〈終末〉- ⅱ
◆
人類の行く末?
そんなもの、——とシュンは、いや、カーティスは思う——どうでもいい! 復讐の計画がグダグダに崩れた今となっては、彼の望みはユウ、つまり、エドワードとこれからも日々を過ごしていくことだけだ。でもまあ、それを望むなら結局滅亡はあり得ない。自分たち以外の人間が全員死んでも、胸は痛まないが。
——あ、でも。僕らふたりとも、料理はてんでダメなんだ。だから、料理できる人がいなきゃ……
そこまで考えて、カーティスは気づく。クラミと、サワギリと、ついでに草壁も入れて、五人でこれからゾンビ映画をサバイブすればいいじゃないか。
クラミはもちろんだけれども、サワギリだって頼りになる。なんたって死の国の王子様なんだから、死者にだって言うことを聞かせられそうな気がする。自分もまあ、ほうぼうに信者が生き残っているだろう。信者のみんなに支えてもらい、悠々自適の生活を送るのも、悪くないのではないか。
しかしそうなると、どうしたって気になる。エドワードが、何を望んでいるかが。
カーティスは、先ほどから、とどのつまりそれが怖いのだった。もし仮にエドワードが、世界の滅亡を望んだら。もし、……自分とこの先も、生きていくことを願わなかったら。
角部屋の窓際に腰掛け、カーティスは不安に眉を寄せる。
ダキからの説明を受けて、ともかくいったん全員で話し合ってみることに決まった。しかし誰ひとり自分の意見が持てる状況になかったので、それぞれが自分の考えをまとめる時間を作ることになった。今ごろ、一人になれる場所で、各々あれこれ思案しているはずだ。とはいえ、何か決まりごとを設けたというわけでもないので、中には他のメンバーと相談している者もいるかもしれない。
自分も、そうする? エドに相談する?
だがすぐ、カーティスはその考えを打ち消した——やめたほうがいい。なにせ自分はエドワードを全面的に信頼している。自分の思いがまだはっきりとしていないうちから話を聞いたら、彼の言うことが正しいのだとつい頼り切ってしまうだろう。
一方で、自分の望みが明確になれば、話は別だ。
押し通す自信がある——エドワードは何かを、強く望まないから。だから本当の問題は、エドワードが何を思っているかではなく、——自分は彼を捻じ曲げてでも一緒に生きていきたいのか。その答えを出すことなのだ。
エドワードが、もう嫌だと言っても? 彼がこの先を望まなくても?
本当に、自分の欲望に、彼を付き合わせて、後悔しない?
知らず、胸の上に手をやる。真実は、自分の中にしかない。
◆
屋上の柵に寄りかかり、サワギリは地上を覗いた。ビルに陽を遮られ陰に沈んだ車道には、人も、車も、見当たらない。たまに誰かが駆け抜けていくが、今のところ動く死体が押し寄せてくる気配はない。
それもいつまで保つのやら。死体は、増える一方だろう。
口に咥えた煙草を放し、サワギリは紫煙を吐いた。なんて面倒を押し付けやがる——胸中に浮かんだ言葉の宛先はダキだったが、そこでふと首を捻る。今の事態の責任はいろんなやつに散らばっていて、何割かはユウのものと言えるし、けっこうな分が〝観ているやつ〟だ。ダキが負っている分は、実は、重くないのかもしれない。
それでも。自分はとにかく今、猛烈に、苛ついている。
この憤りがどこから来るのか、サワギリはずっと探っている。こんなふうに頭が冷えるほどの怒りは久しぶりだ。大抵の苛立ちはほんのちょっとしたものだから、態度や言葉に出すだけで簡単に発散できる。クラミにはそのことを指して「短気」と言われたりしたが、ちょっとした不満ですぐ人に鉈を振るうやつには言われたくない。
面倒だ。自分の怒りの元を、丁寧に辿るのは。
放っておけるならそうしたい。だがこの手の怒りが放置したくらいで治まるものでないことは、経験から知っている。なんせ十年以上に亘り、サワギリの心中をまだ炙っている怒りがある。こちらの答えはまとまらなくて、だからずっと、消えないまま——
そう思ったとき。何かの閃きが、細い穴を通すように脳裏に現れ、すぐに消えた。
一瞬——何かがつながった気がする。正しい回路が開かれて、怒りの元から発される光がスッとこちらへ届いたような。つまり、今の思考のどこかに、現在の怒りへつながる糸口があるのだ、……多分。直前まで考えていたこと。今の気持ち。どう結びつく?
タバコを指で挟んだまま、サワギリは考え込む。火がジワジワと灰を生み、その分だけ、サワギリに近づく。
やがてその火がサワギリの肌にも感じられた頃、サワギリはタバコを払い捨てながら、不意に、気づいた。自分が今、何を思っているのかということ。自分が、何に憤っているかに。
ぼやけた照準がピタリと合う——俺がイラついてんのは、ユウだ。
◆
大変なことになっちゃったなあ。
クラミはビルを一度出て、辺りをぷらぷら歩いていた。たまに出会った死体の首をへし折ったり、逆に回したりしながら、出されたお題についてぼんやり考えてみる。……いまいちピンと来ない。とりあえずあまり死にたくないので、滅亡はやだなあ、というくらい。
と、言っても。状況だけ見たら、すでに滅亡してるようなもんだ。
滅亡というのが文明の壊滅をいう次元では、今の時点でそれはほとんど果たされつつある。だが恐らく、ダキの言い振りからすると「滅亡」とは「人類絶滅」だろう。人間という種の根絶をして、初めて「滅亡」というわけだ。
いったん、己を枠外とすると——クラミは人間のことが、別に好きでも嫌いでもない。全体で見るとなかなかに嫌な生き物だと思うし、個人で見ると素敵な人はたくさんいる。その程度だ。
滅べというほどの感慨も、残せというほどの思い入れもない。
だからまあ、自分としては……みんなの出方を窺って、そのときどきで感じたことを言えばいいかな、と思っている。どんなに深く考えたって、自分から人類に対してこれ以上の何かはないだろう。だったら、このうえ思いを馳せても無駄なことだ。
そこまで考えて、クラミはふと疑問を抱く。
ユウは、自らが持っている特異な感覚を語るとき、世界を滅亡させようとした理由のことも話していた。ただの軽率な思いつき、もしかするとできそうだったから、と。それはつまり強い動機があったわけではないということだ。「もしそうなったら面白い」と思うくらいの感情で以て、たまたま世界が滅ぶかもしれないような方法を見つけ、別に本気ではなかったけれどつい実際に試してしまった——けれどもその説明は、彼の人物像に合わない。
そもそも、「軽率な思いつき」というのからして妙じゃないか? 知り合ってまだ幾許もないが、彼が「軽率な思いつき」などで行動をすると思えない。発言や身振り手振りの細部にまで意図がある人が、たとえごくごく低確率の可能性に過ぎなかったとしても、世界滅亡のスイッチを「軽い気持ちで」押すものだろうか。それは、あんまり納得がいかない。
まして、事態が進行し、馬鹿げた空想が現実にならんとするのを見ていたなら、あれほど慎重に慎重を重ねて物事にあたるような人が、あえて事態を楽観視して放置を決め込んだりするか? このまま行くと世界が終わると分かっていてほっといた時点で、彼には「軽い気持ち」どころじゃない何かがあったのではないか? どうも彼の説明は、彼のイメージに馴染まない。
もしかして、ユウさんは、何か嘘をついている?
