第11話

4月16日、木曜日。

俺の朝は筋肉痛に耐えることから始まった。足は言うまでもないところだが、腕も負けず劣らずパンパンだ。原因なら、昨日の10kgダッシュだと分かっている。分かったところで、こうなってしまったら最後。治まるまでどうにもできないのだけれども。

制服はかっちりめに作られているから、袖を通すのもツラかった。おまけに明け方からひどい雨が降っている。湿度がバカ高いせいで、前髪はワカメ状態だ。いっそのこと休んでやろうかと思った。が、俺にもほんのわずかながら、体育会系のプライドとど根性が残っていた。バキバキの身体の今日こそまさに、マネージャーをやるべきに違いない。などという謎の思い込みを信じて、痛む身体と重たい頭をねじ伏せ放課後までこぎつけた。


コンクリート打ちっぱなしのせいか、立地条件が悪すぎるせいか、今日の部室は入った瞬間に頭が痛くなるほどカビ臭かった。先輩方の華やかさでも誤魔化せないほど、空気も日当たりも最悪だ。円卓上のカラフルな焼き菓子が哀れでならない。悪天候のせいもあって、いつも以上に浮いて見える。ピカピカに磨かれたショーケースに入れてあげて欲しい。

「今日は雨なので、ケースバッティングは中止。代わりにトレ室で筋トレとサーキットトレーニング、柔剣道場の空き部屋でシャトルノック。3グループに分かれてローテーションでやっていくそうです」

「雨練の基本だな」

うんうんと、部長が腕を組んで独り言ちた。なるほど、雨練の基本ということは、雨の日はこういう流れになることが多いんだな。覚えておこう。

「イエス。というわけで光太、シャトルノック、分かる?」

手元のメモ用紙から顔を上げた副部長が、俺を真っすぐ見つめてくる。反射的に、はい大好きです! と訳の分からない回答をしそうになる。羽衣さんにも言えることだけど、いきなりこちらの目を見て話し出すのは心臓に悪いからやめて欲しい。……いや嘘です。頑張って慣れます慣れてみせますからこれからもずっと俺のこと見ててください。緊張するけど。

「えっと、ごめんなさい、何でしたっけ」

「シャトルノックだよ。知ってる?」

「シャトル……バドミントンの羽を至近距離から投げて、打つやつですか?」

「そうそう、それ! さすが野球経験者ね」

正解したら超絶美人の指差しとウィンクが飛んでくるなんて、物凄いご褒美のクイズだ。雨ニモ負ケズ筋肉痛ニモ負ケズに部活に来てよかった。きゅんと心臓が喜びに跳ねたところで、副部長がぱちんと手を叩いた。両手の間でメモ用紙が潰された。

「光太は入ってから初めての雨練よね? 室内練習の備品係、やってみて。部長と一緒に」

「分かりました」

「で、2年生組は昨日の集計を。理奈と私がドリンク班ね。雨練の日は柔剣道場前にジャグを置くから、万が一野球部の1年生にジャグの場所を聞かれたらそうやって教えてあげてください。それじゃ、今日も頑張っていきましょう!」

「「はい!」」

返事だけはしっかりしたものの、やっぱり身体の節々が痛い。とりあえず、ドリンク班じゃなくてよかった。

「よろしくな」

と言わなければならないのは、おそらく俺のほう。なのに部長は、肩をぽんと叩いて先に声をかけてくれた。見た目は少々厳ついけれども、そういうところが堪らなく気安くてホッとする。

しかもバトミントンのシャトルならそんなに重たくないだろう。よかった、最悪の事態は免れそうだ。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

頭を下げると、部長はまたうんうんと2度ほど頷き、歩き出した。後に続いて外に出る。今日は身体だけじゃなく、心臓の負担も気にすることなく部活ができそうだ。


***


「シャトルはトレ室に仕舞ってある。トレ室では今頃、野球部が柔軟始めてるはずだから、部員の柔軟が終わるまでにシャトルを移動させておくんだ。部員の手を煩わせないようにな」

