繰り返される曖昧


 何年か経ってから、ふともう一度見たくなる映画、というのが私にはある。

 それはどんな映画かと言うと……


 「もう一度見たくなるぐらいだから、よっぽど面白かったのでは?」と考えられるのが一般的だと思う。


 実際、私は、一度気に入ると何度も繰り返し見る方で、それは、映画に限らず、ドラマでも漫画でもゲームでも同じだ。

 ただし、それを私は、ちょっと過度にやり過ぎる傾向がある。簡単に言うとのめり込み過ぎる。

 何度も何度も見て、その内飛ばし飛ばし好きな場面だけを繋げて見て、繰り返し繰り返し味わい続ける。

 特にアニメは、昨今、専らネット配信で見ているので、期間中は、延々と同じ作品を、同じ場面を、暇さえあれば、アイスを齧りながら、お茶を片手に、見続ける。


 が、当然の事ながら、ずっとこの現象が続く訳ではない。

 私は、夢中でのめり込み過ぎる分、実は、飽きるのも物凄く早いのだ。


 子供の時、美味しいお菓子を食べて、「もっともっと食べたい! おなかいっぱい食べたい!」と思った事は誰でもあるだろう。

 しかし、まあ、子供の時は、お小遣いの問題とか、親の制止とか、いろいろな障害があって、その欲望は叶わない。

 ところがどっこい、大人になった私を止める者は、もはや誰も居ない。


 そう、私は、食べ物に対してではなく、好きな娯楽に対して、それをやってしまうのだ。

「もっともっと見たい! もっともっと味わいたい! この世界観に、この映像美に、この複雑な人間模様に浸りたい!」

 そう思いながら、黙々と摂取する。

 そしてそれは……

「……あ、うん……もう、さすがになんか……いい、かな?……」

 お腹いっぱいになり過ぎて、真っ青な顔で口元を手で押さえながら、思わずサッと目を逸らす……そんな所まで行ってしまうのだった。

 「美味しい!」が「お腹いっぱい」の境界線を超えて「つらい」に変わる彼方まで走り抜け……

 そして、興味を失って、ポイッと捨てる。


 それが私の「気に入ったもの」の味わい方だったりする。

 味がなくなるまでチャクチャクチャクチャク高速でスルメを噛み、ペッとやるような感じだ。

 「生き急ぎ過ぎでは?」と家族に言われるが、私もそう思う。思いっきり深くうなずいて同意したい。


 しかし、これが私の生まれながらの性分のようなので、もうとっくに諦めている。

 私は、今日も、混沌とした森羅万象の中から、夢中で噛める美味しいスルメを貪欲に探し、幸運にも見つけ出した時は、完全に味がなくなるまで噛み倒して、そして捨てている。



 では、そんな私が「何年かぶりでフッと見たくなる映画」とは、どんな映画かと言うと……

 当然「凄く面白い!」と感じた映画ではない。


 なぜなら、そんな映画は、初めて見た当時に何度も見て味わい尽くしているので、まだ細部まで明確に覚えているからだ。

 味のしないスルメを齧ろうとは思わない。


 じゃあ、もっともっと時間が経って記憶がぼやけてきた頃なら、大好きな映画をまた見たくなるのか? と言うと、それはまた、別の複雑な心理が働く。


  かつて大好きで夢中になったものを、完全に忘れる事はない。

 時間が経って、細部が所々ぼやけていようとも、まだ肝心な所はちゃんと覚えている。

 そんな、「あらすじ」をきちんと予習した状態で、再び見たとして、当時と同じ感動が得られるだろうか? と私は思案する。

 そして、答えはノーだ。


 私は、かつて、確かに、その作品が夢中になる程大好きだった。

 それを鑑賞している間は、まるで夢の中に居るように幸せな気分に浸りきっていた。


 しかし、今現在、その作品を見たところで、その時のような新鮮で強烈で熱狂的な感動は得られる筈もない。

 つまり……私の過去の幸せな経験は、現在の「まあ、悪くはないが、そこまでではない」経験で上書きされるのだ。

 絶対に嫌だ。

 大好きだった作品程「当時の感動を一ミリだって失いたくない!」という気持ちが働く。

 私が、ゲームのリメイクに手を出さないのは、大体そういった理由からだ。


 と、言った訳で、私は「物凄く面白かった!」映画を、何年かしてまた見たいと思ったりはしない。

 私の中の「あの感動をほんのちょっとでも目減りさせたくない! それぐらい大好きだ!」という熱い気持ちが、長い年月を経て、「まあ、いっか」ぐらいまで冷めていれば、また別の話だが、残念ながら「何年か」ぐらいでは冷めないので、見ない。

