11月26日 書き捨て

どうもぬかるみ派然り感傷マゾ然り、80年代のシティボーイ的感性を引きずっているという印象を強く受ける。都市のセンスエリート的感性を代表しており、センスエリートを含む日本人が――一般的な傾向として――お茶漬けの味や鳥居、道端の地蔵に慣れ親しんでいるという事実には無頓着であると感じられる。彼らにおいては思想がファッショナブルな意匠となることはあっても、20世紀の西欧の哲学者たちのように、現に自らを規定し、自らが受け継いでいる諸要素を取り上げ、それに対して異なる態度を取ろうと模索する構えが無い。朱子学と陽明学の伝統を引き継ぎ、発展させることが、日本哲学東洋哲学の枢機であるはずだったのですが、そうはなりえなかったところに近代地球史の不幸がある。

(ただ一方で、日本で流通するデカルト・カント・(ヘーゲル・マルクス・)ショーペンハウアー式の「哲学」は合理論・独断論の系譜にあるもので、政治哲学においてもしばしばジョン・ロックやルソーといった啓蒙の思想家が目立ち、ジョゼフ・ド・メストルを始めとする「反動」思想家の受容ひいては「反動」思想の訓練は、少なくともアカデミズムの領域ではよく進んではいない。進歩を口実にした諸帝国の躍進の時代に本邦がフィロソフィーを受容し、以後も脱亜入欧・戦後民主主義をとっていったことの副作用がここに現れている。西欧の哲学者が己の伝統を引き受け、そこから思考する、言ってしまえばおらが村の思想を展開するに過ぎないとしても、その伝統が合理論、独断論に傾いていることは、私にも否定しきれない。生の哲学にしても、思弁を足掛かりにしている点は変わりない。思考するのではなく、生きる…などと言われるが、その生きることをもっともよく実践する者をもっともよく擁護する「反動」の伝統に、独断論的哲学は与することができない。

私個人としては記紀に取材することはイギリス人がベオウルフに取材して近代人になろうとするようなもので、古典文明である漢文化を自家薬籠中の物とする努力こそ必要だったのではないかと思えてならないが、これは素人の思いつきに過ぎない。メストルのフランス語全集はE・シオランが序文を出してなぞいる。久々のフランス語の訓練に良いかもしれない。)

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