あるいは、……自分自身でも、自らの真意がわかっていない?
襲ってきた死体の首を片手間に捻じ切って、クラミは物思いに耽る。——人類の行方はともかく、このことだけは、訊いておきたい。
◆
なぜ、自分はこんなことをしでかしてしまったのか。
他の誰もいなくなった会議室で、ユウは考える。
特別な動機はないし、強い思いもない——ユウの自認はそうだ。だがこの点に関して言えば、ユウは自分のことといえども信用できないのを知っている。ユウは、できないことはしないし、望む通りにならないことはさっさと諦めるたちだ。それがどうやら自らの感情にも適用されていて、処理できないほど大きな思いは、考えないことにしているらしい。
いわば、読み込みに時間のかかるファイルをいったん止めるようなものだ。しかし当の自分には、チェックを外した自覚がない。読み込み待ちのままリストの底に沈み込んでいる感情たちは、水面下には現れないが確かに存在し続ける。そして時にはユウの行動に密かに干渉しているらしい。
思えばおかしな話だ、——自分は、「軽い思いつき」などで事を起こすタイプではない。もちろん「そうなったら面白い」と傍観する程度の悪意が自分にあったことはわかっている。だが平生の自分なら、少なくとも実現し始めた時点で軌道修正を図ったはずだ、——つまり俺は、自ら滅亡を選択し続けたはずなのだ。意思を持って。それは、……なぜ?
アズキヤから言われた一言が、ここへ来て胸に引っ掛かる。ラーメン屋で麺を啜り込み、彼は意外そうにぼやいていた。
『めっちゃキレてるじゃないですか。なんつーか、世界に対して?』
俺が、キレている? 世界に?——なんで?
理由なら——理由なら、確かにいくらでも思いつく。自分の人生を見世物にし続けた世界が好きなわけはない。ビリーが生き残れなかった、あるいは
でも、それだけじゃないだろう。それはあくまで滅亡を傍観する理由でしかない。
傍観では、なかったのだ。そうしたかった動機がある。自らそのスイッチを押し、押した指に力を込め続けるだけの、積極的な動機が。そうするだけの怒りが——それは、いったいなんだったのか。
滅ぼすにしろ、そうでないにしろ。少なくともそれくらい、わかっておかなくちゃいけない。
◆
皆が散り散りになってから、三十分ほどが経ったころ。ひとり、またひとり会議室へとその姿を見せはじめ、一時間もするころには、全員が戻っていた。いちばん最後に顔を見せたのはシュンで、他が揃っているのを見ると目を丸くして、
「あら、あたしがドベなのね。ごめんなさいね、お待たせして」
「別に」とサワギリが返す。「俺だってまだ結論とか出してるわけでもねーし」
おや——シュンはその声を聞き、そっと指先を口に当てる——めっちゃ機嫌悪くなってる。ひとりで考えているうちに、嫌なことにでも気づいたのかしら?
