第30話 道は続き、扉は開く

「トゥールビヨン! ……え、トゥールビヨン!トゥールビヨン!!!」

 ラインドル王立大学の片隅。

 そこで少女は何度も何度も呪文を唱える。

 しかし生まれるはずの旋風がそこに現れることはなかった。


「どうしたのですか、ルナ様。苦手だからといって体術ばかりにかまけていてはいけません。続けてください」

「それがレリム先生……魔法が発動しないんです」

 少女は戸惑いながら、困惑の面持ちでレリムへと向き直る。

 それに対しレリムはわずかに眉間にしわを寄せた。


「……発動しない?」

 言葉とともに、レリムは右手を軽く突き出す。

 そして次の瞬間、鍵となる呪文をその口にした。


「トゥールビヨン……なるほど」

「先生も魔法が……」

「確かに発動しませんね。いや、これはおそらくあいつの仕業か」

 やや不機嫌そうな表情を浮かべながら、レリムは吐き捨てるかのようにそう呟く。


「あいつ? 誰かが魔法を邪魔しているのですか?」

「おそらく間違いないでしょうな」

「ビグスビー校長!?」

 突然背後から姿を表した初老の男。

 彼の姿を目にしたルナは驚きの声を上げる。


「やはりあの男は成し遂げたわけか。忌々しいことだが」

「魔法士としてその気持ちはわかるがな、ただこの可能性を示唆してくれていただけでも感謝すべきだろうて」

 レリムの愚痴に対し、ビグスビーはなだめるようにそう告げる。

 すると、レリムはややふてくされた素振りを見せつつ、視線をそらせながらその口を開いた。


「ふん……まああの方を無事に戻してくれればそれでいい」

「それはお兄様のことですか?」

 ルナの問いかけに対し、レリムは静かにうなずく。

 そんな彼女たちに向かい、ビグスビーはゆっくりと語りかけた。


「変化は起こった。そしてわしらにできることは、待つことだけだ。だからせめてあの方たちを信じて待つとしよう。それがこの地に残ったものの責務だからな」






「フェリアム議員、各地で異変が起こりました」

 執務室へと飛び込んできた壮年の男。

 彼はいつもの険しい表情を浮かべた男をその視界に捉えるなり、慌てた口調でそう報告する。

 しかしそれに対するフェリアムの反応は、まるで全てを悟ったかのように落ち着き払ったものであった。


「異変? ……ああ、なるほど。奴が事をなしたか」

「は? 既にご存知だったのですか」

「いや、報告は受けてはいない」

 視線さえ書類からあげられることなく返された言葉。

 それを受けて、フェリアムの秘書であるレルファンは戸惑いながら報告を行う。


「は、はぁ……ともかく大変なのです。各地で魔法が使えなくなったと報告が続いております」

「そうか。では、引き続き調査を頼む。下がっていい」

「え……はい、失礼致します」

 詳細さえ尋ねられることなく、部屋から退室するよう促されたレルファンは、困惑を覚えながら頭を下げる。

 そしてフェリアムただ一人となったはずの部屋に、別の男性の声が響いた。


「困ったものだよ、フェリアム」

 聞き覚えがある声。

 それが故に、初めてフェリアムはその視線をあげる。

 するとそこには、何処かで見たかのような老人が彼の前に佇んでいた。


「まさか……フォックス・レオルガード師」

「久しぶりだね、フェリアム。いや、この姿では初めてか」

 老人は苦笑を浮かべると、軽く肩をすくめながらそう述べる。


「そのお姿は……まさか!?」

「ああ、そのまさかさ。魔法が解けてしまったのさ。それもこの私が自らにかけた魔法がね」

 四大賢者の魔法がかき消される。

 その意味に、その異常にフェリアムは目を大きく開く。


「ということは、やはりヤツの仕業ですか」

「他にはちょっと考えづらいかな。言い換えれば来るべき時が来たというわけだ」

 それだけ口にすると、フォックスは軽く咳き込む。そして彼の口元には赤いものが滲んでいた。


「……まさかお体が?」

「良くはないかな。だいたい何歳だと思っているんだい。私はのろまのアズウェルより年上なのだからね」

 自嘲気味に笑いながら、フォックスはそう告げる。

 それに対しフェリアムは、返すべき言葉に迷いを見せた。


「それはそうかもしれませんが」

「ともかく、今日はキミに頼みに来た。もうおそらく私の姿は戻らない。体もね。だから子猫ちゃんたちの面倒をお願いしたい」

「あの諜報員たちを……ですか」

 子猫という言葉に含められた意味。

 それを理解したフェリアムは戸惑いながらそう聞き返す。


「そうでないものも混じっているよ。ただ諜報員かどうかは私にとってはどうでもいいことさ。大事なことは共に過ごしたものが不幸にならないことだけだからね」

「それは……」

「いや、彼を恨むつもりはないさ。彼の父親には言いたいことが山ほどあるけどね。何れにせよ、あるべき摂理に身を委ねるべき時が来たということさ。だとすれば、キミも備えるべきだと思うけどね」

