「今、なんて言った?」

 少し間をおいて、聞き返しました。返答に困ったわけではなく、シンキングタイムを少しでも確保しようと画策したのです。さっきの言葉の真意を、いくら考えてもわかる気がしませんでしたが、もう少しだけ考えたい。そう思いました。久方ぶりに武の目をしっかり見つめました。

「好きです」

 武は不自然に多くの瞬きをしながら、少し上ずった声で言いました。驚きました。全く異義なる言葉が返ってくるとは思いもしませんでした。

 言い直すという行為には、必ず裏に事情があるはずです。ですから、先の言葉を二度言っては都合が悪いことなのだろうか、ましてやその次の言葉が告白の代名詞だなんて、予想さえしないことでしたし、そのかりそめの言葉に対してどう返事をしたらよいのか、と彼を疑い、つくづく不器用な男だと思いつつありました。

 しかし彼の眼はそのような葛藤の最中にも燃えるような焦点を私の瞳に合わせていましたし、終始一貫して彼の全体的な態度に変化が微塵も現れていないことが感じ取れましたので、私は徐々に違和感を覚え始めました。

 もしかすると、一言目と二言目は、同義であるのかもしれないと思い始めました。同時に、妙な波動が私の心臓を震えさせ始めました。何か破滅的なものを目前にした時の、恍惚とした充実感が私をじんわりと満たしていました。

 私も年ごろの女子高校生です。少しばかり美に対する執着などが薄いからと言って、なにも鈍感だとか、性欲がないだとか、そういった類の女ではありません。学校の教室の片隅での男子の情欲にまみれた会話を耳にしては驚きと憧れを覚えますし、告白され、恋について真剣に思い悩んだこともあるのです。その挙句、告白を断ったのが、一回きり。

 このように私は、言うまでもない平凡な女なのです。

 私が稼いだ時間の猶予は極めて微細に刻一刻と迫っていました。私がいかに日頃から愛に挑戦したいと切望していたのを、彼は知っていたのでしょうか、不安そうな表情を見せながらも、その根底には自信がたぎっているように思えました。しかし一瞬、彼の瞳の奥に光るものが見えました。その光の不均衡によって生まれた淀みから、私の姿が明細に映し出され、私は思わずその瞳に見入ってしまいました。

 その(私を映し出したものだと思われる)像は、豊饒な体躯を有し、何かを傲慢に掌握しているように見えました。他人の羨望をも気にせず気丈に振る舞う姿がありました。その姿は、私に今までになかった種の情念を植え付けました。それは雲のように移ろい、世界を覆う壮大なもので、神秘性をもったものでした。

 

 線路付近をほっつき歩いていた白い名もなき鳥は、地鳴りと騒音に驚いて羽を振りほどきながらどこかへ飛んでいきました。その背中からは風流な寂寞の感が伝わってきました。


 そして、その姿は彼が見る私だと感覚的に察知しました。その時初めて、彼の言葉を疑いようのない告白だと認識しました。


「好きって、私のことを?」

「うん。好き」

「その前に私のことを、王、って」

「うん。それもそう。でもかみ砕いたら、好き」

「ややこしいじゃん。混乱した」

「ごめん。それで、どうかな、返事というか、その…」

「私でよければ、ぜひ」

 武の顔が雪国のお転婆少女のように紅潮し、私たちの周りの空気がやけに清々しくなったことで、ああ、受け入れてよかった、と心から思いました。

「ありがとう、ありがとう」

 子犬のような心持で高揚する彼を、かわいらしく思いました。それはおそらく子犬に対する飼い主の愛おしい感情でした。


 見つめあう私たちがふと目線をそらすと、先ほどまで停止していた世界が再び動き出していました。電車はもう過ぎ去っていました。


 双方もじもじとしている足取りの遅い男女を、外から見た様子はどれほど滑稽なものであったでしょう。しかし両者が醸し出す雰囲気の調和は決して不均衡ではないのです。


 やっとのことで渡り終えた踏切の先にて、興奮のあまり瞬きすらろくにしていなかった乾燥した目を思い切りつぶって、開きました。すると、初めて目にしたかと思われるような、限りなく透明に近い水平線があでやかな彩色の港町の少し離れた空間に引かれているのが見えました。私たちはそこへ向かって突き動かされているような気がしました。

 今日から武と私の、想像を超える愛おしい日常がやってくるんだと、心が躍りました。恋愛経験のない私にとって、まさに未知の冒険の予感がしました。

 後ろは振り返りませんでした。そして大きく息を吸って、思いっきり大地を踏みしめて、前進し始めました。

 順風満帆の空は私たちをどこかへ導いていました。



「おはよう」

 翌日、武が自宅の前に立っている光景を見て、驚きました。寝ぼけていた頭が完全によみがえりました。

「え、こんな朝からどうしたの」

「一緒に登校しようと思って」

「それはうれしいけど。でも、インターフォン鳴らしてなかったじゃない。ここでずっと待ってたの?」

「ああ。君がいつ家を出るかわからなかったから、三十分前くらいから待ってた。明日からはこの時間帯に来ればいい?」

「そうだね…。いつもだいたいこのくらい」

「了解。それじゃあ、行こう」

 私は武を信じていました。したがって、このようなことも普通のことであると割り切りました。なにしろ、無知なものですから。武は女子からの評判も良く、確実視はされていませんでしたが、彼と誰それが付き合っているかもしれないというような内容が巷で聞こえてくることも、かつてはありました。

 したがって、彼は女慣れしており、きっと私を経験から測られる自己最高の境地へいざなってくれるだろうと思っていました。

 私自身、愛とは少しの乖離が見受けられるかもしれませんが、情熱の面において、自分の趣味が風に舞う葉のようにどことなく居場所を移りかえるものでしたから、きっと愛においても表面上は似たような光景が見られることもあるだろうし、それは決して深刻なことではないと考えておりましたので、私だけ、という特別な存在であるということを求めていたわけではなく、ただ単に交際上の武の存在を、概念的なものとして捉えておりました。

 しかし先ほどの行為は喜ばしいものですが、わずかばかりの罪悪感が伴うのも事実でした。これは私の杞憂でしょうか?