「じゃあ、なんだ。話し始めていい?」
「その前に」草壁が軽く手を挙げた。「いいか?」
「なに? オッサン」
「なんだいったい、棘があるな。アキヒトくんが見当たらないけど、どこ行ったんだ? ダキさんの話では、彼は会議の一員なんだろ」
「それなんじゃがの」
前触れなく、部屋に声が響いた。窓を見ても姿はなく、今回は声だけ現れたらしい。
「どうも話がおぼつかぬし、別に意見もないようだしの。ショウゴ一人がいればよいかと外しておいた」
「一緒くたにされんのも、普通に気分悪ぃんだけど」
やはり不機嫌全開のサワギリが答えると、心なしか愉快げな声が返る。
「そう怒るな。確かに、……お主は少しだけ、我やあやつとは異なるようじゃ。存在は近くとも、人として生きてきたからじゃろうの。あやつは落ち込んでおったが」
「なんで、見ず知らずの兄ちゃんがそれで落ち込んだりすんの?」
「ずっと『同一の存在』と思ってやってきたのじゃから。お前にとっては会ったこともない相手でも、あやつにしてみれば赤ん坊から見ていたのじゃぞ。かわいい弟じゃ。どうしたって半身じゃし、深い愛着があったのよ。でも全く別の存在に別れてしまったことがわかって、まあお兄ちゃんは寂しいわけじゃ。次に
それで気勢が削がれたか、サワギリは小さく頷いた。どことなく、気まずそうでもある。
「でも……それじゃ俺とサワギリと、ユウさんシュンさんで。四人になっちゃいません?」
クラミが問うと、あっさりダキは言う。
「ちょうどいいのがおるではないか。ケンジも入れてしまえ。異論なかろう?」
正直なところ「まあなんとなくそうなるかな」と皆思っていた。草壁本人は嫌そうだったが、予想もついていたらしい。
「じゃあ、いいよな? 始めるぜ」
多少険が取れたとはいえ、相変わらず舌打ちしかねぬ様相で、サワギリは言った。
「俺は別に世界の行方とかどーだっていんだけど。言っときてえことがあんだよ、——あんたに」
サワギリが睨んだ先は、ユウだった。ユウのほうは予期していなかったようで、目を丸くする。
「僕に?……まあ、そうだよね。いろいろと迷惑かけてるし」
「いや。そういうことじゃない」
きっぱりとした返答に、クラミとシュンは固唾を呑む。クラミはそもそも人が怒りを見せていること自体が苦手で、シュンはユウが誰かに文句をつけられていると居心地が悪い。だからついつい場をとりなしたくなるのだが、きっと邪魔してはいけない話であることは、ふたりにもわかる。
「迷惑とかは——いや、あるよ。クソめんどくせえことに巻き込みやがってと思ってるけど、それはどうでもいんだよ。あんたがさ、どういう動機でやったのか正直イマイチわかってねえけど、俺なりに共感っつーか、想像できるとこもあんの。俺は俺のために生きてんのに、外から勝手に人に、……なんか、楽しまれたり評価されたりすんの、マジでクソムカつくから」
サワギリを見ていた草壁が、その視線をうつむける。シュンは草壁の様子を見、自分の解釈がおそらくは間違っていないことを確かめた——サワギリが生まれた家にされ、のちに事件を知る人々からもされた扱いというものは、ユウが世界の外側からされてきたことと似ているかもしれない。少なくとも、同じ構図を持っているとはいえそうだ。
舞台装置にされる、ということ。自分たちが読むお話の、材料として使われること。
「だから世界とかどうなったって知らねえよって思うのも、わかる。こっちから世界に対する思い入れとか、別にねえし。うっすら反感があるだけで、それが目の前でどう転ぼうがなんかしてやる気になんかならねえからな。なんつーか、あんたの立場でそう思うのは当然だってのは、あんの。でもあんたにはたぶんまだ考えられてねえことがあるよ」
不思議なことに——話せば話すほど、サワギリの声や口調は落ち着いたものになっていく。それはもはや苛立ちをぶつけようという態度でなくて、どちらかといえば——何かを真剣に説明しようという姿勢だった。真剣に、……わかってもらおうと。
「……俺が言いたいのはさ」
サワギリが、強く首筋を掻く。もどかしげな手はすぐ止まり、彼は細くて長い息を吐く。
「あんたはさ、こんな世の中どうなってもいいと思ってたよな」
「……うん」
「自分たちの手で、ちょっとでもマシにしようとか、……生きてるうちに間に合わなくてもなんか頑張ろうって気になんか、なったことないよな」
「…………うん」
「俺もだよ。俺だってそう、……だけどさ、……あんたは、やっちゃったじゃん。ぜんぶめちゃくちゃになるかもしれないってわかってて、それをついやっちゃったじゃん」
「…………」
「それはさ、……いろんな人の努力を、あんたが……台無しにしたって、ことだ」
テーブルを見ていたユウの目が、ゆっくりと、サワギリへ向いた。サワギリは真っ直ぐに、ユウの両目を見据えている。
「自分でもなんかしようとは、……俺だって、思わねえよ。そんなことする義理ないし、むしろ世界は俺に謝れって話じゃん。それが道理じゃん?……でもさ、……そういうなかで、少しでもできることやろうってする人が、いるじゃん。赤の他人のことでさあ、別にお礼してくれるでもない世間に向けてさ、ちょっとでも、人生かけてやったぶんで爪先ほども成果なくても、でもやらなきゃって思ってさ、やってる人がいるんじゃん」
「…………」
「……あー、……俺、さっきから、でけえ言葉をつかってるけど」
不意に、サワギリはそう言って、また首筋を掻いた。その手は今度は軽く、すぐにひらりと宙を泳ぐ。
「結局俺は、あんたがさ。……カベっちの積み上げたもん無駄にしたのが、気に食わねえんだよ」
草壁が驚きとともにサワギリを見やる。視線は感じるだろうに、サワギリはチラリとも草壁に目を向けなかった。……たぶん、気恥ずかしいのだろう。
「俺は、そういう人ってのは、カベっちしかしんねえの。あんたはさ、もしかしたら、今まで会ったこともないのかもしんねえからさ、それは気の毒だけど。……でも俺は知ってるし、カベっちが俺に何してくれようとしてたのかもわかってる。どうしようもねえ世の中だけど、アホばっかでなんも進まねえし、いっそ終わっちまったほうが百倍話
テーブルの上に出ていた手が、強く、握りしめられる。
「……あんた、台無しにしたんだよ。……そんだけは、……わかっておいてくれ」
沈黙が、降りる。しばらく、誰も口をきけなかった。
シュンはサワギリがこんな話をしたことを意外に思うと同時——少しだけ、納得もしていた。サワギリが実のところブレーン役なのは知れていたし、語彙がいくぶんざっくりしているという面はあるものの、秩序立てて物事を説明する能力はある。それにサワギリは——目の前で人の首が飛ぼうが、命からがら生きていたものが首を捻られ殺されようが、「処理が面倒くさい」以上の感情が湧いてこない代わり——少数の他者にわりあい深く情を抱くほうらしい。
つまり、心境を気遣ったり、何かしらフォローを入れたりする時点で、サワギリにとって草壁が重要人物なのは間違いない。であれば、世界がどうなったところで別に「どうでもいい」はずの彼が、ユウの行動に苛立つ理由が、草壁に関することであるというのは自明なのだ。
……ところで、サワギリってクラミに対して、何か情はあるのだろうか——
シュンがそこまで考えたとき、草壁がポツリと言った。
「そうだなあ、……もうルポなんか、発表しても意味ないからなあ。訴える先が、……なくなっちまった」
ユウは、変わらず押し黙っている。その表情からユウが話を重く受け止めているのがわかる。やはり、シュンはついユウを弁護したくなってしまうが、サワギリの話に反駁するのは分が悪いという気持ちもあった。実際のところ草壁ひとりに対する思い入れだとしても、サワギリの怒りは真っ当だ。否定するべき箇所はない。
「……ごめん」
不意に、つぶやきが聞こえた。
「……ごめんなさい。僕は、……俺は。そこまで、……考えていなかった」
ユウだった。サワギリと、草壁を順に見やり、彼は謝罪の言葉を述べる。
少し幼いような言葉は、それだけ彼が言うべき言葉を選んだ証左だとシュンは思った——取り繕いのない言葉を、彼なりに選んだ結果だと。
「……俺は、……別に。わかってくれたなら、俺のほうはそれで気が済むから」
サワギリはそう答え、つと草壁に目を移す。草壁は困ったような表情で頭を掻いて、それから答えた。
「別になあ、謝ってもらうことじゃないよ。……俺は俺で、好きでやってたんだ。勝手に選んだ人生だしな」
今度は、穏やかな沈黙が降りる。ふと見ると、場が落ち着いたからか、クラミはあからさまにほっとしていた。——このひと、今までの話どこまでわかっていたんだろ?
