第2話 ホエールウォッチング 後編
濃霧が波打つ。
最初は、小さな波紋が幾つも上がり、それが小さな
濃霧の下で木々が大きく騒めき、青白い胡麻粒のようなものが嵐に煽られた林檎のように飛び散る。
青白い胡麻粒が荒波の中を逃げ惑う。
鳴き声が聞こえる。
大きくて、低い、胸を擦り抜けて腹の中に入り込んでくるような鳴き声が。
濃霧は、さらに荒れ狂い、巨大な渦を巻く。
無数の青白い胡麻粒が濃霧の渦から飛び出す。
姿を現したそれは決して胡麻粒などではなく、一つ一つが冷たく燃え上がる青い炎であった。
再び鳴き声が聞こえる。
腹の中をうち震わせる大きく、低い鳴き声が。
それは渦の中心から聞こえてきた。
そしてそれは姿を現した。
連なる山々と並ぶ巨躯。
赤く燃え上がる瞳。
一薙ぎで大地を破りそうな巨大なヒレ
そして竜の鱗のように重なり合った無数の木の板のような茶色の外皮。
それはあまりにも巨大な"木の鯨"であった。
木の鯨は、濃霧の渦から飛び上がると左右のヒレと尾を悠然と動かし、水色の空を泳ぐ。
そうまるで母なる海のように。
「また、大きくなってます」
彼女は、食べかけのチーズおにぎりをジップロックにしまい、代わりにリュックからタブレットを取り出す。
タブレットのページには今まで記した木の鯨の監察日記と写真が貼り付けられている。
彼女は、タブレットのカメラ機能を使って木の鯨を写真に収めていく。
木の鯨は、大地を震わすような唸り声を上げて顎を開く。
ズオオオッという呼吸音が耳を貫く。
青い炎たちが一斉に木の鯨の口の中に吸い込まれていく。
海で鯨に追われるオキアミのように。
青い炎を吸い込みに比例し、木の鯨の腹が膨れていく。
彼女は、タブレットをリュックの上に乗せる。
金色に光る目で木の鯨を捉え、大きな声で叫ぶ。
「そんなに食べて大丈夫ですか⁉︎」
細い身体からは考えられないほどの大きな声。
しかし、その声も木の鯨の吸引音にかき消されてしまう。
木の鯨は、声をかけられていることにすら気づかず青い炎を食べ続ける。
「まったく・・・」
彼女は、リュックの中を漁る。
取り出したのは母が出発前に寄越した折り畳み傘だ。
傘のボタンを押して開くと水色の幌が広がる。
傘の柄を叩き、鉄の芯を摩る。
そして水色の幌を子猫のように優しく撫でる。
「お願いしますね」
そう言うと傘を差したままガードレールを跨いで、崖の上に飛び出した。
しかし、落下はしなかった。
彼女の足はしっかりと空を踏み締めていた。
まるでエアクッションの上を歩いているかのようにふわふわと弾んでいる。
彼女は、足の感触を確かめながらゆっくりと足を前に進める。
『足を使って歩いているうちは半人前ね』
昔、母に言われた言葉が頭を過ぎる。
今は、箒で飛ぶような時代じゃないです!
彼女は、胸中で愚痴り、頬を膨らませながら木の鯨に近づいていく。
その間も木の鯨は、青い炎を飲み込み続けていた。
(明らかに増えてますね)
木の鯨に吸い込まれていく青い炎見ながら胸中で呟く。
彼女は、木の鯨の燃え上がる目の前に立つ。
木の鯨の目だけでも彼女の身長の2倍はある。
恐らく自分なんてカブトムシぐらいにしか見えていないのではないか?
