第3話 昭和20年

 私奥瀬真緒の実家は、合浦公園程前の風采菓子本舗になる。戦中でも仕入先をやり繰りしては、季節毎の和菓子は何とか提供して来た。

 ただそれも真夏の青森大空襲で、青森市が軒並み灰燼として、いよいよ死を受け入れなくてはを決意した。

 そうとは言え、風采菓子本舗の地域は、浪打駅の向こうに練兵場があっても全焼の残らずは避けられた。何故かは分からない。青森大空襲前にBー29が飛来し、警報ビラを適時に落として行った事は、占領後のある程度の地理条件を考慮したのだろうと、憲兵の手前口には決して出せない。

 そう、私の実家から最寄りの浪打駅を越え山側に進んだ方に、私の通う暁鐘学園がある。カトリック校ならではで、聖堂もシスター達の寄宿舎も併設されている。米軍はキリスト教施設を狙わないは、これは声を潜め深く聞いた話だった。


 そんな中、青森大空襲の余波は来た。お盆前の御霊前の予約は、生き残った青森市民の避難離散でさっぱりになった。そして、市街の中心に有った暖簾分けした親戚筋の風采菓子本町店は、水を兎に角かけても燃え広がり全焼となった為、その五月女家も我が家に避難してきた。

 奥瀬家は丁稚さんを多く受け入れて来た為、家屋は大きなものではあるが。太平洋戦争が進む中、丁稚さんのほぼは実家に戻っているので、五月女家が来ても不都合は何もなかった。

 何より先に、五月女家の五月女孝子、そう同じ暁鐘学園に同級生が下宿していた。本町より通える事も出来たが、農業実習と仕入先の農家お手伝いも多いから、かなり前より奥瀬家から通いなさいになった。


 暁鐘学園の農業実習は校庭と周辺の新緑帯を掘り起こして、農地に隙間なく替えて行った。もっとも、昭和20年ともなると、在校生の3/4は退学若しくは休学し、家事手伝い、いや出兵する兵隊さんと結婚した。残りの1/4は思った以上に多い印象も、ここはクリスチャンの敬虔さがある。ただ暁鐘学園の学科は戦時教育に倣っており、聖書のお話は固く差し止められている。

 そして、仕入先の農家お手伝い場所は、山なりのとてつもなく広い平野になる。田園に畑の手伝いともなるとほぼ重労働だ。午前中は暁鐘学園に通い、午後はそのままやまなりの農家に向う。

 そう、学園が休みの日ともなると、日の出から日の入り迄と農家のお手伝いに掛かりっきりになる。せめて通う時間を減らしたいになるが、自転車で通うと米軍の戦闘機に機銃掃射を貰う方もいたので、いや搭乗席から女子と分かっていても、これは戦争なのだから便宜も何もない有様だ。


 戦争に入ってから、俄然この調子なので、私真緒と孝子は日焼けでかなり健康的に見えるだろう。この戦時中で健康ならばと、元気を貰うべくどうしても、老若男女問わず声を掛けられる。

 その内の一人が市川一機さんで、すぐそこの練兵場の教官だ。早期の南方で右太腿を撃ち抜かれたが、今は健気に足を引きづりながら、周囲への気配りを欠かさない。真緒さん、もうちょっと雨が欲しいですよね。肥料は何を使ってます。いい出来ですよね。来年も楽しみですよね。私としては、好印象のまま、このままずっと先でも朗らかでいたいのだが、この御仁は私に本当に他意はないのだろうか。私が、生涯をと言う羽目になるのかなだった。


 孝子も同じくして、面白い男性にからかわれる。行商人の田辺恭平さんで、これはの農作物の目利きから、挨拶も手短にしながら農作物の出来を勝手に食む。そこから、俺が買う、いやこちらが先に提携してますから等々のやり取りで、火花が散る。

 恭平さんは日々駆け引きからまま細かな便宜に走り、丹波の小豆を差し入れられては、豆大福を作ったけど、上品に乾いた味わいで上方かなと、それはそれの至福の時間だった。

 ここ最近姿を見ないが満州にいるとの葉書が送られて来たが、そこは戦中故に途切れ、行方知らずになった。孝子は見られまいと隠れて泣くが、そっと、あんなぶっきら棒に弾丸当たる訳無いでしょうで、爆笑でやっと終える。


 そんなある日の夜、アナスタシアス聖堂で夜を徹してのお祈り会が行われた。東京大空襲、沖縄陥落を経て、これ以上の生命のやり取りをどうか慈悲を下さいだった。そんな日に限って、暁鐘学園に焼夷弾の巻き添え食らった。どうしても隣接する練兵場を狙ったのだろうが、こんな夜中ではカトリックの聖堂設備の判別すら効かなかっただろう。

