うたかたことのは
綾里悠
冬瓜
夏も終わりに近づいたある日、スーパーで見事な冬瓜を見つけた。
1/4カットだが、元の一個が大きいらしく、かなりのボリュームだ。皮は緑で艶があり、ラップに包まれている切り口も新鮮だった。中の種の詰まり具合から、熟し過ぎて大きい訳ではないのが分かる。
まさに理想的な冬瓜。
お値段も安くて、これ一つで鍋一杯分の煮物が出来るとなると、買わない手はない。
が、私は躊躇した。
なぜなら、先週も、先々週も、同じスーパーで冬瓜を買っていたからだ。なんなら、冷蔵庫には、牛乳を入れたコンソメ味の冬瓜スープがまだかなり残っていた。
熟考を重ねた結果……
その冬瓜をスーパの棚に見つけて約十五秒後、私は冬瓜を買い物カゴに突っ込んだ。
□
実は、子供の頃、ほとんど冬瓜を食べた記憶がない。
おそらく、食べていない。
なぜだかは分からないが、私の祖父母も、私の父母も、冬瓜を食べるという習慣がなかった。
ひょっとして、地域的な文化の偏りによるものなのか? と思って、ネットで調べてみたが……
なんと、私が子供の頃住んでいた故郷は、全国的に見て冬瓜の生産量でもかなりの上位に食い込む場所だった。
となると、完全に、我が家のルールだったようだ。
実際、実家に帰った際、両親と食材を買いに出て、近所のスーパーで冬瓜が売っているのを見た事がある。
「これ美味しいんだよね。」と言って買おうとする私を「どうやって食べるものなの?」と、母親が怪訝そうな顔で見ていた記憶がある。
そんな訳で、私が人生で冬瓜を食べだしたのは、進学のために上京してからである。
どういう経緯で、それまで全く食べた経験のない冬瓜を食べようと思い立ったのかは、ちょっと思い出せない。おそらく、TVの料理コーナーで見たとか、そんな感じだったんじゃないだろうか。
ともかく、若さ故、今より若干チャレンジ精神旺盛だった私は、スーパーで冬瓜を買ってきて、自分で料理して食べた。
(……何これ、凄く美味しい! こんな美味しくて安くて料理しやすい、いい野菜があるなんて!……)
というのが、初めて料理して冬瓜を食べた時の私の大体の感想だったと思う。
実は、私はかなりの野菜嫌いで、いい大人になった今でも食べられない野菜がたくさんある。
良くある、野菜独特の青臭みや苦味が苦手、というパターンだ。
しかし、それはそれとして、健康は気になる。料理を作る時、食べる時、「バランス良く食べなきゃ!」「野菜もとらなきゃ!」という、謎の義務感や罪悪感を感じてしまうのだ。性格的に。
そんな私にとって、味も癖も薄い冬瓜は、まさにスーパーお野菜様だった。
あれを純粋な野菜としてカウントするのは微妙な気もするが、そこは、まあまあまあまあ、自分の心の安念を得るためには充分だ。
加えて、一人暮らしをしている学生の例に漏れず、少ない生活費でやりくりしなければならない私には、1/4カットもあれば鍋一杯分のおかずが出来る冬瓜は、お財布にも優しいとてもありがたい食材だった。
そうして、私と冬瓜の付き合いは始まった。
最初の頃は、出汁で煮て、醤油か塩で味をつけるというオーソドックスな食べ方をしていたと思う。気分によって、そこに安い鶏肉が入ったり、グラム100円を切った豚コマが入ったりする。
その内飽きてきて、コンソメ味でスープにするようになった。冬瓜は味が薄いので、大体どんな味つけでもいけるのが素晴らしい。
煮物からスープがメインになったのは、煮物を食べた時に煮汁が残るのがもったいないという理由からだ。スープなら煮るのに使った水まで全部いただける。まあ、実は煮物の時も、もったいなくて煮汁を飲んでいたんだけれども。