 困惑するフェリアムに対し、フォックスは最後の助言だとばかりにそう告げる。


「備えですか」

「そう、備え。魔法という社会の根幹の一つが失われた上で、政治屋ではなく政治家としてどう振る舞うかのね」

 そのフォックスの言葉は、フェリアムにとってまさに向き合うべき事を示唆していた。

 だからこそ、彼は力強く一つうなずく。そして彼はフォックスが口にしない言葉を、代わりとばかりにその口にした。


「わかっています。私が成さねばならぬということは。だから今だけは少しあいつの愚痴を言わせてください。エイスの……いやユイ・イスターツという類まれな英雄にして大馬鹿ものへの愚痴を」





「そうか……ノインの申しておったとおり、魔法が使えなくなったか」

 皇帝リアルトの表情はあくまで平静そのものであった。


 もちろんその内心にさざなみは立っていた。しかしそれでも、その顔に出ることはない。

 そしてそんな彼のことを、報告のために訪れた第二皇子のトールは頼もしく見つめる。


「はい、陛下。兄上の仰られていたとおり、その時が来たようにございます」

「では、些か慌ただしくなろうな。ノインが様々な手配をしておったとはいえ、混乱が生じぬことなどありえぬしのう」

「そのとおりかと思います。ひとまず、帝都の混乱に対応するため、兵や役人は臨戦態勢を敷いております」

 兼ねてこの状況へと至る可能性を示唆されていたが故、帝国の上層部はあらゆる事態をシミュレートしていた。


 現在の状況はまさに最悪の危機と呼ぶべき状況ではある。しかし同時に、世界が終わるという終末的状況を回避し得たことを意味していた。


 だからこそトールの声には強い意志が満ちていた。

 そしてそんな彼らのもとに、もっとも不安を覚えていた人間が歩み寄ってくる。


「お父様、お兄様……あのお方は……あのお方はご無事でしょうか」

「わからぬ。だが魔法が使えなくなったという事実は、あの者の目論見が成功したことを意味する。だから心を落ち着けよ」

「そうだよ、ミリア。大丈夫、あの人もお兄様も私とは比べ物にならぬほど強き人たちだ。心配することはないさ」

 父がそして二番目の兄が、次々と彼女に向かい優しく声を掛ける。

 それに対しミリアは不安を押し殺しながら一つうなずいた。


「はい……そう、ですね」

「うむ。そうだ、凱旋の準備をせねばならぬな、トール」

「そうですね、陛下。兄のためにも、あの方のためにも、そしてミリアのためにも派手なものにするとしましょう」





「どうやら世界がその装いを変えたようですな」

 女王の執務室に響き渡る穏やかで温かみのある声。

 杖を片手に姿を現したその人物を前に、エリーゼは驚きの声をあげた。


「ラインバーグ!? 体は大丈夫なのですか?」

「はは、もちろんです。もはや戦働き出来ぬ身とはいえ、家にこもっておっては足腰が弱る一方ですからな」

 軽い笑い声をあげながら、ラインバーグは女王に向かい穏やかに微笑む。

 すると、エリーゼのそばに控えていた壮年の男は、にこやかな笑みを浮かべながらその口を開いた。


「閣下、もしお越しになるなら、お迎えに向かいましたのに。ご無理はいけませんよ」

「ふふ、年寄りの冷や水とは言ってくれるな。それにアーマッド、今の軍の上層部ではお前だけが年寄りだろう」

「エインスやアレックスたちと比べるのは勘弁してください。それにまだスクロート次官が居られますよ、閣下」

 年寄り扱いはいささか不服だったのか、アーマッドは軽く肩をすくめながら反例を口にする。

 それに対しラインバーグは、わずかに口元を緩めてみせた。


「まあお主でさえ普通なら、若年の戦略省次官ではあるか。ともかく、この年寄りがここへ参ったのは他でもない、最後のご奉公のためにございます」

「最後という点には頷きたくありませんが、具体的に何をされるおつもりですか?」

 エリーゼはかつての軍務大臣へと敬意を示しながら、やや前のめりの姿勢となるとそう問いかける。

 それに対しラインバーグはかつてのあの謹直な姿勢で、自らの願いを口にした。


「おそらく準備が不十分であろう旧貴族院の支配地域で、大きな混乱が起こることでしょう。ですので、私を彼の地へ派遣していただければと」

