第10話
水が溜まるのを待って、蓋を閉める。お茶のジャグはゆうに10キロを超えている。俺は今、それを持って疾走している。本当にあの美人たちが、こんな無茶をしているのかと誰にともなく食って掛かりたくなった。こんな重量物を腕にぶら下げて走ったのは、生まれて初めてだ。だって、こんなの、肉体労働じゃないか。とてもじゃないけど信じられない。
「っしゃーす」
「「「あっす!」」」
アップ中の野球部だ。キャプテンに続いて、全員が俺に向かって声をかけてくれる。マネ部とはいえ、トライアウト脱落組でジャグの一つも満足に持って走れずフラフラしている俺なんかにも、わざわざ帽子を取って挨拶を寄越してくれる。その事実は嬉しかった。これがなければ、ただの苦役か罰ゲームだ。
へろへろになりながら、どうにかベンチまで足を進めてジャグを届ける。野球部の声でアドレナリンが出てくれたおかげかもしれない。あれがなかったら、途中でジャグを引きずっていたかもなと思いながら、ジャグと一緒にベンチに腰掛ける。理由? もちろん、休憩を求めてに他ならない。
10kgの負荷がかかっていた手のひらは、開くのも一苦労なほどジンと痺れていた。肩で息をしなければならない。どうやら酸欠に陥っているらしい、我ながらひどい有り様だ。
一方の野球部は、当然ながら、もう俺など見てもいなかった。外野を、右方向から左方向へ。太ももを上げたり、股関節を開いたりしながら全員で進んでいく。滞りなくアップが行われているらしかった。大丈夫かなんて、俺を気に掛ける部員は一人もいない。めちゃくちゃ当たり前のことなのに、孤独を感じている自分が気持ち悪い。構ってチャンかよ、俺。吐きそうだわ。
息を整えるという名目で、外野をぼうっと見つめることに専念する。2人1組の柔軟体操に変わった。1塁手の先輩が両足を180度開いて地べたに額を付けている。新体操の選手みたいだ。筋力のない俺にも、せめて柔軟性があれが、もう少しマトモに運動ができたのかもしれない。
準備体操の動き一つとっても、新和第一野球部のメンバーには規律の取れた美しさがある。一種のマスゲームみたいだ。俺が入部していたら、この美しさを汚してしまっていただろう。途中で一人遅れて、もしかしたらそれをサポートするためにさらに何人かがまた遅れて……。そんな護送船団方式の組織が天下を取れるほど、この世界は甘くない。分かっている。
10kgを抱えてとはいえ、たかだか200メートルだかそこらでへばっている俺は、やはりあの輪の中にいては、いけなかったのだと改めて思い知らされる。
「……あのとき大人しく、監督の言うこと聞いとけばよかったかな……」
諭されるがまま身を引いて、素直に一介の生徒として勉強に励む学校生活を選んでいれば、ここまで無駄に有名人とならずに済んだのかもしれない。……いや、違うな。諭される事態になる前に諦めなくちゃいけなかったんだ、きっと。
落ちた時点ですっぱりやめておけばよかった。あのときトライアウト不合格になった他の皆は、俺と違ってそれが分かっていたのかもしれない。そう思うと、悔しいし恥ずかしい。俺だけが何も知らない子どもで、駄々を捏ねて入れてもらったみたいだ。
……いや、まぁ、実際その通りなんだよな。ここにいたいんだと駄々捏ねて、訳も分かってないまま無理を言って、通して。
マネ部は正直、あまり居心地の良い場所じゃない。でも分かってなかったとはいえ、自分の言い出したワガママなんだ。もう少し頑張らないと。「思ってたんと違うから」と言って、逃げ出してちゃダメだ。多分。
気持ちを奮い立たせるため、一つ大きく息を吐く。タイミングを見計らったように