かと思えば、いきなり身を乗り出す。
「あのさ。俺、……ユウさんに、訊いておきたいことがあって」
ユウの神妙な目が向くと、慌てて両手を振る。「あ、ちがくて。怒っているとかではなくて」
「……僕に、訊いておきたいこと?」
「そう。……あのさ。ユウさんは、こういうことをした理由に、たいしたものはないって言ったけど」
そうだよね?と確かめを挟み、また続ける。
「でも俺さ、ユウさんのこと、よく知ってるわけじゃないけど……ちょっとさ、違和感があるんだよ。それでこんなことするのかなって」
「……それは」するとユウは、シュンとしても、思いもかけないことを言った。「——俺も、そう思ってる」
「へ?」
思わず出た声はクラミと重なり、シュンはふたりで目を見合わせる。サワギリと草壁も、不可解そうな顔をしている。
「意味わかんないと思うけど……俺自身、妙だと思うんだ。大した動機もないままに、こんなことやるんだろうかと。……もしかすると、俺がまだ、気づいていない理由が何かあるのかもしれない、……俺は」
そこまで言って、ユウの口が、少し歪んだ。いくらかの間のあと、諦めたように彼は言う。
「自分が何を思ってるのか、……あんまり、把握できてない」
それ、どういう意味?
おそらく他の全員が同時に思い——そして、考えた。自分の思っていることが把握できていない、ということは?——想像を及ばせたとき、シュンの脳裏に、記憶が蘇る。
「確かに」
それぞれの視線が、シュンへと向いた。シュンはなぜか焦りのようなものを感じつつ、考えをまとめる。
「わたし、……ユウと長いこと、一緒に過ごしてきましたけど。ユウって自分の思いとか、どういう気持ちになったかってこと、ほとんど口にしたことがないの。もちろんもともと些細なことに動揺しないタイプではあるし、感情的なあたしと違って冷静だってのもあるでしょうけど、それにしたって妙だなあとは思ってたのよ。悲しくて当然のときでも、ほとんどそんな顔見せなくて……」
「それは……人に自分の気持ち、見せたくない人だからではなくて?」
クラミの問いかけに、シュンは頷く。
「あたくしも、そう思ってました。でも、今の話を聞くと、……もしかして初めから、気持ちに気づいていないかも、って。あえて人に自分の気持ちを見せないようにしてるんじゃなくて、どういう気持ちか自分でも、感じ取れなくなっているんじゃ……」
言いながら、ユウを窺う——間違ってはいなそうだ。
シュンの脳裏に浮かんだのは、ビルへ入ってきたときにも思い出していた出来事だ。まだ十代のはじめの、あれはクリスマスだっただろうか。ユウの、——エドワードの親友が、飢餓と寒さで亡くなった日。あのとき彼は激情を必死で収めるような顔をして、黙ってベンチに座っていた。隣へ座り、その手を握って、シュンは彼の心情を思い、深く胸を痛めた。どんなにか腹立たしく、そしてどんなに、悲しいだろうと。
だがエドワードは、そうした一切をほとんど表に出さなかった。どころかシュンが憤りから思わず口にした「仕返し」を、短い言葉で咎めたりもした。今思うと、エドワードは「お前じゃない」と言いたかったのだ——命にしろ、尊厳にしろ、
その人固有の持ち物を奪われたと言えるのは、その権利はあくまで本人にあって、それを横から掻っ攫うのは愛情でも、なんでもない——
ただ、……彼があのとき、やり場のない思いを抱えていたことは間違いないはずだ。それを表に出さなかったのは、つまり一切を自分のうちに押し込めていたということだろう。あの明晰さで、あの自制心で、自らの感情を丸め込むことを続けていたら、そのうちに感情のほうも出てこなくなってしまうのでは?——彼は自分のストレスを扱うのは上手いほうだが、そう簡単に処理のできない感情だって存在する。すぐには始末をつけることのできない、大きくて重い感情ほど、彼は浮かんでくる前に鎮める努力をしてきたのでは? だから、わからなくなってしまった?
私があの日を思い出したのは、今このときのためだったかしら?
