馬稼者の最期と加賀百万石の灯火

嶋森航

馬稼者の最期と加賀百万石の灯火

 お読みいただきありがとうございます。縞杜コウと申します。この作品は、加賀守護である冨樫家が滅亡を前にして足搔く史実に基づいた物語になります。加賀百万石の礎を築いた者たちの隠された物語です。



◆◆◆


「織田が兵を挙げた」

 時は戦国、永禄十三年(一五七〇年)。加賀国守護であった冨樫家は主権を簒奪され、長く一向一揆の支配下に甘んじていた。

 かつて冨樫家の守護代を務めたほどの名門、本折家の当主・本折治部少輔範繁(もとおりじぶのしょうゆうのりしげ)が半歩後ろを歩く小姓・江種宗助範堯(えぐさそうすけのりたか)に告げる。綽々とした立ち居振る舞いは一片も窺えない。

 その眉根はかつて見ないほどに険しく寄せられ、脂汗の滲む額からは動揺が浮き上がっていた。宗助は思わず息を呑む。背後には美麗な山桜が咲き誇ってはいるものの、それが誰の目にも留まらぬほど、事態は切迫しつつあった。

「はい。皆浮き足立っておりまする」

「で、あろうな。無理もない」

 範繁が瞑目して小さく二度頷く。桶狭間の戦いから始まった織田の快進撃は止まることを知らず、ここ加賀の隣国・越前国にまでその勢威が及ばんとしていた。その伸長を見て、ある者は称賛し、ある者は妬み、ある者は蔑んだ。朝倉が全力を投じたとしても、織田を退けるのは難しい。近い将来に予見される戦いを前にして、そんな意見が家中でも多数となっていた。

「しかしなぜ北東を目指しておられるのですか?」  

 宗助が歩みながら小首を傾げる。宗助は深く告げられぬまま、着いてこいとだけ告げられた。ようやく雪駄が要らぬほどの情景が認められ、着物もやや薄手の物に切り替わっている。宗助以外の家臣も疑念を胸に抱えながら、共に北東を目指していた。

「万が一が起こった時のため、協力を仰ぐべき各所に話を通さねばならぬ」

 一歩後ろに下がれば崖から崩れ落ちるような現状は、周知の事実である。小姓の宗助は一度『滅多なことを申しますな』と口を開きかけたが、逡巡して口を噤んだ。

「それに城にどれほどの間者が居るかわからぬ。無論当家の屋敷もな。動きを極力察知されるわけにはいかぬ」

「本願寺の間者ですな」

 撫然として一瞬目を細めた宗助は、忌々しげに辺りを見回す。冨樫家の元守護代である本折家も、常に本願寺にその動きを警戒される存在だった。それゆえに、範繁は詳しい用件を告げず、散歩に行くとだけ告げて外へ家臣を連れ出した。

「ああ。こうでもせねばロクに話もできぬ」

「話をするにも一苦労ですな」

「朝倉は戦の備えに追われておろう」

「朝倉? 織田は此度の出兵を『若狭武藤の成敗』と申しておりましたが」

「朝倉を油断させるための方便であろうよ。考えてもみよ。たかだか武田の一家臣の征伐に三万の兵を出すはずもなかろう。徳川が手を貸すほどの相手でもない」

 織田はこの戦を若狭攻めと内外に示していた。しかしその陣容が物々しすぎる。織田の兵に限らず、徳川家康が自ら出るほどのものだ。これが武藤成敗のためではなく、他の意図が孕んでいるのは疑いようもない。

「成程。合点が行き申した。このことを小次郎様は?」

 宗助は言われてみれば、と納得して首を縦に振る。範繁にとっての主君である小次郎、即ち冨樫加賀介晴貞(とがしかがのすけはるさだ)は、温厚で民からも厚く慕われていた。

「無論知っておろう。しかし困ったの。朝倉が倒れれば、次に加賀へ攻め寄せるはず」

「そうなれば織田につくしかないのではありませぬか?」

「そう単純ではなかろう」

「一向一揆……」  

 宗助は数瞬の思考の後、足を止め忌々しげに拳を握る。範繁も立ち止まり、振り返った。 

「厄介なものよ。民の多くが奴等に盲従しておる」

「百姓の持ちたる国、などと不名誉にも渾名されておりますからな」

 加賀国は元々冨樫家が室町幕府に任命されて以来名実共に統治していた土地だが、この数十年間はそのように渾名されて実を伴わなくなり、守護としての地位まで追われてしまった。それでも守護復帰を目指し、幕府とも緊密な関係性を維持し、捲土重来の機会を虎視眈々と窺っていたのである。範繁は空に視線を向ける。奥から灰色の雲が徐々に流れるのが視界に映った。

「織田への臣従は即ち一向一揆との敵対だ。だからと言って一向一揆と手を組むなどもっての外」

 一向一揆と手を組むなど言語道断、と考える者が大多数である家中において、一向一揆と共同で織田の伸長に対抗するのはあまりにも現実的ではなかった。

「では干渉せずに静観が吉と?」

「日和見も、織田から見れば一向一揆に与しているも同然であろう」

「どれを取っても冨樫にとっては不都合と? 貧乏クジではございませぬか!」

 宗助は憤慨する。その中でも、範繁は織田信長という男の性格を分析し、最適解を導き出そうとしていた。

「頭の痛い話よ。あまり気は進まぬが、秘密裏に織田への接触を図る方が賢明だ」

「加賀介様には伝えぬと? なにゆえでございますか?」

「小次郎様に伝えれば山川(やまごう)に漏れる」

「……それは避けねばなりませぬな」

 晴貞は、冨樫家の加賀入部から一度も離反することなく、その忠義を貫き続けてきた山川家に対しては、無類の信頼を向けている。

 それ故に些細なことでも山川に相談し、その上で判断を決定するという流れが定着していた。つまり、晴貞に伝えることは、山川に伝えるも同義ということである。

「それに限らず、当家には親朝倉派が多い」

「朝倉には大恩がありますからな」

 晴貞は享禄年間の大小一揆により国を追われたが、その際に遠戚であった溝江家を頼った。そして朝倉の間接的支援を通じて食客として遇され、多感な青年期を朝倉の庇護下で過ごすことになったのだ。故に、晴貞は朝倉家に対して特別強い恩を感じている。織田に味方する判断を是とする人間がそう多くないことは、深く考えずとも分かることであった。

「そうでなくとも、もし山川三河守が織田への恭順に反対すれば、小次郎様はそれを是としよう。それは避けねばならぬ」

「それゆえの水面下での接触、ということですな」

 公に臣従すれば一向一揆に攻められるのは確実であるために、範繁は水面下での接触を選んだ。それは家中の状況を的確に見定め、自分の立場も鑑みた上での決断であった。

「恭順する意向さえ示せば、たとえ我らが国を追われても、織田は守護として遇するほかない」

 範繁は足早に踵を返し、宗助は慌ててそれを追った。



◆◆◆



「大樹より上意である。冨樫加賀介殿に命ずる。加賀の賊を討伐せよ」 

 突然訪ねてきた幕府の使者は、晴貞に誘導されて上座につくなり、不遜にそう言い放った。一斉に頭を垂れていた家臣らは、互いに顔を見合わせたり、にわかにざわめき立つ。それを尻目に、晴貞は額に脂汗を滲ませ、恐る恐る口を開いた。