 私真緒と孝子は、聖堂の2階にいるシスターの避難の手を引くべく、階段を駆け上がった。天窓から見える焼夷弾の数々と、そして着弾炸裂した火炎に轟音を聞いては、堪らず踊り場の大鏡に張り付いてしまった。なんて事をと鏡に両こぶしを当てた筈が、何かに掴まれた。温もり、そして微かに感じる実家と同じ餡が鼻をくすぐった。耳が大きく塞がった感じになり、視野が極端に狭くなって、意識を失った。


 次に目を大きく覚ましたのは、マリアンナ聖母会の寄宿舎の医務室だった。ただ時代は昭和39年と信じ難い未来にいた。

 時空を超えた事は、私の縫い付けた普段着の名前奥瀬真緒から、シスター達の最重要検証でそうでしょうと自然に受け入れられた。日本は戦争はになったが、そこは固く口を結ばれ、日本に未来は有りますと全ての言葉の終わりを切り上げられた。

 たった一つ、禁忌を破ったのは、時空を超えて私真緒を助けたのは、事もあろうに、私の娘梓との事だった。ここは大いなる含みを持たされた、私が何としても昭和20年に無事に帰らなければ、娘はこの世に生まれてこない事になる。私の存在はこの時間に滞在するが、娘梓は宿命の輪から外れ、永らくないでしょうに諭された。

 その後身体が復調し、アナスタシアス聖堂のマリア像に祈りを毎日時間の許す限り捧げ続けた、そして確かに永劫の大きな鐘の音を聞いては、気持ちが遠くに行った。

 次に起きた時は、同じくアナスタシアス聖堂で、シスター達に起こされては、昭和20年に戻って来た。奇跡の出来事なのに聴取は1日で終わった。

 御心は祝宴を用意しています、その時迄穏やかにいましょうだった。その後シスターの付き添いで実家に戻って来たが、ままある神隠しで、憲兵に気を付けながら御心のままですと、皆で十字を切った。


 ただ奇跡は往々にして、より堅実な未来を照らすらしい。

 気立ても口も固い遠縁の五月女孝子には、時空を往還した事は話した。そうか真緒は長生きするのかだったが、となると私も側にいるから生存確率が高くなるわよねと、何れ来る米軍の上陸戦の徹底抗戦の気持ちを固めた。

 そして、私達が、いや青森県民が、いや日本国民がどうしても生き残れるようにと、時間を見繕ってはアナスタシアス聖堂に詰めた。その後は、とっておきのお昼寝の場所の、2階席に行こうと踊り場に過ぎようとした時、孝子が大鏡に両手を張り付いたままだった。綺麗な女子が映ってると。孝子何を言ってるのそれはあなたでしょうと苦笑交じりに言い終えると、ふっと空襲警報が大きく鳴り響き、あっつの声が辛うじて終えるかで、孝子が大鏡の中に吸い込まれて行った。

 またも暁鐘学園は空襲を受けて、今度こそアナスタシアス聖堂以外は焼け崩れた。そして、この状況下でもまずいと全ての遠因を知るシスター達に、孝子の時空超えを話した。シスター達は冷静に対処して、奥瀬家と五月女家にまたしても神隠しが起こりました、ですがここは祈祷する事で、真緒さんの様に戻って来ますと、理路整然と告げた。昭和20年でもこの不可思議は通用する時代だった。


 そして、日々アナスタシアス聖堂では祈祷が続いた。それからやや日を置き、聖堂の鐘は残らず軍に徴収されたと言うのに、私、いや詰める皆が速やかな音を聞いた。皆がぐるり見渡した、その束の間に祭壇踊り場に、孝子は眠る様に横たわっていた。私は縁が有って自ら帰って来たのだろうだったが、シスター達はただ丁寧にマリア像に何ら憚る事なく十字を切った。

 孝子も同様に、程なく1日の聴取で奥瀬家に戻って来た。

 孝子は確かに時空を往還したが、昭和58年に辿り着いたと。近未来小説でも描けない品々に建築物を丁寧に話した。そして昭和が58年も続くかの非現実性にどうも浮かない。ただ昭和58年に導いたのは、孝子から直系の長女五月女満の第一孫五月女和泉らしく、まあ美人の家系は永遠不滅ねと綺麗に落とす。

