あらためて建物から出ると街並みはおとぎ話の世界のようだった。ハーフティンバーの家が多く私たちの世界で言うところのドイツの田舎街をイメージしてもらえばいいかもしれない。道は石畳で、馬の糞の臭いが気にはなるがそれほど不潔な印象も無い。また、時折見える路地では幼い子供たちが駆け回り遊んでいるところを見ると、どうやら治安は良い国に思えた。

「あと少しで王宮に着きます。向こうには天上人様が行くことを伝えてあるのですぐに中に入れるでしょう」

「ありがとうございます」

 馬車と聞いて酔うことも考えたが屋根のないタイプだったためかその心配は無用に終わった。

 間もなく馬車が立派な門をくぐると要塞のような城が現れた。てっきりドイツのノイシュバンシュタイン城のような権力を誇示するための華美な城に連れていかれるものと思っていたがこれだと城塞と呼ぶのが相応しい。実際門の先には更に小さな町があった。けれどもどこか様子がおかしい。

「これ、全部空き家ですか?」

「ああ、ここは手狭でして。非常時にしか使われないんですよ」

「非常時?」

「この世界は二つの国だけしか存在しません、この炎國ダズールーの周辺は灼熱の大気に覆われ、隣国の氷國カヌールーは絶対零度の冷気に覆われているんです」

「それ、本で読みました。たしか、それぞれの国王が結界の魔法で遮断してるって」

「そうです。今の国王になってからは長いのでここも廃れてしまったけれど……代替わりの一瞬だけはどうしても防ぎきれなくてこの城の中に一時的に非難するんです」

「ここは安全なんですか?」

「はい。ここと隣国の城塞は初代天上人様の加護の力で今もまだ強力な結界が張られているんです」

 先ほどの結界の魔法や加護の力と言うのがこの世界には存在するらしい。とは言っても魔法の力と言うのは万能では無いらしく結界の魔法以外存在しないのだと言う。ただ偶然この力を見た天上人の誰かが魔法と言う言葉を用いたことでこの世界にも魔法と言う呼び名が定着したらしい。

 やがて馬車が停まるとグリートさんのエスコートでお城に入る。石造りの城で窓ガラスはあるもののステンドグラスは無い。本によれば大昔からほとんどそのままの形であると言うし、相当古い建物だと言うことは間違いないだろう。昔講義で見たロマネスク建築の様だった。あれは教会だけれど、実際この建物自体は修道院みたいなものだった。

 入ってすぐに象徴的な広間が広がり、毛足の長い絨毯が敷き詰められている。そこには跪いて祈りを捧げている人がちらほら見受けられた。

「あちらは政治家の方々です。ここは天上人様を祭る神社?教会?のような場所で、中央の石像が初代の天上人様を象った物なのです」

 確かに正面には十字架にかけられたイエスのように一人の女性が天に祈りを捧げ跪く石像があった。天上には小さな窓が複数あるようでそこから降り注ぐ光がその初代様を一層神々しく見せた。

「このお城はボロミーニと言う若い天上人様が思うままに設計したと言われています。とは言ってもその方に関する資料は無いようなもので、実在したかさえ定かではありませんがね」

 祭壇へと続く三段程度の階段は楕円形だった。以前何かで見たミケランジェロの設計した建物を思い出す。私たちの世界で楕円が用いられるようになったのはゴシックどころかルネサンスよりも後のバロックの時代だ。だからこそ建物とのチグハグ感に異世界を感じざるを得ない。

「本来、天上人様はこの祭壇の上に降臨されます」

「本来?」

「ええ、天上人様は我々が願う技術をこの世界に伝えるために派遣される神の使いなのです。ただ、ごくまれにカエデのように別の形で現れる者もいますが……」

「そこに、私が元の世界に帰る手がかりがあると言う事ですか?」

「早い話がそうですね」

 つまり、あの本を書いた先人達は皆ここに現れて、そのまま帰る術もなく天寿を全うした。けれど私のように違った形で現れた人々には例外がいたと言うことだ。――まさか。

「さっき仰ったボロミーニと言う男は突然現れたんですか?」

 グリートさんは私を見ると頷いた。

「ええ。そうです。残っている資料によれば、ある日炎と共に現れて、この建物の完成を見送った後、姿を消したと。そして、彼が消えたその日に突然彼に関する資料やこの建物の設計図がひとりでに燃えて跡形もなく消え去ったそうです」

「そう、でしたか」

「他にも突然現れて突然消えてしまった天上人様がいましたが、その誰もがこの世界に新たな技術を与え、完成したその日に消えているのです。ですから、もしかしたらカエデも……」

「この世界には無い、私の持つ技術を完成させれば帰れるかもしれない?」

「はい」

 この世界には無い技術、それは恐らくコンクリート技術の事だ。でも基礎的なところは伝えてあるし、あとやるべきことは実際に完成させること?