「加賀の賊とは一体」

「言わずとも察せるであろう?」 

 使者は上から目線で微笑む。その顔にはそんなこともわからないのか、という嘲笑が込められていた。加賀の賊とは即ち一向一揆を示していることは明白である。十五代将軍・足利義昭は、織田の勢力拡大に際してそれに呼応するよう呼びかけを行っていた。冨樫家も例に漏れず、激しい抵抗が予想される加賀での戦いに協力するよう求められていたのだ。

「いえ、それは……。しばし考える時間を頂けませぬか」

「よもや断ることはなかろうな? 尊氏公への御恩を忘れたはずもあるまい。それに命に背くは織田に背くも同義にござるぞ」

 晴貞は何も言い返せず、歯噛みする。織田に迎合して最盛期のように権威を振り翳すその姿は滑稽ではあるが、冨樫家も同様の立場にある以上反論の余地はない。

「しかし、あまりにも酷い体たらくよの。このまま将軍家に泥を塗ったままでよいのかな? 本来ならば悩むことすらも失礼に値しよう」

「……申し訳ございませぬ」

「まあそれは良いのだ。大樹は織田が加賀を平定した暁には、正式に貴殿を加賀守護に任ずるよう上総介に推挙すると申しておる。これほどの好条件はなかろう?」

「それは真にございまするか?」

 晴貞が途端に前のめりになると、使者は期待通りの反応に口許を緩ませた。

「うむ。さすれば貴殿の悲願も叶うのではないかな?」



◆◆◆



 縁側に座りながら風で揺れる木を眺めながら足をパタパタと交差させている少女は、屋敷内から突然響いた大声に、雀が驚いて慌てるように飛び立った様を見て口を尖らせた。

「宗助、なぜ館が騒がしいのです?」

「織田に味方せよと、上様が仰られたからです」

「なら織田に下れば良いのではなくって? 日ノ本で一番力を持っているのでしょう?」

 本折小漣(おつゆ)は退屈そうに軽口を叩く。それを聞いて宗助は深くため息を吐いた。

「そうもいかない事情があるのですよ。安易に織田への臣従を選べば、我らは全員死んでしまいます」

「そうね。私たちには力がないもの」

 冨樫家は領土が野々市に閉塞し、常に本願寺の手が届く距離で動かざるを得ない。本折家も元々は南部の小松を所領とし、守護代としてその地を治めていたものの、その権威は空の彼方に消え去っている。

「事実ですけど、思っても言わないのが立派な女性というものですよ。御父上が付けて下さった名前に相応しいお淑やかな言葉を心がけてください」

 最近元服した宗助は、父から江種の家名を世襲し、幼年より主君である本折治部少輔範繁に小姓として仕えている。そのため、小漣とは幼馴染と呼べる関係で歯に衣着せぬ言い合いを出来るほど、気の置けない間柄であった。範繁からはその真っ直ぐな性格から篤い信頼を受け、元服と同時に偏諱を授かり範堯を名乗っている。

「私に講釈を垂れる気? まだ十五のくせに」

「姫様の方こそまだ十三じゃないですか。至らぬ姫様を諭すのは歳上である私の義務です」

「年下相手にムキになっちゃって、まだまだ未熟ね。ととさまは随分気に入っているようだけど、全く理由が分からないわ。……織田に兵を借りればいいじゃない」

「話を戻すんですね。てっきり興味ないのかと」

「御家存亡の危機なのでしょう? 気にならないわけがないわ」  

 小漣が背伸びして宗助の頭をはたく。本折家の姫である小漣は実のところ聡明である。難しい顔をした宗助の緊張を解すためにあえてこのような態度を取ったのだが、宗助がそれに気づくことはない。小漣は内心小さく息をつく。

「助けようにも助けられませぬ。織田とは領土を接しておらぬのですから」

「使えないわね」

「誰が聞いているか分からないのですから、拗ねないでください」

「拗ねてないわ」

 小漣は頰を膨らませて左肘を膝についた。頼みの綱が断ち切れた事実に、無念を感じたからだった。

「拗ねてるではありませんか」

 宗助はため息をつく。しかしながら、緊張で張り巡らされた館に身を浸す中で、こうして軽口を叩き合えるひとときは、宗助にとって有難くもあった。小漣とて、館を包む空気の急激な変化を察せぬはずもなく、まだ武人としては未熟な宗助に対し、なるべく普段通り、かつ穏やかな空気の形成に身を砕いた。



◆◆◆



 傾きつつある夕陽に紅く照らされた逢魔時の加賀街道に、幕府の使者一行は馬に跨ってゆっくりと歩みを進めていた。手綱を持つ使者は満悦の表情を浮かべている。

「これで上様も満足されよう。思うたより呆気なかったわ」

「左様でございますな」

 家臣の一言に、使者は満足そうに首肯した。

「結局は冨樫も傀儡になるだけだというのに、目の色を変えて食いついてきおったわ。無様よの」

 使者が声を上げて笑っていると、突然背後から影が被さる。暗くなった視界に眉根を寄せていると、突然首根っこを掴まれ、馬から引き摺り下ろされた。それに驚いたのか、一流の調教師に躾けられて大人しいはずの馬が冷静さを欠いて鳴き声を上げる。

「な、何者だ。我らを幕府の使者と知っての狼藉か!」

「ふん、知っておるわ。さあ、話して貰おうか。冨樫に何を吹き込んだのかを」

「吹き込んだなどと人聞きの悪い。大樹の要望をそのまま伝えただけだ」

 完全に見下した態度を取る使者に、刺客は不快そうに眉を歪めて頬に刃を突きつけた。

「その内容を聞いておるのだ」

 頬から血が流れ出るのを熱さとして感じた使者は、途端に青ざめて身を硬直させる。

「ひ、ひい。わかった、言う。言うからこの拘束を解いてはくれぬか」

「早く申せ!」

「加賀の賊を討伐せよと命じたのだ!」

「加賀の賊とは我らのことか?」

「誰とは申しておらぬ」

 最期の足掻きというように、微かな余裕を瞳に帯びた使者の態度に、呆れるように声音をやや高くする刺客。

「ふん、言わずとも知れたわ。それで冨樫はこれを承諾したのだな」

「……」

「沈黙は何の得にもならぬぞ」

 視線を背けて沈黙を選んだことで、使者は目にも留まらぬ速さで一閃された小刀に一溜りもなく絶命した。地面にとめどなく流れ出る血は黒く、紅かった空は既に闇夜に染まっていた。



◆◆◆



 慌ただしい足音と共に、襖が勢い良く開いた。所々傷を負い、大きく息を切らした兵が膝をつく。

「か、加賀介様! 織田が、織田が敗れ申した!」

 筆頭家老・山川三河守高晴が伝令の報告を聞いて反射的に立ち上がる。織田が敗れたという急報は、冨樫家主従にとって全く予想だにしていない寝耳に水のものだった。それゆえに、冨樫館の大広間は疑い半分の困惑した空気に満ちている。

「なんだと? 虚説ではなかろうな!」

 同じく家老の槻橋近江守氏綱(つきばしおうみのかみうじつな)が顎の髭をさすりながら考えこむ。氏綱は穏健派筆頭の家臣であり、大きく二つの派閥に分かれる冨樫家家臣団の取り持ち役を担っていた。同時に恬淡寡欲な人柄から下の者たちの信も篤い。

「三河守殿、一度伝令の話を聞くべきでしょう。この尋常じゃない慌てよう、偽りではありませぬ。偽りであったならば天下に名が轟く逸材の役者でござろうよ」

 微かに笑い声が響き、雰囲気が和らぐ。気が逸りがちな高晴を常に諫め、家中の融和を保っているのはこの氏綱であった。その経験が活かされ、過剰なほどの緊張が漂っていた空気が一気に和らいだ。