「見られてる、って思ってたんだから」
クラミが思いついたように口を開いた。「そうなったらますます、自分がどう感じてるとか考えたくはなくなるよね。いつ覗き見されるのか、わからない状態なんだし」
「まあ……」サワギリも同調する。「自分の思ってることまでぜんぶダシにされんなら、思うのも嫌だな」
「理由は、……わからない。それもあるだろうし、もともとそんなに得意なほうでもないんだ。自分の感情は、……なんというかずっと俺の中で優先順位の低いものだった。感情に従わないといけない場面などなかったし、——少なくとも、ないんだと、俺は思い込んできたから」
「あなたが真っ先に考えるのは、損得とか、場の影響だものね」
「でも、たぶん……知らないうちに、俺なりに思うところがあって、こういうことをやらかしたんだろうとは……思うんだ。スイッチが押されたと気づいてそれを傍観してたんじゃなくて、俺自身でスイッチを押して、進路を変えずに見てきたんだから。もっと明確にそうしたかった理由が俺のどっかにあって、……でも、それがなんなのか、俺自身にもよくわからない」
「……あんたの感情は、わかんないけど」
サワギリが頬杖をつく。「俺だったら、そういうときは、だいたいめっちゃキレてるけどな」
「それ」
するとユウはサワギリに人差し指を向けた。「そうなんだ。実は、……アズキヤくんにも言われて」
「アズキヤに?」クラミが意外そうに声を上げる。「そこって、つながりあったんですね」
「ちょっとね。ヒノさんに預けられてて。助手みたいなことしてもらってた」
「アズキヤくん、あなたにどう言ったの?」
シュンが尋ねると、答えが返る。
「世界に、……『めっちゃキレてますよね』、って」
ユウ以外の四人はしばし、腕を組んで長考に入る。
世界に——キレている? まあそれは、彼の境遇を思えば自然な話ではあるだろう。しかしながら、それが冷静な彼をしてこんな行動に衝き動かすほど、大きなものだとは思えない。その「キレ」が、もっと深刻で、もっと激しいものになる、別の理由が何かある——
「なんかさあ」サワギリは首をひねりながら、「ユウさんがデケエ感情を抱いたりするとして……なんかそれってユウさんだけの問題じゃなさそうだよな。ユウさんって自分のことで、そんなキレたりしなさそう」
「俺もそう思う」クラミが頷く。「あるとしたら……シュンさんがらみじゃない?」
僕?——とシュンは思い、実際己に人差し指を向けた——僕のため?……ほんとうに?
ユウを見つめる。ユウはふと、何か遠くを見るように目を細め、シュンを見返した。ほんの二、三秒の間が、シュンにはスローモーションのように感じられた——ユウの、唇が動く。
「……そうだと思う。俺が、……なにか、強い思いを抱いたとしたら」
次の瞬間、シュンの目に、一気に光景が去来した。今まで意識の外にあり、けれど己の網膜が確かに捉えてはいたもの。海馬に記録され、そのままここまで掘り起こされずにやって来たもの。——そうだ。ぜったいに、そう!
確信を得ると同時に、シュンの顔にぱっと花が咲く。——ああ、やっぱり! ああ、——
——よかった‼︎
◆
昔、シュンが——カーティスが「仕返し」を口にしたとき、つい彼に鋭い言葉を浴びせてしまったことがある。これは今も変わらないが、自分は人が人を所有しようとすることに強い嫌悪があった。当時の自分には、大事な人が失われたからと復讐をするというのは、
もちろん、自分だってスラムの仲間に誰かが危害を加えたら、きっちりと報復をしていた。だがそれはスラムの仲間が一つの「群れ」であったからで、互いに同じ群れであることを了承し合ってもいたからだ。「群れ」の一部への攻撃は、自らに対するものと等しい。その前提があったから、当然の
だが——「群れ」などではなくて、一人の個人と個人だったなら?
どんなに大切な相手でも、たとえ半身に等しいほどでも。相手が一人の個人たることをあくまでも尊重するならば、
でも今、改めて考えてみて、ユウは自身の考えが少し極端だったと気づいた。
個人として生きる人間も、言った通り他者とつながっている。ある一人が理不尽にその命を奪われたとき——あるいは破壊的な打撃によって元の在り方を失ったとき、それぞれとの間にあったつながりも、同時に損なわれる。その人自身を所有する権利は他の誰にもなくても、その人とのつながりならば彼らひとりひとりのものだ。自らの生命と深く結びついているような、かけがえのないつながりが理不尽に壊されたならば——憎む権利も、恨む権利も、報復をする権利もある。……法的なことは、また別として。
思い出すのは、カーティスの姿だ。彼が、姉を失ったときの。
カーティスが姉の死を知ったとき——偶然だが、ユウも同じ場にいた。彼の家で遊んでいたら突然電話の音がして、しばらくすると彼の父が暗い表情で現れた。彼の父は、ユウもいるのがわかると一瞬ためらう顔をしたが、やがて思い直したように姿勢を正し、……カーティスに告げた。
彼は、最初の一言では、状況を理解できなかった。それについてはユウも同じだ。
何かの冗談かという気持ちと、告げられたことへの恐れで、彼の顔は半ば引き攣って、半分笑っているみたいだった。それが、二度、さらに重ねて、もう一度同じ言葉が返ると、彼の顔から笑みは消え驚愕の表情に固まる。
そして、——死因が告げられた瞬間、カーティスは椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、悲鳴を上げた。
「そんなはずない!」その叫びは、今も鼓膜に焼き付いている。
「そんなわけ、ない!——姉さまが、——姉さまが、自ら——飛び降りたなんて‼︎」
言葉がほとんど聞き取れないほど、声は悲痛に裂かれていた。錯乱しそうな彼を抱きしめ、胸をだんだんと打つ拳を、その細い体の異常なほどの震えを、受け止めていた——思えば、あのときすでに自分は、思い違いに気づいていたのだろう。
「奪われたのはお前じゃない」。あらゆる「復讐」に対し、ユウはずっとそう思ってきた。だがあのとき、彼の姿を前に、そんな言葉はとても言えないと強く思った——どうしたら口にできるって? 彼は、かけがえのない人を失い、自らの一部を捥ぎ取られ、耐え難い痛みと悲しみに晒されたのだ。彼が相手に、あるいは世界にその返答を求めたとして、誰が責められる?
服を通して、彼の涙が、肌を濡らしていくのがわかった。少し怖くなるほどに、涙はいつまでも止まらずに、ユウの胸をながれていく。
あのとき——彼を抱きしめながら、自分は何を思っていた?
彼の、——彼と、その姉の——愛情と温もりに満ちた光景を思い出し、自分は、何を考えていた?
貧民院で出会ったとき。家に連れられていったとき。
親友を亡くした朝に、ベンチで手を握られたとき。
凍え切った、華奢な手だった。それでも、なにより温かかった。
彼さえも——彼の光さえ、こんなふうに叩きのめすなら。
あの彼女に、自らの命を捨てさせる世界なら。
だったら、もう——どうせボロボロだ。このまま——いっそ、崩れちまえば?