 私は平凡な女です。だのに、私よりもよっぽどモテて、精悍な少年がこうして、私を待って家の前に立っています。

 自身に対して確固たる自信がない君主は、気の毒であっただろうとつくづく思います。今、自分の前で頭を垂れている者は、一体何に向かってそうしているのでしょうか。この永遠の疑問に苛まれて生きていくことに対する妙な違和感を、私も感じつつありました。

 しかし私はもうすでに彼の女です。彼が法であり、彼が私の国家なのです。したがって胸に残るしこりを気にする余地はありません。きっとこれが私たちのロマンスの出発地点なんだと、思考を転換させました。

 横並びになって歩く中、時々軽くぶつかることで感じる彼の肩は、なんと温情深く安心感のあるものだろうと思いました。それはまた官能的なものとは異なる喜びでした。純粋に、彼のその肩で私の体を覆い、抱きしめてほしいと願いました。彼の肉感を、本能をもって享受することが保証されているならば、たとえ目が見えなくとも世界はずっと明るいはずだと思いました。これが盲目の恋なのでしょうか。それとも私の見当違いでしょうか。とにかく、その時が来るのを待つほかはありませんでした。

 校門の前についてから、彼は歩行を減速させ、彼と私の間の距離は広がっていきました。なるほど、自分と私との関係性に違和感を持った人たちがむやみに幻想上の関係を捏造し、それが私を悩ませることになるかもしれないと、きわめて紳士的な態度で初心な私に気を使ってくれているんだとありがたく思い、迷わず足を進めました。確かに、武と私との色恋沙汰が広まれば、私は以前より窮屈になるかもしれませんし、何にせよ、相手が武なものですから、自分が一定数の女性群の嫉妬の的にされる可能性もありましたし、彼との比較という恐怖に対する覚悟はできておりませんでしたので、私にとってその事実の普及が都合の良いものになる予感はあまりしませんでした。私たちの交際の事実は秘匿にしておこうという暗黙の了解が私たちの間に自然に生まれました。それでよかったのです。彼は校門から見て私の姿が完全に見えなくなる瞬間まで、元居た場所を動いていないように感じられました。

 難なく教室に着いたとき、ほっと溜息が出ました。心の底から漏れ出た幸福な溜息でした。スマホを見ると、寝ている間と朝とに来ていたLINEの通知がかなりたまっていて、いつもは通学中に手持ちぶさたに返しているメッセージの量の意外な多さに初めて気づいて驚きました。


 その日の放課後、武と私はデートをしました。まさに高校生らしい簡素なデートで、場所は帰り道の途中にある古風な喫茶店でした。店に入ると、武が店員とくだけた会話を交わすのを見て、さすがだなと思いました。あまり広いとは言えませんが、天井の黒茶色の大きな木製ファンが好感的な、品性正しい店でした。私たちの他に客は二、三組程度で、席は半分程度埋まっていました。

 私はパンケーキを注文しました。さんざん悩んだ上でやっと決めた時、武はまだ何を頼むか決めていないようでした。しかしそれまで、彼は悩む素振りを見せていませんでした。私が内心焦っていたためにそれまで気づいていなかったのですが、よく考えると、私が思い悩んでいる間、確かに会話はしていましたが、彼は一体何を考えていたのだろうかと、多少の疑問が浮かび上がりました。

「だいぶ迷っちゃった。武は何頼むの?」

 私なりの仕掛けでした。本当に些細なことかもしれませんが、やはり気になるものは仕方がありません。ネット検索では調べられないことでありますし、何しろこの方が自発的でよいでしょう。武の返事が、武自身を裸にするのです。

「そうだね、俺はナポリタンかな」

 迷いのない返事。淀みのないその声は、すでに答えを持っていました。予想はしていましたが、彼が私に遠慮していることが明確になりつつありました。どうしてなのでしょうか。もしそれが彼の善意からくるものだとしても、今、こうして私がたとえようのない罪悪感に似た感情を抱いているのは皮肉な話です。しかしそう感じながらも、自分が今武といる空間は何故か心地よく感じるのでした。むしろ、これが本来あるべき状態なのではとも思われました。

 その後、私たちは雑談に花を咲かせてその時間を満喫し、同時に食べ終わって、店を出ました。レジにて、彼は私が注文した分の代金も払うと申し出ました。

「え、それはさすがに、いいよ。この店、なかなか高いじゃん?申し訳ないよ」

「いや、俺は大丈夫。払わせて」

 簡潔に率直な思いを乗せた美しい言葉が返ってきたために、私はノックアウトでした。この罪悪感を解消するには、彼の善意に満ちた提案を全て、最大限の慈愛をもって丁重に受け止めることしか私にできることはないと思い、ただただ、うん、うんとしかうなずけませんでした。

 帰り道、武は私の手をそっと握り、そのまま歩き始めました。手を握るというよりかは、添えているようでした。その絶妙な物質的距離が、私の緊張した状態と重なり合い、幸福な空間を作り出しました。追い詰められれば追い詰められるほど、私は高揚する性質なのかもしれないと思いました。

 私の家の前に着いたところで、私たちはわかれました。武は私が家に入るまで、ずっとこちらを向いて手を振っていました。

「こういう時って、普通は逆じゃない?」

「たしかに。でも、逆に面白いな。いいじゃん。こういうのも」

「そうだね。今日は楽しかった。帰り道、気を付けてね。おやすみ」

「おやすみ。また明日」

 閉じていく玄関の戸が武の顔を完全に隠す前に、私は急いだ様子で背中を向け、胸に手を当てました。重たく鳴り響く音とともにこれまで圧迫されていた体中の血液がどっと解放されたかのように、心臓が急速に動きを荒くし、血管が激しく波打ちました。すべてが初めての経験で、一日中あった胸中の緊張感にもうこれ以上体が耐えられないところまできていたのです。さっきまで全くかいていなかった汗がいつのまにか高騰してきており、足も幾分か疲れていました。あと、おなかも空いていました。