「それは……」

「閣下は本当に苦難がお好きですね。ゆっくりご自宅でお過ごしになられても誰も非難などされないでしょうに」

 戸惑うエリーゼの代わり、アーマッドは冗談めかしてそう返す。

 すると、ラインバーグも表情を一変させ軽く笑い声をあげてみせた。


「はっはっは、わしも楽隠居に憧れてはいたのだがな。どうにも向かぬようだ。老骨の最後の願い、どうか聞き届けて下さいませんかな」

「……アーマッド、戦略省からお供の人間は出せますか?」

迷いがないわけではなかった。

 しかしラインバーグと言う名の重しは、現在の旧貴族院領にとって必要不可欠であることもまた事実であった。

 だからこそ、エリーゼは申し訳なさとありがたさを感じながら、アーマッドにこの提案を進めるよう促す。


「そうですね、セロックス君を付けるとしましょうか。彼もある意味、私たちの教え子の弟子ですから」

「私たちの教え子……か」

 彼らの共通の教え子、そしてまさに今現在起こりつつある事象の主体者はただ一人。

 出来るだけ考えないようにしていたその人のこと、それを思わず想起したエリーゼは気丈な表情で覆い隠していた不安をその口にした。


「彼は……は無事ですよね」

「まあ彼ほどしぶとい教え子は過去にいませんからね。校長殿はいかがですか」

「残念ながら他に心当たりにはないな」

 かつての校長と教授は、苦笑を浮かべながらその問題児のことを評する。

 それはもちろん本心ではあるが、同時にエリーゼを気遣うためでもあった。


 そしてかつて彼を自らのゼミで指導した戦略省次官は、あえて明るい表情を浮かべその視線を彼らの主人へと向ける。


「というわけです。すぐに戦勝報告に来るでしょうから心のご準備でもしておられるのがいいかと思いますよ」

「心の準備?」

 突然の提案に対し、エリーゼは戸惑う。

 すると、そんな彼女の心の奥底を見透かすように、アーマッドはその口を開いた。


「ええ、彼を外に逃さぬために一番有効な方法はなにか。それを考えておいてください。そして自分が本当に願っていることは何かもです」





「何が起こった。今の光はなんだ!」

 地面に横たわる一人の男性から発せられた膨大な光量。

 それは視界だけではなく思考さえも遮るほどのものであり、両目を押さえながらノインは叫ぶ。


 すると、彼の背後で光の直撃を受けなかったロイスは、慌てて状況を確認しながら言葉を返した。


「わかりません。おそらく元帥殿の体の辺りから光が溢れたと思われるのですが……」

 戸惑いながらロイスはそれだけを言葉にする。

 一方、同じように目を押さえる男は他にもその場に存在した。


「ユイは、ユイのやつはどうなった!」

 もっとも光の発生点の間近にいたリュートは、完全に視界を失われながらもまっさきに親友のことを心配する。

 そんなリュートに向かい、異変に反応し両目を腕で覆ってみせた赤髪の男は、安心させるように言葉を向けた。


「リュート、大丈夫だよ。彼はちゃんとここにいるから」

「アレックスさん、本当ですか……」

「嘘はつかないよ、カイラくん」

 完全に直撃ではなかったもののやや足取りの不確かなカイラに向かい、アレックスはそう告げる。

 それを受けカイラは、地面に寝たままのユイのもとまで歩み寄り、手で触れることでその存在を確認した。


「……ああ、確かにユイさんです」

「どうやら透き通っていたのは治ったみたいだね。どういう仕組みかわからないけどさ」

 半透明であった状態から、完全にその実体を取り戻したユイを目にして、アレックスはそう評してみせる。

 するとそのタイミングで、騒がしい一団が彼らのもとに駆け寄ってきた。


「旦那! 旦那は大丈夫でやすか!」

 帝国の魔法士たちを掻き分け、姿を現したスキンヘッドの男、その背後には筋骨隆々の弓使いと眠たげな目をした剣士、そして赤髪の魔法士。

 ユイによるドラグーン兵たちの強行突破に尽力し、その後は彼らを戦いの場に近づけぬために奮闘したかつてのカーリン組の面々は、一斉にユイのもとに走り寄ると、かつての上官に向かい声をかけていく。


