さかさま

ななしみ(元 三刻なつひ)

さかさま

『さかさま』


「私がいま、突然に上を見上げたとする。そうしたとき、君は私の視線の先で何が起こるのかと考えるだろう。一・六秒、数えて欲しい。それは数えてみたら一瞬のことで、それは私にだけは果てしなく、永遠のような時間だった。私は見上げる。私が見上げた先には地面がある。そうだ。私は落ちている最中だったのだ」

 そう言って、先輩は頭がスイカみたいに割れて死んでしまった。

 先輩が死んだその時、私は校舎の二階で汗を拭いていた。暑い、夏の終わりの始業式の日だった。私はその時高校二年生で、制服を汗でびしょびしょに濡らして、まるで羊水の中から今さっき生まれて出てきたみたいだった。私はまだ、先輩が死んでしまったことを知らない。汗に濡れた制服が風で乾いて、沈んでいく夕陽にサイレンが溶けて、先輩の死体が灰になって消えて、空が秋とか、冬の色になって、この町に何年かに一度の雪が降って、また暑い夏が来て、私はその時もう大人になっていて、私は一人で歩いていて、それでも、私はまだ、先輩がどうして死んでしまったのか知らない。

「そういえばうちの学校、地下室があるの知ってた」

「知らない」

「幽霊が出るんだって。死んだ人」

「幽霊はみんな死んでるでしょ。バカ」

 私は部員の誰か(もう覚えていない)に悪態を吐いて、バスから降りる。私を先頭に、ぞろぞろと不揃いな足並みで、私たちは水泳場の中へと入っていく。受付を済ませ、会場の奥へ奥へと進む。階段を上って、下りて。狭い通路を運動靴の底が叩いて、無機質な音がして。制服姿の私は、ふとどうして自分がここに居るのか分からないような気になる。わっ、と歓声が聞こえる。私の視界は突然に大きく開けて、青く、今まで見た中で一番大きく見えたぐらい広くて綺麗なプールが現れる。私は、そのプールを客席で見ている自分を強く意識して、どうしようもない孤独を感じている。

 その日、私たちは水泳部の中でたった一人インターハイに出場する先輩を応援するため、会場に居た。長方形の横に長いプールを目で流しながら、客席の通路を渡って会場の端の方へと歩く。会場を進んで行くほどに、少しずつ客席の人が疎らになっていく。入り口から見て手前は競泳の会場で、奥は飛び込み競技の会場。先輩は、飛び込み競技の選手だった。飛び込み競技は競泳と比べると競技人口がずっと少ない。だから、応援の数も競泳より少なくなる。せっかくの青春の華とも言えるインターハイなのに、客席にはところどころ虫食いのような空席が目立っていた。

「先輩は、どうして飛び込み競技をやろうと思ったんですか」

 私たちは横並びになって席に座る。ちょうど選手入場が終わったところの様だった(そういえばバスが遅れて、会場入りがギリギリになってしまったのだ)。あと五分で先輩の演技が始まる。女子たか飛び込みの決勝戦、トップバッター。先輩は予選を二位で通過したし、前日の飛び板部門の方でも、決勝戦二位で表彰台にまで上がっている。先輩ならきっと大丈夫だ、と思った。何が大丈夫だと思ったのか分からない。先輩ならプレッシャーにも負けないってことだろうか。優勝だってきっと出来るってことだろうか。アナウンスが競技の開始を告げる。先輩が、飛び込み台の上に現れる。

 高飛び込みの台は10m、7.5m、5mの三つの台があって、先輩はその中で一番高い、10mの台の上に立っていた。10mは大体ビルの高さ四階分ぐらいだと、誰かに聞いたことがある。先輩はそこから、時速五十キロの速さで落ちてくる。空中から水面までの、一・六秒の世界。その一瞬の世界の中で、先輩の目には何が映っているのだろう。