 次の日も、その次の日も、武は朝から私の前に顔を見せ、人前にいる時を除いて、ずっと私の隣にいてくれました。当初はどぎまぎしていた私も、少しずつ彼との関係に慣れていき、気づくと月が変わっていました。

 その間、武は学校で私が忘れ物をしたとこっそり打ち明けると嫌な顔一つせず余分なまでの自身が持っているものを貸してくれましたし、放課後には勉強を教えてくれたりしました。部活に入っていないために、それまではすぐ家に直行してベッドの上に乗り、携帯を触ったり本を読んだりして過ごしていた、個人的に暗鬱な時間帯であった放課後が、一変して私のシエスタになりました。


 季節的な青春は、夏にあります。蝉は燃え盛る情欲をその声帯に乗せて死力を尽くして求愛しますし、古の織姫、彦星もどこかの星で密会し、一年間ためた愛を発散させます。私はそのような時期に愛人を持っているという運命性に惹かれ、この夏に幻想的な憧憬を抱いていました。


 七夕の日の夕暮れでした。武との待ち合わせ場所に時間通りに着くと、彼はまだそこにいませんでした。いつも先に待っていて、私を堂々と迎えてくれるのが恒例の光景となっていたばかりに少し驚きましたが、まあ、武のことだ、遅れるとしても数分だと思い、その場で四方に定期的に目をやりながら彼を待っていました。学校から少し離れた、閑静な住宅街に囲まれた公園でした。遠い空の夕日が、紅の光線の角度を今宵の空に傾けながら、少しずつ、少しずつ姿を消していくのが見えました。


「お姉さん、ちょっといい?」

 背後から聞こえてきたこの声は、武のものではありませんでした。武の声のほうが、数段高くて、透き通っています。

 振り向くと、大学生らしき男が二人立っていました。声の主らしき男は真新しい太陽の光で焼いた褐色の肌の上に常盤色の紋様の羽織を重ね、短パンにサンダルといった格好で、頭は肌の色との区別がところどころつかない茶髪が覆っていました。首元の銀箔のきらめきは、どこか生々しいひっ迫感を放っていました。頑強な体躯で、言葉通りの、海辺の男、というような風体でありました。

 もう一人の男は、蒼白の身体を覆うのは全て黒、といったふうに黒スーツを身にまとい、黒縁の眼鏡をかけておりました。彼の外見にはこれ以上特筆すべき特徴はないようでしたが、唯一、彼の静かな瞳からは、とぐろを巻いた大蛇のように鋭い執着心のようなものが見受けられました。

「何ですか」

「ここで何してるの?」

「友達を待っていて」

「そうなんだ。男?女?」

「えっと、言えません」

「ふーん。まあそれよりさ、俺たちと遊ばない?楽しいぜ」

「え」

「え、もしかしてこんな感じで遊んだことないの?今の高校生はみんな乗ってくれるぜ。もちろん俺たちのおごりだし、悪い話じゃないだろう」

「いや、その、私は遠慮しておきます。人を待ってますので」

「ほんのちょっと離れるだけだってさ。いいじゃん。一緒にいいことして遊ぼう」

 そう言うと、茶髪の男は私にゆっくりと近づいて腕をつかみ、自らの方向へ引っ張ろうとしていました。私に触れてから彼の私に対する所有欲は増大していったのか、その力は漁師が大物を引き上げる時のように無から無限大へと発展していきました。

「放してください!」

 これまで感じたことのない反発力が私の中に目覚め、気づくと彼を振りほどいていました。

「ちょっと、どうしたの。むきになって。おとなしくしたほうがいいよ」

 彼らの表情に陰りが見えたかと思った途端、金髪の男にもう一度体を持っていかれました。今度は初めから遠慮のない、強引な腕でした。その腕からは狩人の傷跡が見えたような気がしました。

「やめてください!放して!」

「騒ぐな!黙ってろ!」

「痛い!」

 髪をつかまれ、私は自分の中の大切なものがはぎとられるような痛みを感じました。バランスを崩してついた膝は、薄赤い鮮血で淡く染まっていました。恐怖とはまた違った、もう後戻りはできない場所へ向かっているようなおぞましさを覚えました。

 私は抵抗しました。身の危険を知らせる信号が全身へ送られ、本能的な拒絶を体現しました。しかし私はあくまで平凡な女学生。表面上の限界は歴然であり、少しずつ私の領域は彼に侵犯されていきました。

「おい。早くこっちへ来い」

 どこからか声がしたので、思わぬ救援かと思いその方向をふと見ると、先ほどの黒スーツの男が黒のボックスワゴンの運転席から顔を出していました。その後部座席の自動ドアは、不自然に開いていました。

「早くしろ。人が来る」

「ああ」

 計画された誘拐でした。あの男が頭脳で、この男が手足でした。ますます嫌悪の念が強まってきました。

 時間帯と場所が少しでも違えば、今日はいい日になるはずだった。武との、素敵な記憶を更新できた。七夕の偶然の運命性に促されて、新鮮な会話であふれていただろう。なのに今、私は誘拐されようとしている。かけがえのないこの物語に水を差す者がいる。悔しい。これ以上の凌辱を受けて、武の下に戻れないかもしれない。私たちのページはここで一度破られる。その続きはあるのかないのか。これほど不安に思ったことはない。悔しい!ごめんなさい、武。あなたも傷つくでしょう。誠実なあなたは怒り狂い、結局はその矛先を自分に向けるかもしれません。でもどうか、自分を滅ぼさないでください。私との物語が本当に幸福だったなら、そのままそれだけを心の片隅に置いておいてください。それだけでよいのです。ありがとう。あなたの彼女の私は、今日、死にます。