 グリートさんの言葉を思い返してみると、私がこの世界に呼ばれたのには理由があって、その理由はこの世界の人たちが知っている事。未知の建材であるコンクリートが偶然求めている条件に当てはまるものだったということだろうか。

「だから、コンクリートについて興味を示していたんですね」

「……はい」

 そう答えたグリートさんの顔にはわずかに申し訳なさが窺えた。それはきっとグリートさんが優しい人で、泣き出すほど元の世界に帰る事を望む私を不可抗力とは言え利用している状況があるからだろう。――こんなに綺麗な人がここまで私の事を思って胸を痛めてくれているのだ。それに、屋根を壊してしまったお詫びも済んでいない。

「じゃあ、さっそく取り掛かりましょうか!善は急げですからね!」

 それなら前を向くしかないじゃないか。


 …


 次にグリートさんが案内してくれたのは炎國の王ゼヴィチェ様のところだった。なんでも今推し進めている政策があって、私の登場によりようやく動き出す目途が立ったのだとか。

「反対派の議員がいて面倒ですがカエデの存在があれば滅多な事は言えないはずです。それでも聞き分けの無い者は私にお任せください。とにかく、カエデは早くコンクリートを完成させて元の世界に戻る事だけを考えてください」

「はい」

 私たちの前に現れたのは木製の大きな扉だった。後付けなのか壁の劣化具合に対して扉自体は幾分新しく見える。グリートさんが「ゼヴィチェ陛下、忠臣グリートが参りました」と告げると中から渋い男性の声で「入れ」と返ってくる。それに合わせて扉の脇に控えていた兵士と思われる制服姿の男達が仰々しく扉を開けた。

 中には円形の大きなテーブルがあり、それを囲むように人々が座っていた。一番奥には頬に鱗のついた初老の男性が私の事を見定めるように見つめていた。おそらく、あれがゼヴィチェ様だろう。

「そちらは?」

「は、今朝方我が家に現れた天上人様にございます」

 簡単な紹介に合わせて頭を下げる。グリートさんの返答は王様にとっては予定調和の様だったが、他の険しい顔つきのおじさんたちには違ったらしい。不躾な視線にいたたまれなさが募る。一際視線を感じる方を見れば、グリートさんと同じ牙種と思われる男性が私を見て眉間の皴を濃くした。

「天上人様と言うが証拠はあるのか?」

 そう声を上げたのは牙種のおじさんだった。グリートさんのような線の細い体つきではなく、豚のように脂っぽくて腹回りがだらしない、生理的に受け付けない容姿のその男は指輪でごつごつとした手で顎をさすりながら私を睨んだ。

「は、こちらのカエデ様は我々の世界には存在しない“コンクリート”なるものの作り方を知っているそうなのです。また、彼女には我々のような牙も無ければ角も無く、鱗も羽も鋭い爪さえありません。間違いなくこのお方は天上人様なのです」

 グリートさんの説明に、その場にいた人々は好意的にうなずいていたが、さっきのおじさんは鼻で笑った。

「もし本当にその女が天上人様だったとして、それならばなぜ祭壇に現れなかった?」

 彼の一言に傾城が逆転したのか、その場にいた他の人たちが口々に「そうだそうだ」「おかしいのではないか」と囁く。グリートも言っていた通りこの国で天上人が現れる時の主流は祭壇の上に降臨らしい。けれどもそこで助け舟を出したのは国王であるゼヴィチェ様だった。

「もし、よろしいかなジス大臣」

 国王の言葉にジス大臣と呼ばれたおじさんは一瞬苦虫をかみつぶしたように表情を歪ませると張り付けた笑みを浮かべて「なんでございましょう」と王に向き直った。

「先ほどから聞いていればそなたは天上人様をなんと心得るか」

「は、なに、とは」

「この世界に革命的な変化をもたらした天上人様は皆、祭壇の上に降臨しなかった。知らぬとは言うまいな」

 無表情ではあるものの視線の動き一つで圧を与える王にジス大臣はもちろん他の日和見主義な大臣たちも喉を鳴らした。その様子に呆れたように目を細めると、ゼヴィチェ様は今度は私に向き直り、立ち上がって頭を下げた。