 先輩の名前と、技の名前が呼ばれる。飛び込み競技の技の名前は、〈405C〉なんて風に数字とアルファベットを組み合わせて作られるから、名前を言われてもどんな技を演じるのか分からない。先輩は台の先へ背を向け、つま先だけで立つ。両の手を天井に向かって伸ばして、全身が針のように鋭い直線を描く。長くしなやかな腕が、クンと後ろに振れて、一瞬、体に弾みをつけるように跳ねる。次の瞬間、先輩は宙に浮いて、空中でくるん、と前に向かって一回転して、

 ──────────落ちる。水面と垂直に交わる。

 パン、と水面が割れる音がして、歓声があがる。

 審査員が札を上げて、点数が読み上げられていく。ただ、そんなもの聞かなくても、今の演技がすごいことぐらいは誰が見たって分かった。先輩が飛び込んだ瞬間、先輩の周りだけ、時間が止まったような気がした。飛沫も立たず、波でさえ自分が水であることを忘れてしまったようだった。私は息を呑む。先輩は、私の手の届かないところに居るのだと思い出す。

 先輩は、それからも高い点数を次々に出して、最初の四種目が終わった時点では、総合得点一位の座に立つほど快調だった。会場のどこかから、「この子は卒業したらプロになるのかな」と聞こえてきた。私も、きっとそうなるのだろうと思っていた。インターハイの最初の四種目は制限選択と言って、決められた点数の中で技を選んで演技する。優勝するには、この後の自由競技で難しい技をきっかり成功させなければいけない。五種目目、先輩は捻りの入った技を飛ぶ。着水。歓声が上がる。「すっごく簡単に言うと、飛び込みはたくさん回って、たくさん捻りを入れて、綺麗に着水したら強いんだってさ」と、後ろの席で誰かが馬鹿みたいな解説をした。先輩の次の選手が、台の上で逆立ちをする。飛び込みには逆立ち飛び込みと言う技もあって、見た目の派手さ通り得点も高い。その選手は、飛び込んで、何回か回って、何回か捻って、歓声を浴びた。高い得点が出ていた。その選手は飛び板部門の方でも先輩に勝って優勝した選手で、数年後、プロ入りしてオリンピック選手にもなる選手だった。高飛び込みでも当然強くて、その時点では先輩とわずかな点差で競っていた。

 先輩の次の技は、〈107B〉前宙返り三回転半・えび型という技だった。蝦のように体を曲げて、三回転と半分回って着水するシンプルな技だが、特典も難易度も高い技だった。先輩は台の上へ正面に向いて立つ。まっすぐ見据えた視線が、ほんの一瞬、外側に逸れる。そして、小さく浮いた足が台の上から離れ、空中で大きく体を翻した。一、二、三と、もう半回転、車輪のように勢いよく回って、

「あっ」

 ばしゃ、と汚い音がして、大きな水しぶきが上がる。

先輩が、着水に失敗したのだ。点数が読み上げられる。「3」「3.5」「難しい技だもん、仕方ないね」「4」拍手が疎らに響く。「3・5」「優勝出来そうだったのに」「まだ分かんないよ」「3」「3・5」「かわいそう」

「かわいそう」

 私はその時間、自分が先輩と二人きりの世界に居るような気がした。先輩がプールから上がって、一礼をする。私はそのとき確かに、先輩のことが、憐れだと思った。平気そうな顔をして綺麗に一礼する先輩が、かわいそうだと思った。それから、先輩は大きく調子を崩して、次からの技でミスを連発し、表彰台にも上がれない六位で決勝を終えた。先輩はそれから六日後、学校の屋上から飛び下りて死んだ。

「先輩、私あのとき確かに、先輩に死んじゃえって思ったんです」


 夏から、春へ。遡る。降りていく。その年の春、つまり先輩がまだ生きていて、私が二年生になったばかりのころ。私は部内投票によって、次期部長に選ばれていた。黒板にチョークで書かれた正の字が、私を威圧するように佇む。「葵は真面目だし、部を率いてくれそうな雰囲気があるから部長にふさわしいよ」どうして私が選ばれたのかを聞くと、顧問の先生も、同級生もみんな口をそろえてそう言った。誰も、私が一番泳ぎが上手いからとは言わなかった。誰よりも飛び込みが上手いから部長に選ばれた、先輩とは真反対だった。私は額に脂汗を垂らして、周囲を見渡す。その日も先輩は部活に来ていない。