 そう、いつか最終的には冷めるのだろうけれども、それは当分先なので、「まだ見ない」のだ。



 かと言って、面白くなかったものは、見ない。当然の事ながら。

 「チクショウ! 時間返せ!」なんて思ったような、つまらないものは、さすがにもう見ない。


 どうやら、私の記憶を掘り下げて考えてみると、時間が経ってだんだんぼやけていく中で、最も最後まで残っているのは……

 「面白かった!」「つまらなかった……」「楽しかった!」「つらい……」と言った、いわゆる喜怒哀楽に近いものらしい。

 まあ、喜怒哀楽が人間の感情の根幹を成しているのだろうから、必然的な結果だろう。

 つまり、時間が経っても「この映画は見た」という事を覚えているのなら、「面白かった」か「面白くなかった」かはもれなく覚えている。


 そういった判断基準から、「一度見た映画」の中から「面白くなかった」映画は弾かれる。

 そして、長々と述べてきたが、「物凄く面白かった」映画も、また弾かれる。

 となると、残るのは……

 「まあまあ面白かった」映画、という事になる。


 そして、もう一度見ようと思うぐらいだから、内容はあまり覚えていない。

 面白いと言っても、何度も見ようと思う程ではなくサラッと一回見ただけだから、時間が経つと必然的に忘れてしまうのだ。

 そもそも、私は非常に飽きっぽく忘れっぽい性分である。いや、決して記憶力が特別悪いという訳ではない。たぶん。


 もし仮に、面白くなくはないけれど筋は徹底的に覚えている映画があったとして、そんなものに、私は、自分の貴重な人生の時間を割こうとは思わないだろう。

 知り尽くした生ぬるい面白さを辿る事に、私は意義を見出せない。


 そう、つまり……

 私が何年かしてふっともう一度見たくなるのは、そんな「まあ、それなりに面白かった」けれど「もう良く覚えていない」映画なのだった。



「あ、この映画、昔見た事ある! もう一度見たいな。ねえ、一緒に見ようよ。」

「え? なんで? 見た事あるんでしょ?」

「あるけど、ほとんど覚えてない。」

「じゃあ、面白くなかったんじゃないの?」

「いや、結構面白かった、はず。そこは覚えてる。でも、ストーリーはもうほとんど覚えてない。」


 日曜の午後、雑事を片づけて、ちょっとダラダラ一休みしたい気分のもと、配信サイトにズラリと並んだ映画を物色しているような時が、この件の「まあまあ面白かった映画」を見たくなるタイミングである。


 こんな時には、ガツンと最高レベルの傑作映画の感動は重過ぎる。かと言って、ハズレは引きたくない。

 当たり外れが分からない未知の新作へのチェレンジといったリスクは回避して、過去に既に一度見ていて「そこそこ面白かった」という感想を抱いた低空飛行安定路線を選ぶのが最適解だ。


 そんな場合、家族が家に居ると、良く私の巻き添えを食らうのだった。


「前に一緒に見たじゃん、覚えてないの?」

「いや、全く覚えてないけど。本当に見たかなぁ?」

「じゃあ、それを確かめるためにも、もう一回一緒に見ようよ。」

「ええ? やだなぁ。凄く面白いならいいけど。」

「凄く面白くはないけど、普通に面白いよ。そこそこ面白い。」

「なんで、凄く面白くもないものを、もう一度見ようと思う訳?」


 家族は、ウダウダ文句を言いつつも、機嫌がいいと付き合って一緒に見てくれる。


 そう、私は、本当に凄く面白いものを初めて見る時は、いわゆる初見の時は……

 絶対に一人きりで見たい。

 自分の、全神経を全て、映画の内容に集中したいからだ。

 そんな訳で、映画館で周囲に不特定多数の他人の存在をうっすら感じながら見るよりも、音響がどうだろうと画面が小さかろうと、安心出来る自分の家で、一人でジイッと見たいタイプだ。