 覚悟を決めたと同時に体の限界がきて、少しずつ、引きずられるようにして車の方向へ向かわされていたところに、視界外から猛虎のような影が突然出現しました。

「やめろ」

 綺麗な声が聞こえたと同時に、金髪の男にとびかかった者がいました。武でした。いつもの冷静な表情では隠せない、激昂した感情を浮き彫りにして、その男をまっすぐ睨み、何かを背負って彼を押し倒しました。

「陽子を離せ」

 私の下の名が初めて呼ばれたので、いささか驚きました。武は男の身体に上乗りになって、拳を天高く突き上げていました。男の私をつかむ手の力が緩んだので、私は解放されました。

「陽子、逃げろ。早く」

 しかし私はその場を離れられませんでした。今までにない武の様子から目が離せなかったからです。また同時に、ある思念がもどかしく浮かび上がってくるように感じました。とにかく、私はその場にくぎ付けでした。

「ご、ごめんな、兄ちゃん。そんなに本気じゃなかったんだ」

「信じられるか。今すぐ消えてくれ」

「ああ、わかったわかった。すまなかった」

 一悶着がようやく終焉を迎えたのだろうかと思い、少し肩を下した武がこちらを向いた途端、突然武が前に倒れました。

 武が目前に倒れるとともに開けてきた視界のなかに新しく浮かんできた景色は、木刀を持った黒スーツの男でした。時代が変わるときのような終末観が私にのしかかってきました。

「手こずらせやがって。お前も何してたんだ。こんなひょろいのに気圧されて」

「すいません。俺まだ、こういうの慣れてなくて」

「いいからはやく、連れてこい」

 男たちの関係の本質が垣間見えた瞬間でしたが、息をつく暇もなく再び私の身体は荒波に飲まれたように金髪の男の手に引き込まれました。

 一度奇跡を信じた私には、こうなることを宿命との連関なしには説明できないと思われました。

「待て」

 男の足が止まりました。男が振り返った途端、鈍い音が聞こえ、男はぐらつきました。

 武は立ち上がっていました。不意打ちにより頭を打たれ、気を失っていたと男たちは思っていたようでしたから、思いもしない彼の復活に、得体のしれない何かに直面した時の悲壮観をまとった顔をもって反応していました。

 武はそのまま、立て続けに茶髪の男の身体を殴打し、男も多少の反撃はしましたが、彼の鬼気迫る雄姿に圧倒され、すぐに音を上げました。気がかりの黒スーツの男はすっかり本性を露わにして武に手を出しましたが、同様に打ちのめされた様子で後ずさりしたと思うと、懐の奥から短いナイフを出し、彼を脅しました。動じない武はずんずん男に近づくので、

「本当に刺すぞ!」

「やってみろ。卑怯者」

 そのような問答があったかと思うと男は急にナイフを振りかざして武を目掛けて襲い掛かりましたが、武はそのナイフをそのままつかんで男から引き離し、そのまま押し倒して同情の余地なく顔面を殴打しました。

「もう、やめてくれ。悪かった。さあ、兄貴、はやくいこう」

 武が手を止め、束縛の強度を緩めると、黒スーツの男はほとんど腰が抜けたようなたどたどしい足取りで、茶髪の男に肩をそっと抱えられながらやっとのことで車に入り込み、そそくさとその場を去っていきました。

 私たち以外に誰もいなくなった公園には、嵐の後のような殺伐とした荒涼の空気が漂っていて、しばらくその空間に静止していました。先程の遭難の時よりもよっぽど時間が長く感じられました。

「大丈夫か。陽子」

 武は顔や腕に傷を負っていましたが、自分の体のことを気にするよりも私の状態が気になるようでした。

「うん。大丈夫。武こそ、酷いけがじゃん。頭もぶたれてる。病院に行ったほうがいいかもしれない。心配だよ」

「俺は大丈夫。このくらいのけが、大したことじゃない。負けてたまるか。安心して」

 陰りのない快活な表情で私をひたすらに安心させようとする彼の姿には、おそらく津波のような激情の変遷があるのです。感情の余韻が絶えず彼を侵し、その幻影が何重にも彼の背後にぼんやりと浮かんでいるのでした。そしてその影がふっと紫紺の風体を帯びたかと感じられた時、

「それよりも、ごめん。遅れてしまった。ちゃんと時間通りに君と待ち合わせていれば、こんな目にあうことはなかった。怖かっただろう。全部俺の責任だよ。本当、俺は駄目な男だ。本当に情けない」

と男らしく片腕を瞼の表面に押し当てて、むせるような様子で泣いて、震えはじめました。

「運が悪かったんだよ。タイミングがさ。時間のゆがみが巡り巡って私たちにこの世界を見せるんだから。だから武に責任はないよ。無事だったし、早く家に帰ろう」

「それでも、俺が悪い。どんな運命でも君だけは守り抜きたい。だけど現状がこうだ。人間失格だ」

 私は武のその様子を見て、不意に鈍器で殴られたような痛みを覚えました。その痛みは慢性的なものだと思われました。

 帰り道、武は先刻あのように言っていたものの、相当のけがを負っているようで、足元はおぼつかず、時々体制を崩しては横並びの私の肩にぶつかって、ごめん、と気恥ずかしそうな顔で言うというようなことを繰り返していたわけですから、あまりにも心配なので、彼の肩をもって、家まで送り届けることにしました。武は躊躇しながらも渋々その提案を受け止め、私の肩を大人しく借りました。自分の顔のすぐ横にある彼の顔から時々漏れ出るやさしい音色の吐息が、最初は恍惚へといざなわれるように感じられて官能的な鳥肌が立ちましたが、それはやがて夏の濡れた風のぬくもりに溶け込み、彼と一心同体になったかのような不思議な空間が生まれました。

 

 武の家に着き、そのまま彼を介護して中に入りました。見覚えのある懐かしい家です。昔は定期的に通うかのようにこの家に来ていましたが、ここ数年はその機会が一度もなかったので、昔のインテリアや家具の種類や場所の変化を顕著に感じさせられました。