「しゃす!」
とまた、野球部が口々に誰かへの挨拶を始めた。監督だろうか? だったら俺も、挨拶しなきゃ。重たい頭を上げてみたけど、違った。羽衣さんだった。右手にジャグを持って、ぽてぽてこちらへ歩いてきている。空いている左手で野球部に手を振っては、にこやかに笑っている。10kgを手にしているとは思えない歩き方だし、まるでどこぞの貴族か皇族かと言いたくなるような余裕の笑み。慣れもあるのかもしれないが、すごい。
ゆるふわなのは見た目だけで、実は俺よりずっと身体能力高いのではなかろうか。そう思うとちょっと不安になる。俺、マネ部にいても役立たずかもしれない。
こんな悠長なことしてていいのかな。本当はもっと、やるべきことがあるんじゃないか? 勉強とか勉強とか、あと勉強とか。無駄で無意味な焦りが、酸欠の頭をさらに擡げさせた。
おかげで、一度は持ち上がったはずの顔がまた下を向き出した。視界に映るのは砂塵と、ぼろぼろに履き潰したスニーカー。プラス、人を小ばかにしたような色の、派手でふざけたジャージだけ。ユニフォームからして、俺が着ていいような色でもないもんな。あのときやっぱり、マネ部への入部を辞めておけば―― 。
「もー、光太くん、座ってないで早く戻るよ? それとも、具合でも悪いとか?」
「わ、ぁっ?!」
羽衣さんの白い、芸術作品みたいな肌が視界に割り込んできた。天女がわざわざしゃがみ込んで、俺を覗き込んでくるなんて。こんな至近距離で上目遣いされると、狙ってやってます? わざとですよね? と言いたくなる。何がぁ? とか何とか言われた日にはいろんな意味で爆発しそうだから、堪えるしかないけれども。
さっきから思ってたけど、この人、距離感がバグってる。俺が美術品だったら警備員が止めに入るレベルだぞ? いやまぁ、美術品に例えるべきは俺ではなく彼女のほうなのは分かってるけれども。でもだって、近寄ってくるのは美術品のほうなんだから、仕方ないじゃないですか。逃げろって言うほうが無理でしょう。
「どっち?」
「え?」
「立てる? 無理?」
「た、立てます!」
「じゃ、いこ?」
「はいっ」
ほとんど勢いで立ち上がる。情けないことにまだ息が整わない。心臓に、体力的な意味とは別の方向から新たな負担がかかったせいもあるかもしれない。女子にも美形にも免疫・抗体ともにないのだということを、そろそろ分かっていただきたい。弄んでます? もう少し俺とのディスタンス取ってもらえません?
……いや嘘ですもっとグイグイきてください。そのほうが嬉しいです。困るけど。でも来てくれないと寂しいかも。って、何言おうとしてんだ、俺。
「いける?」
「はい」
「早く早く。そろそろ試合だし、急がなきゃ」
「え?」
今、汲んだばかりだというのに、まだ急ぐことがあるのだろうか? 部員は誰一人、ジャグには近付いてすらいないというのに。
「ここからが本番だよー。入れて、走って。また入れて、走っての繰り返し」
「いやいやいや、でもあの、ジャグって今、フルですよね?」
「ううん。4つあるもん。まだ空のジャグが2つあるよ、タイキョーに」
何てこった、と思うと当時にそりゃそうか、とも思わざるをえない。60人近い部員が勢ぞろいしてるんだから、20リットル弱で足りるわけがないよな。言われてみれば。
「さ、走るよっ」
れっつごーと言って、羽衣さんに腕を引かれた。滑車が回りだすのと同じ原理で、止まっていた俺の足もゆっくりながら、ぽてぽてと動き出す。すれ違う下校の生徒が、怪訝そうにこちらを一瞥して目を逸らした。
