第8話
手のひらに、人、と書いて三回飲む、という方法を、最初にやり始めたのは誰なんだろう。
そして、多くの人が知っているであろうこの方法を、私に教えてくれたのは、誰だったんだろう。
夜に爪を切ったり、口笛を吹いてはいけない。霊柩車が通るときは、親指を隠す。こういうものを教えてくれた誰かを、私は思い出すことができない。
いつも閲覧席として使用されている長机を端に避けた図書室は、いつもの倍以上も大きく見える。
「緊張してる?」
隣から聞かれる。
「うん…。司会しかしないのに、おかしいよね。…緊張しないの?」
なぜか、名前が呼べない。
「おれ?うーん、そこそこかな。」
「そっか、やっぱり堂々としてるね。」
「そんなことないよ。人、って書いて三回飲まなきゃ。」
あ、と思う。
「もうすぐ始まる。…上履き、履きなよ。」
言われて、また上履きを脱いで遊んでしまっていたことに気がつく。先生に言われ、直したはずの癖。
右足から履いて、つま先をとんとん、として、立ち上がる。最後にちら、と原稿を確認して、カウンターの外に出る。
何度も練習した司会のセリフを言うために、息をそっと吸い込む。
「頭ではわかっていても、どうしても惹かれる気持ちに抗えない。そういった心情が濃やかに描かれていて…。」
考えてはいけない、と思えば思うほど、好きになってはいけない、と思えば思うほど。
「共感を引き起こすように見せかけて、実は恋に恋している状態の主人公を読者は第三者的な視線から眺めることができ…。」
ロミオとジュリエット効果、という言葉がある。
「ある意味では、酔うことも、そして醒めることもできる、しかしそこでもまた…。」
あ、デジャヴ。
鈴木くんが話しているところを見て、今のシーンを見たことがある、と思う。
小学生の頃から時折あったこの感覚。
司会の私は、鈴木くんから見て左側に、彼の方を向いて座っている。
先生は、私から見て左側に、みんなの方を向いて立っている。
確か、私はこの後、先生の方へ視線を向けて、先生越しに窓の外を見ようとするけれど、淡い黄色のカーテンが視界を埋める。
銀杏の色に似ている。学校の近くにある、あの神社の。
視界を奪うその色を背景にした先生は、鈴木くんのことを見ている。その表情から、なぜか、先生は今、恋は罪悪だと思い知るきっかけになった人を思い出しているのではないか、と思う。
先生。私にとってのそれは、先生なのだ。
どうしようもなく、先生のあの目に、本当の意味で映りたい。
鈴木くんの持ち時間はまだある。この人は、私に対してどれくらいの感情を向けてくれているのだろう。
不思議に思うし、何か大きな誤解をしているんだろう、と思う。そしてその誤解を通して私を好きになっているに違いない。
自意識過剰かもしれないけれど、彼の言葉の端に見える私への微かな尊敬が、私が彼に誤解を与えているのだと思わせる。
私は、尊敬されるような人間ではない。
尊敬は、責任が伴う。期待にも似たその思いは、簡単に崩れ落ち、その感情の持ち主を落胆させる。
私はそんな尊敬から逃れたい。私のある一面を見れば、きっと失望させてしまうに決まっている。
責任を持ちたくない、弱い人間なのだ。落胆させてしまう申し訳なさと、落胆された悲しさに耐えられず、逃げているのだ。
「文字通りに読むだけでは感じ取れない、理性の部分と、そして…。」
そう思うとますます自分が罪人のように思えてきて、体育座りの姿勢で、足を自分に引き寄せる。
さっき履き直した上履きが、きゅ、と鳴った。
「佐藤、そっち側持ってくれない?」
いつもの図書室に戻すために動かす長机は、一人で持つことができない。
「うん。わかった。」
かといって、二人で持つこともできない。
あと二人、と思って、近くにいた二年生らしき後輩に頼み、四人で移動させる。
床に貼ってある青色のテープに机の足を合わせるとき、先生の足がドアへ向かっていくのが見えた。
思わず追いかけてしまいそうになるけれど、直後だと不自然かな、と思いとどまって、図書室全体を見回す。
「片付け、これくらいで終わりかな?」
「そうだね、机は戻したし、カウンター周りも大体片付いたかな。」
「じゃあ、私、先生呼んでくる。」
そう言った時、鈴木くんが少し顔を引き攣らせたように見えて、怖くなって、そのまま目を伏せて早歩きで図書室を出た。
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