 先輩が部長になった一年間、水泳部は率直に言って荒れていた。そもそも、部長となった先輩がほとんど部活に来なかったからだ。先輩は飛び込み競技の選手で、だからうちの学校の競泳用しかないプールへ練習に来ても意味がない。だから部活に来ない。当然のことだ。当然のことなのに、先輩は学校にテレビの取材が来るぐらい世間に注目されていて、一年生の頃からインターハイの全国大会に出れるぐらいすごかったから、「雰囲気」で部長に選ばれてしまった。部長が部活に来ないので、仕方なく副部長がよその二倍働いて、二倍幅を利かせて、部内に派閥が出来て色んなごたごたがあって、なんだかんだで破綻した。つまり、私が部長に選ばれたのはその反省があってのことだった。真面目で、毎日部活に来て、誰の派閥にも寄っていなくて、飛び込み選手じゃない私。

「葵さん、部長やってくれる?」顧問の先生が、私の意思を確認する。正直私は、部長になるのが嫌だった。嫌で嫌で仕方がなかった。私は先輩みたいにはなれないから。先輩は確かに部活には全然来なかったし、部長としては全然だめだった。それでも、先輩は絶大な人気があって、部員のみんなに尊敬されていた。部としては全然強くないうちの部活で、唯一全国レベルで活躍できる選手だったし、なにより先輩の飛び込みを一度でも見たら、誰も何も言えなくなる。私みたいな泳ぎも上手くない、つまらない人間が先輩の後を受け継ぐなんて有り得ないと、そう思った。

「やります。次の水泳部、私が部長します」

 それでも、私が部長をやると決めたのは、どうしてだっただろうか。私は、ゆっくりと階段を下りる。一段、二段、その数を数えながら、ゆっくりゆっくり下りる。

春から、冬へ。遡る。私はまだ一年生で、先輩はまだ生きている。私は校庭に咲いた桜を見上げている。開いていた薄桃色の花弁が、蕾の中に閉じていく。緑の蕾はすこしずつ小さくなって、薄茶色の芽にまで戻って眠る。冬から、秋へ。先輩はまだ生きている。私は雪が降るのを見上げている。暖冬で疎らに積もった雪が、空に昇ってやわらかい雨に変わって、稲光を透かす。秋から、夏へ。私は空を見上げている。薄く波打つ鰯雲が遠くの空に集まって、青空の上で固まって大きな入道雲を作る。夏。白くざらついたプールサイドで、私は先輩を見上げる。落ちてくる先輩が、天井の照明と逆光になって影に染まって、真っ黒になる。天井の向こうでは、澄んだ空気が天色をしている。町のどこかから何かが焦げる匂いがする。死んだ蝉を踏んづける。私はまだ少女で、先輩はまだ生きている。長く、暑い夏。


 夏から、春へ。私は重く深い暗闇の中を下りていく。一段。

「先輩、私、先輩のことが嫌いでした」

 五月。競泳の選手が飛び込み競技に移行するのはまず無理だ、と教えられたのは、私が水泳部に入部してしばらく経ったある日の事だった。顧問の先生に聞かされて、新入生の中で私だけが落胆したような顔をした。競泳と飛び込みでは使う筋肉が全然違う。飛び込みは泳ぎというより、体操やトランポリンに近い競技だと言う。柔らかく筋肉質な体が必要な飛び込み競技は、むしろ競泳なんてしてない体の方が向いてるくらいだ、と。

