『すばらしい新世界』のマルクス主義に対する別解
マルクスは搾取的労働の撤廃を要請し、未来においてそのような社会がありうると書いている。とりわけ19世紀の労働環境は劣悪であり、マルクスは同時代の悪を未来において根絶することを期待した。この未来における理想社会のヴィジョンのためにマルクスの人間主義的解釈が生まれもし、またマルクスを千年王国論の末裔と見做す論議が出されもしたのだが、対してハクスリーは極めて即物的な解決法を提案する。
彼の解決法は発生における選別と条件付けの二つである。まず選別について言えば、一つの受精卵を大量に分割してその一つ一つを五体満足の人間に仕立てるという技術の副産物として、分割の際に出来の良いものと悪いものを選り分ける。そこから条件付けの工程に入り、胎児の段階から刷り込みを受けることで、αからεまで区分される各階級の人間たちは、それぞれ自分の属する階級が他の階級よりも良いと感じるよう教育される。その結果、最高のα階級は肉体を酷使しない己の階級に満足し、最低のε階級は頭を絞る必要のない己の階級に満足するという社会が生まれる。ε階級は決してα階級を打倒しようとは思わないし、かれらはα階級が怖気をふるうような仕事にも喜んで従事するだろう。労働の苦痛――古代ギリシアの上流階級の語彙では労働と苦痛とは同じponosの語で呼び習わされていた――が撲滅されることはない。一面においては剥き出しの階級社会である。
ただし、ここに二点ばかり注釈を添える必要がある。一つは、フォード紀元の未来世界では非常に高いレベルの快を感じられる文化的厚生的事業が全階級に開かれていることである。現在のVRをいっそう高度にしたような娯楽設備が一般化しているほか、ソーマと呼ばれる健康被害の無いドラッグが常用され、快楽物質を安全かつ大量に分泌させることができる。また避妊が一般化し性的タブーの意識も消滅しているためフリーセックスが常態化しており、本作終盤では開けた野原での集団乱交さえ描かれる。刷り込みのおかげで高い社交性が常識となり、ほとんど誰もが明るく気さくに振舞って、対人不安とは無縁である。健康面についていえば、どの階級の人間であれ死ぬまでその体は若々しく保たれ、眠るように穏やかに死ぬことができる。最低とされるε階級でさえそれは変わらず、19世紀の労働者のように、労働によって心身を酷使し、体を壊して若死にするということは決してない。苦痛なく生きて死ぬことができるのは、消極的だが快といってよいだろう。全体的に言って、ε階級の境遇は19世紀や20世紀初頭の労働者に比べて格段に良い。強固な階級社会であることは下層階級の悲惨を必ずしも帰結しないという思考実験上の仮説がここに見られる。
第二に、階級社会が下層階級の悲惨を必ずしも帰結しない以上、階級の存在もまた必ずしも否定されるべきものではなくなる。従来の階級社会が往々にして腐敗を招き、その腐敗を打破するために種々の方策がとられてきたことは事実である。しかしまた一方の事実として、社会を成立・存続させるための現実的な条件として、構成員の全員が士大夫であるような人間の集団は適切でzない。勅書を起草してもそれに従う人間がいなければ意味がない。少なくとも従来の社会においては多少とも分業が行われており、西欧でもカルヴァンはあらゆる職掌に父なる神という後ろ盾を立ててこれを擁護している。特定の職掌にふさわしい人間という観点がそれ自体多分に生得説に寄ったものであり、そのような分類を可能とする確信はどこから来るのかと問うことはできる。しかしあらゆる職掌がそれぞれの立場から肯定されることは、どのような善意からであれある職掌が卑しまれるよりも望ましい。(ただし、思うに、奴隷制廃止論者は文字通り「(労働者を)奴隷として酷使する体制」に反対しているのであって、奴隷が従事する労働を卑しむためにかれらをそこから解放しようとするのではない。)
もちろんマルクス主義者の言うように、技術の進歩を通じてあらゆる労働を誰にでもできるほど簡単な部分へと細分化し、ひとつの仕事に専従する者を無くして、労働の苦痛、あるいは現在の意味での労働そのものを消滅させるという方法は考えうる。マルクス主義は専業という形態を消滅させることで社会からあらゆる格差を撲滅しようとした運動だったと言い換えることもできる。高度な機械化によって労働の負荷が極限まで軽減されるという未来志向、進歩史観はマルクス主義が啓蒙のユートピアから拝借した要素のひとつである。マルクス主義の当否はこの下部構造の変革の当否にかかっているのではないのか。
カール・カウツキーは『トマス・モアとユートピア』の中で、『ユートピア』が描く社会を社会主義的政体の先駆として解釈しつつ、ユートピア島の市民全員が熟練を必要とする手工業に従事していることを挙げて、その非近代性を指摘した。なぜ全市民が労働から解放されるのではなく、かえって全市民を労働に拘束する必要があるのか。それはモアが依拠した16世紀初頭の社会には、19世紀中葉のような大規模な資本主義的生産が未だ実現しておらず、手工業と零細的農業という非近代的な生産方式しか存在しなかったためである。19世紀には、科学技術の発達によって大規模生産が可能となり、同時に生産において人間が経験を蓄積する必要も少なくなっていった。大量の非熟練工が存在できるようになったことは、それ自体科学技術と生産方式の発展の賜物である。このように大規模な資本主義的生産が実現した社会においてこそ、それを可能とした科学技術を一層発展させていくことで人間が従事する労働の負荷を極限まで軽くし、各労働者がひとつの仕事に従事するのではなく、色々の労働を次々と変えて従事していくという未来像を描くことができる、とカウツキーは主張している。
プロレタリアートにおける労働の単純化・非熟練化を敷衍して、あらゆる労働の単純化を達成することによって、社会に必要な労働のすべてを万人に開く、それをもって人間を平等化するというのがマルクス主義の労働観の要点であったが、21世紀現在の状況を見れば、西欧も本邦も、あらゆる労働の単純化という方向には必ずしも進んではいない。それどころか、一部においては労働がいっそう複雑化し、複雑化した労働形態が広がっているために、労働者をいっそう疲弊させているとさえ言われる(この辺りについては『官僚制のユートピア』や『ブルシット・ジョブ』をはじめとする書籍が参考になるはずだがまだ読めていない)。マルクスやエンゲルスは19世紀という西欧においてあまりに急激に各種の変化が進んだ時期に生きたが、そのペースは必ずしも持続しなかったし、必ずしも同じ方向に進んだのでもなかった、と言うことができる。
そのような分業社会において、己の職掌に対する誇りを確実なものにするフォード紀元の未来世界の方法は、分業を保ちつつ幸福を増進する方法として優れている。
以上を要約すれば、ハクスリーが描いたフォード紀元の未来世界は、科学技術によって労働を極限まで単純化し分業を消滅させることで階級格差を解消しようとしたマルクス主義に対して、同じく科学技術の発展を通じて快楽を極限まで増進するとともに生物としての人間に強固な刷り込みを行うことで分業に己を最適化させるという別解を提出している。
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