「む、左様であるな。取り乱した。仔細を頼む」

 高晴がわざとらしく咳き込むと、範繁がそれを見て周囲に聞こえない程度に小さく鼻で笑った。幸いなことに声が届くことはなく、高晴も冷静な面持ちを保つ。

「若狭から越前に侵攻した織田軍はそのまま天筒山城、金ヶ崎城と下し、敦賀郡をほぼ手中に収め申した」

「そこまでは順調に思えるが」

 高晴が目を細めると、同意するような空気が漂った。

「その後朝倉は敦賀郡を放棄、木の芽峠を固めておりまする」

「朝倉が最も固く防衛している地故、当然であろうな。それで?」

「浅井が裏切りました」

「嘘を申すな!」

 高晴は立ち上がって伝令兵に詰め寄る。高晴に限らず、誰しもが耳を疑うようなものだったが、その空気を感じ取った伝令兵は、視線を下に向けたまま張り合う様に声を上げた。

「嘘ではございませぬ!」

 腕に自信のある家臣が多く座る中で、これほど迫真の表情で堂々と嘘をつける者はいない。そう判断した氏綱や範繁は険しく眉根を寄せる。

「浅井長政は妹を送り同盟を結ぶほど、織田上総介の信頼も厚かった男。三河守が嘘と思うのも無理はありませぬ」

「しかし浅井と朝倉は昵懇とも言える間柄。朝倉を攻めた織田が浅井の不興を買ったと見てもなんらおかしくはない」

 従容自若な態度を崩さず高晴の激昂を肯定する氏綱に対し、範繁は口元を真一文字に結んだまま返す。  

「つまりは浅井に背後から攻められたことで、織田は退路を失った。そういうことですな」

「左様にございまする」

「俄かには信じ難い話だが、態度を見る限り真なのであろう。上総介は死んでおらぬのか?」

「いえ。織田上総介含め、殆どの重臣は落ち延びたかと」

 金ヶ崎の退き口として知られるこの戦いで、織田信長は木下秀吉に殿を任せ、自らは京に向かって落ち延びている。しかし、織田が朝倉を難なく打ち破ることが前提条件であった『加賀の賊討伐』という上意が、根本から覆されてしまった。それはつまり、対一向一揆の挙兵が凍結したことを意味している。やがて緊張に満ちていた空気が萎んでいく。

「左様か。しぶといものよ。ご苦労だった。下がれ」

「はっ、失礼いたしまする」

「ふん、大人げないものよ」

 伝令兵が床に頭をつけ、足早に退出していくのを見届けると、範繁が聞こえるようにはっきりと告げた。高晴は不快に眉根を寄せる。

「貴様、この俺に大人気ないと? 愚弄しておるのか!」

「お主とは一言も申しておらぬ。それとも自覚がおありなのかな?」

「貴様が嫌味たらしくなにかをつぶやく時なぞ、この俺に対しての当てつけ以外なかろう」

「それこそ言いがかりというものだ」

「三河守殿も治部少輔殿も落ち着きなされ。殿の御前でございますぞ」 

 そのやりとりを前に、晴貞は難しそうな表情で瞑目して黙り込んでいた。そして互いに後ろめたそうに顔を背けると、範繁が晴貞に頭を下げて退出していく。その後ろ姿を忌々しげに見つめた高晴は、一度地団駄を踏んで小さく悪態をついた。



◆◆◆



「私も大人気ない。つい口が過ぎた。しかしあれほどまでに嫌われているというのも考えものだ」

 私は腰を据えて猛省する。三河守の度々の癇癪につい腹を立ててしまった。

「三河守様はなにゆえ我ら本折の者を嫌うのですか?」

 険しい表情の宗助が疑問を呈する。三河守がなぜ本折を嫌うのか、か。理由は十分すぎるほどにある。

「そうか。お主は知らなんだか。三河守が本折を嫌うのは、二つ理由がある。一つは本折は元々一向一揆に与していたことがあったからだ」

「い、一向一揆にございまするか?」

 宗助は落ち着かない様子で周囲を見回す。一向一揆という宿敵に与していたという事実は、宗助をこれほどの周章ぶりに変貌させるには十分なものだった。

「驚くのも無理はない。長享の一揆で生き残った者が一向宗に入信する形で所領を安堵されたのよ」

 長享の一揆で冨樫家は高尾城での籠城戦を挑んだが、二十万にも達しようかという大軍に衆寡敵せず敗れ去った。その際に主だった家臣の殆どが戦死し、現在の重臣である山川、槻橋、本折、額(ぬか)などは幼い子を逃すことでなんとか命脈を保っている。冨樫家は拠点を全て失い、越前に逃れた。一方で本折の妻子は本願寺方に捕縛され、一向衆徒になることを条件に所領であった小松を安堵されたのだ。国を追われても付き従った山川と、一向一揆に降り改宗までをも受け入れた本折。敵愾心を抱えるのも無理はない話だった。

「生き残るためには致し方ないことかと」

「だが山川は冨樫に忠義を貫き続けた。誹りたい気持ちは分からなくもない」

 ただ、それが避け難い運命であったことも三河守は認識しているはずだ。今は同じ冨樫家に仕える家臣であることを認めてはいるものの、心がそれを受け入れていない。

「それよりも本折と山川には致命的なまでの溝がある」

「致命的なまでの溝?」

「三河守は冨樫が力を失ったのは本折の所為だと思うておるのよ」

 それが全くの見当違いであればまだ反発のしようもあったが、深く関わってしまっている事実がある。変えられぬ過去に頭を抱えたくなった。

「な、なにゆえにございますか? 過去はどうあれ我らは同じ冨樫家臣のはず」

「その過去が問題なのよ。本折が元は守護代であったことは存じておるな?」

「無論にございまする」

「山川とは昔、敵対関係にあった。一度離れた後ろめたさ、そして冨樫家の凋落に関与してしまったという自覚故に、当家ではその事に触れるのが忌避される風潮があったのよ」

 山川との関係は、客観的に見て山川が本折に対して一方的な反抗心を抱いているように見える。それは本折が自分達の非を認めているからに他ならない。

「あまり仲が良くないと察してはおりましたが、そのような事情が……」

「いい機会だ。お主ももう十五になった。話しても良かろう」 

 宗助、お主にはいずれ本折を任せたいと思うておる。それがいつになるかはわからぬが、一人前の武将に育った際には婿に迎えたい。真っ直ぐで澱みのない性格、時折見せる聡明な目つき、そして本折家への忠誠心。やや柔軟性が足りないのは玉に瑕だが、それを抜いても十分すぎるほどに本折家当主の器を持っている。  

「かつて冨樫家は兄弟である教家(のりたか)公と泰高(やすたか)公が敵対し、守護の座を争った」

「はい。本折は教家公方の守護代として忠勤してきたと聞いております」

「山川は泰高公の守護代だ」

「……なるほど」

 宗助は唸る。泥沼の騒擾の発端は、当時の加賀守護であった教家公が時の将軍・足利義教公の逆鱗に触れ、甥の泰高公に家督が引き渡されたことだ。その僅か数日後に義教公が赤松に暗殺されたことで、幕府は人心の安定の為に義教に追放された者を復権させる方向に舵を取ったが、これに加賀は当てはめなかった。