◆
「滅亡は、いや‼︎」
突然、シュンが叫んだので、サワギリは咄嗟に首を振り向けて彼を見ることになった。視界は、胸の前で手を組み、青い瞳をキラキラさせてユウを見つめるシュンを捉える。——こいつ、なんでこの状況で満面の笑みなんだ? 何を考えているのかわからん。
「あたし、ずっと迷ってたの! あなたを、……わがままに巻き込んでいいか」
シュンの目には今この瞬間、ユウしか映っていないらしい。説明を求めてもろくな返答がありそうになく、サワギリは他のふたりに「黙ってよう」と目配せを投げる。
「だってあなたあたしに黙ってこんな計画を立てていて、すっごく不安になったの、もしか、あなたはあたしのことなんてさして——悲しいけど、あなたがあたしの唯一の大親友っていうのは、あたしのおめでたい思い込みで、あなたは他に目的もないからただ付き合ってくれただけで、あたしの勝手であなたをブンブン振り回すのはすごく酷いことで、もしかしてこの先も、私と一緒にいたいだなんて望んでくれないかもって。でも!」
シュンはテーブルを回り込み、クラミを押し退けてユウに迫る。一方のユウは珍しく困惑を丸ごとさらけ出し、興奮し切ったシュンがその手を取るままに、まばたきをしている。
「あたしのためよね! あたしが、……僕が。すごく、すっごく、傷ついたから」
ユウが、ハッとした顔になる。ますます水を得た魚の様子でシュンが距離を詰めていく。
「僕が姉さまを亡くしたとき——その知らせを受け取ったとき。僕はあのとき君の様子を確かめる余裕なかったんだ。だけど、目には映っていた」
「…………」
「君は、——僕と同じくらい、——傷ついていたよね。僕の、痛みに」
蚊帳の外の三人にも、なんとなく事態が見えてきた。つまり、……ユウが世界を一度ぶっ壊そうとした〝動機〟は、シュンをそんな目に遭わせた世界に対する「怒り」だった、ってこと?
——ええ? 正直、なんだそれ——
サワギリはそこでドン引きしたが、同じ答えに辿り着いたらしいクラミはなぜか感動している。まあなんかコイツ結構感動しいなところあるからな——そう思って草壁を見ると彼もそこそこジンとしていて、サワギリは呆れた心地になる。
なんなんだ、その、自分たちの感情がすべてみたいな感じは。そんなもんで世界終わられたら、こっちはたまったもんじゃねえ。
とはいえ——と、同時に思う。結局は世の出来事というのは誰かの都合で起こっているので、経営者が利益を追求した結果リコールものの欠陥が放置されて人が死にまくったり、このまま行ったら地球がヤバいのは明白なのに誰も消費をやめず、自分と違うやつがなんとなく受け入れられないというだけのことが差別になって人を殺し、信じる神が違うからって平気で銃をぶっ放す、だいたい自分が受けた仕打ちも家のやつらの妄想のせいだし、元を正せば何もかもどうせしょうもない理由なんだからまだしもマシなケースかもしれない。
「君はあんまり、自分のことでひどく怒ったりしないから——君のされたことだって、めちゃくちゃにキレてもいいことだけど——ね、僕のためなんだよね? 僕のためにエディはきっとすごく怒りを覚えたんだよね? 世界を、ぐちゃぐちゃにしようとするくらい——」
すっかりハイになっている様子のシュンと比べて、ユウはまた、気づきよりは戸惑いと疑問が強い顔になっていた。案外、腑に落ちていないのだろうか? しかし今さら何を言ったってシュンの耳には届くまい。
「僕は」これ以上晴れやかな顔はないだろうという笑みだった。「僕はね。それが——すごく、うれしい!」
「それなら、僕は、堂々と言えるよ。滅亡はいや! 僕はこれからも、エディとずっと一緒にいたい。世界がぐちゃぐちゃでほぼ終わってても僕にしてみれば関係ないもん。エディさえいたらいいんだから。他のことはもうなんでもいい」
「いや……」さすがに言わずにおれなかったのか、ユウが口を挟む。「そうはいかないでしょ……僕にはさ、一応、責任があるし——」
「責任? そんなもの、捨てちゃお! だって、どうやったってもう責任なんか取れないじゃない。だいたいエディにそこまでの責任ってある? 多少予想がついてたったって自分で全部やったんじゃないでしょ? 見てるやつがそういう話に持っていったのが悪いんだよ。そうだよ! 見てるやつが悪いじゃん! 止める方法なんてのはそれこそあっちにあるんだから!」
それはまあ、一理ある。とはいえ首を傾げていると、シュンは立て続けに、
「あ、じゃあ、世界を建て直すのを次の目標にしちゃおうよ! わかるよ、エディはサワギリさんに言われたこと気にしてるんだよね。アレは確かに僕としてもちょっと考えるとこではあった。草壁さんにも悪いことしたし、その償いはがんばろうよ」
「……どうやって? 文明社会が死んで、動く死体が蠢いているのに?」
「うーん、……やり方は、わかんない! でも信じて。僕ならできる。だって、いくらでも嘘がつける」
怪訝な顔をするユウに、シュンは自信満々に告げる。
「僕の嘘を、信じてよ。……信じてもらえさえすれば、僕は、
理屈も何もない——支離滅裂だ。だがこの場にいる誰も彼の熱量に勝てはしない。当然、滅亡に関する意見も、なし崩し的に引っ張られる、——正味、どっちでもいいんだから。
「俺も、別に死にたくないし……滅亡はなしでいいかな。いったん」
「俺も自殺する趣味はねーわ。生きてる間は生きておくし」
「……まあ、普通に怖いしなあ。俺はまだまだ、死ぬつもりないよ……」
三人、意見が揃ったところで、不満げな声が降ってくる。
「では、お主ら。滅亡させないのじゃな?」
「あ、ダキ様」クラミが眉を八の字にする。「すみません。ご期待に添えず……」
「……うむ。仕方がなかろうの、……お主らに任せることにしたのは我じゃから」