「陛下、何を――!」

「黙れ!……この度は下の者が無礼を働き申し訳ない。気分を害したと申されるならばこの者の采配は貴方に任せよう。ただ、もし貴方が手を貸してくださると言うのであれば、貴方の知識でこの世界を救っていただきたい」

「え?」

 ――厳かな建物の中でおじさまと呼ぶべき色気を醸す紳士(国王)に世界の命運を託されるってどんな状況?

 頭の中はクエスチョンマーク一色だ。私はあくまでもコンクリートの作り方使い方を教えるだけでこの世界を救うつもりは毛頭無い。そもそもそんなところまで責任を取れない。だと言うのに、これはいったいどういう状況なのだろうか。ゼヴィチェ様の言葉に返事にすら困ってしまい助けを求めるつもりでグリートさんを見れば、向こうも私の返事を待っているのか円らな瞳を輝かせて私を見ていた。

「あ、あの待ってください。世界?救う?私が聞いていた話と大分違う気がするのですが……」

「ではやはりお前はペテン師なのか?」

「アルクラーネ‼」

 私の言葉にやけに突っかかるジス大臣にゼヴィチェ様はとうとう声を荒げた。その時、バリバリバリとけたたましい音を立てて雷が落ちる。後にグリートは単なる偶然だと語ったが、この時の私はゼヴィチェ様には結界の魔法以外にも天候を操る力があるのだと信じてしまうほど丁度いいタイミングだった。

「私が頼まれたのはコンクリートの技術です。ですが、それを何に使うのかはまだ聞いていません。それなのに、突然世界を救ってほしいなんて言われても、困ります」

 何とか絞り出すように言葉を紡ぐ。だってこれ、なあなあで済ませて良い話じゃないもの。

「その件につきましては私の説明不足が招いたことです。天上人様、並びに陛下と大臣の皆様方、失礼いたしました」

 グリートさんは丁寧な所作で頭を下げると向き直って私に説明してくれる。

「貴方様はコンクリートについて教えてくださるだけで構いません。当然後の事は私共の仕事です。陛下が言いたかったのはコンクリートと言う物質の用途の話なのです」

「用途?」

「ええ、実はこの王都の建物は石を切り出して作っているのですが、資材には限りがあります。その結果街で見ていただいたような木と石を組み合わせて作られた家が年々増えているのです、しかし――」

「問題がある、と」

「ええ。石はともかくとして、木は外の熱に敵いません。次の世代交代の際にほとんどの家が消失する事でしょう。だからこそ、我々には石のように強い新たな資材を探す必要があるのです」

「それが、コンクリートなんですね」

「ええ。話を聞く限り、今ある建物を崩した後の瓦礫を再利用できそうですし、強度について申し分ないようなのでぜひ、その技法を知りたいのです」

 理論上可能かもしれないが、外の大気を体感したことがない私からすると懸念は残る。この国は結界の中とは言え暑い。そうなれば暑中コンクリートを採用する可能性もある。ただ、暑中コンクリートの強度を思うと耐えられるのかは疑問だ。そもそもここは異世界、必ずしも元の世界の常識が通用するとは限らない。

 黙り込む私の顔をを不安そうなグリートさんが覗き込む。私は慌てて「できるかぎりの事はします」と応えた。ある意味逃げの言葉。それでもグリートさんは「ありがとうございます」と頭を下げた。


 …


「それではさっそくと言いたいところだが、天上人様もお疲れのご様子、仕事は明日から始めよう」

 ゼヴィチェ様の一言に大臣さん達はバラバラと帰って行った。先頭を切ったのはジス大臣で、そのあとを他の大臣が間隔を空けながら退出していく。ジス大臣を除いてみんなが私の方を向くと申し訳なさそうに会釈をしてそそくさと出ていく様はなんとなく気分の悪いものだった。