 私は、どうしてか吐き気を感じていた。水着越しに胸元を触ると、自分の中で何かが蠢くのを感じた。

「気分が悪いので早退します」

 それだけ言って、私はプールサイドから更衣室まで走った。水着を脱いで自分の体に手を当てると、心臓が動くたびに苦しくて、本当に吐きそうになった。

 何が苦しい。自分が飛び込み選手になれないことか? 分かり切ってたことじゃないか、見れば分かるじゃないか。飛び込みが競泳とは全然違う競技だってことぐらい。私が飛び込み選手になれないのが当たり前のことだってことぐらい。じゃあなんでこんなに胸が苦しい。私は混乱しながら、吐き気を堪えきれず更衣室のトイレに駆け込む。そこで鏡を見て、私は初めて、自分が泣いていることに気付く。あばらの浮いた細くて小さな体が、凍えたように震える。

 「本当は飛び込み選手になりたかった」。私はそんなこと気付きたくなかった。無理だって言われるまでずっと、当たり前のことが分からないフリをして、何が? 誰が? このやせぎすの胸の中の、弱い弱い、私が?

 私は制服に着替えて、よたよたとおぼつかない足取りで更衣室を出る。恵まれていない、と私はぼやく。中学から始めた水泳は、自分にはとてもじゃないけど向いていなかった。周囲と同じ分だけ練習をしても、私だけタイムが伸びてない。貧乏なのに親に頼み込んでスクールにも通ってみたけど、コーチにはハッキリと「センスがない」と言われた。水泳なんて辞めてしまおうかと、何度も何度も思った。それでも水泳を続けてきたのは、先輩と出会ってしまったからだった。先輩の飛び込みを初めて見たとき、この人と同じ部活で、同じ場所に居られるなら、競泳を続けてみるのも悪くないと思った。だから、どんなに自分に向いていなくても、どんなに練習が苦しくても水泳を辞めなかった。先輩と同じ高校へ行くために一生懸命勉強して、受験に合格して、先輩と一緒の部活に入れて、私はこれから幸せになるはずだった。これからこの部活で、先輩と一緒に頑張っていこうと意気込んでいた。

 だが、蓋を開けてみればどうだ。先輩はほとんど部活に来ない。スクールでの練習が忙しいからと、一年生に未だ顔さえ見せない。私はそれでも、競泳選手として部に貢献して、少しでも先輩の役に立てればと練習に励んだ。だけど、その欺瞞で塗り固めた壁の向こうには「もし自分が飛び込み選手だったら」と願う自分が居た。自分が飛び込み選手だったら、もっと先輩の近くに居られたんじゃないか。先輩と同じ高さから、同じ世界を見ることが出来たんじゃないか。そんな叶わない夢を見る私が居た。先輩は名門スクールに通って、小さい頃からずっとコーチに付きっきりで指導して貰っていた。それだけじゃなく、先輩は美人で、天性の才能があって、だから選手として注目を浴びて活躍もしている。先輩は恵まれている。私は、恵まれていない。

 それでも、私には競泳を続けるしかなかった。どんなに苦しくても、私にはそれしかない。恵まれない私はこの地平を這って生きていくしかない。水を掻いて、波を裂いて、少しでも前に進むしかない。そうしないと私は、先輩に置いて行かれてしまう。先輩がどこか、ずっとずっと手の届かないほど遠くへ行ってしまう。

 私は歩く。その日、私は俯きながら校門まで向かった。すると前の方から、聞き馴染んだ透き通った声が聞こえてきて、私は顔を上げる。

 視線の先には先輩が居た。初めて直に見る、先輩の顔だった。

 短く切りそろえられた髪と、少し焼けた血色のいい肌。整った眉毛と切れ長の瞳。テレビで見たまんまだ、と見とれてしまう。だが、見とれていたのもつかの間、先輩は校門を出て、迎えの車に乗り込んでしまった。

 先輩は、車の窓から手を振って笑った。私はその表情に、ずきんと胸が痛くなる。先輩が手を振っているのは、私にではない。さっきまで一緒に歩いていた、先輩より背が高くてカッコイイ男の人へ、寂しそうな笑顔で手を振っていた。先輩の乗った車が、道路の先へ小さくなって消えて行く。恵まれていない。私はコンクリートの地面を踏んで歩く。一歩ずつ。ゆっくりと。


