恋は暗黒。EXTRA

十文字青

くちなはようすをうかがっている

01 甘い怪物

 羊本ひつじもとくちなは様子をうかがっている。

 ――といっても、顔をそちらに向けてしっかり見ることはない。


 くちなの席は窓際だ。基本的にくちなはその席から動かない。たいていの場合は頬杖をついて、窓の外に目をやっている。たまに別の方向に視線を走らせる。そうして素早く様子をうかがう。


 くちなは目の他に耳も駆使する。何しろ、そう頻繁にあちこち見るわけにはいかないので、聴覚のほうがむしろ重要だ。声は重要な手がかりになる。顔を覚えるのは得意だが、声だとそれ以上かもしれない。囁き声やちょっとした笑い声で個人を識別できる。いつの間にかそうなっていた。


 窓の外の景色にはさして興味はない。

 実際のところ、ろくに見ていない。

 窓の外を眺めるともなく眺めながら、耳をそばだてる。

 人びとの話し声に聞き耳を立てて、くちなは様子をうかがっている。


 べつに最初からこんな馬鹿げたことをしていたわけではない。気がついたら習慣になっていた。


 無名むなかみ中央高校二年二組には三十六人の生徒がいる。

 羊本くちなも、そのうちの一人――なのだろうか。

 実質的には員数外だ。このクラスには三十五人の生徒がいる、と言ったほうが適切かもしれない。


 くちなはただいるだけで、二年二組には含まれない。そう見なすほうがたぶん自然だろう。


 くちなは様子をうかがっている。

 生徒たちがいる教室は静寂とは無縁だ。とくに休み時間はかならず誰かがしゃべっている。


 白森しらもり明日美あすみしげ陽菜ひなの声がする。くちなは窓の外に目を向けたまま、そちらに耳を澄ます。

 二人は食べ物の話をしている。

 たぶん、コンビニの新商品についてだ。


(また……)

 と、くちなは思う。


「あすみん、あれ食べた?」

 茂江さんに尋ねられて、白森さんが答える。

「食べてないけど」

「えっ!」

「えっ?」

「なんで?」

「なんでって……」

「食べるべき、絶対」

「絶対?」

「絶対!」

「モエの絶対はやばいやつだよね」

「やばいやつだよ!」

 茂江さんは重ねて強調する。

「やばいやつなんだよ!」


(何がやばいのかな……)

 くちなは知りたい。でも、質問するわけにはいかない。当然だ。くちなは二年二組の員数外で、ほとんど誰とも口をきいたことがない。最初の頃は近づいてくる人もいたけれど、今となっては誰も話しかけてこない。訊けないので、二人の会話を追って突き止めるしかない。


「ただのあんバターサンドじゃないの!」

 茂江さんがいきなり核心を突いてくれて、くちなは思わずガッツポーズをしそうになった。

 もちろん、頬杖をついて外を見ている員数外の女子生徒が、いきなりガッツポーズなんかしたら変だ。そんなことはしない。できない。だから、そこはぐっと奥歯を噛み締めてこらえた。


(――けど。どうなのかな……)

 とも、一方でくちなは思う。


 どうせ誰もくちなのことななんか気にしていない。くちなが教室にいることすら、みんな意識していないだろう。


 たとえば今、くちながガッツポーズをしたとする。その瞬間を誰かに見とがめられる可能性は皆無に近いはずだ。


 試しにガッツポーズをしてみよう。


 ――そんなふうに考えるような挑戦心がくちなには備わっていたら、何か違っていたかもしれない。


 昔、ずいぶん前だけれど、こっそり友だちを作ってみようと企てたことがある。でも、くちなはその計画を実行に移さなかった。


(所詮、わたしは臆病者……)

 自覚はある。


 臆病でなかったとしたら、くちなは今ここに存在していないかもしれない。密かに友だちを作る計画を敢行するほど勇敢だったら、きっと失敗を恐れることもなかった。そして、本当にしくじっていただろう。そのしくじりに誰かを巻きこんで、傷つけたり、失ったりしていたかもしれない。

(わたしは臆病者で、よかった――)

 根っから臆病なくちなは、ガッツポーズをしない。じっと茂江さんと白森さんの会話に耳を傾けている。


「あんバターサンドがおいしいっていうのは常識っていうか全世界共通の認識だと思うけど」

「全世界は言いすぎじゃない?」

「アジアに限定したほうがいい?」

「それでも広くない?」

「広くないってば。バターは全世界規模の食品でしょ」

「うん。バターは有名。……有名?」

「でも、あんは違う。それは認めざるをえないけど、誰だって一度でも味わったら、あんのすごさを認めちゃうと思うんだよね」

「モエ、あんこ好きだもんね」

「好き。大好き!」


 茂江さんはわりと普段はふわっとしている。穏やかでおっとりした話し方をする人だ。けれども事が食べ物になると一変する。


「無人島に何か一つ食材を持ちこめるとしたら、あたし、あんこを選んじゃうかもしれない」

「かも、なんだ」

「だって食材は他にも一杯あるし。候補多すぎて……」

 声の感じからして、今、茂江さんは本当に頭を抱えて悩んでいる。


(――無人島に持っていく食材について、悩んでる?)

 くちなはつい眉根を寄せてしまう。

(無人島に行くわけでもないのに。今、悩むようなこと……?)


