幽霊の出る家

いぬきつねこ

幽霊の出る家

 10月2日は松島さんが来る日だった。

 松島さんは私がダイニングのテーブルについているのを見て、「あらっ!」と声を上げた。

「もしかして泊まったの?」

「ううん。今朝早く来たんです」

 嘘だった。私は2階の湿った畳に横になって眠った。夫も一緒にいてくれた。

「何か買ってきてあげたらよかった。ごめんなさいね」

 松島さんは買い物袋から幕の内弁当を2つ取り出して、脚がギシギシ鳴るテーブルに置いた。

 向かい合うように、2つ。

「タカノブ、タカノブ!ご飯買ってきたよ!」

 松島さんは二階の階段に向けて声を張り上げた。

 私が眠っていた部屋の隣にある、6畳の洋間にタカノブくんはいる。

 しばらくして、階段が軋んだ。

 思い足取りで、階段を降りてくる音がする。

「あの子宵っ張りだから、朝には弱いの」

 松島さんは肩をすくめてみせた。

 開けっぱなしのダイニングのドアを、タカノブくんが潜ってくる。

「あんた、寝癖くらい直してから下りてきて!彼女できたんでしょ?そんなんじゃ嫌われるわよ」

 松島さんは賑やかに喋り続ける。

 椅子がガタリと揺れる。

 誰かが腰掛けるために椅子を引いた動きだ。

 私にはタカノブくんは見えない。



 10月3日、私は一度家に帰り、入浴と仮眠を済ませてからあの家に向かった。

 その日来たのは西丘さんという年配の男の人だった。彼は奥さんを亡くしていた。

 ダイニングの隣にある8畳の居間に胡座をかいて、西丘さんは本を読んでいた。

 居間の奥には庭に面した広縁が作られていて、そこに置かれた籐の安楽椅子の位置がいつもと違っている。庭に面して置かれていた。

 籐の座面は誰かが深く腰掛けているように凹んでいた。

 西丘さんが手入れをしてくれるおかげで庭は家の中よりもきれいなくらいで、今は黄色い小さな菊の花がいっぱい咲いていた。

「妻は今、菊の花を見ているよ」

 西丘さんは読んでいた「きょうの園芸」を置いて私に笑いかけた。

「昔、私は菊があまり好きじゃなかったんだよ。あれは香花に使うだろう?縁起が良くない気がしてね。でも、今はいい花だと思うよ。淑やかで、でも凛と咲いていて綺麗だ」

 そうですねと私は答えた。


 10月4日は廣瀬さんの日だった。

 廣瀬さんは白い軽自動車に荷物をいっぱい積んできた。

 軽自動車の後部座席には白いバスケットが置いてあって、その中にはおもちゃが山盛りに詰まっている。

 私は廣瀬さんを手伝って荷物を家に運び入れた。

 昨日は西岡さんがいた居間の畳の上に、廣瀬さんはおもちゃを広げた。

 海の生き物を象ったクリアカラーの人形がいくつもいくつも転がる。

 いるか、ひとで、貝、魚たち、さんご。

 人形は宝石のようなカッティングがされていて、蛍光灯の光の下で控えめにキラキラ光った。

「樹里はこれが好きだった。買い物の度に買って買ってってねだって、あんまりねだるからあたしも根負けして買っちゃうの。家に帰って見ると、お店で見るよりキラキラしてなくてがっかりするんだけど、また買っちゃう」

