Epilogue
Epilogue
春光が照らし出すカーリン市の新しい城壁は、一人の男の影をくっきりと映し出す。
カーリン市のメインゲートとも言うべき真新しい東門は、商人などが他の都市などからの交易品の輸出入に使用することはあるも、通常はこの田舎街にそれ以外の者たちが通過することはない。
しかし今、明らかに商人とは異なる風貌をした金髪の老人が、お供の者たちを率いて、ゆっくりと東門を通過していた。
その老人は六十代後半の年頃ではあった。だが彼の身なりとその風貌はまだ壮年とも呼べるほどに若々しく、それでいて深い経験と教養をどこか感じさせるものがあった。
そんな彼はカーリンの外れにあるこじんまりとした邸宅へとまっすぐに向かう。
小さな庭とどこにでもあるような古ぼけた住宅。
復興に湧くカーリンにおいて、決して珍しくない普遍的なその家は、ただ一つだけ違いがあった。
物々しいと言うには程遠く、凡百の人間にはわからないほどに巧妙な警備。
それがただの民家と言うにはありえぬほどに、厳重なまでになされていた。
そんな周囲に溶け込むような警備の主任を努めているのは若きスキンヘッドの男である。彼の存在に気づいた老人はにこやかな笑みを彼へと向けた。
「迷惑をかけますね」
そんな老人の言葉。
それに対しスキンヘッドの青年は小さく頭を振る。
「いえ、父から引き継いだ仕事でやすから。むしろこの家の警備を務めることはあっしの本望でありやす。それより宰相閣下がわざわざ来られるとは何の御用で?」
「実は退任のご報告をと思ってね」
やりきったという表情を浮かべながら、老人はにこやかにそう告げる。
すると、スキンヘッドの男はなるほどとばかりに一つうなずいた。
「……そうでやすか。あの方なら今日はご在宅されていやす」
「ありがとう。どうかあの人のために、今後もよろしくお願いします。何しろ目を離すと、すぐどこかへ行ってしまいそうな人ですから」
蘇る無数の記憶に苦笑を浮かべながら、老人はそれだけを告げるとゆっくりと邸宅の庭へと足を踏み入れる。
すると、護衛の一人が彼に向かいその口を開いた。
「宰相閣下。先程の者はお知り合いですか?」
「戦友の息子さんさ」
若い護衛の部下に向かい、老人はあっさりとそう述べる。
一方、若い部下はその返答に僅かな違和感を覚えながら言葉を返した。
「はぁ……しかしこんな田舎町に閣下のお知り合いがおられるのですね」
「まあね。昔ここへ来たこともあったし、何より今から会うのは私にとって最大の恩――」
「どなたですか?」
老人の言葉を遮る形で掛けられた声。
それは庭から彼らの姿を目にした、幼い黒髪の少女の口から発せられたものであった。
「ああ、これは突然失礼。私はおじいさんの古い友人でね。あの人に会いに来たんだ」
「でも貴族様ですよね。なんでお祖父様なんかに会いに?」
少女は軽く首を傾げながら、そんな事を口にする。
すると、老人はニコリと微笑みながらその口を開いた。
「本来ならば君のおじいさんがするべきだった仕事を片付けたところでして、少し借りを返してもらおうと思いましてね」
「またですか……去年も昔のご学友と名乗る方がお二人ほど、まったく同じことを言いながらわざわざこの田舎までお越しになられました。まあ確かにお祖父様は全然働かないですし、いつも変なことばかり言っている人ですので気持ちは少しわかりますけど」
少女は呆れたような表情を浮かべると、小さく溜息を吐き出す。
それに対し老人は、苦笑を浮かべながら左右に首を振った。
「そのあたりは今も昔も変わりませんね、まったくあの人は……」
「やはり昔もそうだったのですね。いい機会です、お祖父様の怠惰な性根をビシッと叩き直してあげてください」
「はは、できればそうしたいところですが、はてさて私などでは、あの人相手に何かできるものでしょうか。拳でもかなわないでしょうし、ただの年寄りの冷水になりそうです」
少女の提案に対し、老人は自嘲気味に笑いながらそう述べる。
途端、若い護衛の男は違和感を顕にして疑問を口にした。
「宰相閣下……現役を退かれたあの剣聖殿や軍務大臣殿に対するわけではないのです。閣下が敵わないわけがありませんでしょう」
護衛の若者にとっては、完全に老人の冗談としか思えなかった。なぜならば齢六十を超えて、二人の極めて例外的老人を除き、未だにその実力は軍の頂点に位置する。
しかし当の老人は苦笑を浮かべると、ゆっくりと否定の言葉を口にしてみせた。
「あの二人の先輩に関してもそうだけど、世の中には例外というものがあるものだ。それが例えどんなことでもね」
やや憤り気味の護衛に向かい、老人はたしなめるようにそう告げる。そしてそのまま、彼は少女に向かいその口を開いた。
「ともかくあの人は……先輩はどちらにいらっしゃるかな」
「先輩? 古い友人とも言われましたけど、貴族様はお祖父様のどんなお知り合いなのですか?」