 そして、私は控えていたが、孝子も同時に、風采菓子の空き桐箱から真心を込めて作った紅のロザリオを差し出した。改めてああそうかになった。私達はどうやら、この太平洋戦争を生き延びて、孫の顔を拝めるかになった。そうなるとお相手はどうなるかだったが、こんな奇跡が起こるならば、丸抱えで思い人に繋がるかと、昭和20年ではかなり不謹慎の思いに浸った。


 それから暫しの、朝から炎天下の暁鐘学園の校庭兼菜園に、通学及び休学中の生徒が集められた。演壇には大きなラジオが置かれ、とうとうその日が来たかだった。米軍の日本本土上陸を促す放送。青森には陸軍基地も海軍基地もあるので、どうしても巻き込まれる。何より津軽海峡を制するのならば、本州及び北海道の大要衝ときつく聞かされている。いざの決戦、自らの手の血を拭っても、未来に繋げなければならない。私真緒と孝子は必ずだ。生きるという事は全ての業を背負ってこそと自ら言い聞かせ、堪らず孝子と手を繋ぎ、きつく握り返された。

 そして、ラジオから聞こえて来たのは、陛下自らの声で、日本の終戦を告げる声だった。これ以上の戦争継続は誰もが身も心も引き裂かれ、より良い未来に繋げようとが続いた。私真緒も孝子もいの一番に膝が崩れ、校庭に伏した。こんな未来の始まり方があるのかだった。



 そして青森の戦後は賑わった。青函連絡船再開に、大湊からの引き揚げ者の受け入れ、何より遠方より物資を求めての来訪者で青森駅は混沌だった。まず風采菓子は全店復活を掲げていたが、私真緒と孝子は好機逃さずと青森駅周辺に行商を進言した。仮にも格式ある和菓子店もは、今は希望を見いだせる戦後と、若さだけで押し切り、日参し用意した大福は全て売り上げて帰って来た。

 いや、もう一つの目論見は有った。きっと私達の思い人は、青森に立ち寄ろうが、郊外の合浦公園周辺迄来ないだろうだ。それならばと、日々声を張り、目立ち、客寄せをした。

 そして私の思い人市川一機が、おやと照れながらも行商店舗先に来た。南方から引き揚げたものの、大湊の帰還事務作業が膨大で引き込まれてしまったと。それだけですかは、敗戦を迎えてしまって、今更懇意の皆さんにどんな顔して戻ろうかです。私は声は出ないものの逃さじと一機さんの手を握り、涙で濡らした。漸く開放したのは大湊の住所を聞いてだ。


 もう一人孝子の思い人田辺恭平さんも、こう易々と捕まった。何々ここで何が流行りで、あっと見合わせた。それは美味しいから人集りになるよねで、孝子は無制限に恭平さんの胸を叩いた。

 行方知らずの行商人の田辺恭平さんは満州でかなり稼いでいたが、各国の密使が送られ不穏な言動をするので、台湾迄退いていたらしい。そこで伝手を手伝って、漸く鹿児島に渡っては、昔の仲間の消息を確認しながら、長い時間をかけてを青森にやって来たらしい。

 孝子がこの後どうするのですかと詰問すると、それはとてもきつく手を引いた事から根負けして、北海道から帰って来たら青森を拠点にするからで、やっと開放した。



 やがて、時代はやっと明かりが灯ってゆく中で、それからは幸せの結末が来た。

 市川一機さんも田辺恭平さんも、これでもかの御手紙攻勢で、家が無いなら、改装した風采菓子本舗と、新築の風采菓子本町店に下宿しなさいになった。

 そして下宿しては職工の手伝いも遅いながらも卒は無いが、経営判断の速さが退っ引きならなかった。帳面を見慣れているのと独特な感性で、お店回りを強固にした。そしてそれは暖簾分けのお店にも指南されては、復興を繰り上げた。

 勿論、そこ迄のやり手ともなると、親戚一同から是非結婚しなさいで、私真緒と孝子の同時挙式と披露宴が行われた。ここは、私真緒も孝子も拍子抜けで、どこの馬の骨だ、それならば駆け落ちしますと、函館の逃亡先を確認し終えていたからだ。



 それから時代は、戦後高度経済成長を駆け上がり、風采菓子全店も確かな銘店となった。私達の家庭には、奇遇にも同学年の娘が生まれ、私達と同じ暁鐘学園に通っている。

 そして運命の昭和39年の夏が来た。未確定事項だからはぶれはあるだろうがだったが、高山明日香学園長がお出でになって、私の娘奥瀬梓と親戚早乙女満が奇跡に立ち会ってしまったので帰るに帰れない状態にあると、互いに見合わせてしまったが、この巡り合わせに、全ては主に委ねましょうになった。