「先輩、知ってましたか。うちの高校の地下室、幽霊が出るらしいですよ」


 何段目まで下りて来ただろう。私は階段を降りている。見慣れない、ほこりっぽい薄暗闇の中で。最後の段を降りる。視線を上げると目の前には薄暗い廊下が続いていた。明滅する蛍光灯だけが頼りのおぼつかない足元を、私は確かな足取りで進んで行く。

 私の高校の地下室には、幽霊が出るらしい。それはどうやら、死んだ人らしい。私は歩く。弱々しく今にも消えそうな光だけを頼りに歩く。

「私、先輩に聞きたいことがいくつもあって、話したいことが沢山あって、だからここに来たんです」

 やがて、扉が現れた。重たそうな鉄の扉で、赤錆びてもう長いこと誰にも開かれていないようだった。私は一瞬躊躇したあと、扉を押し開ける。ギギ、と鉄の軋む音がして、扉は開いた。そこは、倉庫か機械室の跡のようで、何も置かれていない部屋の奥には、上へと続く梯子が取り付けられていた。私は周囲を見渡し、幽霊も居ないようなので、梯子を上ることにする。一段、二段。どこまで続くのかと上を見上げるが、真っ暗で何も見えない。私は梯子を上っていく。

「先輩に最後に言われた言葉、私まだずっと覚えてます。まだ、ずっと」


 私は上る。遡る。先輩が死ぬ五日前、インターハイの翌日。私たち水泳部は最後のミーティングをするために集まった。その日で三年生は引退して、部長は私に引き継がれる。ミーティングの司会も、先輩ではなく新部長の私が務めた。

「では、これでこのメンバーでの最後のミーティングを終わります。三年生のみなさん、本当にありがとうございました。最後に、部長から挨拶をお願いします」

 私が先輩へと目配せすると、先輩が俯き加減に微笑を浮かべる。先輩は立ち上がって、部員たちの前に出て一礼をした。

「私は部長として、少しも君たちに貢献できたとは思えない。でも君たちが、部員のみんなが応援してくれたおかげで、私は今日まで頑張ることが出来た。ありがとう」

 張りのある透き通った声でそれだけ言うと、先輩はもう一度礼をして、微笑をたたえたまま椅子に戻って腰を下ろした。教室に一瞬の沈黙が広がる。私は我に返ったように、「起立!」と号令をした。下級生のみんなが勢いよく、不揃いに立ち上がる。

「三年生の皆さん、ありがとうございました!」

 ありがとうございました! と、一つに整った声が轟いて、廊下にまで響く。その声が反響して、小さくなって消えていく。いつの間にか、部員の誰かがすすり泣く声が聞こえていた。先生が解散を告げると、下級生が三年生に駆け寄って、教室は泣いたり喚いたりの大騒動になる。私はその、人と人とがぶつかり合う荒波のような視界の先で、まっすぐに先輩だけを見つめて佇んでいた。

 先輩が、先輩で無くなってしまう。私はその時、どうしようもない不安に取り憑かれていた。先輩は、私の水泳部の先輩で、だから先輩が先輩をやめてしまったら、私と先輩とをつなぐ細くて弱い糸が断ち消えてしまう。私は先輩と二度と会えなくなってしまうかもしれない。私は永遠に、先輩の隣に立つことさえ出来ないかもしれない。

 先輩は沢山の後輩にもみくちゃにされて、困ったような笑みを浮かべながらスマホで写真を撮られたり、プレゼントを受け取ったりしていた。すぐにでも、先輩と話がしたかった。まだ間に合う。私は先輩と繋がりたい。先輩と出会いたい。先輩と一度でいいから話がしたい。先輩が、嫌いだって伝えたい。人生で後にも先にもないほど、私の体は緊張で強張っていく。人波が移ろって先輩の周りを人が捌けてきた頃、私は先輩のもとへと一歩踏み出す。

