後編
〝……××県警によりますと、×月×日午後、××市で、××××さんと××××さんのふたりが死亡しているのが発見されました。警察は殺人事件として捜査しています。捜査関係者によりますと、遺体にはそれぞれ腹部など上半身に刃物で刺された傷が複数あったということです。また、犯行現場を目撃した男性も軽いけががありましたが、命に別状はないということです。……〟
◇◇◇
包丁を通して伝わる、肉を貫くあの感触。初めて浴びた血はあたたかく、鉄の味がした。あんなにも怖かったあの小太りの男性が、いとも簡単に屈服して、血だまりの中で痙攣している。後からきた痩せぎすの男性も、脆かった。包丁を通して伝わる、肉を貫くあの感触。死体を見て混乱しているところを不意打ちするのは容易だった。あの、肉を貫く感触。もうひとりには逃げられてしまった。肉を貫くあの感触が包丁を通して伝わる。肉を貫くあの感触。肉を貫く、あの。
「沙織?」
はっ、と気づいて、わたしはいまに意識を向ける。目の前にグランド・ピアノがある。ドビュッシーの、ベルガマスク組曲の楽譜。
「どうした? 次は八小節めだよ」
「あ……」
いけない。お稽古中なのだった。続きを弾かなくちゃ。指先がふるえる。不協和音しか出せない。肉を貫く感触がよみがえる。耳元で男性の声がはっきりと聞こえる。
人殺し
「ひっ……!?」
「さ、沙織?」
「あ、ぅ、ぁ」
「顔色が良くないな。体調が悪いのなら、そう言ってくれないと。今日はしっかり休んで、明日からまた発表会へ向けてがんばろうな」
「……は、い。ごめんなさい……」
「沙織……本当に大丈夫か?」
「ええ、心配いりませんわ、お父さん……」
おぼつかない足取りでピアノのお部屋を後にする。わたしの背後から、わたしが殺した男性がついてくる。そしてうつろな目でわたしを見つめている。
そんなわけないのに。
(……もう、嫌)
わたしは男性を殺した。人間社会で最も嫌悪されるべき、取り返しのつかない罪を、わたしは、犯した。
(もう嫌なのに……つらくて、苦しいはずなのに……)
両手で顔を覆う。
(ああ、どうして……どうして!)
どうしてこの顔は笑っているの。
「ひ、ふふ、ふ、う……ふ、ぐ……、ううぅぅ…………」
怖くて怖くてたまらない。
◇◇◇
男性たちを刺した後、路地裏で体操服に着替えて、学校には行かずに帰った。お母さんや家政婦は心配してくれたけれど、わたしは包丁や返り血まみれの服や、汚れた肌を拭いたハンカチを隠さなくてはならなかったので、すぐお部屋に閉じこもった。冷静になろうとした。でも、次から次へと考えが浮かんできて、とまらなかった。わたしは悪魔だったのかもしれないと思った。両親には善良な存在でありなさいと教えられていて、自分でもそうありたかったし、そのように行動してきたつもりだった。全部崩れ落ちた。
(わたしは、悪い子)
ぽろぽろと涙があふれた。ベッドの上で枕を抱いて、身震いした。
わたしはもはや、悪い子で当然なのだわ。
殺した男性がわたしを見つめる。おまえは人殺しだ。悪魔だ。化け物だ。そう囁いている。
ほんとうに、聞こえてくる。
聞こえるわけがないのに。
(うぅ……だれか……)
だれか助けて……。
『だから、助けたい!』
すすり泣きながらわたしは、結花さんの言葉を思い出していた。
◇◇◇
わたしはスマートフォンを持たされていなかった。クラスの連絡網を見て、結花さんのお家に電話した。はじめに結花さんのお母さまと一言二言お話して、結花さんに代わっていただいた。
「沙織ちゃん、だいじょうぶ? 急に休んだから心配してたよー」
結花さんの声を、久しぶりに聞くような気がした。わたしはなんだかほっとして、胸がぽかぽかとした。
「ええ、大丈夫。ちょっと……風邪を引いただけよ。それより、結花さん。明日の土曜日、予定はあるかしら?」
「明日? 特にないよ。えっ! もしかして、遊びのおさそい!?」
「会って、お話がしたいの」
電話口の結花さんは、とても弾んだ声で「わー! 遊ぼ遊ぼ!」と喜んでくれた。かわいい方だわ、と思う。わたしをいつも癒してくれる。
「沙織ちゃんから誘ってくれたの初めてだよね!? うれしいな~!」
「そ、そうでしたかしら……」
「沙織ちゃん、いままで遠慮しちゃってたんでしょー? 良い子すぎは損だよ~」
「えっ?」
良い子。
わたしが……?