 そんな私が「一緒に見よう」と家族を誘うという事は、今は「全神経集中!」したい場面ではないという事だ。

 例えるなら、片手に持ったポップコーンを、雑音が混ざるのを気にせずボリボリやりながら、ダラッと気を抜いて見たいのだ。

 何もしないのは、退屈でつまらない。でも、極力、精神的または肉体的疲労はない方がいい。リラックスしたままで、気楽にボーッと楽しみたい。

 そんな場合は、「一人よりも二人」の気分になる。二人で見れば、感想も言い合えるので、楽しみが増える。

 と言っても、それは私の一方的な欲求なので、結局のところ、家族は私の我儘に付き合わされる格好になるのだったが。


「え? これ、主人公キアヌだったの? 忘れてた。共演は、アルパチーノだ。豪華だ。」


 最初に見た時、私はまだあまりハリウッド映画を豊富に見ておらず、申し訳ない事にアルパチーノの顔と名前が一致していなかった。今は大好きな俳優さんだ。

 それにしても、キアヌを忘れるのは、さすがに酷い。私のぼんやりとした記憶では、主人公は若くて黒髪でスーツの男だった。まあ、間違ってはいない。


「ああ……なんかちょっと、うっすら思い出したかも。弁護士の話だった。」

「そうそう。私はそこは覚えてたよ。」


 そして、最後はアルパチーノ扮するラスボスを拒絶して、キアヌ勝利っぽい感じで終わる、というフワーッとした記憶が、私の中に残っていたものである。


「あー、うんうん、こういう話だった! ここのね、クライマックスのシーンは覚えてる! 壁にブワーッとたくさんの人間が浮かび上がって蠢くとこ!」

「えー? やっぱりほっとんど思い出せないなぁ。この映画、本当に見たかなぁ。」

「だから、一緒に見たってば。いやー、なかなか面白かったねー。」

「まあ、面白かったけど……弁護士の話じゃないじゃん! 弁護士同士の駆け引きとか、裁判シーンとか、そういうのが見れると思ったのに! 悪魔が出てくるなんて、オカルトじゃん!」

「まあ、題名が『ディアボロス』だしね。」


 結局、映画をもう一度通して見て確認した結果、私が明確に覚えていたのは……

 「主人公が黒髪でスーツの青年」というのと、クライマックスシーンで「壁に人々の姿が浮かび上がって蠢く」という部分だけだった。主人公は弁護士だけど、話の筋はオカルトホラーっぽい事もうっすら覚えていた。

 特に「壁に人々の姿が浮かび上がって蠢く」という、オカルトホラーっぽい演出はしっかり覚えていて、「これこれ! 見た覚えある!」という感動に見事に浸る事が出来た。


 私は、良い感じに「そこそこ面白かったけれど、あまり覚えていない」映画を堪能出来て満足だったが……

 付き合わされた家族は、やっぱり不満そうな顔をしていた。



「ねえねえ、映画見ようよ!」


 それからしばらくして、私はまた、家族を「まあまあ面白かったけれど、もう良く覚えていない」映画を一緒に見ようと誘った。


「面白いの?」

「そこそこ面白いよ。B級映画の中にたまにある、設定が良くて予想以上に面白くなった感じの映画。これも一緒に見た事あったと思うけどなぁ。」

「えー? どんな映画よ?」

「うーんと確か……」


「アメリカの高校生が修学旅行か何かに行こうと飛行機に乗り込むんだけど、主人公と他数人がたまたま離陸直前に降りて、その後飛行機は墜落、彼らだけが助かる。でも、『死ぬ』という運命から逃れられなくて、次々死んでいって……」


「最終的に全員死ぬっていう、良くある後味の悪い感じの終わり。」


 そんな私のプレゼンが悪かったのか、家族の反応はどうにもかんばしくなかった。


「後味悪いのヤダなぁ。ホラー嫌いだし。」

「いやでも、良くある殺人鬼とか悪霊とかじゃなくってさ、『死の運命そのもの』に狙われるっていう設定が面白いんだよ。絶望感があってさぁ。」

「やっぱり嫌だなぁ。……そもそも、最後に全員死ぬって分かってるんだったら、見なくていいんじゃないの?」

「でも、どんな順番で誰がどんなふうに死んだか、全然思い出せないし。」

「他にやりたい事があるから、じゃあね。」

「え? ちょっと、えー……」


 まあ、家族に一緒に見るのを拒否される事もままある。と言うか、むしろそっちの方が多い。


 しぶしぶ私は、一人モニターの前に座って目的の映画を再生し始めた。

 家族は、一緒に見るわけではないものの、数メートル程離れたリビングのテーブルの前の椅子に腰掛けて、お菓子を食べたりお茶を飲んだりしながら、iPadやノートパソコンをいじっている。