美人に腕を引かれながら歩くというシチュエーションに、ちょっとだけ優越感を覚えても……許される、よな? と思う反面、ここまで世話を焼かれなくちゃならない俺ってどうなんだ? という劣等感も湧いてくるから、思春期の感情って本当に面倒だ。
せめて俺にもう少し何か、何でもいいから胸を張れるだけの自信があれば違うのかもしれないけれど、生憎、俺の能のなさは、俺自身が一番身に染みて分かっているからそう上手くはいかない。歯を食いしばって感情の波を抑えるしかなかった。
走るよとは言われたものの、羽衣さんが速度を上げる様子はなかった。俺の疲労に気付いて、わざとゆっくり歩いてくれているのだろうか? もしそうだったら、この上なく天女様だな。天に還ってしまうことがないよう、祈らせていただこう。
「ね、野球やってたんでしょ? 光太くん」
軽い口調で飛んでくる質問が嬉しい。ほとんど放課後デートみたいじゃないか、これ。最of高ってやつだな。
「あ、はい、中学まで、ですけど」
「じゃ、たっちゃん知ってる?」
「たっちゃん?」
「うん。あのね、2年生にいるんだけど。知らない?」
知らない。というかあだ名じゃなくて名前で言って欲しい。むしろできれば苗字を。
「どこの中学の方ですか? あと名前というか、フルネームというか……」
「中学はね、私と一緒。名前はねぇ、ごめん、忘れた」
ふわふわの髪の向こうで、あははと楽しそうに笑う声がする。あぁ、顔が見たいなぁ。てか、名前忘れるって、アリですか、それ。まぁ許しますけどね、可愛いから。
「ウチでは、今んところレギュラーじゃないんだけどね。でも中学のときから結構有名だったみたいだからさぁ。たっちゃん、光太くんとも、やったこともあるのかなぁ? って思ったの」
いやぁ、やってるかもしれませんけど、ヒントが“たっちゃん”だけじゃ解読不能ですよ、天女様。ついでにどこの中学なんですか。「私と一緒」と言われましても、俺、貴方がドコの中学出身なのか存じ上げないんですよ。不勉強で申し訳ない。
でも天女様。一つだけ言わせていただけるなら、自分の知っていることを相手も知っていると思い込んで話すのは、横暴が過ぎるってものですよ?
「でも知らないかぁ、残念。かっこいいんだよ! 坊主が似合うの」
「はぁ……」
身の程知らずにも、ちょっとモヤっとしたものが胸中に走った。そりゃあ、俺より絶対カッコいいんでしょうよ、たっちゃんさんは。でも何というのか、あんまりいい気はしない。分かってるのに、俺はやっぱりアホだ。とはいえ男なんて……いや、人間なんてそんなものだよな?
モヤモヤしている俺とは対照的に、天女様はご機嫌らしい。鼻歌が聞こえてくるけれども、何の曲かはさっぱり分からない。流行りの歌も歌えないダサい俺だから、上手いのか下手なのかさえ分からなかった。
「どう? マネージャー、楽しい? やっていけそう?」
「まだ、分からないです」
「マネージャーってさぁ、思ってたより地味でしょう?」
「え?」
「ドリンクの準備に掃除、ネットの補修、道具の整理と管理、荷物のチェック。ぜーんぶ、裏方だもん。スコア書く以外は」
「はぁ、なるほど」
言われて初めて、確かにそうかもしれないと気が付いた。仕事云々の前に、貴方達が派手なので地味だとか考えたことがありませんでしたよ。
「部室の砂はいくら掃き出してもなくならないし、ネットも補修したそばから穴が開いていくし、ティーバッティング用のボールはすぐダメになるし。それに、お茶もスポドリもサプリも軽食も、頑張って用意したって5分でなくなっちゃう」
「はは……」
背筋を嫌な予感が走った。5分でなくなる? お茶が? ……10kgを抱えての200メートルダッシュが、何回繰り返されるんだ……?