 残されたのは王様と私とグリートさん。

「天上人様、申し訳ないがコンクリートを作るのに必要なものを手配しておきたいので窺ってもよろしいかな?」

「はい!」

 ゼヴィチェ様と話すと本当に背筋が伸びる。そんな私にやわらかな微笑みを向けるとゼヴィチェ様は「そう畏まらないでほしい」と困ったように眉尻を下げた。

「貴方は大切なお客様です、本来であれば私のこの対応こそ咎められるというもの。どうかそう固くならないでください」

 一国の王としての威厳は消えないけれど、ゼヴィチェ様の纏う空気は温かく柔らかい。グリートさんに手を引かれてゼヴィチェ様のすぐ隣の席に座ると紙の束を渡された。

「こちらに必要なものを記入してください。文字でも絵でも構いませんので」

「原料はわかったので、道具を教えていただけますか?」

「はい」

 道具、とりあえず、この国に適したコンクリートを作るためには試作を重ねなければならないだろう。練り混ぜ用の船——本来ならプラスチックでできた長方形の容器——に掻き混ぜるのはスコップでいい。スランプ——コンクリートの柔らかさ——を測るための道具……は正確なものを再現するのは難しいかもしれない。それに混ぜ棒——鉄製の棒——に供試体を作るための容器も必要になってくる。それから――。

「あの、プールのような場所はありますか?」

「プール?」

「はい。水場なんですが、強度を出すためには水中養生すいちゅうようじょうと言う工程が必要になります。その時に使いたいのです」

「それは、どの程度の水を要するのでしょうか」

「どの程度……供試体が完全に水に浸かる必要があります」

「わかりました、用意しましょう」

「お願いします」

 それから、本来は供試体を圧縮試験にかけて強度を調べるけれど、今回そのための機械が無いから一先ず国の外に置いたとき耐えられるかどうかの試験と角種の力で耐えられるかの試験が有効だと思われる。基準を設けなければならないけどこれは追々考えよう。

「他に、話しておきたいことなどございますか?」

「へ、あ、大丈夫です」

 考え込んでいて気づかなかったけれど目を開けばゼヴィチェ様とグリートさんが私の顔を覗き込んでいた。愛想笑いを浮かべれば二人ともにっこり微笑んで「今日はゆっくり休んでくれ」とゼヴィチェ様は席を立った。

「私もできる限りの事を致します。力を合わせて頑張りましょうね」


 …


 翌朝、一番に私たちは王宮へと向かった。グリートさんは朝が弱いのか時折目をこすったりぼーっとしている事が多い。

「昨晩は眠れなかったんですか?」

「ん、はい、え?……すみませんもう一度お願いしてもいいですか……?」

「あ、大したことではないので……」

 これは相当眠いらしい。声かけない方が良かったかななんて今更ながらに小さな反省。まだもう少しかかるし馬車に乗っている間くらいは寝かせてあげたい。

 私は外の景色に目をやった。昨日とは打って変わって静かな町は近くに川でもあるのか霧がかかっていてよく見えなかった。まるで夢の中に落ちていくように静かな朝だ。

“朝は大変冷えますのでこちらを”

 今朝出がけにリチャードさんはそう言ってブランケットを持ってきてくれた。これが無ければ今頃凍えていたことだろう。

「へくちっ」

「?」

 突然聞こえた異音に辺りを見回す。霧のせいでよく見えないが何かある様子はない。

「へくちっ、くちゅん」

 その異音はよく聞けば人の声みたいで私は自然とグリートさんに目を向ける。

「だ、大丈夫ですか?!」

 グリートさんの鼻からは水のような鼻水が垂れ、怠そうに見える。それに、震えて歯をガチガチ鳴らしていた。私は慌ててブランケットを肩から外すとグリートさんにかけてあげる。ここまで冷えているとあまり効果はないかもしれないが、少なくとも私の体温でブランケット自体も暖かい。震えが少しでも止まればいいけど――え?

「わ、ちょ、グリートさん?」

「行かないで」

「え?」

「行かないで――メープル」

 ――メープル?夢?