そう思いながらも彼女は、大きく息を吸って叫ぶ。
「そんなに食べて大丈夫ですか!」
人間なら間違いなく耳を
しかし、木の鯨は、意に介した様子もない。
ただ、炎の瞳が小さく揺れる。
ボォォ
木の鯨の口から小さな声が洩れる。
返事が返ってきた。
ボオォ。ボオ。ボオオオオ。
訳すとこうだ。
『心配してくれてありがとう。まだ大丈夫だ』
ボオォ。ボボボー。ボオボ。
『彼らをしっかりと黄泉送りしないといけないからね。役目はきっちりと果たす』
ボオォ。
『その為に調整者はいるのだから』
木の鯨は、それを最後に話すのを止め、再び吸い込む事へ集中した。
彼女は、木の鯨の外皮を優しく撫でる。
固い外皮からは泣きたくなるくらいの優しい温もりが感じられた。
「ありがとう」
彼女は、そう呟くとその場をゆっくりと離れた。
それから30分後、全てを吸い込み終えた木の鯨は、大きな腹を抱えたまま低い唸り声を上げて、太陽を目指すように空へと高く高く舞い上がっていき、そして消え去った。
濃霧の消え去った樹海と山々から身体が溶けてしまうそうな清浄な空気が流れ、緑が艶やかに輝き、木々が鈴の音色ような音を立てて喜ぶ。
彼女は、空をゆっくり歩いてガードレールを越えて、固いアスファルトに足を落とす。
傘を丁寧に畳むとタブレットを手に取り、監察日記を打ち込み、写真を貼り付ける。
そして最後に"報告終了"と記載し、保存する。
タブレットを閉じ、リュックに収める。
残ったチーズおにぎりを全て食べ終える。
そして崖の下の樹海と、山々、そして木の鯨の消え去った青空を見て両手を合わせる。
「ありがとうございました」
彼女は、そう感謝の言葉を口出して頭を下げる。
そしてビッグスクーターに乗ってその場を後にした。
「お疲れ様」
実習初日を終えて帰宅した彼女を母は、労いの言葉をかけて出迎えた。
彼女は、母が沸かしてくれた薬草の湯に浸かって疲れを癒やし、チーズと鮭のムニエルを食べてお腹を満たした。
そして一息が付いた頃に母が特製のハーブティーを運んできて、今日の報告を求めた。
「また増えてたかい」
彼女の纏めた報告書を読みながら母は、嘆息する。
「はいっ」
彼女は、目を俯かせ、母のハーブティを口にする。
柑橘系の甘い香りと清涼感が食後の口を洗い流す。
"香り屋"という店を営んでいる母は、ハーブティや香水、アロマキャンドル、バスボムと言った香りを題材とした嗜好品や癒しのグッズを取り扱っており、密かにネット界隈で人気となっている。
一時期は、母の跡を継がないといけないのかと思ったこともあったが「あんたはあんたの街を歩みな」と言ってくれ、こうして小学校の教諭を目指した勉強している。
「調整者さん、大丈夫って言ってたけど苦しそうでした」
「そりゃこんだけの
母は、タブレットの画面を閉じる。
「この時期の風物詩みたいなもんだったのにとんだ苦行になったね」
あの樹海は、
そしてその役割がしっかりと機能しているかを確認、調査するのがかつて魔女と呼ばれた者達の仕事となる。
「こりゃいつか肝硬変か腎不全にでもなっちまうかもね」
そう言って母は、笑う。
「笑い事じゃありません」
彼女は、頬を膨らませて怒る。
「何でこんなことになったんだろう?」
「発展と破壊を勘違いしてるからさ」
母は、静かにハーブティを啜る。
「生きる為に発展をするのは良いことさ。危険よりは安全な方がずっと良い。不便よりは便利な方が良いに決まってる。私だってそうさ。でも、どんなものもいき過ぎたら身体を壊す。付いていけない人間や動物だって現れてる。しかし、それに気づかないフリをして目を逸らす。そうやって来た代償がこれなのさ」
「私たちのやって来たことが調整者さんを苦しめていると言うことですか?納得出来ません」
「納得いかなくてもそれが現実さ」
母親は、ゆっくり立ち上がると彼女の冷めたハーブティの入ったカップを回収する。
台所に立つとポットから古い茶葉を捨て、新しいものに入れ替える。そして電子ポットに水を淹れてお湯を沸かす。
「かつて魔女と呼ばれた私たちだってこうやって文明を受け入れてしまってるんだ。魔法で火を起こすより早い。箒で飛ぶよりもバイクの方が速い」
彼女は、何も言い返せず下唇を噛む。
母は、沸いたお湯をポットに注ぐ。
清涼香りが部屋全体に漂う。
ゆっくりとカップに注ぎ、彼女の前に置く。
「だから、これからちゃんとやってくしかないのさ。今の文明と付き合いながら。上手い方法を考えていくしかないのさ」
「・・・出来るのでしょうか?」
不安げに彼女は呟く。
母は、呆れた顔をして鼻息を吐く。
「それをあんたが教えていくんだろ。先生」
「まだ、先生じゃありません」
そう言って可愛らしい舌を出す。
そして2人は、大きな声で笑った。
清涼な香りが世界を癒すようにゆっくりと漂う。
チーズ‼︎ 織部 @oribe33
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