 当然だ。細川は泰高公の烏帽子役を務めておる。裏で繋がっていたことは明らかだった。これに不満を抱いた教家公は泰高公と守護の座を巡って争った。この対立で実際に戦を行ったのは守護代。当初は山川が戦況を優位に運び、教家公の加賀復帰を許さなかった。三度戦い、最初は山川が勝ち、次に本折が勝ち、最後に山川が勝ったと聞いた。

 しかし管領が教家公を支援する畠山に変わったことで、途端に泰高公は加賀守護を解任される。教家公は泰高公の実効支配によりまとまっていた加賀を無理やり突き崩し、武威で支配しようとした。結果的に本折の奮闘があり、念願の加賀奪還を成し遂げたわけだが、その際に山川は多くの一族を失っている。憎悪が積もるのも当然というものだ。だからこそ、本折一族には負い目があった。

「次代成春公の時に、管領の細川に守護の地位を剥奪されても加賀に留まり続けた」

「泰高公が守護に復帰したにも関わらず、ですか?」

「そうだ。本折は全力を賭して抵抗した。そのせいで幕府の反逆者と指を指されることになったがな」

「なんと」

 教家公が後見した息子・成春(しげはる)公の代では、泰高公が守護に復帰し、時の管領・細川勝元に守護の地位を剥奪される。加賀の在地勢力の多くが一貫して泰高陣営を支持しているために、加賀統治は立ち行かなくなっていたがな。それでもなお、教家公や成春公は加賀に留まり続けていたのだから、その執念深さは余程のものだ。

 かくして成春陣営はついに『幕府の反逆者』の烙印を押される。本折はその守護代として戦っているのだ。それゆえに、時流を見極めずに冨樫を凋落に導いた原因として本折を目の敵にしている。だからといって、成春公の守護代である本折が戦わぬわけにはいかない。戦いは泥沼と化した。

「ただ成春公の後ろには畠山がいた。互角に争えたのはその助力のおかげよ」

 実際、本折は山川を何度も打ち破った。その敗北の歴史も、武闘派である三河守の敵愾心をより一層強くさせているのは間違いなかろう。

「……そう聞くと、細川と畠山の代理闘争のように思えますが」

「その通りだ。利用されたのよ。幕府の権力争いにな」 

「冨樫はそれゆえに……」

「うむ。和睦が成り南北で守護を分けることになったが、両陣営の対立は収まらなんだ」

 この内乱は結局南半国守護に泰高公が、北半国守護に教家公の嫡男・成春公が就任することで決着がついたわけだが……。その後細川によって赤松に北半国守護の座を強制的に移譲されてしまい、成春公は再び追放された。そして内乱の再発を防ぐために、泰高公が成春公の子である政親(まさちか)公を養子とすることで、加賀は再統一を迎える。しかしやはりと言うべきか、これに成春公陣営は不満を持った。結局成春公の次男・幸千代公が擁立され、再び内乱へと突入した。

「それが一向一揆の台頭に繋がると」

 内乱鎮圧のために、政親公は本願寺門徒を使う。その力を借りることで内乱を鎮めることができたが、本願寺は存在感を増した。そして徐々に本願寺を疎んじるようになり、政親公はこれを弾圧するという尚早な手段に出てしまう。後は脆く崩れ去るばかりであった。

「それゆえに三河守は本折に敵意を抱いておるのよ」

「しかしそれは過去の出来事。敵意を出して空気を乱すのは、決して良きことではないと存じまする」

 正論ではある。だが積年の悪感情で凝り固まった関係が融解することなど容易ではないのだ。どちらかが突然態度を融和させ、歩み寄るしか方法はない。

「童の喧嘩ではないのだ。お主が思うておるより山川と本折の確執は根深い。戦った歴史は両手で収まらぬからな」

「左様でございますか」

 乾いた笑いを溢すしかない。宗助は眉根を寄せ、視線を下とした。



◆◆◆



 侍女が忙しなく行き交い、冨樫館は焦燥感を強く帯びていた。その理由は、一向一揆が蜂起して向かっているという急報が舞い込んだからである。

「あまりにも早すぎる。どこかで漏れたというのか。敵は如何程の規模だ」

「敵は一万をゆうに上回るかと」

「なにをそこまで警戒しておるのか」  

 もう少し時間があればゆうに十万を超える大軍を運用できるが、本願寺の高僧陣の身代が小さい冨樫ならば一万で十分だという思考が透けて出ていた。

「織田が加賀介様を神輿に加賀に攻め入れば、多くの国衆は織田方に流れまする」

「くっ。その根を断ち切るつもりか」

 織田が敗れたという報せを受けて、冨樫家中では一旦静観の方針が出されている。しかしその中で幕府からの上意が漏れた。本願寺としては大義名分を背負って冨樫を討つ機会であり、名実共に加賀を支配する最大の好機を得たのである。それを逃すはずもなかった。

「なんのためにこれまで銭を蓄え、武器を買い上げ、兵を集めてきたのか。この時のためであろう」

「では打って出ると?」

「籠城だ。野戦では万が一にも勝ち目はない。違うか?」

「いえ、賢明なご判断かと」

 そこに重みのある足音と共に、息を切らした山川高晴が入ってくる。崩れ落ちるように右の膝をつき、奥歯を軋ませた。

「申し訳ございませぬ。抵抗も虚しく当家の屋敷が無残にも焼き払われ申した! この館も長くは保たぬと存じまする」

「やはりこの城で籠城は無理があったか。堀が無くては戦にすらならぬ」

「しかしこのまま館を脱出してもすぐに追われましょう。無傷で落ち延びるは至難にございますぞ」

「くっ、最初からこの館は放棄すべきだったか?」  

 晴貞が表情を歪ませて悔いる。数瞬の沈黙が走った。その沈黙を破るように、部屋の隅に控えていた豊弘がおもむろに手を挙げる。

「父上を逃すための時間は某が稼ぎます」

 焦りから鈍った判断力は晴貞の所作を鈍重にさせた。その声に反応するまで一瞬の間があった。新九郎様、と家臣から口々に呼ぶ声が上がる。その名前を聞いた途端、普段は温厚な晴貞の口調は熱を帯び、冷静さを欠いた強い声が虚しく響き渡った。

「なっ! どうしてもと申すから登城だけは許したが、儂はお前を戦わせるつもりはない!」

「父上が死地に赴くのを黙って見ていろと?」

「見る必要はない。お前は大人しく寺に戻るのだ。仏門に入っておれば殺されはせぬであろう」

「某は戻りませぬ」

 豊弘は鞘の剣先を畳につけ、足を肩幅に広げた。晴貞はその様子を見て項垂れる。

「儂は後悔しておる。お主を寺に閉じ込め、自由を封じた。これからはお前に自分の選んだ道を歩んでほしいのだ」

 晴貞の三男・冨樫新九郎豊弘(とがししんくろうとよひろ)は幼い頃から寺で殆どの時間を過ごしてきた。それは戦国を生きる人間としてあまりに適性がないとか、病気がちで静かな場所に追いやったとか、そのような理由ではない。単純に養うためのお金がないからである。

 晴貞が家督継承した際は冨樫家に蓄えは一切なく、困窮を極めていた。領地が殆どなかった冨樫家では、代々伝わる宝物や家財を売ってようやく最低限の家臣団を形成できるほどであり、三男を養うほどの余裕はなかったのである。