「そうだね。私はあの人の後輩で教え子。うん、他にも色々あるけれど、それが一番適切な答えかな」
役職を引き継いだことも、そして始末を押し付けられたことも数え切れぬほどあった。いやそれどころか、今の自分が担っている立場さえ、厳密にはあの人に譲られたようなものだと老人は考えている。
しかしそんなことよりも重要なことは、自らがあの人の後輩であり家庭教師として教え子であった事実だと彼は思っていた。
一方、そんな彼に向かい、少女はほんの僅かに警戒を緩めながら、ゆっくりとその指を屋敷の方へと向けた。
「……お祖父様と私はお留守番なのです。ですので、お祖父様はいつものようにお家の書斎でお昼寝をしていらっしゃいます。どうぞついてきてください」
「ありがとう。では、君たちはここで待機していてください」
「お待ち下さい。宰相閣下をお一人にして万が一何かあれば――」
「大丈夫さ。如何に歳をとったと言っても、私はまだ現役のつもりだからね。それにあの人もいるとなれば、心配などするだけ馬鹿馬鹿しいものさ」
部下の危惧に対し、老人は冗談めかした口調で彼の本音を告げる。そしてそのまま彼は、少女の頭を軽くなでた。
「それでは案内をお願いできるかな、お嬢さん」
老人から丁寧にお願いされた少女は、嬉しそうに微笑むと、彼を先導する形で家屋の中へ足を向ける。
そして入口の扉をくぐったところで、老人は不意に途方もない懐かしさを覚えた。
静かでいて、どこか慌ただしげな屋内。
そこに変わらなさを老人は感じた。
家の中の半分は書物と書類に埋め尽くされ、おそらくは家人が使っているであろうスペースだけが奇妙なほどに片付けてある。
それはまさに彼をして、あの人の家なのだと強く感じさせる光景であった。
「お祖父様の書斎はこちらです。障害物がたくさんあるので、注意してくださいね」
少女は器用に書類と書物の山を避けながら歩きだすと、一つの部屋の前にたどり着く。
そして老人は彼女に続く形で、どこか見覚えのあるような部屋へと足を踏み入れた。
不揃いな家具。
机の上に無造作に広げられた書類の束。
そして床にそのまま積み上げられた無数の書籍。
それはかつて彼らが使用した親衛隊室と、そして世話になった教授の部屋とを足して二で割ったような空間であった。
そんな乱雑な部屋の中央に揺れるロッキングチェア。
その上に彼はいた。
「お祖父様、お客さまです。なんでもお祖父様を説教しに来たのだとか」
少女の言葉に、書籍を手にしていた黒髪の老人は手にしていた本を閉じる。
すると、それを合図とするかのように金髪の老人はその口を開いた。
「お預かりしていた役目は果たしました。その後報告に参った次第です。在任中は色々と裏で手引きをして頂いていたようで、本当に感謝の言葉もありません」
「気にしなくていいさ、エインス。アレは隠居老人のちょっとした気まぐれだからね」
「それでもです。貴方がいなければクラリスは……いえ、この世界はこれほど輝きはしなかった。たとえ当の本人が楽隠居をしていても回るほどにはです」
それだけを口にすると、クラリス王国宰相にして四大大公家筆頭であるエインス・フォン・ラインは、目の前の黒髪の老人に向かい頭を下げる。
すると、気品のある貴族が頭を下げた光景に、黒髪の少女は戸惑いを見せた。
「話が見えません。お祖父様はこの方に、いえ、今まで一体何をされてきたのですか。ずっとはぐらかして教えてくださいませんでしたけど、いい加減お話してください」
「そう言えば、そうだったか。はてさて、どこから話したものかな」
そう口にすると、黒髪の老人は困ったように軽く頭を掻く。
そんな懐かしい仕草。
それを目にして、エインスは少女に向かいゆっくりとその口を開いた。
「では代わりに私が……いえ、僕がお話しするとしましょう。この世界を駆け抜けた、この上なく怠惰でやる気がなく、それでいて無二の輝きを放った一人の英雄の話を」
左遷された一人の軍人と一人の青年の再会。
そしてその時から紡がれていった物語はここに終幕を迎える。
大陸史において比類ない輝きと特異な経過を辿ったその歩み、それは彼の人となりとその気質、そして何より本人の願望から、後世において一つの名称が与えられることとなる。
そう、“やる気なし英雄譚”……と。
〜あとがき〜
当作品にお付き合い頂き本当にありがとうございました。
この作品は私にとっては初めての作品であり、この作品を書くことは本当に楽しくかけがえの無い経験でした。
そしてもしこれを読んでくださった皆様も、当作品を楽しんで頂けておりましたらこの上ない喜びです。
最後にこの作品が完結までたどり着くことができましたこと、間違いなく作品を読んでくださった皆様のおかげです。改めまして感謝申し上げます。
それではご愛読、誠にありがとうございました。
やる気なし英雄譚 津田彷徨 @TT_Clarith
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