 武は玄関に足を踏み入れた途端、安心したかのように静かに倒れこみました。何かといって、かなりの重傷でした。顔を知っている彼の母を呼びに声を出しましたが、反応がなく、家全体から生命の息吹が感じられませんでしたので、どこか不安になって居間に入ると、ダイニングテーブルの上に一人分の夕食と置手紙が並べられていて、その手紙として使われている付箋を見ると、今夜は夫婦で外食にいくから、夕食を食べて食器を洗い、良い子にしておいてという内容が読み取れましたので、妙に重くなった体で彼のもとまで戻り、介護を再開しました。

 今夜は、私が武の面倒を見るんだという、積極的な責任を持ち始めました。そもそも、彼が現状動けないほどの体でいる原因は私にあると実感していましたので、そう思い、誠意をもって行動することは当然のように思いました。食べ物を彼の口に運び、食器を洗い、彼が風呂に入っている時は心配なので風呂場の中折れ戸の外側に身をもたれかけ、彼の存在を確認し、着替えの用意も済ませておきました。そして前のように肩を貸して階段を上がり、彼の部屋に入ってベッドの上にそっとおろしてあげました。

 武は彼らしくもなく、すすり泣き出しました。先刻の公園で見せた涙とはまた異なり、それは彼をしおれさせていました。彼の側に腰掛け、しばらくの沈黙が流れました。そっと顔を近づけて彼の瞳をのぞき込み、細い指で涙を拭ってあげました。そして私たちは無意識の力によって引かれあい、額を合わせました。彼が潤う目を閉じるのにつられるかのように、私も目を閉じました。

 私たちの額、顔、そして体の周りを覆う恍惚の空気にいささかよろめきました。目を開ける瞬間が同時だったので、互いに驚きのまなざしで見つめあった後、武の意を決したような表情を見止めた後、しずかに口づけしました。そして再び眼を閉じ、何か深淵な境地へ向かう清流に身を任せました。

 気が付くと、武は体を大の字にして精魂尽き果てていました。彼の裸体はミケランジェロによって創り出されたかのように、官能的なうねりを恒久のものとして保存していました。見たところベッドの上は荒れていましたが、そこには神聖な秩序があるように思えました。

 私のほうはというと、余力が残るどころか、身の内にたぎっていました。その自分の状態が信じられず、武のほうを疑うほどでした。胸の中に熱いものがありました。私のそれに対する欲望はまだ乾いているようでしたが、他の感情が私を快感で満たしていました。

 終始、私が優位に立っていた。まるで彼をその存在の根底の部分から支配し、意のままに操作しているような超越感があったと、その後に居間で紅茶を一服していた時に、そう思いました。


 別れ際に、今日のことについて感謝の言葉を口に出そうとしましたが、出ませんでした。ありがとう、とは言ってはいけない気がしました。むしろねぎらいの言葉をかけるべきでしたが、とにかく脳内が妙な光悦で飽和しておりましたので、手をひらひらと振って別れることしかできませんでした。背中に彼の鼓動を感じながら。

 幾重もの曲がり角を曲がって、やっと彼の念的な存在がその影を薄めた時、ふと見上げれば、満天の星空がなんとも深淵な世界を織りなしているのでした。

 その漆黒さが大気と重なり合うことで空がより近くに存在しているように見え、しまいには自分が星空の一部になったかのように思われました。暗闇に飲まれた私は安らいだ気持ちになれましたので、そこにずっといたいと思いました。


 これは夢なのかもしれない。いっそ夢だということにしておこう。しかしそう思ってからは、もう後戻りはできない。ああ、私は彼を、信じるしか、信じ切るしかないのだ。これほどまでに身を犠牲にして私を愛し、守っている彼を。彼はどんなときもやってきて来てくれる。彼は自身がしたことへの感謝や賞賛を希求しているのではない。彼はただ、私に奉仕することのみを目的としているのだ。ありがたい。うれしい。そしてなんと、便利なのだろう。

 これまでは恋の序章だ。心外に時間がかかった。これから私の新章が始まる。少しばかり出遅れた夏とともに始まる。これまでにない私を、武に見せてやろう。私は何も気を引くことはないのだ。かといって、自分に素直でいる必要もない。ありのままの自分を、といった美談を信仰しなくてもよい。虚飾に満ちた私を、彼に見せればよいのだ。彼はどんな私でも受け止める。そしてその新鮮さに、忠義の心を更新するのだ。

 ああ、武が愛おしい。私たちの対等性の上での愛おしさではなく、迷子の子供に声をかける時に感じるような愛おしさである。ゆえに、私が導いてやらねばならない。あらゆる感情の四方八方に、武がいる。これほど脆弱で、かけがえのない存在はあろうか。とにかく、私が守ってやらねばなるまい。慈愛に満ちた恩を屈託なく与えてやらねばなるまい。


 たくさんの決意を商店街に散在していた短冊に書き、空へ目いっぱいに掲げました。そして何かの力に背中を押されて、勢いよく商店街を駆け抜けました。

 目の先にあるのは、夜のもっとむこうでした。風の流れが旋律を堆積させ、私の行進曲が出来上がりました。それはおそらく、どこかで聴いた音色を奏でるとともに、感慨深い夏の空気感を漂わせました。交響曲第三番でした。私は満足した表情で、序章の始まりの地の踏切を、勢いよく飛び越えました。



 翌日から、武は私が言った通りのことをしてくれました。授業の用意を忘れたときは、科目がかぶっていても教科書類を貸してくれましたし、自分では買えない値段のいつも気にかけていた洋服も買ってくれました。もちろん毎朝私の家の前で私の出発を待っていましたし、前の事件を受けての変化でしょうか、放課後の集合時間の一時間前には集合場所に着いて、そこから見えるとりとめもない風景と、私とを連想させてある種の文学を享受しているらしいのでした。しかし私はそれらのことには対して驚かず、ただただ感心のまなざしで彼を見ていました。どのような要望に対しても、毎度のごとく快諾する彼の声には、一切の躊躇もありませんでした。そうして私の望みが通用していくにつれて、あの夜感じたことの確信が強まっていきました。