 とは言え、暁鐘学園とマリアンナ聖母会にはご迷惑をかなり掛けているので、駆けつけた孝子と合流しては謹製の桐箱に詰めた献上和菓子を差し入れと言いながら、日々様子をそれとなく伺った。娘梓も昭和20年の私真緒も切実にお祈り上げているらしい。

 そして満願となったか、私は忽然と消え、時空を往還し昭和20年に戻った筈だ。大切な事を一つ添えるべきだろうが、若い私の活力ならば、尊敬する旦那さん一機をどうしても見付け出すに違いない。


 そして、私真緒の娘梓と孝子の娘満は、昭和38年事変で良縁に恵まれ、暁鐘学園卒業後程なく、私達と同じく両挙式にそのまま大披露宴で賑わった。実はもう一つの未来の事案があるとは、この時点ではひた隠しにするしかなかった。

 そこ迄確定未来があるとは信じてはいるが、何せ人間の営みはどう左右するか分からない。現に合浦公園前は、浪打駅が消えて今は国道になって事故も多い。国家戦争より交通戦争の方が、実は退っ引きなっていない。


 日々の山なりの幸福に出会いながら、運命の孫達にも出会えた。私奥瀬真緒の孫万理に五月女孝子の孫和泉。私が言っては何かになるが、美男美女の血筋である為、その末端の孫ともなると、家の孫こそ世界一ともの結論になる。

 適度な風采菓子系列店の慰安旅行を捻出しつつも、盛大な祝宴の積立金はきちんと寄せて来た。その曽孫迄となると、いや生涯現役でいないとは改めて覚悟した。


 そして運命の昭和58年の夏が訪れた。この時期ともなると、青森の何れもが新規設備投資が行われ、まだ忙しさが続くのかだった。

 そんな盛夏に、暁鐘学園に孫達の万理と和泉が、日がな運動部の通学合宿で通っている。孝子曰くそろそろの時期から、やはり同じ様に過去よりの来訪者が現れ、万理と和泉が暁鐘学園とどめ置かれた。状況説明に来たのは高山明日香学園長で、一通り話すと、あなた達も本当律儀なものね、いいえ主のお導きよねに差し替え、共に十字を切った。

 孫世代の五月女和泉が今回の鍵となっている事から、孝子が風采菓子本町店を飛び出て、心配で我が家に間借りしている。ほら和泉って、生真面目だから、理りを抑え込んで主張しちゃうから、私は無事に昭和20年に帰れるのかしらだった。そうなったらそうなったらで、時を超えて来たあなた孝子を五月女家の女工にしなさいよ。いやそうなると摂理が崩れるから、五月女家の総離散はと考えるのをやめて、日々お祈りを捧げ、そして暁鐘学園へと謹製の桐箱に詰めた献上和菓子の差し入れをした。そして現在もの主力商品は、あの桐箱に入った白桃入り餡餅で、長年の愛着もあって青森市の銘菓にも入っている。戦後の手数がどうしても少なかった商品群の時代に比べれば、これは幸せに尽きる。この時空を超えても、白桃入り餡餅があると言う事で、実は時空から戻って来た私真緒と孝子は大いなる知見を得ている。継続は力と。このメッセージはきっとまた来訪者が気づく事だろう。

 それから幾日で、あの時代の孝子は昭和20年に戻った筈と伝え聞いた。これで摂理の輪は終わった。いや、そうでは無い違和感が直感に触れた。ここからの出会いが肝要で、過去の慣例からどう万理と和泉の婿様候補を持て成すかだった。ここは夜にお店を閉めると、奥瀬家と五月女家の熱い談義になり、天賦の才、いや美男子、そこは新人類らしくて良いかなであったが、私真緒と孝子が見極めますで終えた。


 昭和58年事変を経て、奥瀬万理と栗原大智、五月女和泉と真木野勇人は、それとなくの運命を手繰り、東部高校サッカー部への協力応援として暁鐘学園が合流した事で、その絆は深まった。巷に聞く新人類らしい柔和さが先で、引きの強い男子さはほぼ無く、和やかな雰囲気を作るも、私達の評価査定は平均点やや下より始まった。

 ただこの男子二人は、乙女が好きそうな男子そのもので、フェミニンな話にも乗れる事から、万理と和泉は日々距離感が無くなる。当然さてになるが、ごく自然のらしさが如実になって来たので、これはこれでと、私達が長所を伸ばしましょうにした。

