第一話:野々村仁

 雨がしんしんと降り続ける。

 在りし日の情景を、まるで映写機の様に映し出す。

 霞がかかって先も見えない世界を、どうしてか尊いと思った。


 竹刀を握る手に汗が滲む。目の前の相手の図ることのできない力量に、戦う前から心が竦んでいくのが分かった。

 審判が合図を出しそれに応じて相手と対峙する際に、甲冑で目元が覆われているため相手には悟られないだろうと思いながら、観客席で自分の試合を観戦している父の表情を伺った。父の表情は口元がきつく結ばれており、自分以上に試合結果に拘っているのを中学生上がりたての自分でも分かった。

 ヒシヒシと感じていた不安を抑え込むように感情を追い出す。勝ちたい気持ちだとか負けに対する恐怖だとか、そう言ったものを一切合切捨て去る。

 僕は親の期待というものに対して、常に親が用意したゴールテープを超えられていないと思っていた。別に父からそう言われたわけではない。ただ自分がそうあるべきだと思うからそうして向かい合っている。

 だがそうして自分で向き合うよりも前、剣道を始めたばかりの頃は、ただひたむきに親の期待に応えるためだけに剣道をしていた気がする。竹刀を振る手にはいつも自分の意志は籠っていなかった。

 そうやって自分の意志のない剣道を続けて数年。段々剣道に対しての情熱が冷めていくのを感じた。だがそれを今更手放してゼロからスタートするという事にも怯えてしまい結局自分には剣道しか残らなかった。

 考えを捨てろ。試合が始まる。

「はじめ!」

 審判がそう言うと同時に相手が慣れた足捌きで一気に距離を詰めてくる。僕はそれに慌てて応対し、相手が上段に振りかぶった瞬間、咄嗟に面を狙ってくると判断しそこに剣先を振り、勢いが乗り切る前に勢いを殺す。

 だが指先に残るのは僅かな重み。勢いを殺したはずなのに、ふと父が言った言葉を思い出す。

『振るときに思いが籠っていると、腕力以外の力が籠ることもある』

 この重みは完全にそれだった。長いこと竹刀を振っているが、こういった相手は中々手強いのだ。力が強いとか弱いとかじゃない。

 相手の気迫が違う。試合への向き合い方が根底から違うのだ。僕のように流されて剣道をしているのとは違う。一つ一つの所作が真剣。だから技術が劣っていても予想外のタイミングで劣勢に回ることもあるのだ。

 そしてその考えの通り、直後、払って遠ざけたはずの竹刀が一気に猛勢してくる。

 それを一手,二手と小手、胴を狙う動きに合わせて何とかいなす。だが、押し負けているのは誰の目からも明らかで、試合を見ている父がどう思っているか、それが強く僕の心を締め付けていた。

 気が付けば相手は狙う位置を臨機応変に変え、僕の合わせから脱出しようと藻掻いている。

 世界の声が遠くなる。意識だけになって、ひたすら打ち込む相手の勢いに何とかついていく。

 考える余裕なぞ欠片だって無いはずなのに、追い詰められた意識は走馬灯のように記憶を、思考を巡らせる。

 相手の竹刀に合わせようと、振った瞬間に付きまとう影が囁く。

 ――もしかしたら、母はこんな自分だから自分を捨てて家を出て行ったのではないか?

