日蝕の夢
香久山 ゆみ
日蝕の夢
「カ・ドゥー・クラ! カ・ドゥー・クラ!」
廊下からお嬢さまのソプラノが聞こえる。
「カ・ドゥー・クラ! ねえ、カ・ドゥー・クラはどこ?!」
またいつものようにお嬢さまがあいつを探しているらしい。カ・ドゥー・クラ……僕はカドクラと呼んでいるが、彼はこの屋敷の新参者にも関わらずお嬢さまのお気に入りだ。
ある日どこから来たのかふらりとこの街に現れて、腹を空かせて行き倒れていたところを、屋敷で保護された。カドクラ氏は屋敷中の牛乳と肉を一晩で食い尽くした。そして行く当てもないということで、用心棒としてこの屋敷で雇われることになった。この街でいちばん大きな屋敷で世話してもらえるあたり、相当運の良い男なのだろう。そして、この土地の風習も知らぬ新参者の世話係として僕が任命されたわけだが、まったくいい迷惑だ。送電器にさえいちいち驚くのだから、よほど辺鄙なところから来たのだろう。無骨な外見で、お世辞にも男前とは言いがたい。お嬢さまも一体この男のどこを気に入ったんだか。
「ねえ、あなた世話係でしょ。カ・ドゥー・クラを見なかった?」
お嬢さまが尋ねる。知らないですよ。それよりもお嬢さま、社会の勉強の時間なのですが。とは言えない。溜息を吐きそうになった瞬間、うしろから僕に代わって返事がした。
「カドクラくんなら、小一時間ほど前に図書館へ行くと出て行きましたよ」
振り返ると、ハルが涼しい顔をしている。幼少期からともにこの屋敷に仕える侍従長だ。サンキュー、目で合図を送ると、口の端だけわずかに吊り上げて笑顔を返してくる。
「まあ。ならば私も街へ出るわ」
だからお嬢さまはこれから勉強の時間なんですって。だいいち主人が無闇に屋敷を出るものじゃない。
「さあ一緒に行くわよ」
お嬢さまがきりっとした目を向ける。
へいへい。僕は今度こそ溜息混じりに、さっさと歩いていくお嬢さまのピンク色のフレアスカートのあとを追いかける。本当に元気な人だ。ハルは我関せずと、ひらひらと手を振って僕らを見送った。
さほど遠い距離でもないが、馬車に乗って行くことにした。
石畳で整備された道をガタゴトと進む。
「あ。ちょっと待った。止まってください」
大声で馬を止めると、隣の席でお嬢さまが怪訝そうな顔をする。トントンと窓の外を指差す。
「いましたよ。カドクラ氏」
図書館の帰りであろうカドクラ氏は、文字通り道草を食っている。いや、食ってはいない。が、道端の草っ原の中にうんこ座りでしゃがみ込んでいる。一瞬ぎょっとしたものの、ちゃんとズボンは履いている。
「よく見つけたわね」
お嬢さまが僕の膝の上に手をついて身を乗り出し、顔を窓に寄せる。
どこを動き回ったのだか、カドクラ氏の服は泥だらけだ。保護色で路傍に紛れている。確かに我ながらよく見つけたものだ。街に来た時には見慣れない奇妙な格好をしていたからどこにいてもすぐに目に付いたものだけど。丁シャツとジンズといったかな、足なんて素足に近い状態で、信じがたい軽装でうろうろしていたから、警備の者に止められたものだ。それを普通の服に着替えさせるべく説得するのも苦労した。面倒な格好だと渋るカドクラ氏に、これは身を守るための必要な装備だとこんこんと説明してようやく通常服を着るようになったのだ。しかし、通常服を着てもなおあの屈強な体格は目立つものだ。
「カ・ドゥー・クラ! カ・ドゥー・クラ!」
窓の外に向かってお嬢さまが呼び掛けるも、カドクラ氏は気付かない。ここから距離があるし、お嬢さまの細い声だと届かないのだろう。