 しかし、それに甘んじる晴貞でもなかった。国内にある南白江庄の支配を幕府の奉公衆である安威兵部少輔光脩(あいひょうぶしょうゆうこうしゅう)との相論の末その権益を獲得したり、本願寺が抱えていた永寿院の押領を行うなど、したたかな立ち回りで所領を幾分か回復させ、家臣からも強い支持を得ていった。そして冨樫家の代々は馬の絵を書くのを得意とし、それを売ることで火の車だった財政を立て直している。そして諸橋大夫という能楽座を召し抱え、娯楽にも一定の関心を向けられるほどに財政は好転し、こうして一向一揆に立ち向かう気概を得られるまでに戦力を整えた。

「自由を求めたことなど一度たりともありませぬ。これが某の選んだ道です」

「儂はお前を見捨てたのだ」

「某がなにもせず、寺にこもっていたとでもお思いですか?」

 晴貞は俯きがちに視線を豊弘に向ける。

「なにが言いたい」

「この某をお使いくだされ。日夜鍛錬を積んで参り申した。身体を鍛え、刀を振るい、兵法も学び申した」

「だからどうした!」 

「これまでの修練は、きっと今日死ぬためにあったのです」

「馬鹿を申すな!」

 晴貞は瞠目し、豊弘に詰め寄る。豊弘は激昂した様子に怯むことなく、真っ直ぐその目を見つめる。

「死ぬためにあったと? 馬鹿なことを申すな! お前を犠牲にするくらいなら、儂は一人で打って出るわ!」

 それでも豊弘は視線を離さない。晴貞は全く折れる気配のないその姿を見て、歯を食い縛り視線を落とす。

「父上、お聞きくだされ。某は後悔など微塵も感じておりませぬ。むしろ喜びに震えておりまする」

「なに?」 

 晴貞は目を細めながら数度瞬きをする。

「父上の仰った通り、見捨てられた子であった某が、御家のために死ねるのです。これ以上に喜ばしいことがありましょうか。むしろここで敵を前にして逃げれば、某は一生後悔を枕に過ごすことになりましょう」  

 晴貞は自分の頭をポンと叩くと、白髪の多くなったその髪を無造作に掴んで力を込める。そうしていると、勢いよく襖が開いた。向かい合っていた晴貞と豊弘は同時に視線を其方に向ける。

「申し上げます! 敵が家臣団屋敷に火を放ち申した!」

「父上を逃すための時間はこの身を賭して稼ぎまする。早うお逃げくだされ」

 一向一揆勢が更に冨樫館から程近い城下の家臣団屋敷にも同様に火を放ったとの報せは、もはやこれ以上の口論は続けられないことを意味していた。

「くっ、無念だ。よもや息子に殿を任せることになろうとは。必ずや地獄で報いを受けよう。新九郎、お前には五百の兵を預ける。相すまぬ」

 晴貞はまともに豊弘の表情を見ることができなかった。自らの不甲斐なさ、そして冷静さを欠いて詰め寄ってしまった、その羞恥心に駆られて足取り重く外の様子を窺う。

「頭をお上げくだされ。地獄で会いましょうぞ」

「お前は極楽浄土に導かれようよ。故に二度と忌々しき父の顔を拝むこともない」

「某はこれから数多の人を手にかけましょう。極楽浄土に導かれるような男ではございませぬ。父上の子として恥ずかしくない散り際を天にご覧に入れましょう。冥府での道案内はこの某にお任せくだされ」

「武運を祈る」  

 柔和に微笑んだ豊弘の目を一度真正面から見据え、息を吐いた後踵を返す晴貞。豊弘はその背中に声をかけ、袖に入れていた文を手渡した。



◆◆◆



 眼科に居並ぶ一向一揆の大軍は冨樫勢の戦意を大きく削いだ。一万と五百、どちらが勝つかは明白な負け戦に挑むことに、未だ決意しきれていない将兵も少なくない。そんな中、突如として大粒の雨が降り出す。途端に悪くなる視界に、豊弘の口元が弧を描く。

「夕立ですな」

「ふはは。これは紛れもなく恵みの雨よ。この雨で父上も兄上も姿を眩ませられるというもの」

「新九郎様?」

「そして、この戦に勝利するにも好都合だ」

「戦に勝つと!?」  

 陣中に驚きと半疑に満ちた声が次々と響く。この戦に勝てると考える者は誰一人として存在しなかったのだから、当然の帰結である。 

「何も戦に勝つことだけが勝利ではない。そうであろう? 我らにとっての勝利は、父上と兄上を逃すことだ」

 豊弘は馬から降り、刀を地面に突き刺す。震える手に思い切り力を込めた。

「この絶望的な兵数差を覆すことはできぬであろう。しかし負けてなにを恥じようか。名誉ある兵(つわもの)に告ぐ」  

 周囲を見渡した豊弘は一拍おき、大きく息を吸い込む。

「決して命を惜しむな! 敵は死兵が如く強さを持つ。しかしそこには執念も気高き意志もない。抜け殻同然の弱兵だ!」  

 そうだ、そうだと声が至る所から上がる。

「そんな相手に、我らが簡単に負ける道理などない!」

 豊弘の檄に呼応した将兵の気迫の声が至る所から上がる。これから冥府に向かう頼もしき相棒の姿に、豊弘の口元は思わず弧を描く。そして地面から刀を抜き、城下の大群に剣先を向けた。

「敵が死兵ならば、我らは気高き死兵であれ! 突撃せよ!」 

 大軍に単騎で突っ込む豊弘を前に、大将に続けと喚声が上がる。その後を勢い果敢に追う味方の戦意は、高揚しきっていた。



◆◆◆



『父上、親不孝な私をお許しくだされ。それでも私は父上に必要とされたかったのです。私は必要とされない人間として生きてきた。寺に入れられたことを恨んだこともありました。己がどれだけ望もうと、決して武士として身を立てることが叶わぬのですから』  

 瞑目した晴貞は、目を開いて、宙を見つめる。しばらくして、視線を戻す。

『しかし今思えば、父上のご判断は正しかったのでしょう。決して道を外れることなく物事に没頭し、戦うための知恵を、力を、技術を身につけるため、時を費やすことができた。そしてその成果を発揮するための機会を御仏がお与えになったのです。これ以上の幸運が他にあるでしょうか。父上、いずれ冥府で語らいましょうぞ。今度はどうか某の話をお聞きくだされ』  