「分かりました」

横を歩く部長は、マネージャーのあれやこれやを話してくれている。いつもみたいにマネ部の先輩と並んで歩いていても、今日は周りの視線が気にならない。物足りなさもゼロではないけれども、たまにはこういう日がないとやっていけないというものだ。あぁ、これでピンクのジャージじゃなきゃ、もっとよかったのに。

「雨練のときは、ドリンクとシャトル準備の他にスコア集計ってシゴトがあってな」

「スコア集計?」

「おう。まだスコアに落とし込んでない遠征の試合なんかを、ビデオを見ながら紙ベースに直したり、合わせて相手校のデータをまとめたりする。これがちょっと大変なんだよな。紙に書くだけならまぁ、1人でどうにかできるんだけど。プラスアルファでタイキョーのPCにデータ打ち込んだり、学校ごとの資料とかスカウティング候補に上がってた中学生のデータなんかと照らし合わせたり。勝つための超重要な資料作成だからやりがいはあるけど、慣れるまでは相当厳しいぞ。覚悟しとけよ」

ニカっと笑いながら脅された。が、ちっとも怖くない。スコア集計? 選手データ? 資料作成? 心躍る響きに他ならない。そうだ、これぞまさしく、俺が求めていたドキドキ感だ。美形に翻弄されるために受験勉強を頑張ったわけじゃない。危ない、忘れかけていた。

低気圧のせいで朝から重たかった瞼にも力が入る。己の瞳孔と虹彩が、そろってぐんと広がった気がした。

「早くやってみたいです」

「おう、そうか。ま、焦らなくてもゴールデンウイーク明けにはやる羽目になると思うから、期待してろ」

「マネージャーって感じで、いいですね。楽しみだ」

と素直に言ったら、苦笑いが返ってきた。

「マネージャーって感じ、って何だよ。ドリンク補充だってネットの補修だって、どれもマネージャーのシゴトには変わりないぞ」

「あ、すみません……」

「でもな、確かに集計はいい」

「やっぱりそうですか?!」

「暑い時期と寒い時期は特にな! エアコンの効いた中でやれるんだから、ネット補修や掃除よりずっといい」

本気なのか冗談なのか、今イチ分からない。そこかよ! と突っ込みたかったけど、やめておこう。触らぬ神に祟りなしだ。

トレ室と呼ばれる野球部の室内練習は、柔剣道場の地下にあった。地下へ続く階段は2人並んでは通れないほど狭く、急勾配でヒヤリとした。おまけに練習場と言っても、グラウンドみたいな広いスペースがあるわけではなかった。筋トレ機材がずらりと並んでいるスポーツジムみたいな部屋だ。所狭しと60名の精鋭たちが柔軟運動に勤しむ中へ、部長と2人で特攻を決め込む。

俺たちを認めて、名門野球部が帽子を取る。あっす、しゃーす、と歯切れの良い挨拶が飛んできて、身動きできないほど俺の全身を震わせた。

しゃす、と短く返した部長の横で感動の余韻に浸っていると、頭を小突かれた。

「ホラ、いくぞ」

どん、と筋肉痛の腕に、衣装ケースのような長方形の箱が載せられた。半透明の側面から、羽根の乱れたシャトルがびっちり並んでいるのが見えた。驚きはしたものの、重さはやっぱりそれほどでもない。昨日のジャグの3分の1くらいだと思われる。

ただし、大きさはジャグの比じゃない。このサイズの箱を持って、狭くて急な階段を上り下りしろというのか。いくら重量物ではないといえど、危険すぎる重労働だろう。置き場所、変えたほうがいいと思いますよ? 監督。……なんて、俺が言えた立場じゃないけれども。

足元を確認するため、背中をうんと反り返らせて一歩、一歩と段を上がって行く。家電とかピアノとか、引っ越しの荷物とかを運ぶ人の気持ちが、ちょっと分かる気がする。大変な仕事なんだなとぼんやり思った。

「3箱運んだら、しばらく休憩な。部室戻るぞ」

「は、はい……」

1箱持って上がっただけで、脊椎が曲がっちゃいけない方向に曲がった気がする。腰を叩いて背骨の位置を戻してやろうと試みた。ジイサンみたいな姿勢の俺とは裏腹に、部長は慣れっこなのだろう、さっさと終わらせて先に行ってるからな、とマネ部の部室へと行ってしまった。


