第9話

 体が冷える。

 気温は低くないはずなのに、さっき向けられた鈴木くんの視線と、そして今まで自分がとってきた態度に、体の底から寒気が襲ってくる。

 廊下の窓から生ぬるい風が吹き込んでくる。少しだけ、夏の気配がする。もうすぐ夏服期間が始まる。

 先生を追いかけてきたけれど、職員室か準備室に行くかは決めずに飛び出してきてしまった。

 頭ではわかっていても、どうしても惹かれる気持ちに抗えない。そういった心情。

 鈴木くんの言葉がリフレインする。

 どうして。

 階段を降りる。私の足音だけが、遠くで聞こえる声と混じる。


 いる。

 準備室のドアを開ける前に、なぜだかわかる。

 ノックをしようとした手がとまる。どうしても、このドアを開けるのに躊躇する。

 今度こそ、間違えたら戻れない。言うべき言葉も、取るべき態度も、一ミリでも正解から外れてしまえば、もうそこから動けなくなる気がした。

 深呼吸。吸って、吐く。

 手のひらに、人、と書いて三回飲もうか、なんて考える。

 ドアが開く。

 先生は驚いた顔をして、佐藤さん、どうしましたか、と聞く。

 もう既に、間違ってしまった。動けなくなる。

「片付け、終わりました。」

「そうですか。もうそろそろ終わる頃かな、と思って、今ちょうど行こうとしていたんです。教えにきてくれて、ありがとうございます。」

 先生は微笑む。これから先の人生で、この微笑みから、この体感温度から、この場所から、この人から。動けなくなる気がした。


 図書室へ戻る途中、もうすぐ夏ですね、という会話をした。先生は、受験生の勝負所は夏、なんてことは言わなかった。代わりに、夏服期間が始まる日付を間違えないように、と言ってくれた。

 この人の、こういうところを好きになったんだろうか。わからない。

 窓からは生ぬるい風。

「新聞部が、このビブリオバトルを記事にしてくれるそうですよ。途中で写真を数枚撮っていたの、気づいていましたか。」

 先生と私の足音だけが響く廊下に落ちる声。

「いいえ…、気がつきませんでした。新聞部が…。」

 視界に入る大きな足のサイズ。

「楽しみですね。きっと佐藤さんも写っていますよ。」

 今日も綺麗にアイロンがけされた白いシャツ。

「ええ、私も…?」

 きっと忘れることができないであろう微笑み。

「ええ。」

 今日の体感温度も、生ぬるい風の匂いも、足音も、声も、きっと全てを記憶してしまう。

「そういえば、次の模試の前に、解いておいた方がよさそうな問題がいくつかあるんですが…。添削もしますし、解いてみますか。」

 ずっと、図書室に着かなければいいのに。

「ぜひいただきたいです。ありがとうございます。」

 二人で並んで歩くことは、きっともう何回もできない。

「では図書室を出たら、一度戻ってとってきます。」

 これ以上近づくことは、できない。

「いえ、それはちょっと申し訳ないので…。明日、取りに行きます。」

 少し微笑む。

「でしたら、明日の授業の時にお渡ししますよ。」

 きっともう、準備室で二人で話すこともできない。

 痛んだ胸を隠して、ありがとうございます、と笑った。


 電車が通過いたします。危険ですので、黄色い点字ブロックの内側まで、お下がりください。

 駅員のアナウンスを聞いて、は、と気がつく。

 学校からここまで、どう歩いてきたのか、思い出せない。濡れた靴下とローファーが気持ち悪くて、左手に持っている傘に気がつく。そういえば、今日は雨だった。

 電車がホームに滑り込んでくるのが見える。強い風が吹いて、髪が乱れる。髪染めたいな、とぼんやり思う。

 次の電車の時間を確認するために電光掲示板に目をやると、なぜか、一瞬だけ、図書室の匂いがした。

 先生と歩いた、図書室までの廊下。一生着かなければいいのに、なんて非現実的なことを思って、それから後悔した。そして、それと同じくらい強く、隣に並びたくない、と思った。

 先生とずっと一緒にいたって、先生の気持ちが私に向けられるはずないのに。そばにいたって、こっちを見てくれるわけじゃない。

 好きだからこそ、近くにいたい。

 好きだからこそ、遠くにいたい。

 あの目に映りたい。本当の意味で。

 次の電車を待つ間、ふと振り返る。

 同じ制服を着た人はいない。この路線を使う人は少ない。

 別の制服を着た女の子五人組が視界に入る。スカートの丈は膝上で、かわいい色のブレザーに、サラサラの茶色いロングヘア。みんな身長が高くて、かっこいい。楽しそうに、好きな人の話をしながら歩いている。

 私も、ああなれたらよかった。友達に言えるような人を、好きになりたかった。どう頑張っても振り向いてもらえない相手なんかじゃなくて、同じクラスの隣の席、とか、委員会が同じ、とか、そういう、好きになるのにちゃんとした理由があって、振り向いてもらえるかもしれない人を好きになればよかった。

 彼女たちは、正しい。

 私の恋は、間違っている。

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