第1話 ①

1



 巨大な柱がそびえ立っている。

 澄んだ空気が流れる青空へと、吸い込まれるようにどこまでも高く。

 それは見上げる限り続き、やがて空の彼方へその姿を隠す。

 ハルが空を見上げていると、風がふわりとハルの前髪を巻き上げた。子供の頃とは違い、右側だけ伸ばした前髪。その奥には、視線が定まらず常に外側を向いた目があった。

 巨大アラガミとの戦いで失った右目は、再生しても視力は戻ってくれなかった。

 ーーメカクレ。

 目に不自由がある人間は、そうやって髪の毛で目を隠す。これ以上魂が失われないために、少しでも覆い隠すのだ。

 ハルが立つ場所は断崖絶壁。あと数歩で奈落の底へと落ちてしまう。そんな危険な場所で、彼は1人で神様が住むという、巨大な柱を見上げていた。

 これから自分がとる行動に、許しを求めているわけではない。ハルは神様がそんなに優しくないことを知っている。

 だから祈りはしない。

 むしろ、祟るなら自分1人にしろ。他の誰にも指一本触れるなと、そう宣言するようにハルは柱へ向かって右手を伸ばした。

 目を閉じて、ゆっくりと手を握る。

 この先はアラガミの森。

 立ち入ることが許されない、禁忌の場所。

 この場所に踏み込むのは、幼かったあの時以来だ。

 自分の命の役割は戦うことだと思っていた、あの時。今はもうーー

 駄目だ。余計なことを考えるな。

 1人でいると、どうしても意味のない思考にとらわれる。

 これからハルがする行動を、きっと誰も許してくれない。それでも、どうしようもないのだ。神への恐れよりも、大切な人の死の方が怖い。

 この感情がどれだけ頭がイカれているのか、ハルだってわかっている。

 それでも、ハルは決意をして目を開いた。

 すると、今さっきまで広がっていた光景は全て消え去り、目の前は真っ暗で何も見えなくなっていた。神の柱も、アラガミの森も何も見えない。

 それもそのはず、ハル大きな何かで顔面を覆われていた。それが何なのか。ハルにはすぐにわかったけれども、考えたくなかった。

「だ~れだ?」

 おどけるような弾む声の中に、確かに隠しきれない激しい怒りを感じた。

 この感触はよく知っている。金属のような硬さを持ちながら、確かな体温を感じる。アラガミと同じ皮膚を持つ神の手。つまりはハルと同じ左利きで、こんなところまで追いかけてくる人間。