 頰を伝う涙を隠し、震える手でやや乱雑に文をたたむ馬上の晴貞は、豊弘の想いに哀愁の想いを募らせる。

「すまぬ……。すまぬ……。冥府でお前の武勇伝、聞くのが楽しみじゃ」

その瞳には死への恐怖は微塵もなく、冥府で腹を割って話し合う未来に希望すら見出していた。 



◆◆◆



 大の字で横たわる豊弘は、周囲を数多の兵で囲まれていた。とうに固めていた死への覚悟と共に、血塗れの刀を天に掲げながら瞑目する。

「父上。某は天寿を全ういたし申した。悔いなど欠片もございませぬ。幸せな生涯にございました」

 刀を伝った血が頬に滴り落ちる。力無く腕が地に落ちた。



◆◆◆  



「殿、下知をお願い致しまする」

「困ったのぅ。あまりにも手に余る状況じゃ」

「小次郎様?」

 高晴は遠い目で虚空を見つめる晴貞の顔を怪訝そうに覗き込む。

「こうなったのは全て儂の責任。お主らが命を散らす必要などない」

「何を仰いますか! 我らは冨樫家に無類の忠誠を誓い申した。小次郎様を逃すことはあれど、我らが逃げるなどありませぬ!」

「お主の忠誠は実に天晴れである。しかし儂はそれに何一つ報いてやれなんだ。斯様な場所でお主が命を散らしていいはずもない」

 高晴が言葉を詰まらせると、晴貞は自嘲して視線を落とす。

「儂は愚かじゃ。馬の絵を売ってどうにか生計を立てておった。馬の絵で稼ぐ者、馬稼者(ばかもの)というわけだ」

「そのようなこと、仰らないでくだされ!」

 その強い口調が届くことはなく、晴貞は徐に力無く立ち上がって外を眺める。クビキリギスの鳴き声が響く。

「儂は守護の名折れよ。そんな男の死に場所としては相応しいと思わぬか?」

「それでも、それでも某は」

「もうよい、もうよいのだ」

「良くなどございませぬ!」  

 投げやりな晴貞を前に、範繁の大きな声が響く。常に理知的な光を瞳に灯す範繁の感情的な声に、冨樫家主従は一様に驚きを露わにする。  

「三河守、なぜ押し黙る!」

「お、押し黙ってなど」  

 高晴は瞠目し、二の句を紡ごうとするが、すぐさま遮られる。

「お主の忠誠はその程度だったとでも申すのか! 私は小次郎様と運命を共にする覚悟などとうの昔にできておるわ!」

 反射的に膝立ちになった高晴は、自身の膝に、拳を思い切り叩きつけて反論する。

「忠誠なら誰にも負けぬわ! 勘当されようとも運命を共にしてやるわ!」

「ならばどうして折れる」

「折れてなどおらぬ。あまりに小次郎様のお人が変わったような表情に驚いただけだ」  

 両者は睨み合うように目を合わせると、無言が続いた。そして折れたのは範繁であった。

「取り乱して申し訳ございませぬ」

「治部少輔、もうよいのだ。気持ちは十分に伝わった」

「いいえ、言わせていただきまする。亡き父上は申しておりました。一向宗に盲信した者は数多くも、その瞳は決して明るくはないと。南無阿弥陀仏と唱えて自らを律し、救われたように錯覚していると。それは健全な人間のあるべき姿ではございませぬ。その現実に背中を向けて逃げるなど、某にはできませぬ!」

「治部少輔、貴様」  

 高晴が眉根を寄せて視線を向ける。その様子を見て、範繁が小さく笑う。

「おかしいか? お主は私のことを機を見て裏切りかねぬ存在と認識していたようだがな。見当違いも甚だしい。冨樫への忠誠は誰よりも抱えてきたつもりだ」

「ふん、口だけではなんとでも言える。だが此度に限ってはその言葉を信じてやるわ」

「お主ら……」

「某も冥府にお供致しまする」

 二人のやり取りを口を挟むことなく見守っていた氏綱が呼応すると、某も、という声が口々に発せられた。

「某も参りまする!」

 そこにやや高音で震えを帯びた冨樫家嫡男・冨樫喜左衛門晴友(とがしきざえもんはるとも)の声が響くと、晴貞は真剣な表情で首を振る。

「いや、冨樫の血脈を途絶えさせるわけにはいかぬ。喜左衛門は女子供を連れ、ここを出て越中に向かうのだ」

「そ、某も父上と戦いたく存じまする!」

「無理をするでない。自らの手を見てみよ」

 晴友が眉を寄せて自らの掌を見ると、小刻みに震えているのが分かった。

「震えておる。いくら己を強く律しようとも、心底に去来する感情は抑えられぬものだ。本当は怖いのだろう?」

「い、いえ! 怖くなどございませぬ!」

「いいのだ。自分ではわからぬだろうが、お主は十分に強い」

 晴友は予想だにしない言葉に、目を瞬かせて晴貞の顔をまじまじと見る。

「お主はいつでも、民のことを思い遣ってきた優しき男だ。それは万人にできることではない。胸を張って生きよ。よいな」

「父上……」

 晴友は泣きながら静かに首肯すると、それきり黙り込んだ。

「詮五郎、越中日宮城の小島六郎左衛門尉を頼るのだ。頼むぞ」

「はっ、承知いたしました」 

 晴友の小姓であり、宗助の兄貴分でもある末松詮五郎友鎮(すえまつせんごろうともしげ)が深々と頭を垂れる。範繁はそれに倣うようにして、背後に控えていた宗助に目を向ける。

「宗助、お主も喜左衛門様に同行し、お守りせよ」

「嫌です」

 宗助がすぐさま顔を背けると、範繁は頑固な姿勢に呆れて自分の鼻の頭を摘む。

「我儘を申すな。お主ももう十五であろう」

「某も元服を済ませた立派な武士にございまする。ここで死ぬが本望にございまする!」  

 範繁は宗助の両肩に手を置き、視線をむかい合わせた。 

「何を言う。喜左衛門様を初めとする皆々を守ることは最も重大な御役目だ。誰も文句は申さぬ。それに、だ」

「それに?」

「娘を頼みたい。これは信頼するお主にしか頼めぬ。娘を一人にはしたくないのだ。親の心をわかってくれぬか」

 範繁は宗助に向かって頭を下げる。宗助は一介の小姓に対して頭を下げたことにも驚いたが、父親としての範繁の思いを痛いほど感じた。  

「……そこまで仰られるのならば、喜左衛門様に同行致しまする」

「うむ、頼んだぞ」

 範繁は宗助が無念に頭を垂れると、愁眉を開く。そして慈愛の表情でその頭を見つめ、クシャッと乱雑に撫でた。



◆◆◆



 闇夜に乗じて越中への道を急ぐ宗助ら一行の息は、総じてやや荒かった。

「姫様、大丈夫ですか」

「このくらい問題ないわ」

「お辛いなら仰ってくださいね」

「いたぞ、追え!」 

 追手の声が辺りに響き渡ると、一行の間には緊張感が走る。

「拙い。見つかった。我々は戦います故、喜左衛門様、小漣様は先にお急ぎくだされ。宗助も行くのだ!」

「詮五郎兄上、某も戦いまする!」

「お前は行け。そうでなければ誰がお二方をお守りするのだ」

「しかし、敵と相対するにはあまりにも人手が足り申さぬ!」

「ふん、お前のような小僧が一人増えたところでなにも変わらぬわ」

 突き放すような一言に、兄分と慕ってきた宗助は食い下がる。

「冷たいことを仰らないでくだされ! 我らは一蓮托生、そのように申していたではありませぬか! 某も一介の武士にござる。戦えぬ道理はございませぬ!」

「お主は昔から全く変わらぬな。真っ直ぐな男だ。だが今回ばかりは折れてやるわけにはいかぬ。何があってもだ!」

「詮五郎兄上!」

「うるさいわ! 我が儘をこれ以上申すな!」

 そのような口論が交わされる中、一向一揆勢の鉄砲が宗助を目掛けて放たれる。詮五郎はそれをいち早く察知し、咄嗟に宗助に覆いかぶさった。鉄砲を二発背中に受けた詮五郎は膝から崩れ落ちる。

「詮五郎兄上!」

 滴る大量の血を見て、詮五郎は残りの命刻が限られたことを知る。そんな状況で焦燥感に駆られることもなく、逆に笑いすら込み上げてきた。

「ふ、よもやこのようなところで死ぬとは思わなんだ」

「死ぬなどと、申さないでくだされ!」

「見て分かるであろう。もう俺は助からぬ」

「某も一緒に死にまする!」

「馬鹿を申すな!」

 詮五郎は膝立ちになり左拳をつきながら宗助の頬を力の限り殴る。宗助はその衝撃に反射的に頬を抑えた。

「お前の責務は宮内少輔様と本折の姫様を逃すことだ。それを完遂できなければ、貴様は主君にあの世で叱られるぞ! それでもここに留まると言うなら、俺はお前と絶縁し、あの世で呪ってやる! 早う行け!」