 突然手首を掴まれグリートさんの胸の中に倒れる。グリートさんはまだ夢の中にいるらしく、私の問いかけには応えずに、ただ“いかないで”と“メープル”と言う言葉を繰り返す。メープルとは人の名前だろうか。母親?恋人?でも、なぜだか酷く懐かしく感じてしまった。私では無い誰かを呼ぶ声が、懐かしくて、私は少しの間動けなくなってしまった。

「ん……あ、え?カエデ?」

 グリートさんが起きたらしい。その声に私も現実に引き戻されたような気分になった。と、同時に今自分がグリートさんに抱きしめられているような状況だと気づき弁明しようと顔を上げた時、顔にグリートさんの鼻水が着いた。

「目、目がああああああああ」

「うわあああああすまないカエデ‼いや、でもなぜそこに……じゃなくてとりあえず目を洗わなければ、すまない、すまない……」

 私たちの異変を感じ取ったのか馬車が急停車する。

「グリート様、どうかしましたか?」

「あ、ああ、至急洗浄用の水を持ってきてくれなるべく早くだ!……ああ、すまないカエデ私としたことが……」

 恐らく御者さんは何が何だかわからないだろう。それでも駆け足で遠ざかっていく音が聞こえるから何とかなるはずだ。

「鼻水って目に入っても痛くないんですね」

「すいません」

「あはは……」

 沈黙に耐え切れず声を掛けては見たものの今のグリートさんには何を言っても謝罪しか返ってこないと思う。

 少しして慌てた様子の御者さんが「氷國カヌールーの雪解け水です‼」と言ってバケツを抱えて戻ってきた。

「本当に失礼いたしました」

 肩を落として落ち込むグリートさんに気にしないでくださいと励ます。不用意に顔を上げた私の責任もあるし。

「それと、私には敬語を使わなくても大丈夫ですよ」

 少しの間に出たグリートさん本来の話し方、その方が私はすきだった。私の提案にグリートさんは「恐れ多いことです」と最初は抵抗していたけれど、私がで見つめると最後には折れてくれた。

「それなら、カエデも敬語はやめてくれ。それが条件だ」

 気恥ずかしそうに頬を染めるグリートさんにこちらまで頬が熱くなる。その沈黙が耐えられなかったのかグリートさんは咳払いする。

「何とか言ったらどうだ、カエデ」

「は、はい、じゃなくて、うんわかった」

 まだぎこちない返事をする私に「お互い少しずつ慣れて行こう」とグリートさんは笑った。


 …


「仲が良いようでなによりだな」


 城の中庭の入り口に着くと、真面目な顔の王様にそんな事を言われてしまった。首を傾げる私にグリートさんは顔を真っ赤にして黙っている。そんなグリートさんを見つめるゼヴィチェ様の眼差しは優しさと少しの悲壮感を併せ持っていた。――いけない、だから踏み込まないんだってば!

 たとえそこにどんな意味が込められていても私はいずれ去る人間だ。線を引かなければいけない。

 グリートさんとゼヴィチェ様のあとをついて中庭の中でも開けた場所に出た。ゼヴィチェ様の話によれば私より前に来た天上人の一人がここに“プール”を作るようにと命じたらしい。私が昨日話したことから存在を思い出したとか。

「それにしてもこの世界はすごいですね」

「ん?」

「だってしばらく使われていなかったら私たちの世界なら苔とかで緑色に濁っちゃいますよ。でも綺麗な透明で使えそうです」

「そうか、お気に召していただけたようでなによりだ、な、グリート」

「陛下、おやめください」

「?」

 二人で何か楽しそうだが私はそんな二人の間をすり抜けてプールに手を入れてみる。

「……ああでも温度管理は必要になりますね」

 そう、灼熱の大気が無いとはいえここの気温は高い。そのため水の温度も体感でぬるま湯に近い。おそらく二十三度は軽く超えているだろう。ただこれをどうやって一定の温度に保つのかが問題だ。氷のような冷たいものを足してみる?コツを掴むまでに時間がかかりそうだし一定の温度となると誰かが寝ずの番をしなければならなくなてしまう、労基案件だ。分厚い石の壁で囲うか?いや、そんな事をしたらこの庭園の景観を損なってしまうし、難しいだろう。そもそも機械や電気といったものがこの国にあるとは思えない。町中に電柱の類は見つからなかった。まさか無電柱化が進んでいるわけではあるまい。それにグリートさんの邸の灯りはすべてで賄われていたし、だからこそ外の光を取り入れる工夫がなされていた。玄関は吹き抜けになっていて角度のついたトップライトの光が柔らかく落ちてくる設計。とてもじゃないが機械は無い。そうなるとエアコンや機械で管理することも不可能だ。――温度計はあるのだろうか。馬鹿にしているわけでは無く、天上人の介入で中途半端な進化を遂げるこの国にはもはや何があって何が無いのか見当もつかない。