 彼らのらしさとは、素直に頼って来れるところだ。津軽特有のじょっぱりが無く、助けて下さい、その案実に良いですねと、どんな素直な男子達だろうと、その都度ただ新鮮で、きっと長らく性分は変わらないだろうと、私真緒と孝子は大きな決済を下した。いや一抹の不安はある、青年になれば幾多の女性にモテるだろうも、そこは万理と和泉の女っぷりを上げる事で、軒並み敗北させるであろうに至った。

 そして、両互いに高校を卒業しても、何かと風采菓子本舗で食事会を開き、そろそろ結婚はどうかしらね、一族早めの結婚の家系なのよね、やはり同年代が困った時に力になるものよと、押しに押し、大智さんと勇人さんに、早く早くの視線鋭く送る。

 その甲斐あってか、成人式を超えて、その年桜満開の合浦公園の桜祭りの砂浜で、大智さんと勇人さん二人は婚約指輪を送った。そこからは怒涛で、ねぶた祭りの前の買い控えをの始まる頃合いに、古川の老舗大飯店桃泉園を豪快に私達のポケットマネーで貸し切った。余りに早く無いかも、還暦も未だの中年は兎角せっかちと在り来たりの文言で押し通した。


 奥瀬家栗原家と早乙女家真木野家の挙式は、暁鐘学園近くのガブリエル教会で一族同様に行った。戦後の急造カトリック教会でもみの木もやっと植えたあの頃から、今やここ迄大きくなるかだった。

 そこから貸し切りとなった古川の桃泉園に移り披露宴へと。風采菓子の遠戚にのれん分けした一同が介して、只管子供達が大はしゃぎと、えも言われぬ幸福感に包まれた。

 余興と中華料理と交互に悦に浸り、昼からずっと食し続けては、夕方前にやっとデザートになり、お開きの雰囲気になった。もうお腹いっぱいだが、そのお土産は途方もない品々になった。風采菓子店さん勢揃い、しかもお祝い事ならばと、関係各位が最大協賛になり、一人やっとコンパクトにまとめた段ボール箱サイズに納めた。

 配布の前に、手配した記録カメラマンさんから、集合写真を撮りましょうになった。私達はどうしてもと中心に置かれ、そこから自然と輪は広がった。

 私はこのタイミングならばと、風采菓子本舗の一口サイズの空き桐箱からあの時空を超えて貰った、真心を込めて作った紅のロザリオを首に下げた。向きはどうかしらと、旦那様から銀婚式祝いとして貰った兎野生活硝子謹製の玉兎の意匠の入った折り畳みの手鏡を見ては、襟元にしっかり下げた。

 ふと振り返った。月の使い玉兎を、あの時意匠の玉兎そのままと認識したのだろう。先生先輩関係者が玉兎と言っていたので、太った白兎が人参を嬉しそうに持っている玉兎を一つも疑問に思わなかった。ただここは義父の兎野生活硝子店店主兎野万蔵から聞いた事がある。玉兎は月の住人伝承もあるが。もう一つの伝承、猿と狐と兎の3者が、旅に出ている帝釈天の為に、それぞれ食料を持って来たが、兎だけは何も得ず自らを食料になった説話だが、その奥行きを見れば、兎が流石に人参ではと気兼ねしたからだろうと。そう言う照れは一切恥ずかしく無いからと、2つ前の先代が意匠に溢れる思いを起こしたらしい。そのシャイさは青森県人の特性と一致している。鏡面に映る私は嘘偽りの無い姿だ。嘘をつく事はほぼ無いが、何時迄も胸に秘めてはねと、口角が上がった。

 不意に隣を伺うと、孝子も同様に銀婚式祝いで貰った玉兎の意匠の入った折り畳みの手鏡を見ては、紅のロザリオを直し終え、でしょうねの視線を交しあった。

 ただここで、紅のロザリオを見てわなわなしだしたのは、昭和38年事変での紅のロザリオ作成者の奥瀬梓に、昭和58年事変の紅のロザリオ作成者の五月女和泉だった。

 そうよと私達は凛と澄ました。時間が暫し経って、夢かと記憶が挿げ変わっているでしょうが、私達をあの焼夷弾の雨あられから救い、引き上げたのはあなた達なのよと言い放った。

 周りは何々になり、おおの感嘆から、皆さんまずは撮影ですよで、連続3枚撮った。恐らく集合写真の何れもは目を見開き過ぎた事だろう。奇跡は既に起こり、この先も宴は続く。人生はその数々約束で満ちている。生きて、そして主に導かれた事に深く感謝しよう。

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黒き鏡の玉兎。 判家悠久 @hanke-yuukyu

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