「隊長、まだ休暇を取るのは早いですよ。さあ、休みのために動いてください」

「いい加減起きなさい」

「……………………起きて」

「人に雑用を押し付けといて何を寝てんだ。隊長、さっさと起きな!」

 その力強い筋肉でかつての上官を揺さぶる者、いつの間にか姿を現し彼に寄り添う者、普段はめったに声を発しない者、そしてなんの遠慮もなく目を覚まさぬ男の顔をひっぱたく者。

 それぞれがそれぞれの形で目の前の意識を失った男に呼びかけるも、彼が反応することはない。


「なんで、なんで起きないんですか?」

「わからん。いや……まさか……」

 カイラの疑問に対し、ノインが最悪の予想を口に仕掛けたとき、彼らの後方に立っていた老人が、ようやくその口を開いた。


「完全なる魔力不足……か。アレだけを費やしてもな」

「魔力不足? でも既にこの通り魔法は」

 エインスがその手を突き出して魔法を編み出そうとするも、何一つ生み出すことは出来ない。

 その光景を目にして、アズウェルは小さく首を左右に振った。


「わしとそやつが成したのは、あくまでソースコードへ同調出来なくすることだ。一人一人の魔力を奪うような演算は手に余るからな」

「つまり魔力は残っているけど使えないってことですか」

「然り。そして魔力を完全に失えば……こうなるということだ」

 エインスの問いかけを受け、アズウェルはユイへと視線を向けながらそう答える。

 途端、エインスは目を見開くとユイの体に手を当てる。そして自らの魔力を送り込もうと念じるも、もはや彼には自らの魔力さえ感じ取ることが出来なかった。


「無駄だよ。もともと魔力を他人に橋渡しするなんて真似は容易くはない」

「くそ、ならばオレがやる。インフリクト!」

 エインスをどかせ、慌ててユイの体を掴むリュート。

 そして彼はアズウェルとユイにより授けられた魔法を唱える。


 だがもたらされた結果は同じ。

 クラリス最高の魔法士の体からは何一つ魔力が移動することはなかった。


「くそ、くそ、なぜだ。ユイ、戻ってこい。戻ってこいよ。あのとき忘れないと誓っただろう、お前の代わりはいないんだってことを……お前が、お前がいなければ俺は……」

 それは呻きにも似た感情の吐露であった。

 銀髪の男は涙を流し、そして黒髪の男の体を何度も揺する。

 すると、そんなリュートの肩にそっと赤髪の男の手が乗せられた。


「俺たちは……だよ、リュート」

「……アレックス」

「僕は無力さ。魔法なんて扱えないし、この剣を振るうことしか出来ない。でもさ、祈ることくらいはできる」

「神頼みなんて、いまさら無意味だ」

 アレックスの言葉に対し、リュートは視線を落としながらそう漏らす。

 だがそんな彼の顔を覗き込み、アレックスはその目を見つめながらはっきりと告げた。


「違うよ。このセカイの神になんか祈りはしないさ。僕が祈るのは彼に対してのみ。そう、誰よりも生きしぶとい彼自身にね」

「あいつの自身に……か。いいさ、祈ってやる。誰よりも生き汚くしぶといあの馬鹿自身にな」





「どうやら好かれているようだね」

「まあ長い付き合いだからね」

 真っ白な空間に浮かび上がる無数の映像。

 それは各地の混乱を、彼の関わる人達の奮闘を、そして何より彼を取り囲む人々の行動を鮮明に映し出していた。


 それを目の当たりにしながら、ユイは隣で倒れ込んだままの青年に声を向ける。


「私を殺さなくていいのかい。先程と違い、もう抵抗することなんて出来ないよ。何しろ、あちらに戻るための魔力さえ残っていないからさ」

「無理だね。むしろ貴方こそボクを殺しておくべきじゃないかな。でなければ、再びいつセカイをもとに戻そうとするかわかったものじゃないよ」

 倒れ込んだままの青年は、隣で荒い息を繰り返す男に向かいそう告げ返した。


 一瞬の沈黙。

 それはまさに静寂の世界。


 既にこの空間にも魔法による干渉点はない。

 だからこそ、もはや人のみでセカイに干渉することなんて出来はしない。

 セカイを司るプログラムはアップデートされ、そして完全にロックされた。


 いや、彼らがロックしたのだ。