ちなみに、この「もったいない」という気持ちは、学生で生活費が云々というのとは全く別件で、ただ私が貧乏性だからである。
コンソメでスープにする事を覚えてから、その美味しさにはまって、しばらくその料理法ばかりしていた。バリエーションといえば、コンソメ味そのままか、コンソメの後牛乳を入れてミルク味にするか、トマト缶を入れてトマト味にするか、ぐらいのものだ。
たまに原点回帰して、だし汁と塩でさっぱりいただいたり、中華風コンソメにしてみたり。
ともかく、季節が巡りスーパーで良さげな冬瓜を見かけると、もれなく買って帰るぐらい、冬瓜と私は良い関係を築き……
今では、私の人生の料理レパートリーの中で、なくてはならない一ジャンルとなっている。
□
さて、立派な1/4カット冬瓜を買って帰った私は、初心に戻って、ネットで冬瓜のレシピを漁った。
マニュアル人間かつ石橋を叩いて渡る慎重派の私にとって、ネットは、先人の知恵やら、体験談やら、失敗談やらがいつも豊富に溢れていて、とてもありがたい。
そんなあまたの人々からの情報によると、冬瓜の食べ方は、やはり、出汁で煮て醤油で味付けが一般的なようだった。次点で、コンソメ味のスープか。
ほっこりと癒されるような味を望んでいた私は、しばらく、顔も知らない人々からの熱いおすすめアピールを眺めたのち、今日の冬瓜を甘辛く煮つける事に決めた。意外と冬瓜を甘く煮つけるレシピは少数派だった。
慎重を期して、なるべくネットで得たマニュアル通りに料理しようと試みる。
レシピを公開しているのは、どこぞのカリスマお婆ちゃん風の人だった。
その人によれば、冬瓜は、中綿はしっかりと取り、逆に硬い皮は、緑色の色味が美しいので薄く切った方がいいとの事。
(……ウッソ、今まで、中綿は出来る限り残して、皮は厚く剥いてたよ!……)
まあ、そんな新たな発見とか、軽い衝撃とかはあったものの、冬瓜の甘辛い煮物は無事完成した。煮つける前に、一度軽く油で炒めるという新技を、今更獲得したりもした。
サラダ油の油分を鳥の皮を先に炒める事で割り増しにし、その後肉を炒め、冬瓜を炒め……
全体に油が回った所で、水を適量入れて、みりん、酒、砂糖、塩、といういつものメンバーを投入、アゴ出汁のパックをポン。後は、良く火が通るのを待つばかり。
冬瓜は、火の通りも早いので、短時間で染み染みの美味しい煮物が完成するのも嬉しい所だ。
出来上がった冬瓜の煮物は、ほっこりと、体と心を癒す優しい味がした。
幸い今では、食費にあまりキリキリ神経を使わなくて良くなったが、これからも、私と冬瓜とその料理の歴史は続いていく事だろう。
□
思えば、子供の頃、私の周りには多くの人間が居た。
幼い頃は祖父母の家で両親と叔母と共に暮らしていたし、同じ県どころか、同じ市の中にほとんどの親戚が居るような状況だった。
新年に、お盆に、年末に、何かあれば、同じ市内に散らばっている親戚は、簡単に祖父母の家に集まってきて、大勢で料理を囲んでいた。
そんな時に、食卓に、大量の煮物が簡単に作れる冬瓜のような大きな野菜がなかったのが、とても不思議だ。
現在私は、故郷から遠く離れた土地に住み、当然周りに親族は誰もおらず、実家にももう何年も帰っていない。
そんな私が、毎年夏になって、スーパーに冬瓜が出回るようになると、せっせと料理を作っている。
これが人生の妙というものなのだろうか。
などと、少し感傷に浸りながら、食べ切れなかった冬瓜の煮物を冷蔵庫にしまった。
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