「よ、詮五郎兄上……。申し訳……、ございませぬ」

 詮五郎の掌を未練を込めて強く握り締めた後、宗助は足早に駆けていく。

「それで、良いのだ」

 詮五郎が満足そうに微笑むと、直後、詮五郎は再び鉄砲を食らい、力なくうつ伏せに倒れ込んだ。



◆◆◆



 喧騒に包まれる本陣には、数百人の兵が緊張の面持ちで開戦を待っていた。

「さて、野郎は揃って貧乏籤よ」

「いや、当たりくじと言った方が縁起は良かろう?」

「ふっ、違いない」

 山川高晴の軽口に、範繁が微笑んで開口する。両者の関係性がここにきて劇的な改善を見せたのは、誰の目から見ても明白だった。

「かような力無き守護によくぞ仕えてくれた。思えばお主たちには迷惑を掛けてばかりであったな。礼を申すぞ」

「もし来世があるのならば、再び加賀介様にお仕えしたく存じまする」

「進んで冥府への近道を選ぶとは、誠に酔狂な者たちよ。しかしこれほど心強いものはない。どうか頼りない儂に力を貸してくれ」  

 頭を下げた晴貞を前にして、将兵の間から鬨の声が上がる。

「ふん、貴様とこうして戦うことになろうとはな」

「数奇な運命よの。私より先に屍を晒すでないぞ?」

「それは此方の台詞だ。貴様こそ政にばかり傾倒して身体が鈍っておるのではないか?」

「心配には及ばん。こう見えて武芸の鍛錬は一日とて欠かさず励んできたわ」

 近づく敵の喚声に高晴は耳を震わす。

「愚かな一向一揆の雑兵どもがやってきたわ。皆の者、我に続け!」

「相も変わらず性急な男よ。しかし心強くもある」

 範繁が呆れたように笑うと、鷹揚に後を追った。



◆◆◆



 伝燈寺の大広間で、高晴と範繁は刀を畳に突き刺し、体重を預けている。疲労困憊といった様子ながら、その瞳には一矢報いてやろうという強い意思があった。

「これだけ殺っても次々と湧き出てくる。これが一向一揆の恐ろしさよ」

「ふっ、ここにきて弱音か?」

「抜かせ。ここまできたら最後まで足掻いてみせるわ」 

 何人もの敵兵が襖を開けて入ってくる。二人はそれぞれ複数人を同時に相手する。どうにか攻勢を凌いでいた範繁だったが、足に一撃を受けて膝を突いたところに二人の兵士が襲い掛かった。しかし冷静さを残していた範繁は咄嗟に足元の畳を持ち上げて盾として代用する。刀が畳に刺さって抜けなくなって焦りの色が見えたが、山川高晴が背後から斬り裂いて支援した。

「大口を叩いた割に大したことないではないか。その程度の膂力でこの俺に食ってかかるなど、百年早いわ! 立て。立つのだ。貴様が死ぬのはもう少し後だ!」

「ふ、言われずともまだ死ぬつもりなどないわ」

 範繁は痛みに苦悶しながら無理やり口角を緩ませて余裕を表し、満身創痍ながら片足立ちで刀を振るった。

 そんな中で、範繁は走馬灯のように去り際に告げた情景を痛切に脳裏へ宿す。

「よいか、宗助。物事に傾倒しすぎず、志を高く持ち、誰よりも視野を広く持て。それを以て冨樫が倒れるその時まで家を支え、最後まで遍く忠誠を貫くのだ。されど頤使(いし)に甘んじる事なく、やがて訪れる泰平の天下を支えよ」

 朦朧とする視界のなかで、敵兵がさらに雪崩れ込むのが範繁の目に映った。

「もはやここまでのようだ。寺に火を放て!」

 もはやこれ以上は抵抗できないと察した高晴は、兵に火を放たせた。既に意識を保持する事が精一杯だった範繁の右肩を抱え、晴貞が待つ部屋へ向かう。

「申し訳ございませぬ。もはや抵抗は限界にございます」

「そうか。二人ともご苦労であったな。斯様な弱い主君のため、命を賭して戦ってくれたこと、心から感謝を申すぞ」

「誠にもったいなきお言葉にございまする」

 返事のない範繁にも忠勤への礼を心から表すと、晴貞は静かに瞑目する。

「介錯を頼む」

「はっ」

 そして目の前に置かれた小刀を両手で持つと、自らの腹に勢いよく突き刺した。

「某も後を追いまする」

 高晴は主君に自刃させた不甲斐なさを恥じつつも、迷いなく己の腹に刀を添えた。



◆◆◆



「日宮城城代・小島六郎左衛門尉と申しまする」

「冨樫加賀介が嫡男、冨樫宮内少輔と申しまする。急に尋ねて申し訳ない」

「いやいや、冨樫とは昔から知己の仲故、お気になさらず」

 越中国守護代・神保家の筆頭家老である小島職鎮は、冨樫家との繋がりを強く持っていた。その理由は、職鎮自身が反一向一揆で親上杉派であるからだ。数年前に親一向一揆で武田派であった寺島職定を排除し、家中での実権を握っている。神保家に仕えていながら、実質的な上杉家臣と言っても過言ではない立場にあり、上杉からも越中衆の筆頭として厚く遇されていた。

「それより加賀介殿はいかなる仕儀に?」

「父上は寡兵で立ち向かい、冥府に赴き申した」

「そうであったか。さぞお辛いでありましょうな」

「お気遣い、痛み入りまする。我らは父上に命じられ、小島殿を頼って参り申した」

「そうであったか。宮内少輔殿は当家で客将として受け入れましょう。共に一向一揆と戦いましょうぞ」

「誠にかたじけなく存じまする」

「お疲れでございましょう。今日のところはお休みくだされ」

 晴友は小さく頭を下げ立ち上がると、侍女に襖を開かれ退出していった。

「由々しき事態よの。奴らが大挙して攻め寄せるのも時間の問題であろうな。上杉弾正少弼様も頭を抱えておられよう」

 加賀が完全に一向一揆の支配下となり、また織田も朝倉に敗れたということから、職鎮は一向一揆が強大な兵力を以て越中に兵を向けてくることを懸念していた。誰もいなくなった部屋で、溜息をついてしばらく虚空を見つめるばかりであった。



◆◆◆



「ずっと下を向いたままね。喜左衛門様もご心配よ」

 部屋の隅で力なく項垂れる宗助に、小漣は気遣わしげな表情で声を掛ける。

「治部少輔様は両親を早く亡くした自分に対して父のように接し、小姓として取り立ててくださった」

 小漣は横に正座する。宗助は微かに身体を震わせた。

「その御恩を返さず、敵を前にして逃げた自分がどうしても許せないのです。終いには私を庇った詮五郎兄上すらも見殺しにしてしまった」

「逃げるのがそんなに悪いこと?」

「悪いです。一人の男であり、武士なのですから。恥ずべきことです」

「私だって自分を許せないわ」

 小漣は立ち上がり、宗助の手を強く握った。その瞳に這うものはおおよそ淑女には相応しくなく、武人と言っても差し支えないほどに真っ直ぐだった。

「でも私は戦えないから。いても足手まといになるから。そうしないとととさまを困らせるから。ととさまはわたしたちを逃してくださったのよ。前を向かなきゃ、ととさまも悲しむわ!」