 直後、確かに合わせた竹刀の軸がぶれる。相手の力が増したように思えるが違う。

 僅かな罅が広がる様に、一気に何もかもが崩れ去る。

 そして、彼の竹刀は、確かに自分の面を強く叩いた。


『ジン、荷物をまとめて車に来てね』

 覚えてる。本当は母は自分を捨てた訳では無かったのだって。

『―行きたくない』

 ―幼かった自分は、積み上げた幸福を置き去りにしようとする母を呼び止めるようにそう言った。

『――そう、じゃあ、野々村さんと仲良くね』

 母にとっては、積み上げた幸福とは代り映えのない退屈な毎日だったのだろう。価値の違いが互いの心をすれ違わせて永遠に本当の思いは届かない。

 雨が、ザーザー降っていた。

 知らない女としての母は、そう言って何もかもを置き去りに去って行ってしまった。

 雨の音をBGMに脳内に在りし日の温もりが心の映写機に映し出される。

 あれはそうだ。父は剣道の道場の師範をしていて、県大会や地方の大会への遠征がある時は、大抵泊りだったからその父を母と迎えに行ったのだ。

「父さん!おかえりなさい!」

 田舎の小さな駅から出てきた父を傘の下から飛び出して、ガタイのいい父の胸板へと飛び込む。ごつごつして固い。だがそれは安心する感触だった。母とは明確に違う父だけの安心感。

「こら、ジン。お父さん疲れてるでしょ」

 そんな元気のあり余る自分を窘める優しい声。雨の中でどんな土砂降りだろうとその声を聴き違えることは無いと思う。

「え~、やだ~、一週間ぶりの父さんじゃん」

 だが再会を果たしたばかりの自分にはとても窮屈なものに感じたらしい。今だったら言わないような反発の言葉を僕は考えずに口にしていた。

「はは、良いじゃないか。これぞ父親冥利に尽きるってもんだ」

 それに同調する様に父は一週間の遠征明けとは思えない快活な声で母を窘めた。

「貴方が良いならいいけど…体は大事にしてね」

 分かってるって、そう言って笑う父に寄り添う母。

 そこまで来たら流石に父の胸からは降りる。

 僕は母が差した傘に入り、母の柔らかい手を握る。暖かい。この温もりがあればどれだけ体が冷えていようと、触れた指先から伝わり全身を包み込むような温かさに包まれるのだ。

「父さーん!」

「はいはい」

 父は苦笑いをしながら僕が差し出した手を握る。僕はそれに満足げに笑うと同じ思いだと言わんばかりに両親の顔に満面の笑みが咲いた。

 梅雨にだけ咲く紫陽花のような幸せの風景。

 だがそんな花開いた思いでも、酸性雨が降ればその色を侵してしまう。

 鮮やかな赤色が冷酷なまでの濃青色に。

 気が付けば咲き誇った幸せは散り、雨空の下、傘も差さない僕が一人残された気がしていた。


 面を受けた後は、まるで早送りのように時間が過ぎて行った。

 残りの試合も、最初から負けるんだというイメージを払拭出来ないまま、一つ二つと負けを積み重ねていった。

 竹刀を握っているはずの手が、酷く寂しい。

 考えを追い出そうと、心を押し出しても目の前の相手に集中できず、あっという間に負けていく。負けを重ねる度に父の視線は鋭く厳しいものに変わっていった。それが焦りになり、必死に勝とうと竹刀を振るのに一度も勝てず焦燥感だけ募っていく。

 気が付けば県大会の日程は全て終わり、自分は初戦敗退という形で幕を下ろした。

 四日後、団体として出場していた道場の選手らの試合が終わり、二人が地方の大会出場に決まった。父がその二人を褒める度に、心が歪に歪んでいくのを感じた。

 ただそれを表に出さないために、僕はその間はずっと空気に徹して過ごしていた。

 帰りの電車。地元の駅で解散し、父と二人雨の降る街の中を歩いていた。

 終始無言で過ぎる時間。家に着いた頃にはすっかり雨も強くなり、干していた洗濯物を仕舞ったか不安になって言った。

 家が見えた時、その不安は的中し干されたままの洗濯物はすっかりびちゃびちゃになっていた。

 父が何かを言ってから走り出す。僕は何も言わずに付いていったが、父の横顔を見ることはどうしても出来なかった。

 そうやって家に着いて僕は洗濯物を仕舞おうとしたが、父が僕を押しのけ、お前はここに居ろと言うと父は早々に二階のベランダに向かった。

 そうして降りてきた父はドスドスと地面を軋ませながら降りてきた。

 僕に何も言わずに通り過ぎていき、暫くしたら洗濯機が回る音だけが僕らの沈黙の間に広がった。

 沈黙が毒の様に、自分の心を蝕む。

 耐えられなくなった僕は唯一の居場所である自分の部屋に逃げた。

 ドアを閉めてズルズルとドアを背にして座り込んだ。

 そうして胸に広がるのは、押し殺したはずの焦燥感。たとえ一度追い出したとて、大本を断てなければ何度でも沸き上がる。喉を焼く感覚にも似たそれは食傷気味な胸に焼き目を再び重ねた。