 廣瀬さんは、くじらの形の青い人形を持ち上げて、光にかざしていた。

「あの子が一番好きだったのは――」

 廣瀬さんの目の前で、たつのおとしごの形をした人形がすうっと動いた。

 廣瀬さんは目を細め、「そうだね。樹里はそれが好きだったね」と呟いた。

 その後、廣瀬さんはホットケーキを焼いてくれた。

 バターとミルクの匂いが充満した台所には、子どもが駆け回る足音が響いていた。


 10月5日は星野さんの番で、星野さんは高校生くらいの男の子と一緒に来た。

 男の子は見るからに不機嫌で、ワックスで固めた髪の毛をいじってばかりいた。

 星野さんは車に積んできた小ぶりな鏡台を男の子と一緒に家に運び込んだ。鏡台にしみ込んでいる化粧品の香りがふわりと動く。私も手伝った。

 鏡台は二階の隅の部屋に置かれた。二階の廊下の突き当り、タカノブくんの部屋の横だ。

 私はすぐに階段を下りた。

 二階から、悲鳴がした。声を上げたのはたぶん男の子の方だろう。

 すぐに悲鳴は泣き声に変わった。

「お母さん」「お母さん」そう聞こえる。

 広縁の端に、夫が立っていた。

 私は夫に笑いかける。

 ――疲れているようだね

「大丈夫」

 私は、大丈夫。


 この家が、私を大丈夫にしてくれたんだから。



 私たち5人が出会ったのは、不慮の事故で家族を亡くした人たちが集まる自助会だった。公民館の小さな部屋で、私たちは喪った家族のことを話し、泣き、慰めあった。

 時間は私たちの傷を癒してはくれず、私たちはただ寂しいままだった。

 最初にその話をしたのは、鯨井さんという男の人だった。

 男の人というには若すぎる。20歳くらいの男の子と言ってもいい年齢で、弟を亡くしたと言っていた。脱色した明るくて襟足が長い髪をしていた。彼のように若い人がこういった会合に来ることは珍しかったが、彼もまた孤独を感じていたのだろう。

「絶対に幽霊に会える家って知ってますか」

 彼は少し色素の薄い目で私たちを見回した。

「僕が前に住んでた町の住宅地にあるんです。幽霊でいいから会いたいって思いませんか」

 彼の言葉は私たちの心の虚を、暗い水で満たしてしまった。

 私たちは、共同でその家を借りることにした。

 しかし、その中に鯨井さんはなかった。


「鯨井くん、どうしてるのかねえ」

 松島さんが電灯の笠を拭きながら言った。

 10月8日のことだった。

 私たちは時間があいた時にこの家に来る。

 この家は、たしかに幽霊に会えた。会いたい人の幽霊が見えた。

 彼らは生きている時と同じ姿で私たちの前に現われた。

 ただし、家族以外には気配しかわからない。

 だが、家族にははっきりと見えるのだ。

「鯨井くんは若かったし、折半でも家賃を払うのは難しかったのかもしれませんね」

「そうねえ。学生さんには安い金額じゃないから。あの子、集まりにも一人で来てたし、親御さんとの関係もよくないのかもしれないわねえ」

「ええ。鯨井くんも弟さんに会いたいだろうから、かわいそうですね」

 私がそういった時、家の前で誰かの声がした。

 私は窓から顔を出し、「またです」と松島さんに伝えた。

 窓の外ではスマホを構えた大学生くらいの男の子たちが騒いでいる。

「えーっと、この家はお化け屋敷って言われてて、この辺でも有名でぇ、最近は人が出入りしていますが、夜は誰もいなくなるんです!カルト宗教の会合なんて噂も経っている、いわくつき物件です!」

 いわくつきという所で声が大きく高くなった。

 私は耳を塞ぎたくなる。何なのこいつらは。

 車のクラクションが鳴り響いて、窓の外の連中が逃げていく音がした。

「二度と来るな!」

 怒りに満ちた廣瀬さんの声がする。

 廣瀬さんは車のドアを勢いよく閉め、窓から覗いている私に手を振った。

「最近はああいうのばっかり!地獄に落ちたらいいのに!」

 廣瀬さんはどかりとダイニングの椅子に腰を下ろした。

 この家はどうやら有名な心霊スポットらしく、ああいう面白半分に肝試しに来る若者がよく現れた。

 廣瀬さんがため息をつきながら椅子に深く座りなおした。椅子は悲しげにぎいぎい泣く。

 ここにある家具は、星野さんが持ち込んだ鏡台以外はこの家に置かれていたものだ。

 二階のタカノブくんの部屋になった一室の勉強机もベッドも、ダイニングの椅子もテーブルも、八畳間の座卓も、広縁の藤の寝椅子もぜんぶ。

 前の住人が残していったから自由にしてもらって構わないと管理会社の人が言っていた。私はそれを人だけがこの家から消えてしまったようで少し気味が悪いと思ったのだが、他の人たちは気にしていないようだった。

 その方が、幽霊たちが過ごしやすいからねとさえ言った。

 この家は幽霊のシェアハウスだ。

 この日、なんだか夫の幽霊は静かだった。

 タカノブくんは2階から降りてこなかった。

 樹里ちゃんもおもちゃで遊ぶことはなかった。



「家の外から人が来ちゃダメなんじゃないかと思うんです」

 星野さんの息子さんが言った。

「この家って、場所が特殊なんだと思うんです。この家の中は幽霊が現れやすい条件がそろっている。でも、それは俺たちが特別なわけじゃないから、別の人が家に来るとその人のそばにる幽霊も現れてしまう。それで、ここからが大事なんですが、幽霊の定員が5人で限界だと思うんですよ」

