第5話 立場が逆転した姉妹
「今日、午後から北陸新聞社主催のイベントに出なきゃいけないから、そろそろ失礼するわ。新聞社さんとの打ち合わせもあるし。」
と泰恵は立ち上がった。死の淵に立っていても、まだ身を切り裂くように引き算をする、そんな母の姿をこれ以上見たくなかった。
「なんや、仕事のついでに来たんか。道理で。泰恵がお見舞いだけのために来るわけがないわな。昔から、冷たい奴やしな。」
と姉は軽く笑い、泰恵のコートを取り、泰恵に投げてきた。泰恵はいろんな思いを必死の思いで封じ込め、ゆっくりと立ち上がった。
「また、見舞いに来るから。ほな元気でね。」
と母の手を握り、笑いかけた。
「じゃあまた。体に気いつけるんやよ。」
親指に元気がない。しかしながら思いのほか表情は軽く、言葉が立っていた。もう、向こうに行っている友人たちとコミュニケーションを取り始めているのだろうか。きっとこれが最後のコミュニケーションになるだろうと、お互いに感じた瞬間でもあった。
「あぁぅ・・・・・・。」
母がおもむろに口を開いてきた。
「なんや?」
泰恵は顔を母に近づけた。
「彩乃のこと、頼むわ。あの子と・・・・・・・・。」
「わかったよ。」
泰恵は言葉を切った。これ以上、言葉を出さなくとも分かっているという意思を伝えるかのように、気持ち強く握りしめた。この期に及んでまで、悲しい計算をして欲しくなかった。
「母さん、私が長女やよ。泰恵を頼むわ、じゃないがんけ。しっかりして。もうやばいんじゃ・・・・・・・・・・。」
「姉ちゃん、ちょっと伝えたいことがあるし、ちょっといいけ、ほな、父さん、また連絡するわ。」
彩乃の無神経な声を遮り、母の手をゆっくりと離した。泰恵は振り返って、姉の顔をじっと見つめた。
泰恵は姉から視線を離さず、病室の扉を開け、姉を外に誘導した。静かに扉を閉めてからゆっくり歩き始めた。
不穏な空気を感じ取ったのか、姉は一人喋り始めた。
「今度、北陸新聞社の社長と会わせたるわ。昔、勤め撮った会社やし、社長とも何度も仕事したことあるさかい。あんたより親しいんや。連絡先も携帯に入っとるはずや。探してみるわ。泰恵も北陸新聞社の夕刊でも漫画の連載があった方が、生活が楽やろ。」
多い時は、一日に何十人もの人と名刺交換をするであろう大新聞社の社長。そして千人以上の従業員をまとめている新聞社の社長。そんな社長は、十数年前に働いていた、たった一人の社員のことなど覚えているとでも、真剣に思っているのだろうか。姉の強度の自意識過剰さ加減には、いちいち舌を巻いてしまう。
「いい、いらない。今から会うし。今からの仕事、その社長との対談だから。」
「ほな、私も臨席しよか。」
「なんで。」
「昔、勤め撮った社員がそばにおった方が、あんたもあいさつしやすいやろ。」
「邪魔やし。なあ姉ちゃん本気で言っとんの?あほじゃない。向こうは百パー、姉ちゃんのこと覚えてないよ。北陸新聞社って、どれだけの人員が働いているか、勤務経験のある姉ちゃんなら、分かるやろ。十数年前に働いとった社員のこと、覚えとるかいね。ついて来んといてや、イベントには。社長に対してまた夢物語のような新規事業の話を出して、融資のお願いなんかされたら、また姉ちゃん、親戚中に怒鳴られ、半殺しの目に遭うよ。お願いやから私の仕事の邪魔せんといてや。これ以上、恥の上塗りせんといて。」
「なんや、あんた姉に対して言う言葉かいね!」
姉の怒りが表面化した時、ちょうどエレベーターが到着した。
「エレベーター来たよ。乗ってや。」
泰恵は姉の背中を押し、エレベーターに乗せ一階のボタンを押した。一階まで辿りつく間、二人は一切言葉を交わさなかった。姉の方も視線を合わせまいと、ずっと扉を睨みつけていた。
扉が開き、姉が先に歩き出してから、泰恵は背中に声をかけた。
「姉ちゃん、まだ親から小遣い貰って生活しとるんか?」
「あんたに関係ないやろ。親の面倒見とるんやさかえ、当然の報酬や。」
「その報酬、私が払っとるって知っとったか?」
「はぁ?」
泰恵は姉の前に回り、しつこく目線を合わせた。姉は視線を合わせまいと必死になっているのか、目が宙を泳ぎだしていた。姉の視線は明らかに路頭に迷っている。