 声だけでも十分にわかっていたのだが……そんなのは1人しかいない。

「……アオ、さんです」

「せーかいっ!」

 かいっ、と同時にこめかみを締め上げられ、ハルはあまりの痛みに言葉にならない悲鳴をあげるた。

「嬉しいなハル。こんなにすぐに分かってもらえて。でも、そんなに私のことがわかってるならーー私に言わなきゃいけないこと、わかるよね?」

 アオに顔面から持ち上げられ、ハルの足から地面の感触が消えた。

 場所が場所だけに恐怖感がハンパない。数歩先は奈落の底だ。

「大丈夫だよな?降ろしてもらった先に、地面が足元にないなんてことないよな?」

「それはハルしだいかな?」

 嘘だろ?と思いたいが、アオのおしおきは本気で怖い。

 子供の頃の一件を境に、アオの戦闘能力は完全にぶっ壊れてしまっていた。

 もともと明るい性格のアオは、誰にでも分け隔てなく接する子供だった。他の子より少しパーソナルスペースが近かったたが、それもかわいさの一つだった。

 しかしあの戦いの後、大量のアラガミの力を取り込んだアオは、それら全てが裏目になってしまった。

 まず、相手の懐へ飛び込む速度が尋常ではない。さらにスキンシップが的確に急所を突いてくる。

 アオ自身には全く敵意はないが、常に刃物を突きつけられているような緊張感がある。

 言うなれば、人懐っこいバーサーカーだ。

 キャッキャと笑いながら、喉元に手刀があるのだ。

 逆らうなんてとんでもない。

「ごめんなさい」

「何に対して?」

 追撃。

 変わらず楽しそうな声をしている。これは本当に答えを間違えられない。

「1人で来たこと」

「ハルとって私って何なのかな?」

 アオが欲しい答え。ここまでヒントをもらえれば、さすがにハルでも勘づいた。でも、その言葉はハルにとって、とても心が苦しくなる。

 当然、ハルはアオのこと大事に、大切に、誰よりも愛しく思っている。

 それでも、この言葉はハルを締め付ける。

 自分なんかで本当に良いのだろうか。何度もそう考えている。

 こんな頭がおかしくなった人間を、なんでアオは見捨てないでくれるのだろうと。

 だから、これはハルからはほとんど口にしない言葉だ。

 逆に、アオはこの言葉を多用してくれる。

 それが申し訳なくもあり、恥ずかしくもある。

 だからたまにこうやって、無理矢理言葉を引き出してくれるのは、本当にありがたい。

「夫婦なのに、1人で来てごめんなさい」

 ハルの頭からアオの手が離れた。無事地面に着地する。

 よかった……。

「そうよ!夫婦!私たちは夫婦でしょう!」

 目の前を覆うアオの手がなくなり、ハルに明るい世界が戻ってきた。その世界で最初に見るものは、とても嬉しそうに笑うアオの笑顔だった。

 幼かったあの日、命を取り留める代わりにアオの体は大きくアラガミの影響を受けた。特に顕著なのが髪の毛だ。ちょうど右半分が碧色へ変わり、その部分は神の手と同じようにアラガミの力を持っている。

 元々の才能もあったが、アラガミの力が強化されたことによって、アオは間違いなく集落で1番強い戦士となった。

 そんなアオとは真逆に、ハルは右目と共に魂が欠けてしまった。そんなハルに対して、いつも笑顔でこう言ってくれる。

 夫婦と。

 その言葉に、アオは強いこだわりを持ってくれている。ハルはその役目を何も果たせていないのに。

 後ろめたさと申し訳なさ。それ以上に圧倒的な感謝を思う。

「アオ、ありがとう」

 もしかしたら、ハルはこうやって何も言わなくてもアオが追いかけてくれることを望んでいたのかもしれない。

 自覚すると本当に照れくさくて、恥ずかしい。でも、それ以上に嬉しい。

「わかれば良し!さっさと行くわよ!」

 本人は気付かれていないつもりかもしれないが、顔を真っ赤にして照れるアオ。それを微笑ましく思う。

 ハルが少しだけ笑みを浮かべていると、それが少し気に障ったのか、アオが少しだけ頬を膨らませた。

「何よ~?」

「べつに~」

 少しおどけて返すハルに、アオは照れ隠しに軽くローキックを放った。

 それが、普通にハルの太ももに対して90度の角度入る。

「え?」

 ハルは間の抜けた息を漏らして、膝を折った。

「え?」

 アオは、なぜか自分の前で両手を地面についてうずくまっているハルに驚いた。

「あ、ごめん」

 アオの謝罪が軽い。

 というか、ナチュラルに脛で蹴るな。

 そういうとこだぞ。



 ◇



 人々が暮らす集落の外れ。アラガミの森へ足を踏み入れる少し手前。この場所には、とても人の手では創り出せないような美しい石碑がある。

 表面は一切の歪みもザラつきもなく、まるで女性の髪のような滑らかさだ。全ての無駄を削ぎ落としたように、美しい直線のみで作られている。

 一体いつからこの場所にあるの分からないが、たった一つの傷もなく、まるでそれには時間の経過さえ無いかのようだった。

 周りの木々はその場所を避けるように生えており、森の中でもぽっかりと空が顔を覗かせていた。太陽の光が木々によって遮られることがないので、そこだけが明るく広がって見える。

 大体、大人一人分くらいの長方形立方体。それが地面に横たわり、真円を描くように7つ。均等に並べられていた。

 人間の手では絶対に作れない技術力。と言って、自然の力で作るにはあまりに遊びがない。

 人のものでも神のものでもない、とてもあいまいな空間がそこにあった。それが、人間の集落とアラガミの森の境目にあるのは、きっと偶然ではないのだろう。

 季節は秋。昼間の太陽は暖かく感じても、木々を縫う風はすでに肌寒い。冬がそこまで来ていることを告げていた。

 ここは集落の代表者が集まる場所。何か重要な物事を決める時には、必ずこの場所が使われる。

 今日は一年で1番重要な話し合が行われていた。

「祭りだな!ってことは、酒が飲めるんだろ!」

 キラキラと光が降り注ぐなか、立派な髭をたくわえた男が少年のよう目を輝かせながら言った。

「あんた別に祭りじゃなくても、ちょこちょこ盗み飲みしてるじゃないか」

「人聞の悪いことを言うなよ。あれは試飲してるだけだ。酒を飲むことが俺の役割なんだよ」

 周りから飛ぶヤジ。それもお約束のようなもので、誰も彼を本気でせめている訳ではない。

 酒の原料になる果実や木の実は、普段の食糧になるものから除いてたらほんの少ししかない。それをこうやって祭ごとのために、彼の家が代々酒蔵を管理しているのだ。少しくらいの冗談を言ったとしても、それを本気にする人など誰もいない。