 息子さんは、オヤジ、西岡さん、廣瀬さん、松島さん、東さんと私の名前を呼びながら指を折った。

「これで5人。これがこの家の定員だと思います」

 ――家に他人を入れてはいけない。

 みんなが顔を見合わせた。

 10月10日、時刻は夜の8時。私たちはダイニングのテーブルに集まっている。

 この家にみんなが集まることになって3カ月。やっとこの家のことがよく見えてきた。

 夫は八畳間の片隅に立って、いつもの穏やかな顔をしていた。

 あの日のままだ。

 あの日、「行ってきます」と静かに、まだ寝床の中にいる私に告げて彼は早く家を出ていた。運動不足の解消にと、片道1時間を自転車で通勤するようにしていた。

 楓の葉が美しく色づいた秋の日に、夫は居眠り運転のトラックに突っ込まれて即死した。棺は空っぽで、結局最後まで夫の体の一部はトラックの中に巻き込まれてしまって戻ってこなかった。

 そんな悲惨な事故はなかったような顔で、夫はこの家にいる。

 松島さんのお子さんであるタカノブさんだってそうだ。

 彼は会社で火事にあい、焼け死んだ。

 会社に解雇されて逆恨みした男が放火し、その男を含む5人が死んだという。

 苦労して就活を終え、希望の職種についた直後だった。

 西丘さんの奥さんは西丘さんと一緒の買い物からの帰り道、建設中のビルから落下した資材の下敷きになり、病院への搬送途中に亡くなった。車道側を歩いていた西丘さんは無傷だった。

 廣瀬さんのお子さんである樹里ちゃんは、夫と同じで交通事故だった。ギアをバックに入れ間違えた車が、彼女を襲った。コンビニの壁に叩きつけられた樹里ちゃんを、パニックになった運転者は2度も轢いた。

 星野さんの奥さんは、地震で倒れたブロック塀の下敷きになった。本来なら塀が倒れるような規模の地震ではなかったが、その塀には建築上必要な補強がなされていなかった。

 私たちは亡き人を悼み、大事な人を奪った事故を憎んだ。殺してやりたいと思った。樹里ちゃんを轢いた男はその後自殺したが、それで私たちの心が癒えることはなかった。その後に残り続ける喪失感と後悔と悲しみで私たちは狂いそうだった。

 その苦しみは、家によって癒された。

 この家の中で、死んだ人たちは何の苦しみもなくここで

 その安寧を崩してなるものか。


 10月11日。

 庭の鉢植えの位置が変わっているのは前から気が付いていた。

 夜中に、ここに忍び込んでいる者がいる。

 私たちはそっと家に潜み、彼らを待った。

 忍び込んできたのは、黒い服を着た若い男の子たちで、やはりスマホと小型のアクティブカメラを構えて笑っていた。興奮しているようで、息が荒い。彼らは家の外観を撮影し、そして、鍵を取りだして玄関を開けた。

 庭木の陰に隠れていた西岡さんが、手に持ったスコップを一人の頭に振り下ろした。

「なんでい人いんだよ!鯨井は空き家って言ったじゃん!空き家だからって鍵わたしてくれた……」

 カメラを持った子が喚いた。

 星野さんが彼の背中にバットを振り下ろしたから、彼の声は途中で止まった。

 3人目が敷地から出て行こうとするのを、廣瀬さんが車で轢いた。

 私たちは3人を家の八畳間に運んだ。そこには、青いシートが敷いてあった。松島さんが用意してくれたのだ。

 松島さんは、「はいどうぞ」と私たちに使い捨てのレインコートを手渡した。

 ブルーシートの上に寝かされた一人が、呻きながら首を動かしたので、私は彼の頭にバットを振り下ろした。それが開始の合図で、私たちは黙々と彼らの体にバットとシャベルを振り下ろし続けた。