「僕がカドクラ氏を連れて帰りますよ。お嬢さまは先に帰っていてください」
「あら、そう? 悪いわね」
僕は向かいの空席に荷物を置いて馬車を降りた。お嬢さまを乗せた馬車はそのまままたガタゴトと屋敷まで引き返していった。僕は路肩まで進む。カドクラ氏はしゃがみ込んだままだ。
「やあ、カドクラ氏。どうかしたのかい?」
声を掛けると、ようやくカドクラ氏は振り返った。
「いや。この花は……、タンポポか?」
カドクラ氏の骨ばった指の先を見て、思わず吹き出す。
「はは。それはヒマワリだよ。子どもだって知ってるよ」
「そうか」
カドクラ氏はヒマワリに伸ばしかけた手を引っ込め、空を仰いでから、ようやく立ち上がった。本日も快晴だ。ヒマワリたちも思い思いに背を伸ばしている。
「さあ帰ろう。お嬢さまがきみを待ちかねている」
「ああ」
カドクラ氏はすたすたと歩いていく。もうすっかりこの街にも馴染んだようだ。
屋敷に戻るとすでにお嬢さまは自室に戻っていた。身だしなみを整え直して、僕らは速やかにお嬢さまの部屋に向かった。
「まあお座りなさい」
促されて丸テーブルのお嬢さまの向かいに座る。ハルが淹れたのだろう、お嬢さまの前にはハスカップティーが、僕らの前にはアイスミルクとカフェラテが置かれている。カドクラ氏はお嬢さまがカップに口をつけるのを待ちもせずにガブガブとミルクを飲み干す。お嬢さまはそれを面白そうに眺めている。この男には僕らの常識が通用しないのだ。
紅茶を一口飲んだお嬢さまがカップをテーブルに置く。僕らもグラスを置き、お嬢さまの言葉を待つ。
さあ、お嬢さまの今日のわがままは何だろう。さっさと片付けて、社会の講義の時間に当てたいところだ。目まぐるしく変化する社会や政治、当主たる者は日々のインプットが必要不可欠なのだから。
「探してほしいものがあるの」
お嬢さまが言う。
「昨夜、ずいぶん久しぶりにお祖母さまの夢を見たわ。それで、思い出したの。――日蝕のモニュメントを探してちょうだい」
「日蝕のモニュメント?」
「ええ」
てっきりカードゲームか何かでもするのかと思っていたら、思わぬ話になってきた。カドクラ氏は口を結んだまま、じっと話を聞いている。
「昔、お祖母さまから聞いたことがあるのよ。そこにお祖父さまとの思い出が埋まっていると。幼い頃に夜伽で聞いたきりだったから、すっかり忘れていたのだけれど」
「日蝕のモニュメント……ですか。街でそんなもの見たことはないし、それらしい話も聞いたことはありませんね」
「ああでも、お祖母さまは確かそれを別の名で呼んでいたわ。なんて名だかもう思い出せないけれど、その話を聞いた時に私は日蝕のモニュメントだなと思ったのよ」
いつも毅然としたお嬢さまが珍しく自信なさげだ。太陽と地球と月が一列に並んだデザインだと言っていたから……、ね、日蝕でしょ、と上目遣いでこちらを窺う。
「この街では見ないけれど、カ・ドゥー・クラならば知っているかも知れないと思ったの」
確かに、恐らくは街の外から来たであろう彼なら知っているかもしれない。この小さな街は外周をぐるりと要塞壁で囲まれていて、街の人間がその外に出ることはない。
お嬢さまと僕の視線を浴びて、カドクラ氏は寡黙に首を傾げている。
「それは、……本当に街にはないのか?」
「ええ。それが一体何なのかは知らないけれど、今までそのようなものを見たことはないわ」
「僕も、この街で行ったことない場所はないつもりだけれど、そんなものは見たことないな」
