完了と忘却

詩人

和解と物陰

 新居に積み上がった段ボールは、いよいよ残りわずかとなった。

 大きいとは言えないが二人が住むには充分な広さで、家具や電化製品の類いに不自由はない。見渡せば、今からでも生活を始められるくらいに整頓されていた。


「いっせー! 残り、これなに?」


 いのりが段ボールを打楽器代わりにドンドンと叩いて言う。祈は遠い親戚の娘で、彼女の両親の死後に誰も引き取らないからと母親が引き取った。しかし母親に任せきりにするわけにもいかず、自分の転勤に合わせて二人で引っ越してきた。


「これはな、学校の思い出が詰まってんだ」

「思い出?」


 この春から小学生になる祈は、まだ思い出などないに等しい。それどころか両親を物心のついていない頃に亡くし、本当の家族でない自分たちを家族と思い込んで生きてきた。24も歳の離れた僕を「いっせー」と兄のようで父のように慕う姿は、嬉しくもあり悲しくもあった。


「祈はこれから、作っていくんだぞ。試しに高校のアルバムとか見てみるか」

「みるー!」


 祈が無邪気にはしゃいだ。段ボールをを開けて、中に入っていた高校のアルバムを開くと埃が舞った。示し合わせたかのように僕と祈は咳き込み、それがおかしくて笑った。


 高校時代となるともう15年ほど前のことになるが、クラスメイトの引きった顔や「お世話になった先生方」に映る顔は鮮明に覚えていた。人生の中で一番濃い時間を過ごしたのだから、当然なのかもしれない。


 祈はというと、クラスメイトの顔を指で差して「この人カッコイイ」とか「この人可愛い」とか表面だけを見た感想を呟いていた。僕はあえなくスルーされてしまった。


「この人! この人、ちょー可愛い!」


 急に祈が声を荒らげるから、どれほどの美少女だろうかと思い視線を落とした。そこに映っている女の子は、確かに高校生にしては可愛かったが僕の記憶に全く残っていなかった。名前は「篠塚しのづか詩織しおり」。やはり覚えていない。


 篠塚を思い出すための手掛かりはないものか、と思って段ボールをあさってみたが、アルバムの他には大学時代のサークルの報告書しかそれらしきものは見当たらなかった。

 たいていの同級生が同じ大学へ上がったので、わずかな可能性に縋る思いで目次を見てみた。


『篠塚詩織 完了と忘却』


 ……これだ。視界に入った文字の列を見るだけで、他の人のものとは明らかに違うと思った。

 他の人、もとい僕みたいな普通の人は『サークル活動で得られたもの』とかありきたりなタイトルを付けているのに対し、篠塚は『完了と忘却』などと文学じみたタイトルを付けていた。そして極めつけは最初の一文だった。


「ある日の夕暮れ、私の命は一人の愚かな少年に委ねられた。」


 その時、僕の意識が遠のいた。




 ――カン、カツン、カン、カン。

 不規則、しかし聞き心地の良い鉛筆の音によって目が覚めた。


「あぁ、目が覚めたのね。一時間ぶり……いや、今の一誓いっせいくんは私のことを覚えている?」

「詩織さん……。何言ってるんです? それより俺、そんなに寝てたのか。他のみんなは?」


 部屋を見渡す。「小説研究サークル」の活動場所である会議室には、僕と詩織の二人しかいない。他の部員たちは帰ってしまったのだろう。窓の外が仄かに暗くなっている。


「それで? 満足のいくストーリーはできました?」

「ううん、今日もまたつまらない話しか書けなかった。いつか賞も取り消されちゃうかもしれないわね」

「そんなことないですよ」

「じゃあどういうところが『そんなことない』のか、説明してみて? 今後の参考にしたいから」


 詩織は強引に僕の胸に、10枚ほどのルーズリーフを手渡した。罫線を遵守し、均等な整った字で裏表にびっしりと文字が詰められている。教科書や文庫本のページがそこにあるかのように思えた。


「え、えっと……その、」


 本当は具体的に彼女の小説に口出しするほどの読解力はない。高校時代に一目惚れした彼女の「人間の部分」に惹かれただけで、彼女の小説は正直言ってどうでもよかった。


「やっぱり。一誓くんは私の小説なんかどうでもいいのね」


 わざとらしく唇を尖らせ、拗ねたような表情を見せる彼女に、また僕はドキッとしてしまう。こんなにも愛おしい表情を僕だけが独占しているという背徳感と満足感に駆られるのだ。


「冗談よ。そういう一誓くんだから、好きになったのよ」


 時が、止まった。

 二人の所作も、周りの音も、全てが停止した。


「え」

「今のは、違くて」

「詩織さん……?」

「……はい」

「俺と付き合ってくれますか?」


「…………はい」


 最初、僕はやましい気持ちだけで詩織さんに好意を持っていたが、詩織さんはどうやら「小説を引いた私」を見てくれていることに安堵していたのだそうだ。

 純粋な好意だけで、わざわざ詩織さんが所属しているサークルに、興味もないくせに入ったりすることが面白かったらしい。思い返してみれば行為自体はストーカーのそれと変わりないが、けれどもそれで詩織さんの気を惹けたのであれば成功と言っていいだろう。


 それから僕は、詩織さんと何か以前と変わったことをしたかと言われればそんなことはなかった。高校時代に小説で賞を取り、雑誌に連載をしている詩織さんはずっと会議室で原稿に追われていたし、僕はそれを眺めながら時々眠るだけであった。

 だけどそれが幸せでたまらなかった。僕はもちろん、詩織さんも表情には出さないが楽しそうだということはなんとなく伝わってくる。それを感じ取って僕はまた幸せな気分になれた。


「私はさぁ、きっと死んだら詩になるよ。死ぬんじゃなくて、詩ぬんだと思う」


 時々、口癖のように詩織さんは言った。職業病のことを言っているのか、はたまたそういう文学的な表現があるのか。自らを嘲るように呟く彼女に、僕はもっと早く気付いておけばよかった。

 大学を卒業して、同棲して、僕は気付けばよかった。


 詩織さんは、小説に殺されてしまった。

 好きだったはずの小説に、疲れ切った詩織さんは殺された。

 憂鬱なアパートの一室には、僕と彼女の詩と、彼女のが遺された




 ――意識が戻った頃には、隣で祈が大声を出して泣いていた。


「起きてよぉーー!! 死んじゃヤダよぉーー!!!」

「いの……り……」


 僕は祈を思いのままに抱きしめた。温かい。涙が溢れてきた。

 何が「遠い親戚の娘」だ。何が「記憶に残っていない」だ。

 彼女は、詩になって僕らの記憶から忘れ去られていたというのか。

 最愛の娘が思い出すきっかけをくれた。そうじゃなかったら、僕はきっと忘れてしまったままだっただろう。

 小説が彼女を殺した。小説に、最愛の娘と妻を忘れさせられた。

 小説がなくても生きていけるんだと、詩織さんに見せてあげたい。


「祈、俺は絶対に死なないよ。だから安心して」

「ホントに……?」

「俺は死なないし、祈も死なせない。詩にもさせるもんか」


 完了なんかじゃない、詩を打ち消すほど幸せな生活を送るんだ。

 強く、僕は意志を持った。

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完了と忘却 詩人 @oro37

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