02 怖がり幽霊
羊本くちなは様子をうかがっている。窓際の席で頬杖をつき、外の景色を眺めるともなく眺めながら、いつものように。
ずっとそうしてきた。
くちなにできることはそれしかない。
本当はあるのかもしれないが、考えないようにしている。
きっと、考えてもしょうがないことだから。
「あ、
一人の男子生徒が白森
(……林くん?)
すぐにわかった。林
ただ、くちなの中で、林くんと白森さんがうまく結びつかない。林くんと、白森さん。この組み合わせは意外ですらあった。
白森さんはこの二年二組で、というより二年生全体、それどころか全校生徒の中でも屈指の見目麗しい女子生徒だ。加えてほがらかで、分け隔てしない。接点がないくちなでも、とても感じがいい人だと思う。とくに親しい
でも、白森さんが林くんと頻繁に会話している印象はない。
白森さんがどうこうというよりも、林くんだ。林くんはよく
白森さんは、ただそこにいるだけで大勢が寄ってくるような人だ。美しい色彩で、優美な形の花びら。とてもいい匂いがする。そういう花のような女子生徒だ。
おそらく林くんのような人は、白森さんみたいなタイプの人に自分から近づいてはゆかない。
それは、くちなの勝手な思いこみだったのかもしれない。
「あの件なんだけど」
林くんがそう言うと、白森さんは「えっ!」と大声を出した。くちなは思わず二人のほうに目を向けてしまう。
(あの件――)
気になる表現だ。気にならないほうがおかしい。
「ちょっと……」
白森さんは林くんの腕を掴んでどこかへ引っぱってゆく。教室を出るようだ。
(そんな……)
人前ではしづらい、できないような話なのだろうか。くちなは窓の外に視線を戻す。気になる。二人はもう教室をあとにしただろうか。廊下に出て、二人で何を話すのだろう。
(……気に、ならない)
くちなは自分に言い聞かせる。
(気にしたところで――)
わかっている。
(無意味……)
重々承知している。
羊本くちなは幽霊だ。二年二組の幽霊。幽霊というものは、見える人と見えない人がいるとか。でも、本当に見える人がいるとは思えない。たとえ存在するとしても、幽霊は見えない。ということは、いてもいなくても変わらない。くちなは、幽霊だ。
幽霊は、すでに死んでいる。死者だ。この世には関わりがない者。成仏できずに現世をさまよっている。ただそれだけ。
くちなは立ち上がる。
というか、気がつくと立ち上がっている。
静かに、できるだけ音を立てずに、歩きだしている。
幽霊らしく。
いつものように。
(……どうせ、わたしは幽霊なんだから――)
大丈夫。
誰もくちなを見ていない。視界に入っていても気づかない。誰もくちなのことなど気にしない。
幽霊だから。
教室にいようと、ふと教室を出ようと、同じこと。何も変わらない。現世に何の影響も及ぼさない。
所詮、人には見えない幽霊でしかないのだから。教室を出たっていい。
教室には前後に一つずつ、二つの出入口がある。白森さんと林くんは前の出入口から出た。くちなが後ろから出ると、二人がいた。小声で何か話しこんでいる。くちなはさりげないふうを装って二人に接近した。
「――そうだね」と林くんがうなずく。
「ほんとに?」白森さんが訊き返した。
いくらくちなが幽霊でも、足を止めるのは不自然だ。不審がられるかもしれない。なるべく速度を落としながらも、歩きつづけるしかない。
「本当だよ」
林くんは笑みを浮かべてみせた。
「ちゃんと確認したし、間違いないんじゃない?」
「そっかぁ……」
白森さんはぎゅっと目をつぶった。
(……何? 何なの? 本当? 間違いない? いったい何が……?)
くちなの中で疑問が渦巻き暴れくるっている。
「いるわけないって、想星は言ってたけど」と林くんが言う。
(――そうせい?)
くちなは立ち止まりたくなる。
だめだ。
そういうわけにはいかない。
行きすぎるしかない。
断腸の思いだった。くちなは二人の横を通りすぎた。二人は声を潜めている。背中を向ける形だと、二人の声はほとんど聞きとれない。
(……そうせい? 想星。高良縊想星――)
得られた数少ない手がかりから推測する。それしかない。
(林くんは高良縊くんと親しい。だから……?)
くちなは歩く。
(だから、何……?)
学校の廊下を歩きつづける。
(いるわけない、と林くんは。違う……あれは、高良縊くんが言ったこと。高良縊くんが林くんに、そう請け合った。いるわけない……何が? どうしてそのことを、林くんは白森さんに? わざわざ白森さんに声をかけてまで――)
足を止めずに考えごとしながらも、くちなは周囲の様子をうかがっている。
(伝言……?)
これは職業病かもしれない。
(高良縊くんから白森さんへの、言づけ。それを林くんが白森さんに伝えた。違う。そうじゃない……)
すっかり染みついてしまっている。
(あの件、と林くんが――)
ということは。
(林くんと白森さんの間で、あの件は共有されている。さもなければ、そういう言い方はしない。あの件、とは。林くんはそれについて報告するため、白森さんに声をかけた。あの件には、高良縊くんが関係している……)
問題は、どのように関係しているのか。
(いるわけない……何が?)