カドクラ氏だって、もうずいぶんこの街を散策しただろうけれど、見たことないはずだ。
「一度、街中を探索させてもらっていいか?」
難しい顔をしてカドクラ氏が言う。やはり彼は思考よりも行動派なのだろう。せいぜい納得のいくまで歩き回ればいいさ。
「ええ、お願い。あ、そうだわ、あなた一緒についていってあげてちょうだい。街中に詳しいのでしょ」
お嬢さまが無邪気に言う。……ОH、また面倒くさいことに巻き込まれてしまった。ハルに笑われるだろう。
当然拒否する余地もなく、僕らは日蝕モニュメントを探すことになった。
カドクラ氏と街を探索する。小さい街とはいえ、隅々まで回るとなると半日近く掛かる。
「おかしいな、あると思ったんだが」
一通りの捜索を終えたカドクラ氏が呟く。街中を駆け回ったというのに、息一つ切らしていない。僕はもう足が棒だ。
「だからないって言ってるじゃないか」
「いや、あんなものどこにでもあるだろう?」
「見たこともないってば!」
諦めることを知らないカドクラ氏。埒が明かない。
堀に腰掛けて休んでいると、カドクラ氏はじっと立ち尽くしたままあらぬ方向を見ている。ひやりと嫌な予感がする。カドクラ氏の視線の先には何もない。――街を囲む要塞壁以外は、何も。
さあもう屋敷に戻ろう。僕が言うより先に、カドクラ氏が発した。ああ。
「壁の中にないなら、外だろう」
言った。はっきりと言った。
「無理だよ! 壁の外には出られない! 危険だから! そのために街はすっぽり全部覆われて守られてるんだよ?!」
僕もはっきり抗議した。
「いやしかし、ここにないなら外を探すしかないだろう。あれだけのものがどこにもないなんてはずはないのだから」
「でも街にないも何も、それが何かさえわからないのに!」
「いや、わかる」
彼は堂々と言ってのけた。
視線は真っ直ぐに壁の外を見つめて、鼻をピクピクさせている。なんだよなんだよ、野生の勘か?
どのみち要塞壁の外には出られない。厳重な警備が敷かれているから。
てこでも動かぬカドクラ氏を宥めつ賺しつ屋敷に引きずり戻した時には、もうへとへとだった。
そんな僕の苦労話を侍従長のハルは面白そうに聞きながら、甘いカフェラテを淹れてくれた。まずはもっとさぁそれがなんなのかつきつめるとこからはじめないとぉ……、とくだを巻くうちにいつの間にか眠りこけてしまった。本当に、疲れた。
しかし、あの変人はそう簡単に諦めるような男ではなかった。
翌日、わざわざ僕のところにお誘い合わせに来た。
「おい、行くぞ」
「へ?」
「今夜、決行だ」
「は? へ? な、何が?」
カドクラ氏が似合わぬ小声で言うが、奴は小声でも声がでかい。
「今夜、街の外へ出るぞ」
言った。はっきり言った。
「ば、ばかじゃないか?! 外は危険だって言ってるだろ! だいいち警備の目が厳しくて出られるわけない!」
「二十時の警備交代の時間に死角になる場所がある。脱出しやすい場所でもあるし、帰ってくるタイミングも計算済だ」
話を聞くと、なるほどしっかり計算されている。カドクラ氏のくせに、よくもまあこんな細かい計画を。
「だ、だからって、僕まで行く必要ないだろう」
我ながら情けないが、至極常識的な発言である。が、その主張も彼の一言ですぐに破棄された。
「お嬢さまも行く」
「え」
「お嬢さまも、一緒だ」
聞こえなかったと思ったのか、カドクラ氏が繰り返す。
「うそだろ」
屋敷から出ることもほとんどなく、馬車から降りることさえ厭う、あのお嬢さまが?