「姫様はお強いですな。御父上を亡くしてもなお、それほどまでに気丈に振る舞えるのは」

 宗助がようやく顔を上げて小漣を見上げると、しゃがんで顔を掌で挟み、ジッと目を見合わせる。

「悲しいに決まってるじゃない! でもうじうじ悩んでる宗助を見て吹っ飛んだわ!」

「姫様……」

「私だってまだ現実を受け止めきれない。ととさまがまだ生きてるんじゃないかって。そんなはずないのに、心のどこかで期待しちゃってる。ただの空元気よ」

 宗助は自らの不甲斐なさを全身で感じる。自分より歳下のか弱い女子にあまりに独善的な愚痴を溢し、父を亡くしたのが悲しくないはずもない。にも関わらず、その心情を理解したかのように述べてしまったのだ。未熟さに加え、羞恥心が襲ってくる。しかし麻痺した心はすぐに順応せず、弱音をそのまま口に出す。

「これからどうすれば良いのでしょうか」

「私に聞く? それは宗助が考えることでしょう? でも一つ、生きるからには前を向かないと。ととさまに胸を張れるように、悔いの残らないように生きなくちゃ」

 範繁に胸を張れるように、悔いの残らないように。その二つの言葉が、宗助自身の刺針として身体の芯に据わった。死ぬつもりだったはずが、範繁によって生き延びる道へと導かれたのだ。無念に包まれた気高き遺志を継いで、範繁の代わりに信念を貫かなければならない。そんな思いが去来した。

「不思議ですね。姫様にそう言われたら無理矢理にでもそう生きなきゃって思わされます」

「そうよ。後ろを向いてちゃ楽しくないでしょう?」

 楽しむ、宗助が生きる上でそんな風に思ったことはなかった。しかしその楽しむ姿を守りたいという気持ちがあるのを実感する。自然に頬が緩んだ。

「やっと笑った。やっぱり宗助は笑顔じゃないとカッコ良くないわよ」

 宗助は面を食らう。小漣は鼻の頭を指でポンと一突きした。

「ありがとうございます」

「ほら、もっと自然と笑いなさい」

 小漣は苦笑いの宗助の頬を摘んで伸ばす。

「やめてください」

「ふふ、おかしい顔」

「そりゃあそうでしょうね!」

 あははと無邪気に笑う。だが宗助は、張り詰めていた気が一気に融解したように感じた。そして胸に帯びた温かな感情に浸る。

「でも、ありがとうございます」

「急にどうしたの?」

「まだ自責の念は絶えませんが、なんとか踏ん切りを付けられそうです。治部少輔様が望まれたように、僕が姫様を守らないと」

「貴方に守られるのってなんだか心細いわ」

「せっかく立ち直りかけていたのに、余計な一言を仰らないでくれますか?」

「あはは、ごめんなさい」 

 小漣を睨むと、キャーとわざとらしい悲鳴と共に逃げるように縁側に出た。

「姫様はしょうがないお人ですね。一人にはしておけません。治部少輔様が姫様を託された理由が少し分かりました」  

 宗助が一人ごちると、耳聡く小漣が反応する。

「何か言った?」

「なんでもありません」  

 宗助の胸臆には主君である晴友と小漣を支えるという明確な決意が芽生えた。その温もりを包み込むように、宗助は静かに瞑目したのだった。



◆◆◆



 天正十一年(一五八三年)の秋。宗助は野々市に再建中の形を取り戻しつつある館の前で、すっかり和らいだ暖気に浸っていた。霽日の空に、赤腹の鳴き声が五月蝿く響き渡る。先程まで湿っていた地面も、景色を眺めているうちに既に蒸発していた。隣に佇んでいた晴友は、感慨深そうに寂れてしまった城下を眺めながら呟く。

「こうして再び野々市の地を踏める日が来るとは思わなんだ」

「紆余曲折ありつつもこうして戻ってこれたこと、望外の喜びにございまする」

「お主のおかげだ。私は城に留まって何も出来なかった」

 日宮城で客将として遇されてから数年、宗助らは上杉の助力を元に、国内外の一向一揆勢力の鎮圧に力を尽くした。

「適材適所というものです。家中の政に多大な貢献をなされたと、かつて六郎左衛門尉様もお褒めでした」

 晴友は小杉という地を任され、晴貞の言葉を反芻する様に政に尽くした。その甲斐あって、小杉の地は大いに繁栄し、多くの民に愛される存在となった。

「織田の捕虜となった時はどうなるかと思うたわ」

 しかし、金ヶ崎の退き口を乗り越え、再び天下布武に邁進していた織田の軍門に降ることになった。恩のあった小島家を最後まで支え続けたことで、小島職鎮からも信頼と奉謝の言葉をを賜った。

「治部少輔様が我らが生き延びる道を残してくださったのです」

「治部少輔が?」

 突然出てきた範繁の名前に晴友は眉を顰める。宗助が父代わりとし、誰よりも尊敬している存在であることは承知していたが、それを加味しても既に世を去った人物の名が出てきたことに当然ながら疑問を抱いた。  

「あの戦いの以前、秘密裏に織田へ接触していたのです。織田が天下を握った後、我らが厚く遇されるようにと」

「ふむ、ゆえに我らが捕虜となっても許されたと」

「真相は存じませぬが、少なくとも某はそう考えておりまする。織田に幾度となく立ち向かいましたからな」

 晴友と宗助らは、越中守護代であった神保長住を攫うために富山城を急襲したのち、織田の反攻で捕虜となった。織田にとっては油断ならない反抗的存在だったはずである。

「いくら加賀守護の末裔といえど、本来ならば打首でも文句は申せぬか」

 範繁存命の際に織田の侵攻に備えた水面下での接触による成果も助け、佐々成政の捕虜となった冨樫家の主従は間もなく前田利家に引き渡された。

「前田家には感謝せねばなりませぬな。野々市への未練を察してか、息子の利長殿に仕えるよう取り計らってくださった」

「左様であるな」 

 強い風が吹き、青い稲が大きくなびく。前田利長は松任四万石を任され、その一部であった野々市を晴友に下賜したのだ。

「しかし不思議なものよな。いつか越中に戻りたいと思う自分がおる」

「小杉では領民に慕われておりましたからな。もし越中に戻る際には、この本折宗助範堯にこの地はお任せくだされ」  

 宗助は胸を張る。晴友は数年の後、願望通じてか前田利長の転封に伴って、再び小杉の地に舞い戻る。この地に残った宗助は、本折家の当主として野々市を治めることとなる。 

「うむ、心強い限りだ。お主の子も聡明だと聞く。本折も安泰よの」

「有り難きお言葉にございまする」

宗助は数年前に小漣との間に子を授かり、健やかに成長していた。

「織田の上様は亡くなった。しかし泰平の世はもうじき訪れるであろう。そのために力を尽くそうぞ」

「ええ、無論にございまする」 

 天下の趨勢が概ね定まり、羽柴秀吉が織田に代わって覇道を歩みつつある。新たに主家となった前田家は、賤ヶ岳の戦いで敵方についたものの、能登や加賀の一部が安堵され、その覇業に加わっている。長く続いた乱世の荒野を切り拓き、訪れる泰平の世に期待を込めて二人は青々とした空を見上げた。


=終=




 如何でしたでしょうか。この作品は、私の作品である『八曜の旗印』という戦国転生ファンタジー小説を書いている途中に、調べた資料に基づいた作品として執筆したものになります。もし少しでも良かったと思って下さった方は、良ければ星評価を頂けると大変嬉しく存じます。

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馬稼者の最期と加賀百万石の灯火 嶋森航 @Kiki0914

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