 いくつ時間が経ったか。僕は喉が渇き、静かに立ち上がって目元を擦りながら階段を下りた。目元を擦ると涙が滲んでいた。

 濡れた手の甲をごしごしと服の袖に押し付けていると、鼻腔をアルコールの香りがつんと刺した。顔を顰めて匂いの素を探る。原因はすぐに分かった。父が焼酎の瓶を開いていた。

「…父さん。こんな時間からお酒なんて…」

 父は元々酒をあまり嗜むタイプではなかった。晩酌の回数が増えたのは母がいなくなってからだった。それは決まって僕が早くに寝る夜か、食後勉強に部屋に上がった後かのどちらかだった。

「…うるせえよ」

 父は力なく僕の忠告を一蹴する。だが父がこんな時間から腐っていては午後からある低学年の練習に出ることが出来ない。

「でも、今日は午後から低学年の練習が…」

「うるせえよッ!」

 ダンッ、とグラスを持っていないほうの手を机に叩きつけて今度は怒鳴りつけるように言った。ギシりと、母が父の下に嫁ぐ時に持ってきたという机だった。壊れてしまうかもしれない。普段なら父が悪酔いして当たってきたときは引くのだが、この時は思い出が壊れてしまうような感覚に耐えきれず、反射的に反抗してしまった。

「父さん!そんな強くしたら机が!」

 叫ぶような僕の声に父は口調を低くして言う。

「ああ?あんな腐れ女が持ってきた机なんざどうだっていいだろうが!」

 父の強い口調での罵倒に僕は勢いを失くす。こんな父は初めてだった。十余年生きてきて多少の不満で苛立っているのは目にしたが、ここまで自分に対して明確な悪意を示したことは一度だって無かった。

「いいよなあ!お前はあの女がいるんだから、一人じゃなくってよお!俺を見ろよ。親父もお母んもいない、みじめったらありゃしねえ!」

「……ッ」

 父の容赦のない悪意が躊躇なく心を抉る。日常で積み重ねた圧迫感。父の言葉が心の硝子に躊躇なく罅を入れギシギシと心が鳴り出す。

 父は思い出したように母を罵り出す。まるで抑えていた蓋が弾けるように。

「ふざけんじゃねえぞ!俺がお前に何したってんだよ!俺が大事にしてるもん下らないって言って、それで躊躇なくなんもかんも捨てたお前が!」

 それでも父の言葉は、一度解き放たれた悪意は消えない。

 それは、僕ではない。犯したはずのない罪が更に心に重しを乗せる。

 逃げないと、父の言葉から察するに、ここから先を聞いてしまえば僕はもう戻れない。

 僅かに残った何かさえ、二度と触れることが出来なくなる。

 父は、赤くなった頬を醜く歪め、まるで苦しんでいるのを楽しむかのように笑った。

「なんだよ…なんか言えよ、おい!