「例のものは壁の外にあるが持って帰ってこれるものではない、という話をしたところ、一緒に行くと」
「待って待って。外にある、って。あるかもしれない、だろ」
「いいや、あるさ。壁の外が手付かずの土地ならば、必ず」
確信したような言い方をする。
僕は溜息を吐く。選択の余地などないのだ。お嬢さまを得体の知れぬ流れ者と二人きりで夜中に外出させて、おめおめと危険な目に遭わすことはできない。無言の同意を示した僕の背中を、カドクラ氏は大きな手でバシンと叩いた。
カドクラ氏はどこで手に入れたのか、防護服までちゃっかり三着用意していた。サイズもぴったりジャストフィットだ。
夕食後、常より分厚い防護服に身を包んだ僕らは、そっと屋敷を抜け出した。夜の闇を堀に沿って目的のポイントまで進む。久々の外歩きで心配していたが、お嬢さまの足取りはいつもより元気なくらいだ。
二十時、予定通りに警備の空白ができる。壁が低くなった場所から、まずカドクラ氏が壁を上り、続いてお嬢さまを僕が台になって持ち上げてカドクラ氏が引上げる。最後に僕の腕をカドクラ氏が取り引っ張り上げる。幸い壁の外側も地面までさほどの高さもない。カドクラ氏はお嬢さまを抱きかかえたまま壁の外に飛び降りる。僕も身一つでひらりと飛び下りたものの、落ち葉に滑ってずでんとしりもちをついた。それに二人が冷ややかな視線を送る。うるさくしたのは申し訳ないけれど、せめて笑ってほしかった。しばらく息を潜めたが、壁の内側では通常の警備交代が終ったようで、誰も僕らの脱出には気付いていないようだった。
そろそろと立ち上がり、動き始める。
壁の外の世界は、しんと静まり返っていた。
伸びっぱなしになった雑草や木々が鬱蒼と生い茂っている。
漆黒の夜空には恐ろしいほど無数の星が瞬く。
僕らはずいぶん昔に舗装されたのであろう道を進んだ。
耳を澄ますと、街では聞かぬ虫の音や鳥や動物の鳴き声が聞こえる。思わずカドクラ氏の背中にしがみつきそうになるのを自粛する。
お嬢さまはハイになっているのか、よく喋る。壁の外はこんな風になっていたのね。まだまだ知らないことも多いわ。外出自体久しぶりよ。お祖父さまとお祖母さまはよく日蝕のモニュメントの下で待ち合わせをしたそうだわ。モニュメントから地球が現れるとお祖父さまはお祖母さまに向かって歩き、月が出ると待ちきれないように駆けたとか。ロマンチックね。ぜひ一度自分の目で見てみたかったの。見られるなら残りの命など惜しくない。なんて物騒なことまで言う。
カドクラ氏はきょろきょろ周囲を見回していたが、拓けた場所に背の高い花を見つけて視線を止めた。
「ヒマワリだ」
カドクラ氏は相変わらず花の名前を覚えるのが苦手らしい。が、僕は紳士なのでわざわざ指摘するのはやめておいた。その茎はずいぶん背が高く、いくつか咲いている花は皆一様に同じ方角を向いている。確かに黄色い花弁はヒマワリに似ているが、夜目にも立派なこのような花は街では見たことがない。壁外特有の花だろう。
道を進む。
カドクラ氏がぴたりと足を止める。
「あった」
彼の視線を追う。
五メートルほどもあろうか、鉄製の一本足の先に平らなプレートが付いた構造物が静かに立っている。
「これは?」
カドクラ氏を仰ぐ。
「これが、例のモニュメントだ」
カドクラ氏がそう言うので、お嬢さまとともに再び構造物をじっくり見上げる。確かに見たこともない不思議な形をしている。しかし、棒の先に長方形の板がくっついているだけで、日蝕の要素なんてない。はたしてカドクラ氏はそもそも日蝕を理解しているのだろうかと、不安になる。日蝕とは、太陽と月と地球が一直線に並び、月に隠されて地球からは太陽が見えなくなる現象だ。だから、モニュメントは球形が三つ並んだものであったり、はたまた金環日蝕を模したリング状のものだったりするのではないかと予想している。そうだそうだ、リングとかめっちゃ恋愛っぽいやん。かたや、目の前の構造物にはロマンスどころか天体の要素すら皆無だ。
「あのさ、言いにくいんだけど、絶対に違うと思うよ。全然日蝕関係ないし」