筋肉痛に、腰の痛みが加わった。想定外の疲労によろめきながら部室にたどり着いた頃には、部長は一人優雅にスマホをいじっていた。居場所を間違えたカップケーキが一つ、噛られている。いいなぁ、俺も食べたい。

「お疲れ。随分、疲れてんなぁ。そんなに重たかったか?」

「その、持ちづらくて」

「あぁ、確かにな。お前、初めてだもんな」

ははと労わるように笑って、部長が一つ、カップケーキを寄越してくれた。

「おやつだおやつ。食うか?」

「いただきます……」

アルミカップの上で丸く、柔らかく膨らんだチョコレート色のお菓子。昨日置いてあったものともよく似ているけれど、それよりも一回り小さい気がする。

オシャレなのか何なのか、中心辺りに砂糖で描かれた白いラインが走っていて、さらにその上にはキラキラした銀色の粒が散りばめられていた。美味しそうというよりも、可愛らしいといった見た目だ。堪らなく食欲を刺激する匂いに誘われて、罠に嵌まった虫のように口を開けた。レモンを思い起こさせる味だ。甘みが、疲れた四肢に染み渡っていく。

「めっちゃ美味しい……すね」

「いいリアクションするなぁ」

「いや、だって、美味しいじゃないですか、めちゃめちゃ」

何でそんな、無感動に咀嚼してるんですかと小一時間問いたくなった。

そもそも俺にとっては、味もさることながら、これは人生で初めて食べる女子の手作りお菓子なのだ。その補足情報がもたらす価値は、部長よりも俺のほうが圧倒的に高く評価しているに違いない。その分、感動的に美味しいのだろう。

二口目をいただこうと、顎を限界まで下げた。ら、

「そんだけ言われると、作った甲斐があるよ」

と、なぜか部長が照れくさそうに言った。

「……え?」

口が止まった。手元の焼き菓子を見詰め直してから、頭の中を整理する。

「ん? 何だ?」

「作った甲斐?」

「おう」

「これ、部長が作ったんですか?」

「そうだけど」

「え?!」

「今更だろ。ココに置いてあるお菓子は、だいたいオレのお手製だぞ?」

知らなかったのかよと言いながら、部長はちょんちょんっと円卓の中央を指差した。「えぇ?!」

「そんな驚くことか?」

「や、だって、こんな可愛いもの……てっきり女子の皆さんの誰かが作ったものかと」

「何だ、それ。偏見の塊だな、お前。カワイイものイコール女子、お菓子イコール女子。ジャージもそうだったよな、ピンクイコール女子、ハートの模様イコール女子! ってさ」

言われてみれば、確かにそうかもしれない。可愛いものや手作りお菓子は、女子のものだと勝手に思い込んでいる節がある。そこは否めない。……いやいやいや。だとしても、ジャージについては客観的事実です。俺にどピンクとハートとキラキラの装飾が似合わないのは、偏見ではなく事実だと思います。

「そう言われると……」

「だろ? 俺のことも、見た目だけで最初は元・選手だと思ってたろ?」

「それは……はい、すみませんでした」

素直に謝ると、逆に「謝らなくていいんだけどさ」と慌てられた。

「本題はそこじゃねぇっつーか。たとえばほら、マネ部のこともギャーギャー言ってたろ? お前。ちょっと見方変えてみ? マネージャーは野球部の一員だってのも、ある意味、偏見なんじゃねぇの?」

「……それはちょっと、やっぱり違うような」

「違うかなぁ? 郷に入っては郷に従え、っていうだろ? 昔から」

「それはそうかもしれませんけど。でも常識っていうか」

「常識ってのは、18までに身に付けた偏見のコレクションのことらしいぞ」

「何ですか、それ」

「有名な物理学者の名言だって聞いた」

「知りませんし、だいたい、俺、まだ15です」

「分かってるよ、俺だって17なんだから。そういうことじゃなくてさ、お前、ちょっとアタマ固くね? 脳トレしろ、脳トレ。脳みそストレッチしてさ、マネージャーが派遣制なのか、珍しい学校だな、とりあえず頑張ってみるべ、って気持ち切り替えて前向きに考えてみろよ」