「ひたすら修理と掃除と準備の黒子に徹するだけで、地味な毎日なのよねぇ」
「はぁ。……そう言われたら、そうなのかもしれませんね」
「でしょ? だからこそ、マネージャーって可愛くなくちゃと思わない?」
「……え?!」
どうしよう、返事の仕方が分からない。多分、実際に天女様は学校イチの美少女か、悪くとも3本の指には入るレベルの美しさなんでしょうけれども。それはそれとして耳を疑いたくなるセリフだ。
おっかなびっくり聞き返したけど、
「だって、マンガとかのマネージャーって、だいたい学校イチの美少女でしょ? 私みたいに」
と朗らかな声が飛んできた。聞き間違いであれという淡い期待は、露と落ち、露と消えにしナンジャモンジャだった。
「本来なら、ちやほやされていい気になってそうな可愛い子が、甲斐甲斐しく身の回りのことをやってくれる。それって結構、モチベーションになるだろうな、って」
「あの、ちょっと、何言ってるのか」
濁して終わらせようとした努力は無駄だったらしい。えー、というシンプルなブーイングが飛んできて、口を噤む羽目になった。
「ほら、マネ部と一緒でさ、野球部も地味で退屈な練習ってあったりするでしょ? 筋トレとか。光太くん、やってたとき『オレ今、何やってんだろ……』って気分になったこととか、なぁい?」
「そりゃ、ありますけど」
「でしょでしょ? そんなときにさ、周りを見たら仲間もマネージャーもみぃんな、どよーーーんと沈んでた! ってなったら、悲しいでしょう?」
分かるような分からないような。でも、そう言われたらそうかもしれないとは、まぁ、思う。
「むしろ、華やかで可愛くてキラキラした人が自分たちより地味な作業を楽しそうに頑張ってる、ってなったらさ、やっぱ自分も頑張ろ、って思えるでしょう?」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ、人間なんて」
ふふっと落とすような笑い声を挟んで、羽衣さんが振り返った。それこそマンガみたいに非の打ち所のない美しさで、息を呑むことしかできない。桜まで舞ってるものだから、絵画かよという謎のツッコミを入れたくなる。
気付けばタイキョー前まで戻ってきていた。この後2度目の10kg持って200メートルダッシュが始まると思うと、抵抗も不安も無きにしも非ずだ。でもこのゆるふわ天女がやるなら、俺がやらないわけにはいかないだろう。仮にも元・体育会系、腐っても新和第一・トライアウト受験生が、たった1回で音を上げていては目も当てられない。
己を鼓舞させながら、靴を脱ぐ。先を行く羽衣さんに続いて、誰もいない部屋に失礼しますと頭を下げた。
「光太くんはまだ知らないと思うけど」
両手で、お上品に棚のジャグを下ろす。1つ目を俺に渡し、2つ目を持つとくるり半回転。10分前のように天女が洗い物を始めた。袖はさっきのまま、しっかり捲られていた。
「マネ部のこと、ホステス部とかキャバ嬢養成部、なんて呼んでる子もいるのよね」
豊浦部長もいるのにキャバ嬢とはどういう了見なのか。呼んでいる人に直接聞いてみたい。
ぼんやりと“そういう”姿の先輩たちを妄想してみると、意外と羽衣さんはその仕事が似合いそうだと思った。へにゃりと笑っておねだりすれば、高いお酒や貢ぎ物が次々舞い込んでくるに違いない。
副部長は頭が切れそうだし、ウィットに富んだトークで人気になるかも。……って、やめよう。失礼だ。
「愛美ちゃんとかはこの名称、嫌がってるけど、私は名誉なことだと思うんだ。可愛さも求められてる部、って感じで」
嬉しいよねぇと同意を求められたけれども、何と答えれば正解なのかちっとも分からない。
「悪いこと言う人は、所詮、やっかんでるだけだから。カワイソウな人だなって思って、スルーしてればいいからさ」
「はぁ」
「外野の声は気にしないで、可愛い私たちと一緒に頑張ってるみんなをサポートしていこうね!」
……そう言って振り返った笑顔は、破壊力満点だった。でも、俺が返事をできなかったのはそういう理由からじゃない。
頑張っているみんなにも、可愛い私たちにも、「俺」は含んでもらえていない。言い表しようのない疎外感を感じたからだ。けれどそれは正しかった。「俺」は、身の振り方をまだ、決めかねていた。
この日俺は、合計6本にまで及んだお茶ダッシュをどうにかこうにか、こなすことができた。それは、天女様が上手いこと俺の疲労を騙してくれたおかげだと気付いたのは、家に帰った後だった。“立派なマネージャー”になるための道のりは、まだまだ遠いらしい。マネ部でいるには、それなりの体力と鋼の精神力が必要なのだと思い知った1日だった。
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