 二週間ほど経った頃、学校の昼休みに、武が男友達とクラスの窓際で会話しているところに、ある女が武に歩み寄るのを偶然、廊下から目にしました。その衝撃は、私の目の前に幻覚を投影していました。

 女は何やら用があって武に声をかけたようでしたが、二人の空間から談笑の雰囲気が見て遠目に感じ取れたので、両眉が強く接近して、私たちの神秘的な領域に侵入されるような、耐えがたい不快感が私の心に生まれました。この時はまだ純粋な嫉妬にその感情を収束させていましたが、それから毎日、その女が武の側に寄って、無垢な歯をきらめかせて楽しそうにしている瞬間の連鎖を見ると、歯ぎしりが止まずに顎が腫れて、徐々に憎悪の念が煮えたぎってくるのが分かりました。

 それは冒涜を意味しておりました。たとえ武が私と同じ空間にいない時でも、武は私の世界の中に居続けていますし、私もそこから離れることを許しませんでした。もっとも、武はそんな不義の臣下ではありませんでしたが。

 したがって、あの女が犯した罪は、私の国家への侵入、略奪でした。たとえそのつもりがなかったとしても、そこへ足を踏み入れて、私の気分を害してしまった以上、それは大罪でした。しかるべき罰を与えねばなりませんでした。心に深くその刻印を残し、二度とこのような侵犯に至らせないような罰を。

 妙案が思いつきました。武に、その罰を実行させるのです。おそらくあの女は武に惚れている。女は男に好意を持っていなければ、何の事務的なようもなく、たった一人、丸腰で男に自分から話しかけに行くことはしない。そんな彼女が、意中の相手である武にひどいことをされたら、どれだけの絶望に襲われることでしょう。いつも快活な武の、私を背後にまとった陰鬱な本性に近づけば、彼女は恐怖でわななき、二度と武に近づこうとはしないでしょう。

 こうした連想の最中、私は武だけでなく、武を取り巻く数人の人の心をも掌握しているという満悦な気持ちになりました。自分が持つ力の規模はあまりにも漠然としていて、十分に把握はできていませんでしたが、もっとも、怖いものはありませんでした。

 終業式の前日の放課後、武を体育館裏に呼び出し、任務の内容を告げました。その内容を聞いた瞬間、武の表情を暗雲がよぎりました。それもそのはず、これまで私への奉仕を活動の主軸としてきた彼が、突然、他人への攻撃を命じられるのです。しばらく彼の眼は泳ぎ、沈黙が流れて数秒経ちました。彼は私の言ったことが理解できていないか、もしくは本能的に意味をくみ取ろうとしていないかのどちらかでした。

 武の騎士道が垣間見えた瞬間でした。自国の領地の防衛に精進し、安寧の生活への憧れを心のどこかに抱いているような衛兵が、突然に敵国との戦争の最前線に派遣される時、彼らは武器を捨てる。感情に付随する理由がある。彼の日記をまとめるとこのようなものでしょう。けしからない観念ですが、そのつつましさが私の機嫌を保っていました。どこかでそれを正面から認めてやりたくなる健気な息吹を感じました。

 ですが私は絶対でした。私が治める排他主義の国家に彼が属している以上、否が応でも彼の自己同一性に深く根付いた観念に筆を加えねばならないのは明白でした。厭世観は、私という光を前にしては、その眩しさゆえに出現の場所を見失っていました。


「それは絶対、しなくちゃならないことなのかな」

「うん。なにか問題でも?」

「あの子は、あくまで俺たちの関係を知らないわけだし、なにもそう、そこまでしなくてもいいんじゃないかって。いくら陽子の頼みでも」

「いや、それは違うよ。私はたしかに心に傷を負った。武が聞いてくれなかったら、この傷は行き場を失って、私を蝕むよ」

「そうだとしても、彼女がかわいそうだ」

「武は、私のことが嫌いなの?」

「そんなことは言ってない」

「だって、いつも私のいうこと、聞いてくれるじゃん。無理なことでも、なんだかんだ言って引き受けてくれるじゃん。私、すごく安心するんだ。母親の育児嚢にこもるカンガルーの幼子も、きっと同じように感じると思うんだ。麻薬的だよ。だけど武が断るなら、どうすればいいかわからない。迷って、迷って、死にたくなる」

 優越感は私を陶酔させ、舌がよく回りました。私には酒乱の相がきっとあるのだろうと、なんとなく思いました。半面、情緒が敏感に動き、体の機能を思うように操作できました。これがただ皮肉を意味するのなら、酔いの気分にいたって害なので、とにかく、私の髪を引っ張るような思いは全て、滅していく細胞に託しました。

「わかったよ。ごめん、陽子。俺が言い過ぎた。陽子が幸せなのが一番なんだ。ほかのことは全て後回しだ。あいつをしばらく無視したらいいんだろ。やってやるよ。本でもずっと読んでおくさ。ただ気が済んだら教えろよ。高校生の無視は黙殺だぞ。あいつも誰かの大切な存在なんだぞ」

「わかってる。武、やっぱりあなたって面白いわね」

「変なこというなよ。とにかく、この話は終わりだ」

 彼の眼が終始、私を捉えていなかったので、彼はいまだに混乱しており、記憶の中の私の群像から今の私を抽出しようと試みるのですが、記憶は刻一刻と暗闇に飲まれ、その中をもがいているだけの存在と化しているのが手に取ってわかりました。これは期待以上の効果が見込めると思いました。

