第12話

「―― で、あとは大きな仕事としては……ねぇ、光太くん、聞いてる?」

「うあ、はい!」

「聞いてた?」

「聞いてました」

「じゃ、今、私が『春先の大事な仕事』って言ったのは、何だった?」

じとっとした上目遣いで見詰められて、おねだりされては思考回路が正常に作動するはずがない。それでなくても、話を聞いていなかったというのに。

「えっと……あ、あの、スコアの集計です!」

「ぶぶー。ほら聞いてない。もう一回だけ言うから、ちゃんと聞いててよ?」

「……すみません……」

ぷくぅと頬を膨らませた羽衣さんの可愛さと言ったら、表現のしようがない。俺がもし詩人だったら、何かいい言葉を見付けられたかもしれないけれども、生憎俺にはそんな一芸の持ち合わせなどない。偏差値が平均よりちょこっとだけ良い男子高校生に過ぎない。おかげさまで、可愛い以外に適切な言葉が分からないでいる。

だからといってその愛くるしさにかまけている場合ではなさそうだ。

4月17日、金曜日。明日からの土日は、ホームでの練習試合が予定されている。遠征ではない分やるべきことも通常より少ない。そこで羽衣さんに、ドリンク準備の一段落したところでマネ部の活動内容について説明してもらえることになったのだ。

「マネ部のこと、お勉強しよ?」とぷっくりした唇に誘われてNOを返せる男子高校生などいるわけがなく、俺は当然のように頷く他なかった。

いくら黴臭い部室と言っても、イイ感じに薄暗い空間に天女と2人きり。おまけに天女は、俺の左手30cmくらいの辺りにお座りだ。お互いがちょっと前のめりになるだけで指先や顔が触れ合いそうになる。これだから円卓は恐ろしい。四角いテーブルならたとえ隣同士の椅子に腰を下ろしたとしても、辺と辺で分かれていただろうに。何代も前のマネ部の誰かが用意したテーブルなんだろうけど、なぜ四角いタイプではなく円卓にしたんだろう? ちょっと困る。いや別に困らない、困らないけど、やめて欲しい。嘘ですやめないでください。どないやねん、俺。


とにもかくにも、ドキドキするからと言ってせっかくのご厚意を「可愛すぎて話が入ってきません」なんて態度で無下にすることは、さすがに許されるはずがない。

重々分かってはいる。とはいえ、それはそれで羽衣さんは喜びそうなところがあるから煩悩が消えてなくならない。「そうだよね、ごめんね私可愛いから」とか何とか言って微笑まれたい気も、ぶっちゃけちょっとする。そうですよ全部あなたが可愛いのが悪いんですよと言って暴れたくなる気持ちもゼロではないけれども、冷静になれよミ・アミーゴ。いつ誰が部室に戻ってくるか分からないのだから。……まぁ、そもそも暴挙に出られるような度胸を持ち合わせてないのだけれども。

気合を入れ直すため、両頬を自分で叩くと

「……ふふっ」

と羽衣さんが柔らかく笑った。マシュマロとかコットンキャンディみたいな笑顔は見ているだけで甘くて、脳みそまで溶かされそうだからヤバい。これが恋ってやつですか? いいえと言われたら、そんなバカなと言わざるを得ませんが。

「いーい? もっかいね」

はい、と言おうとしたけれど、へにゃ、という謎の声にしかならなかった。

「基本的には、毎日ドリンク準備とネット補修をします。プラス、火曜と金曜は軽食としてオニギリとかゆで卵を出すから、その日によってご飯炊いたり、卵茹でたり。これがルーティーンになるお仕事ね」

「はい」

「もう、したことあるの?」

「え?」

伺うように首を傾けられる。またもう、上目遣いに人を見るんだから、この人は。自分が一番可愛く見えるポイントをご存じなんでしょう? 多分ですけど、大正解ですよ、その角度。

「もう、しちゃった?」

「は、あの、何を……」

「軽食の準備」

「あ! まだ、まだです。してないです」

「そっかぁ。じゃ、今日初めてなんだね。よろしく」

ふわふわの髪を耳に掛けながら、卓上に転がっていたノートとペンに手を伸ばす。そこに手を重ねたくなるこの気持ち! 猫をもふもふしたくなるアレと一緒だと思って、許していただきたい。

色々と、わざとやってるとしか思えない。あざといのも武器の一つってことなんでしょうけど、俺如きにそこまで全力で武装しなくてもいいんじゃないですか?!