 7つの石碑。それに腰をかける人物が7人。彼ら彼女らがこの集落の代表者である。代表者たち幅広く、50代から20代までの人間が集まっていた。

 話し合いは、降り注ぐ光と同じように明るく暖かい雰囲気で続いた。なにせ、集落の人々が1番楽しみにしている祭りの話し合いなのだ。

「それで、そのお酒の結果がどうなったのか。僕たちはとても気になっているんですけれど?」

 家長たちの中で、1番若い男がそう尋ねた。

「さすがだなトウ。そう言ってくれるのを待ってたんだよ」

「待ってたも何も、これ見よがしにそんな水瓶持ってきてたら……ねえ?」

 そんなやりとりに、その場にいた全員の顔が一気に緩んだ。ボケに対するツッコミ待ちというか、全員がタイミングを見計らっていた状態だったのだ。

 その中で空気を読んで、矢面に立ったのがトウと呼ばれた男だった。

 彼は一言で言うと、無駄の無い男だ。

 まず容姿からとっても、美しいストレートの髪の毛と肌荒れの無い顔。普段は装飾もあまり好まず、耳飾りや腕輪などもつけない。だからと言って、人間関係まで淡白な訳ではない。むしろ、彼を中心として集落はまとまりを見せている。

「今年のはいい出来でな。早くシロさんに飲んでもらいたかったんだよ」

 トウのツッコミを1番待っていたのは彼だっただろう。少し照れくさそうにしながら、男は自分の背中に隠してあった水瓶を披露した。

 彼が水瓶の封を解くと、途端にあたりに甘い匂いが広がった。これはもう間違いなく、飲んだ人間を幸せな場所へ連れていくれるものだ。

 それを1番にと捧げられた女性。シロはこの中で1番長く生きている人で、それは1番命の役割を全うしている人だとも言える。この集落に住む人の中で、彼女を尊敬していない人などいない。

「あら、嬉しい。でもいけない子ね。そんなズルしちゃって」

 彼女にとっては、集落の全員が自分の子供みたいなものだ。子供の親孝行が嬉しく無いわけがない。

 シロはその名前の通り、髪の毛が真っ白になるほど長生きをした。それでもまだ、杖をつかずに両足で歩き、その目の光は曇っていない。

 彼女は水瓶から注がれた酒をお椀に受けて、まずはその匂いを嗅いだ。

 甘い香りが鼻腔を通って身体中に行き渡る。これだけで幸せになれそうだが、まだまだ気が早い。本当の幸せはシロの手の中にあるのだ。

 そっとお椀に口をつけ、甘露をゆっくりと味わいながら飲み干していく。

 一度もお椀を口から離すこともなく。一気にだ。

 注がれた酒を全て飲み干したシロは、少しだけ少女のように頬を赤らめた。

「ありがとう。とっても美味しかったわ」

「シロさんは今年の主役の1人だからな。これくらいじゃ、とてもじゃないが恩を返しきれねえよ」

 彼の言葉に、その場所にいた全員が大きく頷いた。これまでの生活の中で、シロのお世話にならなかった者など1人もいないのだ。

 まず、最初に祭りの主役を喜ばすことができた。では、ここからは全員でその喜びを分かち合おう。

 今日集まった話し合いの目的は、次の満月の晩に行われる祭りについてだ。しかし、正直それは名目に過ぎず、こうやって気が置けない仲間と集まりたいだけと言うのが正直なところだった。