 広縁の陰で、夫が笑っていた。

 ――この家にいたら、大丈夫だよ。

 死体は家の床下に捨てた。

 この家は、床下収納の下にまだ深い空間があった。

 床下は2メートル近い高さのある広い空間になっていて、その土の上に、茶色く変色した骨が散らばっていた。

「私たちの他にも、同じことをした人がいたんですねえ」

 松島さんが言った。

「誰でも、こうするでしょう」

 西岡さんが花でも見るような目で床下にばら撒かれた人の破片を見た。

「これで大丈夫です」

 私は晴れやかな気分だった。

「廣瀬さんの車はうちで直しますからね」

 星野さんと息子さんが言った。

「あ、樹里が笑ってる」

 廣瀬さんは台所を見上げた。

 私にも見えた。

 夫とその横に小さな女の子、その横に髪をシニヨンに結った女の人、その横に、若い男の人。あれがきっとタカノブさん。その隣にいる年配の着物の人が西岡さんの奥さんだ。

 笑っていた。口を大きく開けて、目を三日月のように細めて、顔中で喜びを表現している。

「私たち、家族になったんだんね」

 廣瀬さんが私の手を握った。

 血と脂で濡れていた。

 私たちはみんなで手を握り合った。みんなの幽霊も見える。

 私たちは、この家の家族になったのだ。

 私たちは笑い合った。


 10月15日。昼頃に家のドアがノックされた。

 インターホンは切ってしまっていた。

「すいませーん。すいませーん誰かいますか?」

 ドアの向こうで男の声がした。

 私はシャベルを握りしめ、扉を開けた。

 扉を開けなければいけないと思った。

「こんにちは」

 扉の向こうに立っていたのは背の高い黒髪の男だった。

 無造作に伸ばされた黒い髪、「西園建物管理会社」と刺繍されたジャケットを着ている。彼はごく自然な動作で私からシャベルを奪い取り、玄関の端に蹴飛ばした。

 彼は葦原盈です、と名乗って、はっきりと言った。

 葦原さんの背後でドアが閉まる。

「この家は駄目です。今すぐに出たほうがいい」

「い、いやです。私、ここから離れたくない」

 私は素直にそう口に出していた。

「ここにいる幽霊は、あなたがたの大事な人じゃない。鯨井健哉はあなた方を騙してる」

 鯨井くんは健哉という名前なのか。私はその時初めて聞いた。

「鯨井健哉はこの家の疑似餌だ。この家が獲物を得るための釣り針だよ。それにあなた方は引っかかってしまった。今すぐにここから出てください。後は俺たちが何とかします」

「余計なことをしないで」

 葦原さんは首を振った。

「家の前の持ち主も同じことをした。死んだ者を保つために、この家に何人も捧げた。そして、最後は家に食われた。この家の死体はなぜか見つからない。家が隠すからです」

「あなたはどうしてそんなこと知ってるんですか」

「俺たちはの専門家だからです。こういう邪悪な家はあちこちにある。家自体が悪意を持った巨大な神様みたいなものだ。あなたがたのような人を集め、生贄を捧げさせる」

 私は息をついた。

 そして葦原さんを見上げた。

 葦原さんはすっと屈んで、私と目を合わせた。

 川底で光る石みたいな不思議な色の目だった。

「もう、いいんです」

 私はまた言った。

「この家のおかげで、みんな生きていけるんです。ここにはみんないるから」

「この家に幽霊なんていない。家があなたの心を映して自動的に作りだす幻だ」

「幻でも、幽霊でも、いいんです。私たちがそれで救われているんですよ」

 私の後ろ、廊下の暗がりで、夫が私を見ている。

 大丈夫。あなたがいれば。みんないれば、もういいの。

「私は大丈夫」

「本当にそれでいいんですか」

 葦原さんはスッと身をかがめ、今度はさっきより低い声でゆっくりと尋ねた。

「いいのですか?ずっとこのままということはあり得ない」

「いいんです」

 私は彼を目を見て、はっきりと頷いた。

 葦原さんの後ろには、外に続くドアがある。

 金属でできた、厚くて時代遅れな重いドア。

 この、2階建ての古い家と外の世界を隔てるもの。

 そして私は振り返る。

 暗い廊下が奥に伸びている。

 その暗がりの向こうに、私の夫が立っている。

 こちらを見ている。

「私は大丈夫」

 私はまた、はっきりと言った。

 葦原さんは、諦めたように一度目を閉じてドアを開けた。

 ドアは私に選択を迫るように、やけにゆっくりと時間をかけて閉まった。

 一瞬だけ吹き込んだ外の風は、家に微かに漂う血の匂いに呑み込まれて消えてしまった。


 私は廊下を振り返る。

 みんながいた。

 夫、樹里ちゃん、タカノブさん、星野さんの奥さん、西岡さんの奥さん。

 みんな笑っている。

 床下から立ち上ってくる血の臭気にも、私はすでに慣れ始めていた。



 幽霊の出る家 完













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