「一応、ユウさんの意見は?」
サワギリがユウに話を振ると、
「……俺も、……特に異論ないです。……カートが、存続を望むなら」
思わず、という調子でつぶやく。「……彼には、放してもらえそうにない……」
お気の毒に。
サワギリが——たぶんほかのふたりもそんな感想を抱いた直後、想定外のセリフがシュンから飛んでくる。
「それじゃみなさんも、あたしについてくるわよね? 他に行く当てもないでしょう。僕らの本拠地に帰るのでいいね?」
「は? え、いや。ちょっと待て——」
「本拠地にはまだ信者も結構いると思うの。世話はやってくれるよ。地上の食べ物は穢れてるって言い含めたりしてたから、敷地内に畑とか、水源も確保してあるし。ゾンビ映画で立てこもるにはかなり安心安全なの。それでクラミさんの料理食べられたら私ぜんぜん言うことなしよ! 外からの侵入も、お二人で守ってくださるでしょ? 草壁さんは——」
そこで、思いつかなかったのか、少し黙る。「まあ、いてくだされば」
「ちょい、憂鬱だが……」ぼやきに近い返事をしたのは、当の草壁だった。「助かりはするな」
「マジで言ってんの? この先もこんなイカれたやつらと——」
「っつっても自分ちに引き籠もったって先が知れちまってる。事態が落ち着くまででもいいから、匿ってもらうってのは悪い話じゃねえだろう。ところで、俺は田舎の両親が気にかかるんだが——」
「あらそれじゃ、迎えに行きましょ。問題ナッシング」
「事態って落ち着くの? 死体ってどこまで増えるのかな」
「無限に増えるわけではないぞ。滅亡がなしになったしの、消滅志願者が全員捌けるまでの辛抱じゃ」
「それも長そー……」
サワギリの嘆きを無視し、シュンはクラミに水を向ける。
「そいえばクラミさんはお母さまいらっしゃるわよね? 探しに行く?」
「え? うーん、別にいいかな。会ったこともない人だし」
「じゃ、草壁さんのご両親をキャッチしたらよろしい? お住まいは?」
「案内するよ。車生きてっかな」
「壊れてたらまあ強奪すればいいでしょう。ガソリンもねえ」
そこでみな、ふと気になって窓の外を覗き込んだ。なんと、生者も死者も入り乱れ、車道がぎゅうぎゅうになっている。ビルのドアは開いているはずだが、この分だと入ったとしても階段を上る余裕はなかろう。車を停めておいた場所には影も形も見当たらない。
「どうしましょ」
シュンの言葉に、五人で顔を見合わせる。正面突破もクラミがいれば可能ではありそうだが、寿司詰め状態のなかに飛び込んでいくのはリスクが高いだろう。なにより、草壁がその状況で生き残れる気がしない。なんとかして安全にここから出る必要がある——
外を眺めていたシュンが、唐突に、その手のひらを打った。
「思いついた」
嫌な予感に襲われる面々に、輝く目を向ける。
「これは、あなたがた、試金石です。この先わたしがどの程度、やれるのかっていうことの」
シュンが、窓の外を指差す。その先には向かいに建つビルがあった。このビルよりいくらか背が低く、窓からまっすぐ飛んでいけば向こうの屋上に着くくらい——
ぞっとした。シュンのほうは、頬をにんまりと上げている。
「わたくしね、いま、やれる気がしますの。姉さまが自由を求めて飛んだビル……これは運命ですわ。どうか、わたくしの言うことを本気で信じてくださいませ。飛べると思ったら、飛べるのよ。羽があるんです。あたしたち!」
「無茶言うな!」
「無茶じゃなくってよ! ほんとなんだから、あたくしの言うこと、信じてくだされば、空も飛べるはず!」
お前、スピッツじゃないんだから。
言いかけたサワギリの目に、黒い影が、ちらりよぎった。ついそれを目で追ってしまうと、そこにはタールのように粘ついた影の塊が立っている。影は窓際の五人から少しだけ距離を取り、どことなくシュンのことを指差しているように見えた。
影の中に金色の糸が見え、やっと気づく——こいつ、このバカのお姉さん……
「お伝えいただけない?」
シュンにそっくりの口調で影は問いかけてきた。
「伝えるって……何を」口の中で返す。
「いえね、わかっていますの。私、あなたを体良く使うようなことをして、悪いと思ってるわ。伝書鳩じゃないんだぞって、以前言っていらしたものね。でも、他に方法がなくて」
「……わかったよ。何? 弟に伝言?」
「そう! カートにね、お伝えくださらない?……私ね、一瞬飛べたのよ、って」
驚いた。目を見開くサワギリに、影は慌てた調子で、
「ほんとうよ! ほんとうですの。私あのとき、カートに言われたことを想って、えいやと飛んでみたんですよ。ここにいても、きっと酷い目に遭わされてどうせ殺されてしまう……そうなるくらいならいっそ、信じて飛んでみよう、って。もしかしたらほんとうに、
「……それじゃ、ほんとうに……あんたとしちゃ、自殺のつもりはなかった?」
「まさか! あのとき私の手にあった可能性は、あれだけなの。私はちゃんとそれを信じて、正しく賭けたのよ。お分かりになります?」
サワギリの隣のクラミが、訝しげにこちらを見やる。どうにでもなれと思い、サワギリははっきり声に出した。
「でもあんた、結局落ちたろ。それじゃ俺たちも落ちるんじゃねえの?」
「……え? あら、サワギリさん? どなたとお話しになってるの?」
「それも説明します。わたくし、確かにふわりと浮いたの。窓から、飛び立つつもりで思い切り桟を蹴って飛んだとき——一瞬とは言いましたけど、実際は二秒ほど。それって、思い込みじゃないでしょう?」
「……まあ? 物理法則じゃないわな」
「……サワギリ、さん? ねえ、まさか——」
「でも、——私ったら、つい——思っちゃったの。まさかそんなはず——ほんとうに、空なんか飛べるはずがない、って。そしたら、……魔法が解けたみたいに。みるみる、下へ落ちてって……」