 バキリと、硝子が、音を立てて割れる。切れ口が容赦なく心のもろい部分に刃を通し、鮮烈な血が滔々とうとうと溢れ出す。

 あ、ああ、感情が割れていく。指先から感覚が消える。視界が歪む。今、自分の中での決定的な何かが崩れた。

 足元がふらつく。言葉が遠のく。守らなくては。自分が、いなくなる。

 これを、どうにか…。

「あ、あ、あああああああああああ!」

 気が付けば壁に立てかけられた木刀を握りしめていた。それを上段に構えてその悪意に満ちた口元に狙いをつけて振りかぶる。

「お、おい⁉やめろ⁉」

 だが、父の言葉がブツンと、泥沼のような感情の濁流を一時的だが断ち切る。

 ハッとして慌てて木刀の切っ先を逸らすが、父の肘に掠り、そのまま木刀はバンと破裂音のようなものを立てて真っ二つに折れていた。

「ハア、ハア…」

 頭が、真っ白だった。何も考えが湧かないのに。怒りだけが煮え立って。

 もし、父の言葉が無かったら、僕は…

「くそ…」

 バツの悪そうな表情を浮かべ、父は逃げるようにリビングのドアを開け、リビングを去っていった。

 ばたんとドアが閉じるのを見届けるのと同時に、木刀の柄を握ったまま、膝から力が抜けてぺたんと座り込む。

 空っぽだった。どうしようもないほど。胸を締め付けるようなどうしようもない焦燥感も、試合の勝ち負けにこだわるたびに浮かび上がる虚しさも。

 真っ白に塗りつぶされて、壊れてしまった。

 居場所がなくなった。

 フラフラと立ち上がり、力なく家を出た。

 焦燥感も虚しさもなくなったのに、何がそこまでこの足を突き動かすのか。

 それは何時まで経っても分からないままで―――


 雨がザーザーと降っていた。僕は傘もささずに雨の降る街の中へ消えていった。


■■■■■


 容赦のない横降りの雨が容赦なく体温を奪い去る。

 温めるように肩を抱き寄せるが、それが意味をなさないほどに雨は強く降り続いていた。

 何処か、逃げ出したい気持ちはずっと胸の奥にあった。

 暗い現実、雲が太陽を遮る日々、咲かないままに枯れた紫陽花、夢と希望。

 そういった、自分を構成する何か。

 僕は、ずっとそれを疎ましく思っていた。自分への劣等感は簡単に拭えるものではない。だが、それを捨てられたなら?

 馬鹿な考えだ。あり得ない。当時はそう思った。

 だが、今はどうだ。自分が消える感覚から衝動的に飛び出してからは、胸を焼く鮮烈な痛みが、遠ざかるにつれ雨に当たる度、乾いていく。

 僕は走り出して、息が切れ立ち止まった先にあった、普段僕が通学に使うバス停に腰を下ろしていた。

 胸を焼く熱、日々の陰に映り込む過去の気配、今まではずっと耐えてきた。痛みしか知らなかったから、それが当たり前と疑わなかったから。

 逃げることを覚えてしまえば、人は簡単にそれに縋ってしまう。

 ふと、霞む視界の奥に大きく聳え立つ山が見えた。子供の頃、何度も父と登りたいと話をしたあの山。確かあの後は結局上ることなく何年も過ぎてしまっていた。

 バスが、暗がりを引き裂いて僕の目の前に止まる。


 僕は静かにそれに飛び乗った。

 遠心力から離れた鉄球の様に、僕は何処かへと転がっていく。


■■■■■


 バスに揺られる感覚が、静かに収まる。目を覚まし周囲を見る。

 いつの間にか、周囲はすっかり暗くなっている。日が沈んだわけではなく、頭上を生い茂る木々が僅かに零れる光さえも飲み込んでしまっていたのだ。

 僕はすっくと立ちあがる。ビショビショになったシートを見て申し訳なく思う。

 僕はポケットに急時に備えて常備していた財布からお金を出し精算機に流し込む。

 僕は出て行く際にふと振り返って運転席を見た。

 だが、運転手はただ座って何とも言えない表情を零すだけで、何か僕に興味を示すことは無かった。

 僕はそれにどこか寂しさを抱きながら、バスを降りた。

 暮れ始めた空は藍に染まり、より一層この場の雰囲気を強めている。

 雨の声が少しずつ遠くなり、傘が無くても短い距離なら歩けそうだ。

「――歩くか」

 ぽつりと呟き当てのない歩みを始めた。目的のない足取りは、緩やかで、でもどこか懐かしい高揚感に身を包んでいた。

 固い混凝土コンクリートの地面を踏みしめ、靴が濡れる感触に一憂しながら視線の先を見据える。

 楽しい。そう切に思った。

 こうやって、何も考えず過ごしたのはいつ振りだったろうか。何をしてもつまらなかった。何をするにもどこか息苦しさが付いて回ってきた。

 家族がこうあって欲しいと望んだ自分。それを自分は叶えることが出来なかった。何時だって父の期待を超えることが出来ずに、褒める言葉の裏に失望を感じていた。だから、せめて学校ではそうではない、誰かに必要とされている自分でありたかった。