 それでも最低限決めなければいけないことはある。久しぶりのお酒に気分を良くしながらも、集落の代表たちとしてやることはやらなければ。

「では、今年の主役は7人ですね」

 トウが最終確認をする。

 今年はそれぞれの家から1人ずつ、名乗りを挙げた。

「みんな長生きしたものね」

「それだけ皆さん、お役目を果たしてくださったと言うことです。ありがとうございます」

「そんなかしこまった言葉を使わなくていいのよ。感謝するのは私たちの方」

 トウとシロの言葉に、みんな胸が熱くなるものを感じていた。

 祭りの日まで命の役割を全うできる人は少ない。もちろん、人の命にはそれぞれ役割だあるのだから、祭りの主役になれないことが悪いことではない。

 理不尽に円の理から外れてしまわない限りには。

「最近はアラガミの出現が多いですから。ハルとアオのおかげで大きな被害は出てないですけど、左利きも腕無しも随分と減ってしまいました」

「あの子たちはね……外れやすくて、還りやすいから……」

 そう言って、シロは少しだけ目を細めた。

 最近はアラガミとの遭遇率が随分と高い。これまで簡単に足を踏み入れられていた場所までも、左利きと一緒でなければ安全ではなくなっていた。

「まあもし、アラガミが人間を滅ぼすっていうなら、俺たちの命の役割はそこまでってことかもな!」

「だったら、それまでに酒は全部飲み干さないとな!」

 酒を飲みながら、みんなで『もしも』の話をする。

 仮定の話だとしても、ここにいる人たちは、自分たちがいなくなるかもしれない未来を当たり前に受け入れていた。

「それでも、ただ命を諦めることはしてはダメよ。私たちは最後まで命の役割を果たすの」

「もちろんですシロさん。俺たちだって、円の理から外れてアラガミになりたいわけじゃない」

 シロがわずかでも心残りがなくなるように、トウははっきりと言い切った。

「たとえ集落がなくなるとしても、私たちは命の役割を果たして死んでいきます」

 その気遣いは、シロに真っ直ぐ届いていた。

「あなたは本当に良い子ね」

「ーーっ!」

 少し頬が赤くなるトウを優しく見つめながら、シロは言葉を続けた。

「ごめんなさいね。偉そうなことを言っちゃったけど、私の役割はここまで。ここから先は娘のクロが続いてくれるわ」

 シロはそう言って、自分の後に立つ女性へ目を向けた。

 石碑に座る7人とは別に、今日は8人目の人間がそこにいた。

 クロ。シロの娘で、次の家長を引き継ぐ人だった。

 彼女は腰まである長い髪を、結うことなく自然と垂らしていた。女性たちは皆、邪魔にならないように髪の毛は結ってまとめている。そこに櫛を刺して着飾ることが、女性にとっての楽しみだった。

 髪を結わないのは、そうやって着飾る必要がない左利きの女性たちだけだ。彼女はそうではない。他者とは違う選択をしながらも、彼女は堂々と背筋を伸ばして立っている。その姿から、確かな覚悟が感じられた。

 シロからの紹介に答えて、クロは一歩だけ前に出てその場にいる人たちへ一礼した。

「皆さんご存知でしょうけど、シロの娘のクロです。これより母の役目を受け継がせてもらいます。どうぞ、よろしくお願いします」

 代表者の集まりとはいえ、見知った顔ばかりの中でクロの挨拶は少し硬っ苦しいものだった。しかし、その実直さがクロの美点だとみんな知っていた。

 皆、クロの生真面目な挨拶を拍手で迎えた。

「クロは今日も真面目だねえ」

「お前も酒を飲め!俺の酒が飲めねえのか!」

「お手本のようなからみ酒ウゼえ」

 大人たちが口々に好き勝手言う中、クロははっきりと答える。

「お酒は飲むと著しく思考力を落としますので、先に必要な報告をさせてもらってからで良いでしょうか」

 つまりは飲む気満々だった。

 クロがシロから引き継いだものは、植物を生産すること。つまり、人工的に食物を作り出すことだった。

「まず、芋は今まで通りの収穫量です。冬の間の備蓄としては十分な量が確保できました。しかし、豆の収穫量はやはり減ってきています。今回は特にひどく、前の時の半分以下の収穫量です。これでは、来年はまた違う場所を探す必要があります」

 最近では、森でアラガミと遭遇する確率を考えると、作物を自分たちで賄えるのはありがたい。しかし、頻繁に土地を開拓していかなけらばいけないのなら、どんどん森を伐採していくことになる。それはいずれアラガミの森へと及ぶだろう。このまま、不可侵の場所へ足を踏み入れるのは、どうしても躊躇われた。

「花や木にも命がある。そもそも、それを人間の理屈でどうにかしようとすることは、それらを円の理から外すことになっているんじゃないのか?」

 クロの報告に対して、トウは正面から意を唱えた。

 それはその場の空気を少し変えた。

 クロとトウ、2人の間だけに張り詰めた空気が流れる。

「確かに豆の収穫量は減っています。しかし、トウの言うことが正しいなら、芋の収穫量だって減らないとおかしい。それに、豆だって土地を変えれば数年間はちゃんと収穫ができます。私たちと花や木は、異なる円の理の中で生きているのかもしれない、私はそう考えています」