「温度管理とは何度が好ましいのだ?」

「できれば二十度前後です」

「ふむ、摂氏か?それとも華氏か?」

「あ、摂氏です……え?ご存じですか?」

 私の失礼な物言いを咎めるようにグリートさんが後ろで咳ばらいをした。

「ああ、我々は何も一つの事物について教えを乞うのではない。その時手に入るだけの知識を授けてもらうのだ。……とは言っても、というものは未だに理解できていないがそのうち詳しい者が現れるだろう」

 私が思っていたより何倍もここの人たちは貪欲に知識を求めているのかもしれない。私もコンクリートだけじゃなくて知っている限りの知識を残せたらいいな。

「陛下こちらをどうぞ」

 大きな旅行鞄を持った青年が丁寧に開いて手袋のはまった手でガラスの管を取り出すと、恭しくそれをゼヴィチェ様に手渡した。

「うむ」

 ゼヴィチェ様はそれを受け取るとそっとプールの水につける。すると中に入っていた透明な液体が赤く染まった。

「少し温度が高いようだな」

 ゼヴィチェ様はそう呟くと何やら詠唱を始めた。残念ながら私には聞き取れなかった。音なのか言葉なのか私達とは違うのだろう。それでも詠唱だと思ったのは口がわずかに動いている事と、その動きに合わせてプールにヴェールがかかるように光が覆っていくのが目で見てわかったからだ。

 一通り詠唱を終えたのか、ゼヴィチェ様の口の動きはとまり、光のヴェールも消えてしまったが、水が先ほどよりも濃いブルーになった気がする。

「これでどうだろうか」

 そう言って先ほどの管を水に入れると、今度は緑色に変化した。

「よし、これで二十度になったな」

 満足げに微笑むゼヴィチェ様に私はそっとグリートに耳打ちした。

「あの、あれってどういう仕組みなの?」

「あれは特殊な液体で、温度によって色が変化する、それと熱膨張も起こるから色と目盛りを見て正確な温度を測ることができる」

「私の世界の水銀と似たような液体ね、流石に色までは変わらなかったけど」

「ああ、これも天上人様の知恵によるものなんだが、その水銀が存在しないこととこの世界は温度変化が激しいことから膨張率だけで測ろうとすると管が長くなって使えないとか言っていたな」

「そっか、大変だったのね」

 素材が無いと言うとコンクリート造りも私が思うより大変なのかもしれない。一番不安なのはセメントだ。この世界にセメントはあるのだろうか。もしなかったら代わりになる材料を探すほかないが、それには途方もない時間がかかってしまうだろう。

「どうかしたか?」

 ふと過る不安、けれどもグリートさんの穏やかな笑みが掻き消してくれるように胸がぽかぽかしてくる。グリートさんといられるなら、悪くは無いのかもしれない――そんな風に考えてしまう自分に、見ないふりをした。

「大丈夫です。それより伝えていた材料は揃いましたか?」

「ああ、一応水、砂、砂利は揃えてみたがセメントの方は詳しくは分からないから該当しそうなものをいくつか用意した」

 グリートさんの傍には水と砂と砂利が入った容器と中身の詰まった麻袋が種類別に三つずつ積んである。

 開いてみると、どれも粉末状のものが入っており、この中にセメントがあるのではないかと言う事だろう。

 セメント——つまり石灰石は貝や珊瑚の死骸が石化したもの。私たちの世界では白いからこの中で白いものを使ってみるのはどうだろうか。ただ懸念があるとすればそもそもこの世界のセメントが私の知るものと全く同じものがあるとは限らないこと。こればかりは賭けでしかない。

 塩酸があればわかりやすいのだが、私は塩酸が何でできているかまで知らない——化学式の問題ではなく知識の問題として——だから、この世界に塩酸があればこの上なく助かる、が、望みは低めに持っておいた方が良さそうだ。