先輩は私に気付くと、目を合わせて「ああ」と私より先に小さく声を上げた。私は深々と一礼をして、堅苦しく挨拶を言う。

「先輩、お疲れ様でした。これからは次期部長として、先輩の後を継いで頑張っていきます」

 先輩、私が次の部長です。先輩の次の部長です。私はきっと先輩より上手くやります。私先輩が嫌いでした、私は先輩の、

「ありがとう。えっと……」

 先輩はそこで一瞬口ごもり、どこか嘘っぽいような笑みを浮かべた。

「君も頑張って」

 私はその笑顔を見て、何もかも、手遅れなのだと知った。開け放しの窓から入ってきた風が、先輩の色素の抜けた短い髪を揺らす。先輩の黒く深い色の瞳を見つめる。すると、先輩は目を逸らして、「じゃあ」と私に背を向けてそのまま教室を出て行ってしまった。取り残された私は、昼下がりの窓に反射して映った半透明の自分が、泣きそうな顔をしているのを見ていた。どうしてさっき口ごもったのか、私には分かる。ずっと見ていたから。ずっと私は、見ていただけだったから。

「      君      も頑張って」

先輩は、それまでの二年間で、私の名前さえ覚えていてくれなかった。

 

「先輩、大嫌いです」

 私は梯子を上る。上へ、上へと上っていく。もう一度、先輩に会いたい。もう一度だけ先輩と話がしたい。そう思って、伝える言葉はいくつも考えてきた。先輩に聞きたいことも、言いたいことも、いくらでもあると思っていた。だけど、言葉にしてみれば、それは数えるほどの言葉にしかならなかった。

「先輩、今もずっと大嫌いです」

 結局そればかりになってしまう自分は、嫌な人間だと思った。自分より恵まれている先輩が憎くて、自分には無いものを沢山持ってる先輩が妬ましくて、それなのに死んでしまった先輩が、心の底から大嫌いで。それを言うためにここに居るのだろうか。私は、自分で自分が分からなかった。

 下を見ると、足が竦むほどの高さにまで上って来た。この梯子はどこに続いているのだろう。私は足元に広がる奈落を見つめて、身震いをした。私は冷たい梯子の段を強く握る。上を見上げると、いつの間にか梯子の先がカーブを描いて、終わりが見えていた。

 梯子から上へ体を持ち上げると、黒く細長い通路が続いていた。通路には手すりがついており、私はそれに両手を添えて前に進む。これはどこに続いているのだろう。私は前に向かって歩こうとする。だが、この先に先輩が居たら、と考えて足が止まってしまう。

 先輩に会えても、私はきっと何も言えないだろう。結局私は、先輩にとっては名前も知らない、「君」と呼ばれた、無関係の人間だ。今になって先輩に会っても、それは変わらない。私と先輩は交わらず、同じ場所に立つことさえ出来ない。それでも、私が先輩に言えることなんてあるのだろうか。私が先輩に望める事なんて、ひとつでもあっただろうか。

 ──私は歩く。私は前に進むことしか出来ない。永遠の時間の中を、ただ前に進むことしか出来ない。居なくなった先輩のもとへ行くことは出来ない。私には生きていくことしか出来ない。闇の中を掻き分けるように進む。一歩先も見えない暗闇の中で、私は風が頬を撫ぜるのを感じる。懐かしい塩素の匂いが、鼻をつく。

 私は瞬きを一つする。遠くにある窓からうっすらと光が差し込んだ。窓の外に、夏の低い満月が顔を出す。私は薄明かりの中、目を凝らして周りを見渡した。がらんどうの客席と、長方形の競泳プール、下を見下ろすと、そこにはぼんやりと、深く青いプールが、水面を張って凪いでいるのが見えた。

 私は、屋内プールの中に居た。私が進んでいたのは、高飛び込みの台の上だったのだ。

 私は瞬きを一つする。あらゆる問いが頭の中を駆け巡る。ただ、あれほど慣れ親しんだプールの匂いが、体に触れる夏の気配が、私の頭の中を洗い流していく。私は今、先輩と同じ場所に立っている。私はもう何も望めないと思っていた。先輩の居ない世界で、置き去りですらなく、ただどこにも行けないまま終わっていくのだと思っていた。それでもいいと思っていた。だけど、もしも願いが叶うなら、たった一つでも先輩に言える言葉があるのなら────。