「姉ちゃんの貰っとる報酬とやら、私の仕送りや。父さんと母さんの年金は姉ちゃんが拵えてしまった借金返済で使用されているから、姉ちゃんにあげる余裕なんかないんや。親戚中に借りまくったお金は、父さんと母さんの年金で少しずつ返金されとるんや。婆ちゃんの通夜の席で、姉ちゃんが気の狂ったホラを叫んで、親戚中の顰蹙を買ってから、毎月ゆっくりと返しとるんや。親が尻拭いしているの。気づけま。姉ちゃんが毎月、親から貰っとる金は、ずっと長年に渡って、下に見てきた妹が稼いだ金や。数年前に生活費のことで父さんに相談されて、毎月決まった額を仕送りしてきたんや。父さんと私の間で彩乃には黙っておこうということにしていたから、今まで言わんかったけど。だってカミングアウトしたら、また妹に対抗意識を燃やして、下手な商売を始めようとするやろ。そしてうまいこと父さんや母さんを騙くらかして、金を巻き上げるやろ。」
「泰恵、言っていいことと、悪いことがあること、学校で習ったやろ!」
日曜日の病院とはいえ、エレベーターホールに人がいないわけではない。普段よりも少ない面会客が遠巻きに二人を、下手糞な漫才を見るような表情で眺めていく。
「あぁ、習ったよ。正しいことを言いなさいと。学校で習ったこと忠実に生かして、今、姉ちゃんと話しているよ。姉ちゃんはもう、信用がないんや。姉ちゃん自身が四十二歳の時点で信用を捨てたんや。過去の出来事をなかったことにしてすました顔で生きとんなや。」
「泰恵、あんた・・・・」
「もう一個正しいこと、事実を言うわ。姉ちゃんがさっき、嬉しそうに母ちゃんの病室のこと話していたけど、あの病室の費用を支払っとるのもあたしや。姉ちゃんじゃない。朝から酒ばっかり飲んで、ほらばっかり吹いている奴が、親の面倒を見ていると、シラーっとした顔で言うなや!母さんが出してきた金を貰っとけやと?あほなこと言うなや。私が仕送りしとる金じゃ。なんでそれを改めて貰わなならんげん。働いとらん奴が、生意気な口をきくなや!」
姉の呼吸が荒くなってきた。泰恵に対して何か言い返したいのだが、適当な言葉も罵声すらも降ってこないのだろう。ずっと身体が震度八レベルで、一定にゆれている。
「姉ちゃんが貰っとる金は、あたしが必死に働いて送っとる金や。それを親の好意で、少し分けてあげている金や。全く金を持たせんかったら、姉ちゃんまた誰かに金を借りに行くやろって父さんは判断したから、少し姉さんに上げているんだろうね。それくらい信用がないんだよ。親に信用されていないんだよ。昔、さんざんバカにしとった妹にこれ以上言われたくなかったら、貰っとる金を酒とかほら吹きの起爆剤に使わんと、就職活動費に使ってくれ。それができないのなら、姉の分を抜かした金額しか仕送りをせんから、実家から出て行ってくれ。どうか国から与えられとる生活保護費やと思ってありがたく思ってくれ。これ以上、父さんと母さんに迷惑をかけんようにせえや。勉強できて、頭良かってんし、それくらい理解できるやろ。」
姉はもう、うな垂れていた。一気に十歳くらい老けたような表情を浮かべ、肩で息をしている。
泰恵は、そんな姉を汚物でも見るような目つきで見つめ、最大の皮肉を込めて、最後にぶつけた。
「なぁ、姉ちゃん、顔あげてや。……なぁ、姉ちゃん、気づいとっか?母さんが今、どっちを上にして引き算しとるか。」
この時、姉の顔と動きが完全にフリーズした。
泰恵はコートを羽織り、そして踵を返すと、通用口に向かった。
「頭よかってんし、分かるやろ。どういう式で計算しとるか。計算してみ?数学が得意やったやろいね。」
泰恵は通用口を向いたまま冷たく言い放つと、鞄からサングラスを取り出し、ゆっくりとかけ、出口に向かって歩き出した。
調教されていない獣が吠えるような、汚らしい音が玄関ホール中に響いている。
泰恵は二度と振り返らなかった。
引き算 ラビットリップ @yamahakirai
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