「でも、それも良いところだよね! 沙織ちゃんは才能がいっぱいあって羨ましい!」
「う…………」
「あ、あれ? 沙織ちゃん、どうかした?」
「……いえ……」
嬉しいと感じるはずだった。けれど、なぜか心臓が不規則に脈打つだけだった。嫌な汗が噴き出る。
「ご……ごめん、結花なにかイヤなこと言っちゃった?」
「い、いいえ、そんなことは……。……じゃあ、また明日」
「うんっ! またね!」
◇◇◇
もしも、大きな罪を犯してしまったら、どうするべきだと思う?
結花さんにそう質問するつもりだった。でも、きっと答えはわかっていた。結花さんは良い子で、強い子。だから、償うべきだよ、と言うはずだ。
今日は土曜日。
結花さんと会う日。
待ち合わせ場所は、街角の公園。
わたしは背中を押されに行く。周囲に罪を告白する、その勇気をもらうために結花さんに会うのだ。わたしは少年院に入るのだろうか。あるいは、正当防衛が認められるのだろうか。どうなるにせよ、わたしは失う。だって人を殺したのだ。結花さんというかけがえのない友達さえも、きっと、離れていくだろう。
街を歩く足取りが重い。
結花さんの笑顔を見られるのは、これで最後になるのかもしれない。
(きっと、それでいいのだわ)
わたしは償わなくてはいけない。
だから、失わなくっちゃ。
並木道の木漏れ日に彩られながら、わたしは、涙の滲む目を上げて背筋を伸ばした。
結花さんとの待ち合わせ場所は、そこの角を曲がった先。
「おい」
背中にチクリと鋭い物が当たった。
心臓が凍りついた。
「いま、きみにナイフを当てている。声を出さないで。大丈夫。一緒にこっちへ来てくれるね?」
背後にいるのは、このあいだ逃がした最後のひとりだった。
「いたっ、痛いっ」
「だから~声出すなっつってんだろ」
「や、やめ、て……やめ、て、くださ」
「この前はビビったけど、やっぱガキだわ。オラッ」
「ごえっ」
わたしは髪の毛を掴まれたまま、お腹を殴られる。自分の口から、自分でも聞いたことのない声が飛び出す。
「よくもおじさんのお友達をぶっ殺してくれちゃったね~。まあ裏ネットで知り合った奴らだしどうでもいいんだが。でもなんか腹立つからこうして探してたわけよ。鹿原沙織ちゃん、小学四年生、資産家の娘。また路地裏が近い道を選んでくれちゃって、ガキは脳が小せえから学習しねえんかな?」
左の手首をおそろしい力で握りしめられ、振りほどけない。暴れても無意味で、両手首をガムテープで縛られた。
「沙織ちゃん、おまえはクズだよ。人を殺してんだからな。クズは何されてもしょうがねえよな。死刑だよ死刑。死刑になるってことは、人権がねえってことだ。そう思うだろ?」
男性が首を鳴らして近づいてくる。
わたしは、尻もちをついて、ふるえることしかできない。
死んだはずの男性も、傍観しながらぶつぶつと喋る。その通りだ、おまえはクズだと、言っている。
これは。
これは報いなのだわ。
ふたり殺した。邪悪な罪を重ねた。
だからきっと神様が、わたしを罰しようとしているのね。
人権がない。そう言った。わたしはきっと、人としてさえも生きられない。
でも、受け入れるべきなのだわ。
すべての喪失を受け入れなくてはいけないのだわ。
涙でいっぱいで視界がおかしい。
言い聞かせる。
失わなくちゃ。
失わなくちゃ。
「やめてっっ!!」
防犯ブザーが響いた。
路地裏の出口を見た。
光を背に、結花さんが立っていた。
「な……!?」
「け、警察呼びますよ! だから、ひどいことしないでっ!」
結花さん――――
「結花のともだちなのっ!!」
結花さん。
助けに来てくれた。
ひかりの満ちる世界から、結花さんが来てくれた。
わたしはこれから救われる。
罪のない桜並木の道を、一緒に歩いていける。
よかった……
ああ、よかった……
「違うよな?」
死者が耳元でささやいた。
結花さんに気を取られた男性がわたしに背を向ける。尻ポケットの中で、ナイフが折り畳まれている。