「……一瞬も、疑わなけりゃ」
「…………」
「マジで飛べたかもしんない、ってこと?」
影が頷いたと同時、シュンが縋り付いてきた。
「待って! ねえ、もしかして今——」
「うん、そう。あんたの姉さんがいる」
「……あ、あたし、……あたし、話したいこと——」
「いろいろあるよな。……でも、安心しろ」
「あ、安心?」
「姉さんさ、あんたの後ろにずーっと憑いてたんだから。……今に限らずずっと」
五秒ほどの静寂。それから、素っ頓狂な悲鳴が上がる。
「え⁈ ずっと⁉︎」
「だからそう言ってんじゃん」
「ずーっといたの⁉︎」
「俺が見てるときはな」
「へえっ⁉︎ それって、……そん、……恥ずかしい‼︎」
「だからまあ積もる話は後にしてくれよ。今聞いてんのは、姉さんがこっから飛んだときの話」
サワギリの言葉に、シュンが口を閉じる。
「お姉さん、こっから飛ぶとき、マジでお前のこと信じたんだって。ほんとうに飛べるかもしれない、助かるかもしれないって。それで実際、飛んでから数秒、浮くことができてたらしい」
「……え」
「でも、……つい、こんなこと起こるはずないって、思っちゃって。それで」
「……そう、……だったの」
「だから、……俺らが、マジで思い込めば。本気で飛べるって、姉さんは……言ってる」
問題は、そんな狂ったことが、自分たちにできるのかということ。
面々が押し黙る中、草壁が言った。
「なあ。ちょっと思ったんだが」
「なに? オッサン」
「なんというか——具体的なこと、考えなけりゃいいんじゃないか?」
視線から向けられる疑問に、草壁は肩をすくめる。
「だからさ。目ぇ開けて飛んでる間、自分は飛べるって思い込むのはちょっと難しそうだろ。でも、自分に何が起こってるかよくわかってないまんま、とにかく『大丈夫だ』って信じ続けるのなら……できる気がしないか? 目ぇつぶって飛んで、向こうに渡るまで、絶対なんとかなるってことだけ念じてたら。もしかしたら……」
「い、」クラミが声を出す。「いける……かもしれない」
「お前、マジで言ってる?」
「でも」ユウが思いのほか冷静な声を出した。「実際に、アメリアはそれで飛べたんだろう」
「……まあ、姉さんっぽい影はそう言ってる」
「俺からしたら、その影が見えているとか、なんか言ってるというのだって十分以上に信じ難い。でも俺が信じようが信じまいが、そこにいるんだろ? サワギリさんに当然に死者が見えるのとおんなじで……カートにとってはどんな嘘も本当になるのが現実だ。だったら、——」
窓の外に目を移し、つぶやく。「……空だって、飛べるよ。ほんとに」
つまり、——こっから先は、俺が信じられるか、どうか——
窓ガラスに手を置いて、サワギリは下をまた覗く。そこにはビルの日陰に蠢く死者と生者の群れがある。サワギリの目には、死の影が、死体の肌の色よりさらにくっきりと映っている。確かにこんな光景は、他の誰にも信じられまい。
というか、動く死体ってなんだよ。こんなんが起きちゃうんなら、もう、なんだってアリじゃねえ?
「なんか」知らず識らず、口に出していた。「空飛ぶくらいいける気がしてきた」
「でしょ! そうよ! やっちまいましょう!」
「どういうテンションなんだよ、それは」
改めてシュンを見据え、念を押す。「マジで、絶対飛ばせよ」
「ええ! だいじょうぶ、信じて! 飛べる!」
「うわあー、緊張してきたあ」
「なんとかなる、なんとかなる、なんとか……」
「理屈の上では成り立つんだ。できないってことはない——」
「お前次第だからな。ガチで!」
誰からともなく五人で手を繋いでいた。端に立つシュンが、力強く頷いて窓の鍵を開け、大きく開く。
「——こういうのは、雰囲気が大事ね」
先頭に立った彼は、いま一度、四人の方を見た。半ば逆光のその顔は、それでも嘘くさいほど青い瞳を、きらめかせていた。
「さて。……世界の終わりに残ったみなさま」
窓枠に立ち、彼は微笑む。
「私を信じて、飛んでくださる?」
◆
腹部に何か鋭いものが刺しこまれ、しかし痛みはなかった。もはや身動きをとることもできず、誰が握っていた刃物かもわからない。目覚めたとき、体はホテルのラウンジらしき場所でうつ伏せになっていた。立ち上がると何かが落ち、見ればそれは血に塗れた万年筆だ。いったいこの人は、どんな死に方をしたのだろう。万年筆で刺されることある?
とりあえず誰でもいいから殺してもらうつもりでいたのに、いざ外へ出て、人に追いかけられたら、怖くて仕方なくなった。思わず逃げ出してしまい、その後も襲い掛かられるたびに走り回っているといつの間にか、このぎゅう詰めの人混みに巻き込まれてしまっていた。抜け出す術がある気もしない。誰か、早く首を刎ねてほしい——
天から重りでも降らないか。ありもしない希望を抱いてなんとなく空を見上げる。すると、ビルの最上階に、なにか人影が浮いていた。驚愕で目を凝らせば、それは仲良く手を繋いだ五人の男性のように見える。
どういうことだ?——困惑する間にも、人影はふよふよ浮いて隣のビルへ移っていく。
四方八方から肺が潰れんばかりに押し込められ、男は人影に、焼かれるような羨望を覚えた。小さいころ、テレビ放映で、ジブリを見た記憶が蘇る。どうせなら俺だって空のひとつも飛んでみたい——キキとか、ハウルとか、猫の恩返しとか。ゾンビになるなんて奇跡より、もっと夢のある奇跡がいい。
……五人の人影が、隣の屋上に消える。何も無くなった空を見ながら、男はひとり、ため息をつく。
いいなあ、あの人たち——自由で。
崩落天国 初川遊離 @yuuri_uikawa
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