月見酒
スズヤ ケイ
月光の魔力
普段私は、満月やら十五夜やらに心惹かれることはなかった。
しかし、今日の仕事の帰り道。
ふと見上げたまんまるな月に、何故だかとても心がときめいた。
そういえば、中秋の名月と言うのだったか。
そう呼ばれるのも納得の、見事な真円が私の心を鷲掴みにしていた。
せっかくだ。今日は月見酒と洒落込もう。
思い立った私は家に帰り着くなり、いつもはすぐに立ち上げるパソコンを放置し、スマホも電源を切ってソファに投げ出した。
そして酒の準備をすると、どこが月をよく見渡せる場所かを思案し、それはすぐに見つかった。
幸いにも、ベランダがちょうど満月を真正面に捉えられる位置だったのだ。
私は椅子とミニテーブルをいそいそとベランダに出すと、まずは一献、と名月に一杯捧げ、テーブルの向かいに置いた。
こうすることで、月の精が降りてきてくれそうな気がした、と言えば子供じみているだろうか。
しかし今日の私は月の光に当てられたように、どこか浮ついていたのだ。
手酌で注いだ日本酒を、正面に置いたグラスに軽く当て乾杯を告げると、月の光を浴びながらちびりと一口含む。
快い香りが鼻から抜け、飲み干した喉を軽く焼いた感触さえもが新鮮に感じられた。
いつもの安酒が高級酒に早変わりしたようだ。
これが月光の魔力というのなら大したものである。
思えばこの時間は持ち帰った仕事と睨めっこをしつつ、乱暴にビールをあおっていたものだ。
こんな風にゆっくりと月を愛でつつ、酒を飲むためだけに時間を取ったことがあっただろうか。
珍しく涼しく湿気の無い秋風が、多少火照った身体を撫でるのが心地良い。
いつもならうるさいと思い、いらついてしまう虫の音も、程よいBGMとなって耳を癒す。
まるで今日の中秋の名月という主役に合わせて、舞台がセットされているように思える。
普段せかせかしている私は、自分の部屋から月がこんなにも綺麗に眺められることすら知らなかったのだ。
私にそれを教え、たまにはゆっくりしてみろという名月の誘いだったとしたら、なんと光栄なことだろうか。
「ま、もう一つ」
私は向かいのグラスに気持ち日本酒を足すと、自分にも改めて注いで、まんまるお月さまへ向けて乾杯をした。
月見酒 スズヤ ケイ @suzuya_kei
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