 やりたくもない学級委員長をやった。周りがしたがらなかったから。

 応援団だって団長を務めた。周りに期待されていたから。

 音楽祭では指揮を執った。いつの間にかそうあることが普通になっていた。

 僕は周りの望むを押し付けられていることに、強い窮屈感を感じていた。それでも周りから失望されるよりはましだ。そう言って自分の心を騙しながら、僕は誰かに望まれている野々村仁を演じ続けてきた。

 表面的に人当たりのいい自分。誰かと話せない訳では無かったのが唯一の救い。クラスメイトであまり仲の悪い人もいなかったが、自分の家庭環境に触れられたくなかったから適度に距離を保って、だから仲のいい人もいなかった。

 その枷から、今解き放たれた。

 今は戻った時の事なんか考えたくない。

 スチャスチャと雨の吸いつく感触を面白がりながら歩いていった。


 ――何処までも、歩いていく。

 引力から外れたボールの様に、地面を転がって今迄から遠ざかっていく。

 混凝土もいつしか土に変わり、道路から山道に変わってもひたむきに歩き続ける。

 雨が止み、夜が暮れ、朝が来てもただ歩いた。

 飲み水を雨露でしのぎ、疲れたら木陰で休み、見たことの無い鳥を追いかけて、人の道から外れてく。不思議な石を拾って川で洗いその美しさに喜び、見たことの無い果物を食べてその渋さに顔を顰めたり。

 何時の間にか、理由などない逃避行だったが、段々行けるところまで行きたいとそう思うようになった。

 もう何処まで来てしまったか。今更帰れる気などさらさらない。

 ならば、もうかのヨダカの様にその命が燃え尽きるまで歩いてみよう。

 宮沢賢治の銀河鉄道の夜の一篇の『よだかの星』。

 星を目指して飛び立ったヨダカが命尽きるとき、その身を星として空に輝き続けるというもの。

 命を使って何処まで行けるか。

 そんなことを考えながら、僕は小川を一飛びで超えた。

 

 ―流れる空気が変わった。湿度とか空気とか温度とかそう言うものではなく、根本的なもの。

 この世のものではないような、纏わりつくような気配。

 古来より日本では山は神域として、山開きをされていない際は入るのを禁止されてきた。

 それは勿論、その時の気候が優れなかったり、登山に向かない時期だから、というのもあるだろう。

 だが、そう言ったものを抜きにしても、かねてより人々はその神聖さを崇め奉ってきた。

 それは人々が何か神秘的な物を、生きていくうえで感じ取っていたからかもしれない。今肌で感じ取り触れた物は、もしかしたらそんなの一端なのかもしれない。

 僕には既に歩みを止めると言った選択肢はなかった。木々のざわめきにすら、何かの予感を感じるのは、きっと思い違いではないだろう。

 それでも、僕には進む以外残されていなかった。

 せめて、今いる道からは少し離れた方が良いな。

 そう思い、目の前の獣道の分かれ目を通った直後だった。

 人の及ばない、神意的なそれが、遂に顔を見せた。

 まず最初に気付いたのは周囲の植物。

 僕はずっと山に入ってからは、木や草を眺めながら歩いていた。そうやって歩くことが、この逃避行の楽しみの一つであった。

 だが、その草木が一変した。僕の視線を最初に奪ったのは水仙の葉を幾つか集めて一括りにしたような異質なものだった。

 葉っぱを手に取り眺めていた僕はその葉の異様さに気色の悪さを覚えた。葉っぱの縁をなぞるように葉脈が広がっており、葉の中心に向かって年輪のような輪っか状の物。授業で習った平行脈とも網状脈ともそのどちらにもあてはまらないもの。

 周囲の動植物が一気に塗り替わった様に、姿を変える。

 心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。僕はひょっとして今とんでもないものに足を踏み込んでしまったんじゃないか?