「候補が多すぎて!」

 でも、茂江さんは泣きだしそうだ。*01-15


「よし、よし」

 と白森さんが茂江さんに声をかける。背中を撫でているようだ。


(白森さんは、やさしい人……)

 くちなは白森明日美の容姿を思い浮かべる。白森さんは教室にいるのが場違いのように感じられるような外見の持ち主だ。加えていつも明るくて人当たりがいい。

(性格も――)


 くちながこれまでの人生で直接観察してきた範囲では、白森さんほど容色に恵まれた女子はいない。背が高くて手脚が長いだけでなく、頭が小さすぎる。肌も、髪の毛も、きれいだ。きらきらしている。まじまじと見つめたら、目が眩んでしまうかもしれない。それでいて、近寄りがたくない。


(天は二物を与えず、という言葉は、嘘……)

 白森さんを見ていると、くちなはそう思わずにいられない。

 見ていないわけだが。

 たまに、ちらっとしか見ることはない。

(見ないほうがいい……)


 ときどき目を離せなくなりそうな人がいる。

 白森さんのような。

 ある意味、くちなにとっては毒だ。


「じゃ、わかった」

 白森さんが笑いながら言う。

「帰りコンビニ寄って、モエにその、何だっけ、あんバターサンド? 買ってあげる」

「うっそ、あすみん本気で言ってる、それ?」

「本気、本気」

「や、でもね、けっこう高いんだって」

「いくら?」

「三百円近くする」

「たっかっ……」

「高いでしょ。誕生日とかじゃないと買ってもらえない値段だよ」

「それは大袈裟! 誕生日プレゼントなら三個はいけるよ」

「三個かい!」

「十個あげたって、さすがに食べられなくない?」

「食べられる。十個は余裕」

「出た。食欲モンスター・モエ」

「それくらいうんっまいんだって!」


 茂江さんは食べるのが好きだ。食べ物の話題になると急に早口になって、声に熱がこもる。


 実は、お昼ご飯の時間以外にも、茂江さんはよく何かを口に入れている。もちろん食べ物だ。くちなはその模様を目の当たりにしたことがある。たまたまだ。偶然、見た。目撃してしまった。


 不意にくちなはある予感に駆られた。

 二人のほうに目をやると、まさにそれが起こった。


 茂江さんが左手でスカートのポケットの中から何かを取りだした。何だろう、あれは。キャンディーだろうか。個別包装されている。茂江さんはその包装の端を右手の人差し指と親指でつまむと、一瞬でちぎり開けた。


 茂江さんは端を破った包装を口のところへ持っていき、中身を押しだした。キャンディーは吸いこまれるようにして茂江さんの口の中に入った。茂江さんは空になった包装をポケットに突っこんで言葉を繋げた。

「とにかくね、あのあんバターサンドは常識を覆すっていうか――」


 くちなは何も特別なものなど見ていないというふうに窓の外に視線を戻した。でも少し動悸がしている。

 少し?

 多少は。

 それなりに。

 けっこうどきどきしている。


「食感なのかな。味のバランス? ぜんぶかな? 何もかも?」

 茂江さんはしゃべりつづけている。何事もなかったかのように。


(……電光石火だった)

 くちなは静かに深呼吸をする。


 茂江さんが淀みない早業でキャンディーを口に入れても、白森さんはまったく無反応だった。気づかなかったのか、気にしていないのか。たしか以前、見たときも同様だった。

 ということはきっと、あれは異例ではない。

 日常的に、よくあることなのだろう。

 そして、休み時間だけではない。

 茂江さんは授業中にもキャンディーをポケットから出して口に投入する。

 教室以外でも。

 くちなはゆえあって体育は見学する。あれは準備運動の合間だった。茂江さんがジャージのポケットからキャンディーを取りだして食べる場面を、くちなは目にした。


「なんか、そこまで力説されると、あたしもそのあんバターサンド、食べてみたくなってきた」

 と白森さんが言う。

 すかさず茂江さんが「絶対、食べるべき!」と応じて、「あっ……」と声を出す。


(――あっ?)

 何だろう。

 何か起こったのだろうか。

(……だめ)

 我慢できない。

 くちなはまた二人を盗み見た。


「飴!」

 白森さんが笑いだす。

「んゃあ……」

 というような音声を発しながら、茂江さんがしゃがんだ。何か拾っているらしい。すぐに立ち上がった。右手の指で何らかの物体をつまんでいる。

 茂江さんの顔が少し赤い。

「飛びだしちゃった……」


 何が飛びだしたのか。

 飴。

 キャンディーか。


「もったいない……」

 茂江さんは悄然とうなだれた。上目遣いでちらっと白森さんを見る。

「これ……食べちゃだめかな?」

 白森さんが苦笑する。

「やめといたほうが……」

「三秒ルール適用されない?」

「何、そのルール」

「あすみん、知らない? 三秒ルール」

「え、知らない」

「そっかぁ……」


 ずっと見つづけると、視線を察知されるかもしれない。名残惜しいけれど、くちなは窓の外に目を移した。


「捨てないとね……」

 茂江さんも名残惜しそうだ。

「今いちばん好きな味だったのに……」

「よし、よし」

 白森さんが慰める。きっとまた茂江さんの背中を撫でているのだろう。


 外は晴れている。

 見慣れた景色がちょっとだけ眩しい。

 くちなは目を細め、そっと息をついた。

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