わたしは十字架に架けられたナザレのイエスよりも地蔵菩薩により親近感を覚える、歴史的実在性で言えば前者の方がはるかに勝るにもかかわらず

7月20日


 フッサールではなくハイデッガーにより寄って行ったのは、どうも意識よりもそれを構成する諸要素への興味が多くあるらしく、また実質としてそのような議論であっても「心の哲学」と名乗るなどあたかも意識・心を主題化するような分野に対しては忌避感を抱くようだ。


 意識を特権的な場とみなす議論は必ずや古色蒼然たる魂の観念と結びついており、それは霊魂の不滅、造物主に似せて作られた人間という一連の神話を是認することとなる、どうもそのように考えているらしい。「滑りやすい坂」論法だ。この論法はいかなる場合でもあまり褒められた形式ではない。この論法は直感的な不安に訴える。あくまで個々人や集団の感じる不安を根拠として言われる議論であるから、その不安の根拠は問われない。障碍者差別はT4作戦へ繋がっている、マイノリティ差別はジェノサイドへ繋がっている、移民受け入れは伝統の崩壊へ繋がっている、いずれも議論の形式としては全く同じであるという点に疑いはない。滑りやすい坂という象徴的表現がそれ自体理路ではない要素への訴求力を持つ。あちらが詭弁でこちらが道理だという判断の根拠は、ただ互いの依って立つ世界観や善の構想だけがある。(ここから完全に脱線するが、反差別の文脈でこの手の論議をするときは、「滑りやすい坂」よりも「根治療法」を持ち出す方が効果的ではないか――と疑う。)


 意識は魂の謂か。少なくとも意識から魂的な要素を可能なかぎり削り取ったのがフッサールであったように聞こえてくる。内的時間意識の現象学とか文庫になってるのに読んでないんですね。デカルトから勉強しなおすか、しかしいっそう独断論者だ‥‥などと考えて今に至る。


 ハイデッガーについて。彼は生の事実性というタームを鍵に意識の扉をこじ開け、共同存在の環世界へ踏み込んだ。意識が内界と外界の境目であるとしたら、事実性の観念は、意識の門を越えて存在へ踏み出す銀の鍵であったと言えないでもない。スピノザやライプニッツという独特の論客を除けば近代哲学者の多くはデカンショもヘーゲルも意識を特権的な場として扱ってきた。個人の意識がまずある。カントの場合はあらゆる個人の意識が共通に持つ形式として時間と空間が言われる。ハイデッガーはどうか。個人的意識は考察の最初の場ではある。しかしそこから共存在とか相互共同存在とか言われる。他者へ「感情移入」できるのはもとをたどれば個人が共同の存在という形式に参与しているからだと言われる。やはり独断論だが、そこでは個人の魂、神に象り造られた魂は大きな意味を持たない。


21日


 形而上学史の話をすれば、生身の人が生きている世界が考察の中心的対象になるのは比較的新しいことで、この学問は文字通り形而上の事柄を中心として扱ってきた。ラテン語世界において哲学は初等神学と同義だったが、医学や法学と異なりこれらの分野はあくまで地上の生活とはかけ離れた事柄を扱うものだった。日常生活という虚飾の覆いの下に真実が隠れている、と言われる。すると、この虚飾の構造についてはそれほど注意が払われない。生活世界の構造に関心を注ぎこれを分析しようと試みた最初の大著が『存在と時間』だったと言ってよい。信仰者の心理の現象学的分析もあったようだが、ここでハイデッガーはあくまで世俗的人間の日常生活、ケの生活を考察の対象にしている。その虚飾・真実如何にかかわらず、事実として人は生活している。その事実生きている人が日々感知する世界はどのような構造を持っているか? それが『存在と時間』前半部では展開された道具分析や現存在分析の要だった。死への存在や先駆という後半の論議は全く異なった場所に力点を置いている。


