第14話 遺産

14 遺産

 


 カナスは螺旋階段をおりていた。

 皇帝の部屋を出てから、ララはやってきた。カナスは父のことで来たのかと思ったが、違ったようだ。セシルがいよいよいなくなってしまったのだ。

 ただし、セシルがいなくなるのは日常茶飯事だった。弟はもっとずっと小さなころから、目を離しては消えていた。そして見つかるのはいつもおかしな場所ばかりだった。

 セシルの三回目の命名日の朝にはぱったりと消え、夕方になって祈りの塔の分塔の屋根の上で見つかった。修道女が偶然通りかかって見つけたらしい。

 あれはなんの日か忘れてしまったが、街の役所の裏手にある樽の中にいたこともある。

 カナスの学院の学位授与式の日には、夜になってなんと帝都の外の森にいたこともあった。そのときセシルは商人に発見され、保護された。野党どもなら、殺されていたか、人質にとられていたかもしれない。だがその商人はセシルを引き渡すときに、法外な報奨金を要求した。なんなら野党よりも立ちの悪い男だった。

 ララは肝を冷やし、そしてさぞかしアンナ皇后を恨んだことだろう。アンナ皇后はセシルの面倒を乳母に任せっきりだった。そしてララは、意地悪な乳母のことをよく知っていた。自分が幼いころにさんざんいじめられてきたのを覚えていたのだ。

 アンナ皇后の放任主義は褒められたことではないが、セシルの消え癖はどうすることもできないのだ。

 『イスダンの物語』の妖精のように、本当に魔術のように消えてしまう弟を、誰も止めることなどできないのだ。

 皇帝の塔の螺旋階段の窓からは、闘技場が見えた。歓声がここまで届いていた。貴族たちは闘技場や街、闘いの塔に繰り出してしまったので、使用人たちも誰もいなかった。仕える貴族たちによって、街へ出る許可を得た使用人たちも多くいた。

 考えることが多すぎる。セシルのこと、父の死が近いこと、中央連合国との戦争のゆくえ、グラデンやロートレク王との和平協定、蝶の杯、次の対戦者、試合の内容、そして、パースの言っていた、母の死について。

 そういえば、あの人食い……。

 カナスはたしかに見た。あの黒い人食いが自分を殺そうとするとき、動きを止めていたのを。止めていたというより、まるで硬直して、動きを制限されていたように見えた。


──ああ、こんなことばかり考えていると、頭がどうにかなってしまいそうだ……。


 そのとき、下から誰かが階段を上ってきた。禿げた中年の男だ。擦り切れた麻のチュニックで、よれた牛革の靴。くしゃくしゃになった布を持っている。

 多分奴隷の使用人で、さしあたり彼は主人から、昇降機を使うなとでも命令を受けているのだろう。

「君、ちょっと」カナスが呼び止めると、使用人はビクリとおどろき、目を丸くしてこちらを見た。

「君にそんな扱いをするのはどの家の者だ?」

 男は目を泳がせ、唇を震わせた。

「怖がらなくてもいい。口外しないから」

 これじゃあまるで蛇に睨まれた蛙だ。彼はきっと主人から虐待されているのかもしれない。

 男は怯えながら、震える声で言った。「アンダーヒル家でございます」

 この城は大きすぎる。いまだに廊下で初めてすれ違う貴族も大勢いる。いちいち貴族の顔も憶えていられない。もし貴族たちやその家族を記憶できたとしても、きっとなんの役にも立たないだろう。