 背を向けてゆっくりと遠ざかろうとする彼の肩をとって、振り向かせ、接吻しました。武が驚きのあまりに声を漏らすのが感じ取れました。

「迷うことがあったら、真っ先に私の顔を思い出してね。泣き顔でいいよ。そうして、思ったようにふるまってね。もう武は私のものなんだよ。忘れないでね」

 武は目を薄く見開けて、ああ、と力なき返事をしたのち、再び背を向けて、すぐ先の白壁の角を曲がって視界から消えていきました。一触即発の、まどろむ者の背中でした。私は大きく深呼吸をし、この感覚の余韻を思い切り飲み込みましたが、息を吐くのとともに、何かを失っていくようなかすかな不安を感じました。


 武がその女を殴ったと聞いたのは、その翌日の、終業式の日の放課後のことでした。彼から直接聞いたのではなく、彼のクラスの付近に始まり、間もなく少し離れた私のクラスの女子の耳にまで届き、彼女らの囁きとは言えぬ機密事項に関する話のトーンがとうとう、私の鼓膜を震わせたのです。

 私が急いでいるのを悟られないように武の教室に行くと、武はそこにはおらず、あの女の甲高い声が響いているばかりでした。そのクラスの友人に聞くと、彼はすでに帰ったとのことでした。


 その日の朝、武が学校に着くと、いつものごとく例の女が近寄ってきたそうです。要件は、放課後、カラオケにでも行かないかということでした。しかし彼は、いつもの朗らかな笑顔と妖艶な声の響きとをもって丁重に接するのではなく、唇を固く閉ざして彼女の眼前を颯爽と過ぎ去りました。彼女は起こったことが理解できずにしばらく呆然とし、我に返ると彼を追いかけました。声をかけては返事がない流れを二、三度繰り返したのち、しびれを切らしたのか彼の腕をつかみ、顔を見つめて問い詰めました。振り返った武の顔を見た友達は、彼は何かについて悩んでいるようで、顔はいつもの精悍な褐色肌を通しても、少し青ざめているのが感じられたようです。どうして無視するの、などといった彼女の切実な主張をしばし聞いていたかと思うと、何かにとりつかれたかのように、彼女を振り払ったのです。その拍子に、彼女はしりもちをついて壁に頭を打ち、めめしく泣き出しました。それを見て武は我に返ったように、おぼつかなかった視点を定め、自分がしたことに唖然とした反応をし、その場を走って去っていきました。その場には疑念のみが、漂泊していました。


 武はそれっきり友人に顔も見せず、学校に来たばかりであったのに帰ったようです。彼のクラス内は騒然としていました。優等生である武の思いがけぬ行動に困惑する担任や、真偽を疑う男ども、妄言話を空想する女ども、関心を見せない者どもが混在し、終業式が終わってからもその雰囲気に変化はなく、秩序の崩壊が夏季休暇期間の始まりとともに見受けられました。

 この事件は混迷をきわめたまま、学生たちの夏物語の本編が始まりました。その事件のことを耳にした誰もが武の顔を思い出そうとしましたが、朧げな心象の介入によってそれはなされませんでした。


 それから四日ほど、武は消息を絶ちました。その間、私の心に、不自然な空洞がしばらく存在していました。それは意識下にあるものではありませんでしたが、突然現れては私を放心させました。最初の二日間は何にも手がつかず、意味のないニュースを意味もなく眺めながら、夏のせわしない夕暮れを二度、見ました。


 武が私の世界に姿を見せないことは、背信を意味していました。  

 許されざる男です。必ず捕らえて、再び主従の契りを結びなおさなければならない。私たちの関係を、もう一度けがれのない透明なものにしなくてはならない。そうしなければ、それは濁るのを止めず、私たちはいっそう、互いの姿を直視することができなくなる。幻影を追うことももはや、できない。幻影とは何も幻の世界のものではない。くもりない現実の世界にあるものだ。その喪失だけは避けなければならない。いつか必ず、私は天命の遂行を冠して、天上への門をくぐるのだ。武という忠義の臣を連れて。

 ただし、私の目の届かぬ場所にいる彼を、じっと待っている他に、選択肢はありませんでした。私はあくまで主君です。臣下を探しに労することなどあってはなりません。

 とはいえ、最後に武と話したあの日の様子からして、あまり焦燥は感じませんでした。彼はきっと謹慎しているのだと思いました。感心なことです。何かの拍子に発見した自身のいたらなさを自覚し、それと向き合って浄化し、私への帰属意識の本質を洗練しているのです。したがって、そう思ってからは余裕をもって彼の期間を待つことができました。


 夏休み五日目の正午、家の呼び鈴が鳴りました。このような時刻の来訪など、きっと母親の友達や化粧品の配達に違いないと思って母を呼ぼうとしましたが、今朝、一日家を出るから留守番をしておくよう言われたのを思い出して、インターフォンも確認せずに玄関の戸を開けました。

 家の前にいたのは武でした。待ち望んだ再開への喜びは、彼の様子を見て未遂のものとなりました。武は相当やつれた様子でしたが、全身に奇抜な白い服装をまとっていて、彼の側には中型のバイクがありました。一見不似合いな自己装飾からは、滑稽さと共に、鬼気迫るものを感じました。

「乗る?」

 その声に私はうなずきました。そして武はさっきまで自分が着けていたであろうヘルメットを私にかぶせました。私はヘルメット裏の彼の体温を久方ぶりに感じ取り、いささか陶酔に襲われながら、後部座席にまたがりました。

 大地にとどろくエンジンの律動が鼓動と重なりました。心が弾み、どこまでもいけるような気がしました。

 海岸沿いの広めの国道を一体になって駆け抜けました。武の背中を通って感じられる向かい風は、意志を持つ生命体のようでした。

「どうして、あの子に手をだしたの?」

「わからない。体が勝手に」

「私のこと思い出した?」

「あの時、目の前が真っ暗になった」

「えっ」

「今まで大切にしていたものが消えたというか、変容した。そしたら、この世界の何もかもが、別のものに見えた。本当に別次元の世界にいるようだった」

「じゃあ私のことは、思い出す暇もなかったんだ」

「うん。陽子の残像をなぞるというか、暗闇の中で弱々しく光って、今にも消えそうにゆらいでいる灯のようなものを見た。覆ってやらないと、すぐに消えてしまいそうな光を」

「そうなんだ」

「自分がしたことは、友達から聞いた。その場でかすかな認識はあったけど、すべてが水中の出来事だった。苦しみに似たもどかしさのせいで意識は後回しだった。そんな非道なことをしていたなんて思いもしなかった。だけどその姿も俺なんだ」

