第3話

 大学の図書室で手に取った小説は、彼女が推している男性アイドルが書いたデビュー作だ。特徴的なタイトルの由来は、『曖昧な物たちの対比』なのだという。少しでも話題を共有したいと思い、選んだ一冊だ。


 2回生にもなれば、彼女と会う時間はぐっと減った。お互いに履修する授業が異なり、大学で顔を合わせることはとても少なくなったのだ。それでも顔を合わせれば変わらない笑顔で駆け寄ってくれることに安堵はしていたが、心の奥底に眠る不安も徐々に鎌首をもたげていた。


 既読が付く頻度が、目に見えて減ったのだ。


 僕は頻繁に連絡を取る方ではなく、何かと理由を付けて自分からメッセージを送ることが殆どだ。もしかしたら、出す話題が飽きられているのかも。僕はそう思い、彼女の見ている世界に少しでも近づく事を選ぶ。そうすれば、もう少し距離を近づけられる気がした。

 静かな図書室で読むその小説は重厚で、僕は何度も登場人物の感情の動きに思いを馳せる。彼らの揺れる感情はどこか曖昧で、言葉を尽くさなかったことで起きたすれ違いがストーリーの大きな軸になっていた。話題のきっかけにするつもりが、思わず熟読してしまう。


『リオちゃんの推しの小説読んだよ! めちゃくちゃ面白かった!笑』


『私は映画で見たよ笑』


 彼女からの返信が来たのは、3日後だった。


 それからLINEで会話をすることは減ったが、活発に動く彼女のInstagramは注目していた。すぐに反応すると引かれてしまうかもしれないから、♡をつけるのは投稿を見た10分後だ。

 高校時代の友人と撮ったであろう成人式の振袖写真やオシャレなカフェのスイーツ、記念日に投稿されたメンバーカラーの花束。並べられた無数の写真を見ていくうち、僕は何気なく新たな投稿に目を留める。当時の新機能である『ストーリー』だ。彼女が24時間で消える投稿をするのは珍しく、僕の好奇心は妙に騒いだ。


 瞬間、僕はその行動を後悔することになる。画面をタップして目に飛び込んできたのは、彼女と何者かのツーショットだ。

 僕は、その顔を知っている。あの日彼女と一緒に歩いていた、同じクラスの男子だ。彼とも学籍番号が近く、僕が彼女と同じクラスになる時は基本的に彼も一緒だった。

 考えないようにしていた不安が胸の奥から湧き出す。シンデレラ城の前で立つ彼女の写真の画角は? カフェでスイーツが並ぶテーブルの向こう側に座っているのは? 同性の友人と撮った写真はたくさんあるのに、彼の写真だけは今までなかった理由は?

 彼女に恋人がいるかを、僕は知らない。無意識に聞くのを避けていた。曖昧にしていれば幸せだった事実を確定させて、関係性が変わってしまうのが怖かったのだ。

 僕は彼女に送ろうとしていたメッセージの下書きを削除し、スマホの電源を落とす。曖昧な感情に蓋をし、言葉を尽くすのを止めてしまった。その時の自分にできた防衛反応はそれくらいで、僕は胸に燃えていた炎を必死に消そうとしている。


 最初から、何もなかったのだ。


 あの男子が僕よりも背が高いことを記憶の端で思い出しながら、僕はその男と並んで歩く彼女の姿を想像する。スニーカーの中で背伸びする本当の理由は、知らないままにした。


    *    *    *


 あれから数年が経った。流行り病でキャンパスは封鎖され、僕はマスクを着けた彼女の姿さえ見ることなく卒業を迎えてしまった。僕の一時しのぎの背伸びであるインスタの投稿は止まり、彼女の投稿もいつの間にか止まっていた。

 あれから彼女とやり取りはしていない。今さら連絡するのも野暮かもしれないし、彼女にとって僕は数あるモブの中の一人に過ぎないだろう。


 懐かしさに襲われて何気なく見た彼女のアカウントで、あの頃に見落としていた投稿がひとつだけある。

 それは深い青空とエメラルドグリーンに染まる海の写真で、キャプションにはこんな言葉が添えられていた。


『○○くんと海行きがち♡』


 あれから彼女が誰と何をしているか、僕に知る勇気はない。

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色は匂えど @fox_0829

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