思い切って言ってやる。ちらとお嬢さまを窺うと、見たこともないようなうら悲しい表情をしている。
「ちょっと待ってろ」
カドクラ氏は鉄柱に近づくと、なにやらごそごそしている。パカッと鉄柱の側面の蓋が開く。カドクラ氏がポケットから小さな箱を取り出す。送電器だ。ガサゴソと鉄柱と送電器の配線を繋いでいるようだ。
「よし」
見てろ、と言って、カドクラ氏が送電器の電源を入れる。
ポ。と、鉄柱の上端のプレートに青く円い光が灯る。
僕とお嬢さまはぽかんとそれを見つめる。
すると、青い光が消え、今度はプレートの中央に黄色く円い光が灯る。
「……月……」
お嬢さまの口から言葉が漏れる。確かにその光はまるで満月のようだ。
見つめるうちに黄色い光は消え、代わりにプレートの右端に赤く円い光が灯る。
「太陽か……」
赤い太陽もじきに消え、再びプレートの左端に青い光――地球が灯る。
僕たちがじっと見つめる間、プレートはゆっくりと明滅を繰り返した。
長方形のプレートの中で、地球・月・太陽が左から順に一列に灯る。日蝕だ。
「美しい……」
無限の星空を背景に、人工の天体ショーは魅惑的な明滅を永遠に繰り広げる。夜空に三色の星が並ぶ。
そういえば。
ふと思い出して、視線を下ろす。お祖母さまはこのモニュメントの下に宝を埋めたと言っていたのではなかったか。
陶然とモニュメントを見上げるお嬢さまを横目に、鉄柱に近づく。
しゃがみ込み、地面を掘り返そうと伸ばした手をふと止める。僕の動きに気付いたカドクラ氏も視線を下ろし、そして静かに呟いた。
「月下美人か」
それを指したのかどうか分からないが、その響きはそれにとてもよく合った名だと思った。暗い夜の中、真っ白な艶やかな花が大きく開いていた。まるで今目覚めたように。夜の女王のように気高く凛と咲いている。
プシュー、異音に顔を上げると、あろうことかカドクラ氏が防護マスクを外しているではないか。
「ちょ、何してんだよ! 汚染されるぞ!」
「汚染された空気でこのように植物がちゃんと育つはずがない」
平然と言って、鼻をピクピクさせている。
騒ぎに気付いたお嬢さまも合流する。そうして、カドクラ氏の様子を見て、お嬢さまも防護マスクを外してしまった。
「……あら、いい香り。とても甘い、夢みたいな」
白い花に顔を寄せ、すうっと気持ち良さそうにゆっくりと空気を吸う。カドクラ氏はもう向こうの方でのんきに伸びなんてしている。くそ。
ええい、僕も。マスクを外す。
すぐに濃厚な甘い香りが鼻をくすぐる。あまりに魅惑的な芳香に、逆に不安になる。慌てて花から遠ざかると、夜の空気が身体を包む。街中で吸うよりもずっと澄んだ空気が体中を巡り、さっと思考が冴えるような気さえする。
「その花はたった一晩しか咲かない」
カドクラ氏に言われ、お嬢さまは摘みあげようとしていた手を止めて、引いた。幻のように白い花をじっと見つめて言った。
「お祖父さまとお祖母さまが埋めたもの。それはきっとこの美しい花の種だったのでしょうね」
とても穏やかな表情をしている。そうしてしばらく花を見つめたのち、帰るわよ、と街に向かって歩き始めた。
もう誰も美しい花の下を暴こうなど思わなかった。あの花と、この夜以上に美しいものは見つからないだろうと思ったから。
*
屋敷に戻った僕は、興奮冷めやらぬまま、闇に紛れて幼馴染の侍従長ハルのバルコニーに忍び込む。コンコン、と窓を叩くと、まだ起きていたのだろうハルがすぐに出てきた。
バルコニーのテーブルに向かい合って座る。外でお茶する変わり者なんてハルくらいだ。淹れてくれたカモミールティーに口もつけずに、夢中で見てきたことを話す。ハルは適当な相槌を打ちながら黙って聞いてくれる。
「でさ、壁の外に行ってみてよかったよ」
喋り続けて一息つくと、ハルがじろりと睨む。
「なら一緒に連れていってくれたってよかったのに。なんで誘ってくれないかな」
「え。でも、だって、危ないしさ……」
おろおろ慌てていると、ハルがぷっと噴き出す。
「冗談だよ」
ほっと安心したのも束の間、爆弾発言が。