「アンダーヒルとは……。当主はダニエル・アンダーヒルか?」

 男は首を振った。「いえ、ロバート・アンダーヒルさまでございます」

「明日から昇降機を使えるようになる。安心しろ」

 使用人の男は失礼のないように、感情を押し殺し、首を振った。

「ですが……」

「心配するな。おれがなんとかしてやる」

 使用人は弱々しく微笑んでから、深々と会釈をした。すれ違いざまに、カナスも微笑み返した。

 自分は皇太子として生まれた。ただの偶然かもしくは、運命によって、はからずもそうなってしまった。だがそうなった以上、自分に、皇太子である自分にしかできないことがあるはず。貴族たちが好き放題しているこの帝国は、もう弱りきっているのだ。叔父上の言った“想像の歪み”が本当に存在するとしたら、それはもうはじまっているのかもしれない。

 ああ、そういえば、左の脇腹が熱い。マントをめくると、白い胴着に血が染み出していた。

「クソ……やっぱり」

 カナスはついに階段から転がり落ち、壁に背を強打した。うめき声が螺旋階段に虚しく響く。一瞬、意識を失いかけた。

 アドリアンの槍をたった一度だけ、かわし損ねたのだ。自分としたことが、油断していた。だが痛みはそれほどなかったから、医者にはかからなかった。

 だめだ、頭がぼうっとする。でもいまここで気を失ってしまったら、パーシバルはどうなる。アークジウムはどうなる。ロートレク王との約束は。この帝国はどうなる。使用人を虐げる貴族たち、十皇月の悪政を止めなければならないのに。

 ようやく下の階層に着いた。だめだ。もう歩けない。ひとりで考えを整理するために昇降機を避けてきたのに、それがあだになった。

 前から貴族がやってくると、彼らは恐れ多そうに立ち止まり、カナスが通り過ぎるまで頭を垂れた。カナスは傷口を押さえるのをやめ、笑顔で応えた。

 貴族が過ぎ去り、ふたたび脇腹を押さえると、片方の手で鉄の折を開け、昇降機の滑車と板を生成するためのサイコロを腰袋から取り出した。

 意識をサイコロに集中させた。だが不安が波のように襲ってくるせいで、サイコロは崩壊し、渦を巻いてはまたサイコロに戻った。何度も繰り返しているうちに、ようやく板を作り出し、乗り込んだ。

「まったく、先が思いやられるな」あらゆる階層を過ぎ去る昇降機の中でカナスはつぶやいた。




✱✱✱


 松明の火がふたたび灯されると、男の褐色の顔が暗闇に浮かび上がった。地下へと伸びる階段は永遠に続いているように思えた。階段と壁、天井は古い材質の煉瓦でできており、ここまで来れば木の根もなく、虫もいない。あるのは身体の芯からじわじわと冷えるような寒さと、かびの臭いと、孤独感だけだった。

 本物の松ヤニを塗った自作の松明は美しく燃えた。ここの者たちはなんでもかんでも想像術で賄ってしまう。ゆえに明かりひとつ手にするのにかなりの労力と時間を費やした。

 ゴドウィンはあまりに冷える身体にフードつきのマントを引き寄せた。外は心地よく涼しいのに、一歩地下に下りれば息は白くなり、肺に流れ込む空気も冷たい。

 階段を下る音が虚しく響く。ここはまるで上とは別世界だった。死の世界へ下りていくような奇妙な感覚だった。

 すでに地下に入ってから一時間以上は経っているだろう。ゴドウィンは考えるのをやめるためにときどき歌を歌ったり、考えごとをした。

 それにしても、あの演劇団には救われた。運がよかった。帝都への侵入は自分の力でなんとかなっただろうが、地下への潜入はおそらく彼らがいなければ不可能だった。

 彼らが騒ぎを起こしてくれたおかげで、闘技場の地下は騒然としていたのだ。

 出遅れたとんまな兵士のひとりを殺したのは申し訳なかったが、こちらも忙しいのだ。

 死んだ兵士の汗臭い下着を着込んで、人食いの檻がある通路を抜けていくと、ある部屋にたどり着く。そして壁の一部のもろい部分の煉瓦を取り除けば、この地下道が現れる。

「ああ。せめて、食べ物を持ってくるんだった」

 ゴドウィンは飼育係の部屋にあった堅パンを盗んでこなかったことをいまになって後悔した。

 するとようやく、はるか下の方に豆粒ほどの大きさの光が見えた。ゴドウィンは少し足を早めた。まだ灯りがある。もうずいぶん前のはずなのに。まぁ、ちょうど松明も切れかかっていたころだ。松ヤニがいくらあっても足りないところだった。ただし帰りの分はない。だがそれでも問題はない。あの場所にたどり着きさえすればいい。