 クロの言葉に、その場にいた全員がざわついた。

「話の根拠が弱いんだよ。そう言った曖昧な考えが、魂を円の理から外していくんだ。お前はアラガミになりたいのか?」

 周りに流れる緊迫した空気を無視して、クロの言葉にトウは反論する。それに対して、クロはただ一言こう返した。

「は?」

 ーーと。

 それだけで、周囲はさらなるヤバい空気を感じとった。

「私は可能性の話をしているだけ。根拠が弱いって言ってるけど、あなたの話だって理屈が通ってないじゃない。なんでそんな風にしか言えないの?」

 そのセリフは売り言葉に買い言葉として十分だった。はるか昔より、質問に対して質問で返すのは開戦の合図に等しい。

「は?」

 トウのこの返答により、第何次になるかもわからない2人の戦端が開かれた。それは、またいつもの事だと呆れる人たちの前で。

「いやいや、俺は事実しか言ってないし。そもそも、俺が心配してるの分からないの?」

「分かるけど、もっと違う言い方があるでしょって言ってるの。あなたこそ何でわからないの?」

 ついさっきまで大事な話をしていたはずなのに、一瞬にして話の方向性がずれてしまった。それもいつものことと、みんな分かっているが面倒臭いものは面倒臭い。

 もはやただの売り言葉に買い言葉で、ギャーギャー言い合うだけの犬も食べない口喧嘩を始めてしまった2人に、その場にいるみんなが目を細めた。

「2人とも、そう言うのは夫婦だけの時にしなさい」

 シロがそう言うと、口喧嘩ともイチャイチャとも取れるようなやりとりをしていた2人は、バツが悪そうに口を閉じた。他人から冷静に指摘されたら、自分たちが恥ずかしいことをしていたと急に自覚してしまう。まして、それが母親からならば尚更だった。

「クロ。私たちが植物の栽培を始めてから、まだまだそんなに時間なんて経っていないわ。あなたはこれからもずっと、言葉の通じない植物たちと向き合っていかなけらばいけないの。だったら、あなたのことを思って言葉をかけてくれる人を、そんな風に言うものじゃないわ」

 人間、頭では良くないとわかっていても、つい感情的になってしまう。それは、ただ相手に甘えてしまっているだけだと言うこともままある。

 それは一度冷静になって考えてみると、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなるものだ。今のクロみたいに。

「トウ。クロはあなたも知ってる通りに、一つのことに一生懸命になっちゃって、周りが見えなくなることがよくあるの。それをあなたが隣で支えてくれていること、私はよく知っているわ。不出来な娘だけれども、これからもよろしくお願いします」

 自分では当たり前のことをしているだけで、誰かに感謝されようと思っているわけではない。しかし、それでも誰かに気がついてもらえて、評価されることは嬉しいものだ。

 そう言うことがあると、気持ちも新たに頑張ろうと思えるものだ。今のトウのように。

「それじゃあ2人で、来年の栽培場所をどうするか、ちゃんと話し合ってね」

 この話はこれでお終いとばかりに、シロは完全に話の流れを断ち切った。

 まさに問答無用の一刀両断。

「「ん?」」

 クロとトウは顔を合わせて、お互いに間の抜けた声を出した。

「よし、面倒臭い話も終わったことだし酒を飲むぞ!」

 2人を置いてけぼりにして、大人たちは酒を煽りはじめた。

 と言うか、面倒臭い話ってなんだ。大事な話だろうが、と言ってやりたいところだがもはやそんな雰囲気ではない。

 つまりこれにて話は終了。

 クロは何が何でも結果を出さないわけにはいかなくなり、トウはそのサポートをせざるを得なくなった。

 結果だけ見れば、全てシロの掌の上だったこの集まり。

 だが、その結果があまりにも気持ちよく、シロの言葉に答えたいと思わせてくれるのは、この老婆の人徳以外の何者でもないだろう。

 面倒くさいことはたくさんある。

 生きている限りいくらでもある。

 だったら、それを乗り越えることをずっと考え続けなければいけない。

 他人を否定するよりも、その相手とどうやって手を取り合えるかを考えるべきだ。

 それは、とても難しいことかもしれないけれど。

 とりあえず、笑顔が集まる場所なら何か方法がある。

「それじゃあ、みんな。乾杯しましょう」

 それをシロは体現してくれていた。

 難しい話はたくさんある。それでも、それは今すぐどうにかしなけらばいけない話じゃない。だったら、まずはお祭りを楽しもう。

 一年で12回目の満月。

 それがもう、明日に迫っている。

 全員で器を持つ。なみなみと酒を注いだ器を、全員が頭上へ掲げた。

「皆さん、いつかまたここで会いましょう」

 齢五十歳。

 シロはとても可愛らしく微笑んで、器のお酒を飲み干した。

 それに続いて、みんなが器を干していく。

 綺麗に。

 勢いよく。

 天気の良い日に、昼から飲む酒は美味い。

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Another day comes 天馬 聖 @tenma-hijiri

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