第10話
夏服期間になった。赤から水色に変わったリボンの色に、まだ早すぎるけれど、ジリジリと言う蝉の声を聞いた気がした。
家を出て、スクールゾーンの文字を踏んだ時、あの陽炎が一瞬見えた気がして、少し眩暈がした。
改札を通り、いつもと同じ電車に乗る。改札を通る時、ICカードをかざす部分が右側にあるから少し不便なのだ、と、いつか左利きの誰かから聞いたことをいつもうっすらと思い出す。右利きの私には見えない世界。
大学に入れば、朝ゆっくり寝れると思うでしょ、でも一限があれば高校とそんなに変わらないし、なんならちょっと早起きしなきゃだよ、と、いつか卒業した先輩が言っていた。高校生の私には、まだわからない世界。
好きな人が自分のことを好き、って本当に奇跡みたいで、とても嬉しいし楽しい、でも一人でいる時に感じる孤独より、二人でいる時に感じる孤独の方が辛いよ、と恋人ができた友達が言っていた。他の子は、付き合う、って想像してるよりも大したことないよ、と言っていた。
私には、わからない世界。
先生の見る世界。
校門に立っている先生が見えた気がして、今日は当番じゃないはずなのに、とうとう幻覚まで見えてきたのか、本当に私おかしくなっちゃったな、そういえば朝から少し目眩が…と考えたところで、意識が飛んだ。
気がついたら、保健室にいた。
「あ、気がつきましたか。どこか痛みますか。」
先生だ。まだ夢の中にいるのだろうか。
「ここは保健室です。今は…一時間目の途中ですね。」
ふわふわする。
「…佐藤さん?」
「あ…。もう大丈夫です。」
声が掠れる。
「頭痛とか、吐き気とかは?」
先生の声はいつもよりも柔らかい気がする。
「いえ、平気です。少し目眩がしただけで…。」
少し心配してくれているのか、眉を下げて微笑む。
「そうですか。早退するなら紙も書きますし、無理はせずに。」
ぼんやりしたまま、こちらに話している先生を見る。
先生と同じ空間にいると、どうしようもない気持ちになる。すべてをめちゃくちゃにしたくなってしまう。どうせ叶わない願いなら、いっそのことすべて壊して、もう優等生ヅラはやめて、感情に任せて、暴走したい、私の手で、先生の余裕のあるこの穏やかな微笑みを、乱したい。どうしたらこの表情を、一定を崩せるのか、考えてしまう。どうしたら先生の世界に私が生徒という枠を超えて存在できるのか。怒りでも憎悪でもいい、どうしたら強い感情をこちらに向けてくれるのだろうか。
そして同時に、先生に私を乱されたい。もうすでに先生のことで頭がいっぱいで、暴走して変な質問をしたりもした。でも、もっと自分でも知らない自分を引き出してほしい。私が自分では届かない部分に触れてほしい。そしてぐちゃぐちゃにしてほしい。もっと訳がわからなくなりたい。私の瞳を、先生でいっぱいにしたい。
どうしたらいいかわからないのに、欲ばかり生まれる。そんな自分がどうしようもなく嫌だ。
「佐藤さん?本当に無理しないでくださいね…?」
こちらを伺う先生の瞳に、私が映っている。でも、それは私が望むように、ではない。
「ありがとうございます。もう少し横になって、二時間目に出るかどうか、考えます。」
「そうですか。では、お大事に。」
いつもの微笑みを浮かべて、ベットの脇にあった椅子から腰を上げて、去ろうとする。
ワイシャツの袖を、思わず掴む。
少し驚いた顔で、見下ろされる。
「…佐藤さん?」
声が少し揺れている。
「…ずっと、」
私の声も、少し揺れてしまう。
「ずっと、ここにいてくれたんですか。」
少し困惑している。あの準備室の時と同じくらい。
「いえ…。ここまで運んできてからずっと、ってわけでは…。一度様子を見にきたら、ちょうど目を覚まして…。」
話せば話すほど、困惑が伝わってくる。少し緊張しているんだろうか。なぜ?
「少し、休んだほうがいいですよ、本当に…。」
先生の緊張が、こちらにもうつる。先生のワイシャツの袖を掴んでいる手に力がこもる。
「そうですよね、そうします。」
いつも綺麗にアイロンがかけられた、白いワイシャツ。
「はい。」
ネクタイの色、今日初めて見る色だ。
「先生。」
何かに似ている色。
「はい。」
思い出せない。確か、小さい頃の記憶。
「先生のワイシャツ…綺麗にアイロンがけされてますよね。コツとか、あるんですか。」
瞳の色、意外と茶色い。
「そうですか…?一人暮らしが長かったので、少しは慣れていますが…。コツはわかりません。」
今、私、この人を困らせている?
「私は、母がアイロンがけをしてくれるんです。手先が器用なほうじゃないのに、丁寧に。」
「そうなんですね。」
「こういうの、愛情、っていうんですかね。」
「そうだと思いますよ。」
「そうですよね。喜ぶことしたい、っていうのが、愛情とか、好き、とかの正しい形ですもんね。」
「…佐藤さん、おれもう行かないと…。準備しなきゃ。」
「…”おれ”?」
「あ、…。」
先生、私のことで、怒って、困って、泣いて。私のことだけで、感情を使って。
「一人称、おれなんだ。」
「何笑ってるんですか、本当、大丈夫ですか?なんか、いつもと違いますよ、あの時みたいです。」
「あの時?」
「『こころ』の質問してきた時。」
「ああ。覚えてるんですか。」
「そりゃそうですよ、結構脈略のない…。」
「困りましたか?」
「え?」
「困りましたか?あの時。」
「まあ、そうですね、少し。」
「じゃあ、今は?今はもっと、困ってますか?」
あの時、これ以上に衝動的になんかならない、って思ったはずなのに。この人と一緒にいたら、何もかもが嘘みたいになっていってしまう。
「本当に、どうしたんですか。熱あるんじゃ、」
「先生。…ここまで運んでくださって、ありがとうございました。」
「いえ、」
「もう少し寝ますね。」
手を離して目を瞑る。しばらくして先生が立ち去る足音とドアの音を聞いた。
もう一度意識を手放す寸前で、幼い頃に飲んだサイダーの瓶の色だ、と思い出した。
雨の日 楓 @kaede_797
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