「カドクラくんに壁の外への脱出手段を進言したのは私だしね」
「ええーっ」
「防護服を用意したのもね」
なるほど、がさつなカドクラ氏にしては周到過ぎると思ったのだ。
「その時にカドクラくんへ私も一緒に行きたいと頼んだんだけどね、断られたんだ。そのような危険なことに女を二人も連れては責任が持てぬ、って」
「はあ、前時代的な発言だねぇ」
「ほんとに。彼らしいけどね」
まあ、外の様子ならあとできみに聞けばいいし。と、ハルはそれほど残念そうな様子もなく飄々としている。だから僕は見てきたことを余すことなく伝える。夜の空気や美しい花、あのモニュメントのこと。
「ところで、あれは一体何だったのだろう」
あの幻想的な日蝕モニュメントを思い浮かべる。夜空に浮かぶ青黄赤の明滅。
「ああ、信号機ってやつさ。前時代の遺構だよ」
ハルが平然と言ってのける。まさか答えが返ってくるとは思わなかった僕は驚く。
「し、信号機?」
ハルが頷き、説明する。
遥か昔、環境の悪化により、世界中の土地が汚染された。生物が生存できる環境ではなくなった。そこで人類は一所に集まり、科学の英知を結集して、巨大なドームを建築して街を覆った。そのドームの中では、紫外線は弱められ、水は濾過され、空気中の汚染物質は除去される。要塞壁の内側であるドームの中に限り、人類は安全に暮らすことを許された。それでも依然として外出時には防護効果のある通常服を着るのが慣例になっている。ドームは狭く、また汚染防止のため、かつての機関車や自動車などの文明は捨てられた。移動はもっぱら馬や自転車などの非動力源が使われる。そのため、かつて走る凶器ともいわれた乗り物の交通整理をする用途で世界中に設置されていた信号機はもはや必要なくなり、街から撤去された。
「へえ。青が進めで、赤が止まれ? そのサインに人間が皆従うの? 昔の人は自分の目よりも機械の指示を信じて行動していたのか」
「その方が楽だったんだろうね。今だって同じさ」
「でもハルはどうしてそのような失われた文明のことを知っているのさ」
信号機のことなんて歴史の授業でも習わなかったし、教科書でも見たことがない。取り立てて記録に残されることもないくらい、あまりにも日常的で平凡なものだったのだろう。
「図書館の古い蔵書で見たんだよ。写真集や図鑑、古い小説なんかにいくらか載っていたんだ」
ハルは昔から勉強好きで図書館の本なんてほとんどすべて読み尽したのではないかと思う。だから本当は、僕なんかよりもハルの方が教師に向いていると思うのだけれど、そう言うといつも一笑にふされる。私は自分や好きな人のためにしか動かないけれど、きみは誰のためにでも等しく動くことができる。きみこそ教師に向いているんだ、と。
「それでも、はじめはお嬢さまの言うものがそれだとはぴんと来なかった。けど、きみ達が街中探索したあと、カドクラ氏がこんなものを見たことがないかとへたくそな絵を持って来た時に、繋がったんだ。それで、壁の外にはまだ残っているかもしれないと教えた」
なんとそんなやり取りが。
「でも、なぜカドクラ氏は信号機を知っていたんだろう」
僕が疑問を呈する。ハルが紅茶を啜って、あっさり答える。
「彼は過去から来たのだと言っていたけれど」
「まさか」
「理論上は可能だよ。――過去から未来へ行くことはね」
そう言ってハルは睫毛を伏せた。なら、過去へ戻ることは? カドクラ氏の助けになってやりたいと思ったが、彼なら自力であっさりなんとかしそうな気もする。
「それにしても、ハルすごいね。僕らより半世紀も長く生きているお嬢さまでも知らないことまで知っているなんて。惚れ直しちゃった」
「ばあか」
ハルがもう空になったカップに口を付ける。バルコニーに夜風が抜ける。かすかに甘い香りがしたような気がした。
日蝕の夢 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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