むしろ、俺相手だからこそ“そういう態度”をとっているのだとしたら……なんて、都合の良いように勘ぐってしまうからつらい。天女は小悪魔どころか、ガチ悪魔でもあるのだと思い知らされる。

「はい……」

「あとは、曜日によって入ってくるのが遠征とか練習試合の準備と片付けね。だいたい金曜に準備して、月曜に片付けとスコア集計をやるのが基本。金曜はやることが多いし、春先は特に試合が多いから忙しいんだよねぇ」

嫌になっちゃうと面白そうに呟いて、羽衣さんは『やること』と大きく書いたタイトルの下に準備、片付け……と項目のように書き出していく。髪や頬や目と一緒で、羽衣さんは字も丸っこい。人の書く字を甘ったるくて美味しそうだと思う日が来るとはな。俺の頭も、大概イカれてきたらしい。

それより、春先の大事なお仕事ってやつはこのことだろうか? だとしたら、今やっていることと同じような気がするけれども。

「プラス、これから増えるシゴトがあってねぇ」

思考を読まれたのかと思った。が、彼女は至ってマイペースな調子で語尾を伸ばし、

「OBとか、後援会への連絡」

と丸い字で書き足した。

「後援会、ですか?」

「そっ。主に寄付のお願いになるんだけどさ。遠方のOB向けには、お手紙を郵送。商店街とか、この地域の人たちが作ってくれてる後援会の重鎮さんとこには、出向いてご挨拶します」

「出向いて?!」

「そそ。遠方の皆さんに送るのと同じようなお手紙を持って、『今年も応援お願いしまーす』って言って回るの」

羽衣さんは1年生の頃からマネ部にいるそうだから、既に2度、それを経験しているのだろう。俺にはまだイメージがつかないミッションだけれども、彼女にとっては楽しいシゴトのようだ。口許で両手を合わせてニコニコしている。

「何か……選挙みたいですね」

「あはっ、選挙かぁ。ん-でも、どっちかっていうと客引きみたいに思われてるのかも。これのせいだと思うんだよねぇ、キャバ嬢養成部って言われてるの」

「なる、ほど……?」

そこじゃないと思う。けど面倒だからとりあえず肯定しておこう。でも多分、その読みは違うと思いますよ、先輩。何となくですけど、もっと他にそう思われる原因がある気がしてならないです。何となくですけど。

「だけど気にしないでいいからね。そういうのって、だいたい僻みだから」

「だって、キャバ嬢って最高じゃない?」

「……はい?」

「見た目とトークだけで、目の前の誰かのことを気持ちよくオモテナシしてあげるなんてさ。そうそうできないことでしょう?」

「はぁ、そうですね」

いったい、何が“そう”なのか。イエスの返事をした俺自身にも、実はサッパリ分かっていない。

「だから『キャバ嬢部が!』みたいなこと言われたら、逆に自信持って欲しいなぁ、私としては」

……何だか話があらぬ方向性に進んでいる気がする。キャバ嬢として自信を持てと言われても、いったいどう反応すればいいのか。人生で出くわすことを想定していなかった台詞ベスト10に入るくらいの珍発言じゃないか? これ。

さすがに、これにイエスを返すことは無理だ。キャバ嬢という仕事がいいとか悪いとかの話ではなく、俺がそこを目指してはいないのだから。

「……あの」

「んー?」

「羽衣さんって、本当に野球が好きなんですか?」

丸っこかった目が、急に猫のようにタテに伸びた。いつも上がっている口角までもがピンと横一文字に張り詰めている。今の今までふにゃふにゃとカールを描きながら揺れていた髪も睫毛も、1本1本が意思を持って動きを止めたかのように静かに、鳴りを潜めた。