 私は、飛ぶ。私の体は前に向かって翻り、不格好に宙に浮き、その問いを口にする。

 「先輩、なんで死んじゃったんですか」

 私は落ちる。〈101A〉前飛び、落ちていく。一・六秒の世界の中を。


 初めて先輩を見たとき、それが恋なのだと思った。

 中学三年生の夏、私は毎週土曜のスイミングスクールをさぼって、テレビを見ていた。もう水泳なんて辞めてしまおう、と決心したその日の夕方だった。先輩は地方ローカルのニュース番組で、将来有望な高校生選手として特集を組んで紹介されていた。

 第一印象は、綺麗だけど変わった人だなと思った。先輩は、取材を受けてもほとんどしゃべらなかった。ニュースキャスターの人が戸惑うくらい口数が少なくて、喋るのが苦手だと自分でも言っていた。

「人と関わるのって、なんだか怖いじゃないですか」

 だから、先輩は飛び込み選手になったのかもしれない。落ちているとき、そこには自分しかいない。たった一人の世界の中で、ただ風の冷たさと、途方も無い恐怖だけを感じていられる。

 しばらくボーっと見ていた私だったが、実際の練習風景や演技の様子が映し出されると、私は先輩の美しさに目を奪われた。回転や捻りにも圧倒されたが、何より着水の瞬間、水に触れるしなやかに伸びた体が何より綺麗だと思った。私は急いでテレビの録画ボタンを押して、特集の最後たった一分の録画を、何度も何度も見返した。

『それでは、最後に難易度の高い技に挑戦してもらいます。準備は良いですか?』

「はい。何度も練習してきました」画面の右下にテロップが貼られる。

[〈107B〉前宙返り三回転半・蝦型]

 屋外プールのどこまでも続く青空に向かって、先輩は大きく手を伸ばす。そして、自信に満ち溢れた表情でまっすぐに前を見据えると、宙に向かって飛び立つ。体が翻る。一、二、三と、もう半回転、車輪のように勢いよく回って、飛沫一つ立てずに着水する。何度も練習してきたことが分かる、素晴らしい演技だった。

 私はそれを何度でも見直した。見直すたびに、この人に近付きたいという気持ちが自分の中で強くなっていった。先輩の高校は、今から頑張って入れないほど難しい学校でも無い。水泳を続けていれば、先輩と同じ部活に入る事だって絶対に出来る。それなら、もう少しだけ頑張ってみよう。たった一度テレビで見ただけの先輩に、これだけ惹かれてしまうのは、それはきっと恋だからだと私は思った。そうして、先輩と結ばれる自分のことを、おぼろげに空想した。

「先輩、大好きでした」

 

 私は落ちていく。時速五十キロメートルで、一瞬の距離を駆け抜けて行く。私は視線の先の水面に向かって両手を伸ばす。水面に手が触れて、私は飛沫一つ立てず、水の中を潜っていく。私はそこで、自分がさかさまの中に居ることに気が付いた。プールの底には青く遠い夏の空があって、そこにはきっと先輩が居た。私は青の中を進む。手で藻掻いて、必死に藻掻いて、前へ進む。ゆっくりと、息苦しくて、体のどこか空っぽで、ただ、私には、生きていくことしか出来なかったから、

 私は見上げる。空の上に先輩の影が見える。先輩はまだ十八歳のままで、あの時と変わらない少女のままで、私は手を伸ばす。先輩が手を伸ばす。その手のひらの先が、指の先のほんの少しの距離が、永遠の時間の中で、たった一瞬交わったとき、


 ──先輩が死んだ夏が終わった。長く、暑い夏だった。

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さかさま ななしみ(元 三刻なつひ) @nekonohito

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