 鼻に触れた感触に顔を上げる。雨だ。さっきまで晴れていたはずなのに。見上げた空は分厚い雲に覆われ今にも大雨が降りそうだ。

 胸に膨らむ不安感のまま、僕はこれまでに来た道を振り返る。

 すると視線の先には先ほどまでとは変わらない光景が広がっていた。

 まるで境界線を寸断するように、向こう側には変わらない日差しが煌々と差していた。

 僕は咄嗟に歩き出そうとして、数歩進んでふと立ち止まった。

 もしも、今戻れば先ほどまでの場所に戻れる気がする。だが、戻ってしまう事に一抹の寂しさを覚えたのだ。

 どうしてかは分からない。ただもうこの先に進んだら、何となくもう戻れない気もしていた。

 だがそれでも僕はこの先を見てみたくなった。どうせ終わる命に、だったらこの神秘の先を解き明かして進んでみるのもいいのかもしれない。

 きっと僕はどうかしてしまったのだろう。

 だが、あの情景を思い出す。息苦しい日々、胸を焦がす日々、戻った先にある星のない夜のような果てしない虚無の広がる毎日が、僕の最後の躊躇いを放棄させた。

 僕は視線の先の元居た場所を見ながらゆっくりと歩き出した。

 僕はその光景が見えなくなるまで、進み続けた。


■■■■■


  幾日にも渡る逃避行。その最中に肌で感じた人から外れた神威性。歩き続ける度に見たことの無いものが広がり続け、その度に僕は取り返しのつかない場所に向かっているのだと感じ取っていた。

