ぷかり

香久山 ゆみ

ぷかり

 ガマンして、ガマンして。

 言いたいことばを飲み込んで、欲しいものを我慢して、理不尽な仕打ちにも黙って耐えて。ガマンして、ガマンして。私の中にもやもやどろどろしたものが積もって、それが胸の中でどんどん膨れていって。

 気づくと私はぶくぶくと膨らんで、まるでパンパンの風船みたいになって。そう思った時にはすでに私の体はぷかぷかと浮かび始めていた。

 ぷかぷかぷかぷかと、まるまる膨らんだ私の体は天へ天へと上昇していく。私を地上の世界に繋ぎとめるものなんて何もないから。まるで手を放した風船みたいに、もとい、糸の切れた凧みたいに、ふらふらふらとどこまでも上昇していく。

 ああ、私はどこまで上れるのだろうか。わくわくする。天空に広がるのは、自由の世界。これで、煩わしい地上のあれやこれやから逃れることができるのだ。そんな風に考えた途端、地上でのあれやこれやの嫌なことが思い出されて。溜め息ついた。

 すると、ふうと吐いた溜め息とともに、風船の体がしぼんでいく。

 あれあれ、どうしよう。焦るほどにどんどん空気が抜けていく。せっかくもう少しで宇宙へ飛び出しそうだと思っていた体が、ぐんぐん落ちていく。ぐんぐんぐんぐん、墜落していく。

 そして、足元に地上が見えるところまで落下して、やっとこさ私の体は止まった。

 結局こんなところまで戻ってきてしまった。しかも、こんな宙ぶらりんの格好で。

 ぷかぷかぷかと中途半端な地上三メートルほどの高さに浮かぶ体は、不安定で。私はもはや浮かぶこともできず、地上に降りることもできず。自分の力ではどこへも行けず、どうすることもできない。ただ不安定にゆらゆらと浮かび、泣きそうになる。

 誰か、助けて。


   *


 もういやだ。

 こんなところもううんざりだ。この世の中はみにくい。ここは僕の居場所ではない。この汚れた世界のものなどもう口にしたくない。

 そう思ってだったか、それとも特に理由などなかったのか、もう忘れてしまったけれど。ある日僕はもう何もいらないやと、食べ物を口にすることをやめた。食べることすらも面倒臭いと感じた。

 食べないからといって特に困ることもなかった。空腹も感じなかった。だから僕はこれでいいと思った。

 時間とともに、意識はふわふわ遠くへ飛び、体が軽くなるような気がした。ふと、幼い頃に宇宙飛行士に憧れていたことを思い出した。そうだ、このままどんどん体が軽くなれば、空を飛ぶことさえもできるかもしれない。いまやそれが僕の唯一の希望だった。

 なのに。どんどん痩せて体は軽くなっていくのに、体重が落ちるほどに僕の体は重く地上に繋ぎとめられていく。万有引力にそんな法則あったっけ?

 ああ、僕は自分の体すら支えることができず、地面に倒れそうになる。

 崩れ落ちそうな体を支えようと、とっさに目の前に浮かぶひもを握った。まるで蜘蛛の糸のような、天から地上へ伸びたそのひもを頼りにすることで、なんとか僕は体勢を保った。安堵の息を吐き、見上げると、そのひもの先には天女が浮かんでいる。少しふくよかだけれど。

 急にひもを掴まれ驚いて視線を落とした彼女と目が合った。僕らはぽかんと見つめ合った。こんなにも他者と接近したのはずいぶん久しぶりだ、なぜ彼女は僕から離れることなくここにいるのだろう。と思って、ふと我に返った。僕が彼女のひもを握っているからだ!

「ああ、ごめん。すぐに放します」

 慌てて手を放そうとすると、彼女も慌てて答えた。

「待って。お願い。放さないでください」

 思いがけない返事。わけを聞き、互いの事情を話してみると、なんだか彼女は僕と似た境遇で。つい長話になってしまった。誰かに自分のことをこんなにも話したことはない。

 そして彼女が言うには、天から見下ろすと、僕と同じように地上に這いつくばる人がたくさん見えたという。それではもしやと見上げると、空には彼女のように不安定に浮かぶ人がたくさんいる。助けを求める人が、たくさん。

 救う手立ては存外単純かもしれない。僕らみたいに出会えればいい。だけど難しい。自分ひとりの力ではどうにもならない。

 だから僕らは旅に出ることにした。手と手を取り合って。

 と、その前に。僕は彼女に言っておくことがあった。彼女も同じことを考えていたようで、僕らは同時に口を開いた。


   *


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