 そして、時々、私が声を上げると、「なになに? どうなったの?」などと聞いてくる。多少は興味はあるものの、私の隣に座ってガッツリ時間を割くのは嫌なのだろう。


 映画を見ている私の喜怒哀楽ぶりを、「猫が伸びをしているな」とか「今度は爪を研いでいるな」とかいったレベルで、ゆるく観察している様子の家族である。

 私は、そんな、高みの見物を決め込んでいる家族の態度をちょっといまいましく思いつつも、モニターに映し出される映画の筋を追っていった。



 正直、一度見てしまった映画、しかも「そこそこ」程度の面白さの映画をもう一度見たところで、「そこそこ」以上の面白さは見つからない。

 だからこそ、私としては「家族と一緒にワイワイ見る」という付加価値をその行動につけたかったのだが。

 しかし、こうなると仕方がないので、「そこそこ」か、もしくは、もう一度見る事で新鮮さを失い「そこそこ」以下になっているものを一人で鑑賞するしかなかった。


 そんなに面白くないならやめればいい、と言われそうだが、やめられないのには他にも理由がある。

 そう、私はさっきも言ったように「ザックリとしたあらすじと結末は知っている」が「細かい過程」はすっかり忘れているのだ。

 その「忘れている部分」を埋めたくて仕方ない。

 自分が一度見た筈のもの、覚えている筈のものの記憶が欠落してると感じる時程、もどかしいものはない。


 例えば、良くあるあれだ。

 学校の同級生の名前が思い出せない。これは非常にモヤモヤする。

 良く一緒に遊んでいて、こんな遊びに夢中になったとか、その子が好きだった漫画や食べ物とか、そういうものは覚えているのに、名前だけがどうにも思い出せない。これが辛い。

 実生活だと、もうこのモヤモヤは、必死に自分の脳みそに祈りを捧げて、「あ! 思い出した!」という奇跡の幸運が訪れるのを待つ他ない。


 しかし、映画なら……

 映画は、今こうやって過去に見たものと全く同じ映像が目の前に流れている訳だ。

 後は、私の努力のみ!

 大して面白くなかろうが、時間がかかろうが、もう一度最初から最後まで見さえすれば、失われた記憶が補完出来るのは保障されているのだ。


 私は頑張った。

 もはや、チェックシートを握りしめて、一つ一つマスにチェックを入れていくような気分で画面を見続けた。

 映画鑑賞としては、たぶんあまり楽しくない。

 しかし、映画の内容を辿り、抜けていた自分の記憶を少しずつ埋めていくのは、妙な達成感と満足感がある。


 学生の頃通っていた道を歩いて「ほら、ここに大きな金木犀の木があって」「ここの家の犬が通るたびにいつも吠え掛かってきて」「ここの坂を自転車で登るのが、本当にきつくって」とか、そんな思い出に浸るように……

 「そうそう、ここでこの友達が死んで」「次に死んだのこの人だったのかぁ」「うんうん、血がドバーッと飛び散ってねー」と、いかにもホラー映画らしい惨殺シーンを、私は着々と辿っていったのだった。


 と言っても、実は惨殺シーンの事はあまり良く覚えていなかった。

 グロいシーンが苦手なため、そういうシーンは「何が起こっているのかギリギリ分かる」程度にまで、目やら耳やらの感度を落としてやり過ごしていたせいである。

 だから、もう一度見たところで、相変わらず、苦手なグロシーンでは「あー、うん、たぶん、今こんな事が起こってるー」ぐらいにしか状況認識の感度が上げられないのだったが。


 いや、もう、自分でも、ホント、なんでこんな映画を見続けているのかさっぱり分からなくなってくる。

 いやいや、ダメだ。ここでくじけてしまっては、ぼんやりとした記憶を抱え続けて生きるという、モヤモヤの辛さから逃れる事は出来ないのだ。

 私は、退屈と苦痛をうっすらと覚えつつも、必死に心の中のチェックシートに、チェックをつけ続けていった。



 そして、映画は、無事、私の人生の一定時間を消費して、終わった。

 ちゃんと、時間が来れば終わりも来る、それだけで素晴らしい。


「どうだった?」


 私が映画を見終わったのに気づいて、さっそく家族が声を掛けてきた。

 私は、苦虫を噛み潰したような顔で、率直に答えた。


「後味が悪かった。」

「それ、分かって見てたんでしょう?」

「そうだけど……ああ、後味が悪い! なんでこんな嫌な気持ちにならなきゃいけないんだよう!」


 「見なきゃいいのに、バカじゃないの?」と家族に言われ、私も心の底からそう思った。深くうなずいて同意したい気分だった。


 ちなみに、その「B級映画の中に、稀に予想以上に面白い出来になったものがある」と私が酷い知ったかぶりで語った映画は、どうやら本当に「そこそこ面白い」という評価を世間でも得ていたらしく、シリーズ物となって、二作目、三作目が作られていたようだ。

 その情報を得られたのが、この映画鑑賞で一番有益な事象となった。まあ、そのシリーズ二作目と三作目を見る気は、全くしないのだけれども。



 しかし、これに懲りたかというと、そんな事はなく……

 私はまた、機会があれば、自分の記憶のミッシングリンクを補完すべく、「まあまあ面白い」映画をもう一度見るのだろう。

 そう、ミッシングリンク、なんてちょっとおしゃれな言葉を使って、少しでも自分のムダな労力を飾り立てておこうと思う。


 私は、自分自身の感情に翻弄され、時に、自分自身の記憶にも翻弄される。

 そして、また、「曖昧な記憶を思い出したい」という、奇妙な欲求に突き動かされたりもするのだった。


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うたかたことのは 綾里悠 @yu-ayasato

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