 いろいろなものを見た。

 体の四割を占めるほどの大きな嘴を持った青い鳥。狐のような体に斑状の模様を持った猫ほどの獣。地面から突きあがった白い石。

 時間が経つにつれ、少しずつ、恐ろしさのようなものが薄れて行った。一歩一歩と好奇心が示すままに歩き続けた。

 だが、そんな逃避行にも終わりを感じていた。

 ――もう、何日も雨が止まない。

 横殴りの雨が、この世界に来た日から延々と降り続け、容赦なく体温を奪い去る。奪われた体温を取り戻すために容赦なく体力は削れていき、その精神を躊躇なく削り落とす。

 その体力を回復させるための果物といった口に入れるものも、ここに来てからはまともに手に入れられていない。

 視線の先にある感じたことの無い神秘性。それを楽しむ余裕がないことが今の自分の悔いだった。

 ――そろそろ、終わりか…

 胸で脈動する火の熱が、少しずつ失われていく。

 雨に触れないように、木陰の隅に体を収めていたが、それでも冷えた肌が温まることは無い。

 もう、歩く力は殆どなかった。沈むような眠気が瞼を重くする。

 それに身を委ねようとも、思った。

 だが、その瞬間、夜の闇に燃える光が空を裂いて飛び立っていく姿が頭に浮かんだ。僕はここで立ち止まっては、本当に何も残らない気がした。

 殆ど意地のようなもの。それだけを原動力に僕はまた立ち上がった。

 指先の感覚がない。靴がいつの間にか脱げ、靴下もボロボロで足がジンジンと痛む。

 何時の間にか何も考えない時間が増えた。

 だが、歩く理由だった煌々と輝く星はいつの間にか自分の一部となり、摩耗した心を埋めるようにそこにあった。

 大気を震わせる呼吸のような音が周囲に響いた。

 ぶるると、どこかエンジン音を思わせる音がした方を見ると、そこには見たことの無い生き物がいた。

 それは鴨嘴カモノハシのような大きな嘴を持っていた。

 だが、その体は鴨嘴というよりは、猪のような四足歩行の印象が近いか。

 生き物のちぐはぐさに僕は思わず、呆然とする。

 だが頭の上にあった小さい目は確かに僕を見つめ、息を立てている。何が彼の警戒を誘ったのかは分からないが、どうやら自分は敵として見出されたようだ。

 死、それが一番僕の中で現実的な未来だと思った。

 だが、それに恐怖は感じなかった。これが僕の最後か。

 ここまで、頑張ったな…

 意地だけで、ここまで歩いてきた。ひょっとしたら、襲われた時強烈な痛みに襲われるかもしれない。すぐに死という現実を惜しむかもしれない。

 だが、ここまで歩き抜いた自分に今は満足していたかった。

 震える体を何とか動かし、その生物の前に立つ。

 すると彼は何かに弾かれたように、巨大な咆哮を上げた。

 ああ、遂に終わりか。僕は目を伏してその現実の訪れを待った。

「――おい!何してんだ逃げろ!」

 直後、右方からの叫び声に驚き、僕も彼もその方向に一瞬意識を取られた。

 意識する間もなく全身に横向きのGが叩きつけられるように感じた。

 押された肺から息を零す。圧迫感から咳が止まらない。

 頬が冷たい。気が付けば僕は地面に倒れ込んでいた。

 そして開けた視線の先には誰かの足があった。それはムダ毛の処理がされていない酷くむさ苦しい印象を受ける足だった。

 だが隆起する筋肉は費やした鍛錬を感じさせる見事なものだ。

 足を辿って見上げると、そこには初老の男が立っていた。

 黒い髪をオールバックにし、逆三角形の上体。

 異様にガタイのいい男性だったが、僕の視線を最も誘ったのは、その手に握られた大剣だった。

 幅としては竹刀を四本並べた様な酷く肉厚な刃だった。

 見たことの無いそれに、思わず視線を奪われたが状況を思い出し、ハッとする。

 この男は何者だ?一体何をする気だ?

 手元に握られた得物が、僕に一つの結論を与える。

 まさか、その剣で、応戦する気か―?

 無茶だと思った。いかに剣術に優れていようとあのレベルの獣と戦えば恐らく無事では済まない。

 僕は男に離れるように言おうとした。だが結構な衝撃で吹っ飛ばされた反動がまだ抜けきっておらず、かはっと息を吐くことしか出来なかった。

 男は僕を一瞥すると、安心させるように口元に笑みを浮かべその獣と立ち会った。

 先に仕掛けたのは獣だった。

 その重機のような体躯を駆動させ、地面を震わせながら男に迫る。

 纏う空気が可視化されるほどのそれに、人間がまともにぶつかればまず助からない。

 だが男は一瞬で姿勢を整え、その獣の突進に正面から向かい合った。

 直後、強烈な銀光が、空を焼くヨダカの様に僕の目に焼き付いた。

 一瞬だった。

 獣が飛び込み、男の目の前に一人分程のスペースまで迫ったと思った瞬間、構えた剣を上部に持ち上げ、獣をまるでボールを打つかのようにその勢いを別の方向に逸らした。

 勢いが逸れた獣はそのまま近くの木に直撃する。

 ズドンと強烈な音に顔を顰めながらそれを見る。

 獣は絶命していた。頭部には左目の下からぱっくりと切れており、そこから血が滴り血だまりが出来ていた。

 ――この男が、斬ったのか?

 どれだけ経っても現実感を持たないリアルにもどかしさすら覚える。だってそうだろう。剣であんな化物を斬ることが出来るわけがない。

 だが、閃光のようなあの一撃は、鮮烈に瞼の裏に焼き付き、僕の心を離さない。

 目の前の男を見る。血で濡れた刃を振り滴る血を払いのけた。

 僕は起き上がって男に声を掛けようとする。

 だが、腕に力を入れた瞬間、すとんと力が抜けその場に倒れ込んだ。

 それと同時に、視界が一気に霞み意識が遠のくのが分かった。

 何かの音がしたと思うと持ち上げられたような気がした。

 しかし、もうそれに意識を割けるほど、力は残っていなかった。

 ――閉じる瞼には、男が振るった剣閃が暮れる空のヨダカの様に光を放って映っていた。

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仮初の洛園 雨宮霊 @amamiya1111

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