懐かしい匂いがする自室から

高黄森哉

窓を開けると風が吹き込んできた。


 長編ミステリーの半分あたりを、製作している途中、部屋が臭くなっているのを気にして換気することにした。どうも、エアコンに黴が生えているようで、アンモニア臭がする。それは、普段、嗅覚を使わずに生きている自分にとっても、耐えられないほどだから、相当な悪臭なのだろう。

 鼻をひくつかせ、周囲の香りを、ずっと確認していた。これは、自分にとって、とても珍しいことは如上の通りだ。机から高いところに窓がある。時々、ヤモリが遊びに来る、ガラス窓。ガラスの表面は凸凹していて、景色は、モザイクがかけられた様子である。それの半分を覆う、カーテンが膨らむと、芳香が漂ってくるのだが、この優しい風が鼻腔に訴えてきたから、珍しく、鼻息を立てていた。

 それは、形容しがたい香りだった。恥ずかしながら意に尽くせる言葉を知らない。思い出、とかが近い。雨上がりの匂いのようで、違っていた。真っ先に思い出すのは、宿の香りである。崖っぷちにある創作じみたあの宿は、こような匂いで、充満していた覚えがある。自分が、まだ年齢一桁代であったころの記憶。


 潮騒、とかいったかな。実をいうと、これを書いている今、その単語の正確な意味は知らない。潮に、騒ぐ、なのだから、波が砕ける音なのであろうと予測しているが、間違っている可能性も十分にありえる。ただいま、便宜上、潮騒と呼んでいる、サウンドが、窓の外から響いてくる。

 バアン、ザザザザ。

 ザザザザ、バアン。

 こうした、稚拙な方法を使わないと、表現できなくて残念だが、おおむねこんな反響がした。あら、今日は不調なのかな。まあともかく、それは勿論、文学的誇張であって、本当に聞こえたわけではない。だがしかし、現実に、どこからともなく、響いて来ても、おかしくはなかったと思う。真実さえ無視しかねない妙な空気が、確かに場に満ちているのだ。おお、聞こえる聞こえる。カーテンが、風に吹かれ膨らむたびに、波が押し寄せ、萎むと引く、流体の崩壊と安定の反復が。


 海なんて遠いのに、そこにある感覚がした。外に海が満ちている予感も。それに、子供時代も同様である。潮騒に乗せられて、宿で寝泊まりした日が、室内に触手を伸ばして来るように感じる。それが、恐ろしくなって、硝子窓を閉めた。このまま、子供に戻っては、たまらない。青春など、繰り返しあってたまるものか。戻りたいと人間が羨ましい。自分はちっともそんな気にならないね。あんな、惨めな体験が、二度とあってたまるものか。

 というのは、嘘で、これを書いている俺は億劫がって、窓は開け放されたままにしていた。窓を閉めたのは、文学的妄想というやつである。そういう焦燥に駆られて、閉めたらオチが付くかな、と考えただけだ。そうだな、じゃあ、どうオチをつけようか。やや、安易な落としどころを否定するなんて、今日の俺はどうかしてる。


 じゃあ我ながら酔狂なことに、このまま、今晩は開放しておこうかね。風と、風になびくカーテンと、その潮騒が心地よいから、ということにして。それとも、俺はあのころに戻りたいのかな。尋ねるが、その答えは帰ってこなかった。部屋の匂いを尋ねると、ひとえに、潮騒のする夏の終わりが香った、気がした。




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懐かしい匂いがする自室から 高黄森哉 @kamikawa2001

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