 もう二度とセカイが時を刻む事を止めぬように。

 もう二度とセカイに終末が訪れぬように。


 結果は満足の行くものだとユイは思っていた。


 血は流れた。

 そして失われたものは多かった。


 だが未来は、そう、閉ざされていたはずの未来は開かれ、まさに映像に映る彼らの前に開かれていた。


 これでいいと彼は思う。


 最初は復讐だった。

 修正者という名の両親の仇。


 しかし周回を繰り返す中で、彼は無意識に気付かされていた。

 修正者という存在さえ、閉じたセカイにおける歯車でしか無いのだと。


 これは神への仕返しでもある。

 神がいかに不完全で、そして全知全能ではないという証明。

 それこそが両親にとっての正しい復讐であるように彼は感じていた。


 だからこそ、そう、だからこそ彼は満足する。

 この結果を。



 しかしそう感じない者がいた。


「困るんだよ、ボクを殺すつもりもなくここに居座られるとさ。目的もない人間はこの空間にいるべきではない」

 地面に横たわっていたはずのゼスは、その言葉とともにゆっくりとその体を起こす。

 その動きをどこか他人事のように見つめていたユイは、軽く首を傾げながら問いかけた。


「そう言われても、残念ながら片道切符となってしまってね。あのセカイ行きの寄り合い馬車があればいいけど、どうやらここにはそんな上等なものはなさそうだからさ」

「だとしたら、追い払うしか無いかな。ここの管理者であるボクが、貴方のような不法滞在者をね」

 皮肉っぽく、しかしわずかに険が取れたような微笑み。

 その青年の表情を目にした瞬間、ユイは思わず言葉を見失った。


「ゼス……」

「間違っても貴方のためではない。これはセカイの……そう、あの方が望まれたこのセカイのためさ。これでセカイの崩壊は止まる。でも砂漠が、そして崩れてしまったセカイが完全にもとに戻るわけじゃない。だから最後の尻拭いを貴方に押し付けるために追い返すのさ」

 今のゼスがユイを送り返す意味。

 それがわからぬほど、ユイは愚かではなかった。


 魔力をほぼ使い切り、深手を負った彼が既にロックが掛けられたシステムに干渉すること。それはほぼ間違いなく、その存在の消失と引き換えになることは明白であった。


 それでもゼスの表情に迷いはない。

 それどころか不似合いな笑みさえ浮かんでいた。


 ユイにもわかった。

 眼の前の彼が心の底からセカイを愛しているのだということを。


 そしてそのためならば、彼は……


「……労働を強制されるのは、私の趣味ではないんだけどね」

 ユイが紡ぎ出したのは、そんな言葉であった。


 感謝もそして謝罪も不適切で、そしてこの場に不似合いだと思われた。

 だから彼は口にしなかった。


 そしてそれをゼスも受け入れる。


「趣味で頼むわけじゃないから安心してくれていいよ。これは貴方に課せられた義務だから。そしてこれからは調停者としてだけではなく、管理者としてもね」

「結局、みんな私を働かせようとする。本当に困ったものだよ。少なくとも超過勤務代くらいは欲しいところかな」


 あくまで感謝の言葉を述べない。

 でも彼の表情はゼスに向かい語るべき内容を伝えていた。


 だからこそ、ゼスはわずかに頬を歪め、そして最後の言葉を紡ぎ出す。


「だとしたら、これは前払いさ。受け取り給え。そしてイスターツ……あのセカイを頼む。マイグレイション!」


 ユイの周囲が歪む。

 真っ白な空間はいつしかその色を変え、一人の青年が倒れ、そして一人の男は空間からその姿を消す。


 もはやなにもない。


 空間にはただ完成されたプログラムだけが静かに動き続ける。






 そしてユイは再びその瞳を開いた。

 目に映るはよく知る者たちの無数の顔。


 そこには泣いている者も、放心している者も、怒っている者もいた。

 彼は向けられた視線に苦笑を浮かべながら、ゆっくりと頭を掻く。


 そして短い言葉を彼は紡ぎ出した。




「みんな、ただいま」

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