定数的に表すとすれば1刹那くらいのわずかな時間だけど、ヤバいと分かる空気が漂い始めた。

「いや、あの……ちょっと、気になって」

ほとんど反射的に、言い訳じみたものを口走る。批判する気持ちがゼロだったと言えば嘘になるけれども、怒らせたかったわけじゃない。険悪なムードになったらどうしよう。罵られるのならまだしも、万に一つでも泣かれたら……。

という俺の焦りを見透かしているのか、からかうように唇の端を釣り上げて天女は肩を竦めた。なーんだ、バレちゃった? と悪びれずに言い出しそうな表情のまま、何も言わずたっぷり5秒ほど見つめられた。

「……何か、あの、すみません」

気が付けば、これまた反射的に謝罪の言葉を口走っていた。何で俺、謝ってんだろう? 自問に自答する時間を与えられることはなく、「光太くん、かーわいっ」と、完全にからかった声色で言われた。

腹立たしいことを言われているはずなのに、ぞくり、快楽みたいなものが背筋を駆け上がってくる。多分だけど、その声が見えない色を帯びているのが分かったからだと思う。

本当に高級キャバクラとか、男を手玉に取るような仕事の女性なんじゃないかと思うほど色っぽい顔で笑っている。妖艶って、こういう人のことを言うんだろうな。

手を出したらヤバいと分かっているのに、欲しくて堪らないと本能が叫び立てるような沸騰する気持ちを腹の底に感じた。

「野球はねぇ、正直、そんなに興味ないの。ごめんね?」

と、天女が続けた。

「あのね、私が好きなのは、野球じゃなくてイクラちゃん」

「……は?」

「あ、あと、人からありがとう、って言われることかなぁ」

「……どういう、意味ですか?」

二重に分からない。突然何を言い出したんだろう、この人は。

「私ね、小さい頃から可愛かったから、何やるときでもみんなが助けてくれたし、手伝ってくれたの。男の子とか、先輩とか、知らないオトナとか。何でも他の人にやってもらってたから、いっつも『ありがとう』って言ってばっかりだったんだけどね。マネ部では逆。みんなが私に、ありがとうって言ってくれる。嬉しいんだよねぇ、役に立てるのが。要するに、野球じゃなくてマネージャーやるのが好きなの。だからマネ部って最高! だと思ってるんだよね」

……怒っていいのか笑っていいのか、泣いていいのか分からない話だ。ただ、役に立てることが嬉しいという気持ちは分かる気がする。俺は今、誰の役にも何の役にも立てていない。だからマネ部の居心地が悪いのかもしれない。そんな気は、している。

「それに私、可愛いから。可愛く生まれ落ちた時点でマネージャー極めてる、みたいなとこもあるし」

「はぁ……」

冗談めかして言っているけれども、この人はわりと本気でそう思ってるところありそうだから何とも言えない。

「光太くん的には、邪道なマネージャーかなぁ? ごめんね、もしかして……キライになった?」

「まさか!」

とんでもない、むしろ好きです、と動き出しそうになる口許を慌てて押さえる。

「ふふ、よかった」

傾けられていた首が、真っ直ぐ伸ばされた。

わざとらしい上目遣いだった姿勢から、真っ直ぐ目の合う体勢へと変わる。今までの試すような、茶化すような雰囲気はどこへいったのかと面食らうほどの淑やかさが漂っていることに気が付いた。

たったそれだけで心臓が爆ぜそうになるほど、羽衣さんは可愛かった。

何だこの人。猫みたいに顔も雰囲気も態度もコロコロ変わるなんて、そんなズルい人だなんて聞いてない。人間が猫に勝てるわけがないように、俺は、猫っぽい女子には、敗北せざるを得ないのだ。多分、遺伝子にそう組み込まれているに違いない。

それ以上の思考を放棄して、俺は脳内で白旗を揚げた。

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こちら新和第一高校マネージャー部 真栄田ウメ @maeda_ume

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