結局、そこに辿りつく。
高良縊くんにいるわけないもの。
林くんは高良縊くんに何か質問したのだろう。おそらく、そうして欲しいと、白森さんが林くんに依頼したのではないか。
(……訊きたいことがあるなら、直接、高良縊くんに訊けばいいのに――)
それが白森さんにはできなかった。
訊きづらいことだった。
人前では話せない、話しづらいようなことだったのかもしれない。だから人目を避けるため、他人の耳から逃れるために、白森さんは林くんを廊下に連れだした。
報告を受けるために。
質問の回答を聞くために。
白森さんが高良縊くんに訊きたかったこと。
何らかの問い。
その回答を、さっき白森さんは林くんから受けとった。
(いるわけない……高良縊くんに、それはいない。ないじゃなくて、いない。物じゃない。人。人間……)
周りに誰もいない。
くちなは立ち止まった。
(高良縊くんにそれがいないと知って、白森さんは……目をつぶった。あの反応は? なんとなく、ほっとしていたような……)
ある仮説がくちなの頭に浮かんでいた。
仮定。
ほとんど憶測だ。
(……そうなの? わからない。わたしには。ひょっとしたら、そうなのかもしれない、としか――)
何しろ、材料が少ない。少なすぎる。推測を補強するための理論、実体験も、くちなには不足している。
(不足……)
くちなはうつむいた。唇の端を軽く噛む。
(……不足、じゃない。ゼロ。何もない。わたしには。それこそ……いるわけない。今も、過去にも、この先も。未来永劫――)
顔を上げる。できるだけ、素早く。下を向いていればいるだけ、前を向くことができなくなってしまいそうだから。
くちなは歩いた。目指すは教室だ。
(……仮説)
あの教室にくちなの居場所はない。だとしても、他に行き場があるわけでもない。
(林くんを介した、白森さんの高良縊くんへの質問。状況から、普通に考えれば……わたしが、普通に。普通――)
くちなが羊本くちなでなければ、失笑している。
羊本くちなは笑わない。笑うことができないわけではない。くちなのような人間は――人間と呼べれば、だが――笑ってはならない。笑うべきではない。資格がない。笑うことは許されない。
(……状況からして、白森さんは高良縊くんに好意を。交際相手がいるのかどうか、確認したかった)
まずまず妥当なところだろう。努めて冷静にくちなはそう判断する。直後に、冷たい判断が揺らいで熱を帯びはじめる。
(……白森さんが、高良縊くんに、好意を。あの白森さんが――)
揺らぐ判断の中から疑問が頭をもたげる。
(高良縊くん)
どういう人なのだろう。
高良縊想星。
声は覚えている。顔も、だいたいは。背は高くも低くもない。標準的な体型。人目を引くようなタイプの男子生徒ではない。目立たない。あまり社交的ではなさそうだ。かといって、孤立しているということもない。
(あえて言うなら――)
二年二組の教室を前にして、くちなは思う。
(普通の人)
教室に入って窓際の席に着く。その間にくちなは様子をうかがった。白森さんは茂江さんと立ち話をしていた。高良縊くんは自分の席に座っていて、そばに林くんがいた。茂江さんとしゃべりながら、ちらちらと高良縊くんのほうに目をやる白森さんの姿が印象的だった。
(――そういえば……)
窓の外の景色を眺めるともなく眺めつつ、くちなは考えこむ。
(何度か、白森さんがあらぬ方向を見てぼうっとしていた。あらぬ方向じゃなくて、高良縊くんを見ていたのかも。まさか、高良縊くんを見ているなんて思いもよらない。だから、てっきり物思いにでもふけっているのかと――)
くちなはため息をつきそうになる。なぜため息をつかないといけないのか。くちな自身にもわからない。何か適切ではないような気はする。くちながため息をつくなんて、変だ。
(白森さんと高良縊くんは、釣りあわない。……わたしはたぶん、そう感じてる。二人とも、よく知らないのに――)
そして、くちなが二人をよく知るようになることはない。
何があろうと。
そんなことはありえない。
白森明日美は外面も内面も完璧のように見えるが、意外と趣味が悪いのかもしれない。高良縊想星はごくごく普通の、取るに足らない男子生徒だ。くちなにはそうとしか思えない。でも、何かすばらしい魅力を備えているのかもしれない。
くちなは窓の外を眺めているふりをして、いつも様子をうかがっている。あくまでも様子をうかがっているだけだ。それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもない。同級生たちの声や顔を覚えて、会話の内容から関係性を推測し、何かわかったような気になって、薄い根拠で妄想を広げている。
妄想。
(……ようは、妄想でしかない)
事あるごとに、くちなは思い知らされる。
本当は、何も知らないのだと。
こうして様子をうかがっているだけで知りうる事柄など、たいしてない。思い違いや誤解、曲解する余地も大きい。
(――意味がないのに。どうしてわたしは、学校なんか……)
人びとの笑い声が聞こえる。誰かがおもしろいことでも言ったのだろう。
(……聞き逃した)
がっかりしている自分に、くちなは気づく。その失望が口の中に溢れてきて、苦い味となって広がる。
幽霊同然の羊本くちなが、同級生のちょっとした冗談の一つすら聞き漏らしたくないと思っている。
(滑稽……)
幸い幽霊だけに、どれだけ滑稽でも、誰かに嘲笑われることはない。それが救いと言えば救いだ。幸いなのか。何がくちなを救うというのか。ともあれ、恥ずかしい思いをすることはない。
(辱めを受けるくらいなら、わたしは幽霊でいい――)
恋は暗黒。EXTRA 十文字青 @jyumonjiao
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