 ついに階段を抜けると、温かい光が出迎えた。ゴドウィンはふぅっと安堵のため息を吐き出した。こんなに居心地のいい場所は少なくともこの帝国にはない。いや、この大陸のどこにもない。

 息を呑むほどの広い空間。帝都では見られない古い煉瓦が空間全体に敷き詰められ、美しい泉や、崩れかかった柱、さらに向こうには巨大な石像があった。まるで小さな島がいくつもの橋で繋がっているような造りになっていた。

 この地下堂がまばゆいほどに明るいのは、ホタルのような虫がゆっくりといくつかの群れをなして飛んでいるせいだった。

 ひとつめの橋を渡ると、下の泉の光が顔に反射した。下まで透き通った泉の中には、あらゆる種類の小魚が自由に泳ぎ回っていた。橋を渡ると、そこは真っ白い花畑だった。白い花々ゴドウィンを出迎えた。

 ゴドウィンは甘い香りを肺いっぱいに吸い込み、そして吐き出した。

 どの花も一本も枯れることなく、誰かに手入れされているように開花している。そして少しは向こうに、石の柱があった。蔦で覆われた古い墓には、古い文字が刻まれていた。

 ゴドウィンは墓の前に立つと、膝をつき、深々と頭を下げた。「ジョン。ずいぶん久しぶりだね。悪いが少しお邪魔するよ」

 墓の上に何がとまった。銀色の羽毛を輝かせる小鳥はゴドウィンをさらに奥へと誘った。

 次の橋を渡ると今度は空のように青いクマツヅラが、さらにその次の橋を渡ると薄いピンクのサボンソウが咲き誇っていた。このひとつひとつの小さな島には、それぞれ違う種類の花が咲くのだ。

 小鳥はさらに先へと男を導いた。

 そしていくつかの橋を渡ると、中央の島にたどり着いた。シロヤナギが一本立ち、そのそばに石像が聳え立っていた。小鳥がさえずりながら舞い上がっていくのを目で追う。

 石像には首がなかったが、それはまぎれもなく女だった。すらりと伸びた身体は美しく、長くもてあましたローブ、交差させた指はゴドウィンを待ちわびているようだった。

 そして一際目を引くのがその大きな翼。折りたたまれた翼には繊細な文字が彫られている。

「テルペドール……」ゴドウィンは両膝をつき、石像のように指を交差させ、さきほどの墓よりもさらに深々と頭を垂れた。「ナルロスの息子ナルロス、いまここに……」

 微細な振動によって細かい煉瓦の破片がゴドウィンの肩に降り注いだ。男は忌々しそうに、ゆっくりと天井を見上げた。

「恥知らずどもが……」

 闘技場の振動がさらに響いた。今度は骨にまで直接伝わった。「アダンどもが想像術なるもので生み出したのは破壊と快楽のみ……」

 石像がゴドウィンを見下ろしていた。男は石像のローブの端にあたる部分にそっと触れ、撫でた。それは冷たく、ところどころひび割れていた。「いまこそイマジナリオンを取り戻すとき」

 そのとき、後ろからかすかに音がした。ゴドウィンは振り返らず、にんまりと笑った。


 木々の影から、セシルは息を呑んだ。男の影がセシルを覆い尽くす。男の手がセシルの首に伸び、セシルは足をばたつかせた。「どうやらあなたの眠りを妨げる者が入り込んだようです」



 

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イマジナリオン @kubotakei

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