そう言うと部長は苦笑いを嚙み殺して、スマホに目線を落としてしまった。俺はといえば、俯く他になかった。上手く言い返せそうな言葉が見つからない。

何よりショックなのは、部長にも、俺がマネ部を嫌がっていると思われているらしい点だ。マネ部を好きか嫌いかと聞かれたら、確かに「好きです」とは言えない。でも、辞める度胸も決心もない。首の皮1枚でもいいから、まだ甲子園にしがみ付いていたい。

だったらマネ部で頑張れ、という説教なら今更されなくても分かっている。でも俺は、まだ心のどこかにモヤモヤを抱えていて、この環境に馴染めないでいる。というよりも、馴染もうとしないままでいる。

嫌なら辞めろと引導を渡されてもおかしくない俺に、部長は遠回しに、頑張れと言ってくれた。それを分かっているのに、俺はまだ素直にハイとは頷けなかった。


沈黙をぶった切ったのは腹の音で、目の前の焼き菓子を早く胃に寄越せと身体が訴えていた。けれど、次の一口を食べる気にはなれなかった。

「オレんち、洋菓子屋なんだよ」

マジックの種明かしでもするかのように、部長が小さく言った。

「そのうち店、継ぎたいし、練習がてらちょこちょこ作って持ってきてんだ。たまに監督にも持ってったり。キレイなだけじゃなくて、プロテインとかアミノ酸とか配合して、アスリートも色々気にしないで美味しく食べられるケーキ作ってさ、名物にしたいなと」

「そんなことまで考えてるんですか? 家のためっていうか、親のために……?」

「何だ、それ。別にそんなこと考えてねぇよ。恥ずかしい奴だな。継げなんて言われてるわけでもないし、単に自分のために考えてるだけだ」

太い眉がへにゃりと下げられる。

「え?」

「言うなら、お前がウチの野球部目指して、野球やってたのと一緒。俺が好きでやりたくて、勝手に考えてるだけの目標だよ」

「……」

そうかな。それこそ違う気がする。

野球も受験勉強も、中学の頃はそれなりに頑張っていたと思う。その自負はあるけれど、果たしてそれは、部長の《これ》と同じだろうか? 我ながら頑張ったとは思う。でもどうしてだろう、部長が語る目標とは、何かがちょっと違う気がしてならない。

「甘くて可愛いだけの洋菓子店なんて、今じゃゴマンとあるからな。その世界で食ってくためには、何か強みがねぇと。完全アスリート向けのスイーツ専門店だったら、そんじょそこらじゃ負けない店としてやっていけそうな気がするだろ?」

咎められているわけでもないのに、じりじりと背中を焦燥感に焼かれていく。同じと言ってくれたけれど、とてもじゃないけどそうとは言えない。俺には、そんな高尚な未来予想図を持ち合わせていた記憶などただの一度もなかった。

「ま、そんなわけで持って来てるやつは全部試作品だからさ。お前もいつでも好きに食ってくれ。感想あれば頼むわ、商品開発にご協力お願いしまっす」

ふざけるようにして頭を下げられた。途端に、トタンの屋根を打つ雨音が大きくなった。まるで部長が雨乞いしたみたいなタイミングで、ちょっとだけおかしかった。

「……じゃあ、これから喜んでいただきます」

「おう。元アスリートの意見と舌に期待してるぜ。そろそろ行くか」

部長が立ち上がったので、俺は頷いて後に続いた。元アスリートなんて名乗れるほどの実績はないし、バカ舌寄りだけど、いいのかな。不安しかない。おまけに

「雨練はローテーションでメンバーが入れ替わるから、インターバル中に飛び散った羽根をガッと掃除するぞ。急げ!」

と言われて、今日も掃除に追われるのかと肩が重くなった。これじゃほとんどマネージャーというより、清掃要員だな。こんなので本当にベンチに座れる日が来るのだろうか? 頑張るためのモチベーションが、意気込みが、ワガママな俺にはまだまだ芽生えてくれずにいた。

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