「グリートさん、塩酸て……」

?!」

「あ、大丈夫です」

 グリートさんの反応はどう考えても知らない人のそれだ。目を輝かせる彼には悪いが話が進まなくなるので一旦置いておこう。

「もし、塩酸と言ったか?」

 グリートさんをいなしていると意外なところで入ってきたのがジス大臣だった――ジス大臣⁈

 私とグリートさんはジス大臣を二度見してお互いの顔を見た。そんな私たちに、現れたジス大臣は眉間の皺を濃くして「だから塩酸かと聞いているではないか!」と唾を飛ばす。

「え、えっと……はい。ご存じですか?」

 恐る恐る尋ねるも、この数秒後私は質問をしたことを後悔する羽目になる。

 ジス大臣は突然涙ぐむと唇を噛み締め、ジス大臣と塩酸とそしてヨハンと言う天上人について語り始めた。

「あれは私がまだの十代の頃の話だ。いつものように父に連れられて祈りを捧げていると、目の前がパッと青白い光に包まれて、そらから一人の男が降りてきた……」

 これはあれだ、話が長くなる奴だ。ジス大臣の自分語りを右から左に流しつつ私は専門学生時代に裏で“たぬきじじい”と呼んでいた先生の事を思い出していた。ジス大臣はまるであの先生のように武勇伝的なノリで話し続ける。素面でよくできるなと感心しつつグリートさんを横目で見ると、「また始まった」と顔に書いてあった。

「……そうして我々は苦心の末にようやく塩酸を作り上げたのだ‼」

 そこまで言い切ったところでジス大臣はそれまでの覇気に満ちた表情から一変穏やかに、過去を懐かしむような慈しむような微笑を浮かべる。

「ともかく、私達が友情の証としてこの世に生み出したのが塩酸なのだ。もしカエデ殿がそれを所望するとあらば、私が用意させていただこう」

 ジス大臣は本当はいい人なのかもしれない、思わずそう思ってしまうほどに嫌悪感や苦手意識はすっかり消えてしまった。尤も、初めからこうして歩み寄ってくれていれば良かったのにと思わなくもないが、突然現れた小娘に国の未来を預けることに不安を感じるのは当然のことだ。

「ありがとうございます。塩酸があればこの中からセメントを見つけ出すことができるかもしれません。ぜひお願いします!」

「うむ」

 この後心なしか嬉しそうなジス大臣の助力で調べてみたものの、グリートさんが用意した物の中にセメントと思しきものは無かった。

 項垂れる私達。開始早々躓いてしまってはどうしていいのか分からない。また一歩、元の世界に戻る日が遠のいてしまった。

「まあ私がヨハンと塩酸を作り出した時も一筋縄ではいかなかった。焦ることは無い。まだ来て二日だろう?明日になればまた妙案も浮かぶさ」

 すっかり良い人になってしまったジス大臣に励まされ、今日のところは解散となった。

「まだ時間はある。私ももう一度探してみるからそう気を落とさないでくれ」

「わかってるよ……」

 グリートさんやジス大臣の言う通りだ。それでも、どうせ他人事だからと思ってしまう自分がいる。私には今目の前の問題なのだ。できる事なら一日でも早く戻りたい。そうしなければ居場所がなくなってしまう。私の世界はだから、いつまでもここで燻っているわけにはいかないのに。――本当に自分が嫌になる。どういうつもりで二人を責めるのだろう。私のために、皆一日で全てを用意してくれた。ジス大臣だって、早朝から様子を見に来て、塩酸が必要だと分かったら離れたたところにある邸宅から急いで持てる限りに持ってきてくれた。それなのに、私を気遣ってくれる。グリートさんだって――。

 私はそこでふと気づいてしまった。体調が良くないのに付き添ってくれたグリートさん、けれども昨日は元気そうだった。それに朝から眠そうに目元をこすっていた。きっと、セメントの可能性があるものを一つでも多く探してくれたのだ。

 ――そして、奇麗なプール。

 昨日グリートさんが話してくれたように、存在する魔法は一つだけ、結界の魔法だけなのだ。だから浄化の類は存在しないと言う事。つまりこれらを合わせて考えれば、あのプールを綺麗にしたのがグリートさんだったという答えが導き出される。その裏付けとして、ゼヴィチェ様は私が水について感動した時グリートさんの名前を出した。私は少女漫画の乙女のような鈍感女子ではないため、可愛げもなくこんな事に気づいてしまう。そして、それと同時にいたたまれなくもなるのだ。

 だってそうじゃないか。私が天上人だったと言う理由だけでグリートさん自らが動かなければならないなんて。そんなの、申し訳なさすぎる。

 そっとグリートさんを見ると、グリートさんは私に笑顔をくれた。どこまでも、陽だまりのように優しいグリートさんがと重なって私は泣きたくなった。

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