ほとんど反射的に、男性を後ろから突き飛ばした。
男性は大きくよろけるけれど、踏みとどまって、わたしを振り返る。
「おい……何のつもりだ」
わたしは手首を縛られたままの両手で、奪ったナイフを握りしめていた。
「ち、ちが……」
ドクンドクンと心臓が跳ねる。
「違うの……わ、わたしは、あはは、どうして……」
「おまえは」
もうどの声が現実なのか区別がつかない。
「悪魔だ」
「クズ」
「人間じゃない」「悪魔だ」
「殺人犯」「おまえが殺した」「化け物」
「人間性がない」「社会の癌」「犯罪者」
「嫌だ……」「嫌……わたしは……」「あぁ……」
「でも……そうよ……」
「わたしはクズ」
「そうだ。おまえはクズ」
「わたしには才能があったのね」「悪い子という才能」
「おまえはとびきりの悪い子で」「きっと治らないのだわ」
「もう戻れないのね」「おまえは知った」「知ってしまったの」
「失うことは気持ちいい」
「うふふ……」
「やめて……」
「うふ、ふふ……」「うふふふ……」
「やめて! やめてよ!」
「うふふふふふふふふ…………」
「もうやめてっ! 沙織ちゃん!」
結花さんの悲鳴で我に返る。
わたしは自由の利きにくい両手で、真っ赤なナイフを逆手に持っている。
ビグッ、ビグッと異常な痙攣をする男性に、馬乗りの状態。
これをわたしがやったのか。
結花さんが腰を抜かして、その場から動けずにいる。顔面は蒼白で、ガタガタと震えている。わたしの大切な結花さん。日なたの校庭で走り回って遊ぶ姿が似合う結花さん。わたしもそちらへ行きたかった。良い子になって結花さんと楽しくおしゃべりしたかった。結花さんが差し伸べる手は、わたしを明るい方へ連れていくはずで、だから、ふさわしい人間のかたちでいたかった。
なーんて、嘘。
男性がまだ抵抗の意思を見せる。汚らしい手が伸びてくる。
わたしはその手を斬りつける。指が裂けて断面から鮮血。
んっ、んっ。声を上げて、ナイフを何度も刺す。
だって、これ、すっごく気持ちいいから、だから、仕方ないでしょう?
「そうでしょう、結花さん!? んっ、んっ! し、しかたないの! 殺さなくっちゃ! 殺さなくっちゃ! 見て見て結花さん! わたしを見て! 絶対わたし、変なふうに笑ってる! んっ、んんあっ! どうして、こんな、笑ってしまうの!? ふふっ、なんで、どうして!? ああ、男性が死んでしまうわ! このままではまた死んでしまうわ! えっ? なあに、おじさま? ええ、ええ、そうよね! おじさまのおっしゃる通りだわ! これ、楽しいのっ! 楽しいから笑っちゃうの! うふふふっ! わたし、悪い子だから、楽しく人を殺しちゃうんだ~! わ、悪い子だからし、しかたないわよねっ! ふふっ! だって、だって、うふふふふっ! 刺すと、ぐじゅってなって、いっぱい血が出るの! 人殺すの楽しい! もう頭おかしくなっちゃった! ねえ、結花さん! ごめんなさ、ふふっ、ごめんなさい! でも止まらなくてっ! うふふ、ふ……」
「きもち、わるい」
結花さんの口から、言葉が洩れた。
わたしは大粒の涙を流していて、ぼやけていたけれど、それでもわかる。
恐怖と、嫌悪と、軽蔑の眼差し。
終わっちゃった。
もう学校にもいられない。ピアノの発表会だって無理。全部捨てちゃった。まともな人生も、大切な人のことも。
ああ……
もっと……
「うふふっ! そうなの! 沙織は悪い子! だからぜーんぶドブに捨てますねっ! ああ、世界がぐちゃぐちゃで綺麗! うふっ! うふふふふふふふふっ!」
目の前が……
赤黒くきらめきだした。
もう迷いはなかった。背徳が、罪が、喪失が、こんなにも甘美なものだなんて。うれしい。呼吸が苦しくて、そのことが愛おしかった。やっとわかったの。悪い子だからわかったの。終わりの景色はうつくしい。
――『悪い子の沙織さん』了――
悪い子の沙織さん かぎろ @kagiro_
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