 生まれ変わった武を認めてやりながらも、忠誠の再確認は必要でした。しばらく言ってなかった言葉に少しうろたえつつも、王らしく踏み込みました。

「それもそうね。で、もう一度私を愛してくれるの?」

 返事はなく、速度をあげてさらにうなりだしたエンジンの音が風の隙間から耳に入るばかりでした。

「やっとわかったんだ」

 武は声を張ってそう言いだしました。前方に見える黄金の景色のはるか奥に広がっている世界へ、その声を届けようとしているかのように見えました。

 風の音が止みました。

「何を?」

「うまく言えないけど、とにかく今、幸せだ」

「ばかみたい」

 私たちは笑っていました。私の頬を、私のものではない涙が滴っていました。武のジャケットを強く握って顔を押し当てると、彼のぬくもりがその範疇を越えた快感と共に感ぜられました。

 どんどん加速していくとともに、私たちの周りの音はなくなっていきました。目を固く瞑って、彼の背中にすべてを任せました。

 

 瞼の裏で、一瞬の線香花火を見ました。



 目が覚めると、白さと暗い斑点が妙な均衡を保っている天井が見えました。そこは病院のベッドの上でした。

 周りを確認する暇もなく、私の視界の中に数人の顔が移りこんできました。

「陽子!」

 母の声でした。私の目を見て顔を撫でて生を確かめ、おろおろ泣く母を見て、ずいぶんと新鮮な気持ちになりました。

「お母さん」

「馬鹿。馬鹿。なんてことをするの」

 母の中で、激情が感動と怒りとの間で揺れているようでした。何も自分から話し出していないのに、涙が出てきました。

 その後、医師と警察から連続して訪問を受けました。

 担当医からは、私の体の状態を聞きました。全身を打撲していて、骨折も数か所に及んでいました。三日間意識がなく、生死の間をさまよっていたようです。私はそのとき、何の痛みも感じていなかったので、それほど深刻だった容態を聞かされても、何の現実の実感も起こりませんでした。


 警察から、武が死亡したということを聞きました。それはすでに知っていました。警察との面談の間、ずっと横にいた母は、私の背中を必死にさすってくれていました。

 武のバイクの暴走による武の死、私の重傷は、事故という形で結論付けられました。特に私から言うことはありませんでした。この世界に、私たちをそう導いた原因など存在しませんでした。私たちは極めて非現実的な境地へ向かって、大きく飛び立とうとしただけなのです。したがって、それを言語化する余地などありませんでした。私がただ、感じているだけでよかったのです。

 予想よりも早く警察は帰り、私はパンを二切れほど口にした後、すぐに寝てしまいました。病院の夜は静寂で、自分の側でうとうとして私を見守っている母の呼気が耳にしばらく残りました。


 翌日の夜、私の急報を聞いて帰国した父の車に乗って、家に帰りました。車に揺られながら見る、次々に過ぎ去っていく街の景色は、以前に見たものとは全く異質なものに見えました。この日も家に帰ってからすぐに寝ました。久しぶりの自室は心を和らげました。


 その次の日から、前日の感情に追いついていなかった絶望が私を襲いました。私は荒れ狂い、盲目の徒となって武を探し、悶え苦しみました。

 そのような日が続くうちに、夏休みの最終日を迎えました。

 武のいない学校になど行きたくないと主張しましたが、両親はそれを認めず、私のほうももう抗う気力など残っておらず、この日々の連続に嫌気も薄々さしていたので、学校の支度をはじめました。

 荒れた部屋を整理している途中、武と私が映った写真の束を見つけました。その時甦ってきた感情は、もう後悔などではなくなっていました。


 ようやく気付きました。私は武のことを支配などしていませんでした。それどころか、彼に、完全に支配されていたのです。死してなお私の心の所在をつかみ、隠して放さない魔力的な力を感じました。私が彼を支配していると思っていたことも、全て彼の支配によるものでした。あの時、バイクの上で彼の背中を感じて笑った理由がわかったような気がしました。あの時私は満悦ではなく、自分が本当におかしくてたまらなかったのです。それでよかったと思ったのかもしれません。

 その後すぐに、彼は私をおいてどこかへ飛び去って行きました。ですが私は生きています。この真意を、知りたい。何故武は私をおいていったのか。答えを探すのは精神をすり減らすものでした。彼は私に何かを任せてこの世界に残したのか、それとも…。

 

 始業日当日、式の前に、武のことについての簡潔な説明がありました。生徒たちの大部分はすでにそのことを知っていましたが、改めて現実を突きつけられて、動揺して気分が悪くなる者や、涙を流す者もいました。

 私は何も感じませんでした。さんざん苦しみ切ったのです。泣き止んだ後の赤子のように勇敢な態度でいました。もう、泣かない。怖くはない。


 日中ずっと降り続いていた雨は下校する頃にはすっかり止んで、私は持ってきた傘をささず、水たまりがまばらにできている道を傘でつつきながら帰りました。

 傘が何かを見つけたように道に引っかかって、私も足を止めたのは、武との関係が始まった、あの踏切の前でした。疾風が吹き出しました。鳥肌が立つほどの愛を感じ、戦慄しました。武がそこにいました。

 恐る恐る胸に手を当てて、目的もなく深呼吸すると、少し落ち着きました。

 遠いか近いか判然としないところで、哀愁じみた古びた鐘の音がカンカンと鳴り響いていました。


                             二〇二二年九月二日


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Napoleonism 火植昭 @akirah_inoue

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