 46年の所謂ヒューマニズム書簡で提起される「言語は存在の家である」という独特のテーゼは『存在と時間』以降30年代の間に温められてきたものであるらしい。『存在と時間』以降のハイデッガーは哲学史的な講演や講義を行いつつ詩人の解釈もぼつぼつ行っていくのだが、これが全集版にしか収録されず手に取るハードルがあまりにも高い。なぜか自分も文庫のあるものばかり読んでしまって全集にのみ収録されたこれらの論考を見ていない。しかし詩人の解釈というところから独特の言葉の利用という観点にハイデッガーは進んでいく。その結実のひとつとして上のテーゼがある。


 史家に曰く、ハイデッガーはトラークルやヘルダーリンといった詩人の解釈の中で、明確にSage、つまりゲルマンのサガに接近していった、と言われる。戦後フランスの哲学者フィリップ・ラクー=ラバルトは、このハイデッガーのサガ傾倒に難色を示したようだが、その難色は戦後のキリスト教礼讃と軌を一にしており、嘘を本当のことだと言う教えを正当化しようとする、迷信深く蒙昧な人間の欺瞞がここには見られる。



 天地や人間の創造は、第一に現代の自然学上の合意に反するという点、第二にその創造の対象は地球全体ではなくヘブライ人の居住地域やヘブライ人自身のみであったという点、のふたつから反駁されうる。


 第一の点について。観測データから人が住んでいる地面はおおむね球体であるらしいという合意がなされている。もし神が全知であったなら、その事実を知って、地をおおむね球体に造り、多くの者には隠されていた事実を自ら選んだ民に教えていなかったのは不思議なことだ。人間の創造については、肋骨からの人間の創造という点が、生物の発生に関する一般的な知見と相反する。教義の根幹にこのような無知蒙昧が組み込まれた迷信が、たとえばアメリカ合衆国という強力な軍隊を持った国家で広く信じられているということは、恐るべき悪夢的事実であると言える。


 第二の点については、世界各地の神話に共通して言えることだが、神々による「世界創造」はしばしばその神話を信じる集団の生活領域の創造に等しい。この点がもっとも明らかに現れているのは所謂日本神話で、大和朝廷の集権化の過程で編纂された豪族の氏族神の系譜の中では、あくまで朝廷の支配領域が創造され、朝廷の領民が創造される。泥を掻きまわして作られる島々の名は日本列島の部分に一致する。同様に、中国の女媧は泥や土から蒼氓を、貴顕を創った。バビロニアのティアマトやゲルマンのユミルも、その死体から地球を創ったわけではなく、ウル、バビロン、その他の都市の地盤や冷たく深い森を創った。ユグドラシルはいくつかの他界を持つものの、それらはすべてゲルマンの同胞にのみ開かれている。そのことは、ヴァルハラに迎えられるサムソンやヤマトタケルという情景が明らかに不合理であることから、はっきりと知られる。そしてエホバもまたヘブライ人の始祖アダムとハヴァーを創り、かれらの住むべき故地とともに現在の生活領域を創造した。


 ヘブライ人の起源神話として創世記を読むことは正当だが、人類全体の起源を語るものとしての創世記という解釈は誤りである。少なくともそう言わなければならない。福音書だけであれば独自の集団のマニフェストともなりえた教団は、ヘブライ人の歴史書と起源神話を取り込んだことで、上記の第二の点に関する誤解を生じ、誤りの度合いをいっそう強めることとなった。


 ヘブライのいち神格、ヘブライ人の創造主に過ぎなかったものが、全世界の創造主だったということになる。アダムとハヴァー、原罪、それらはせいぜいヘブライ人にのみかかわることだった。少なくともエホバは中原や淡路島を創ったわけではなかったし、イザナギとイザナミも地中海を掻きまわしはしなかった。天の下しろしめす……と言われるが、その天の下とはせいぜい関東から近畿、中国、四国、九州で、現在の青森まで伸びたのもだいぶ後の事だろう。少なくとも天地創造説という妄説を真に受ける人間は、迷信深い蒙昧の輩と見なさないでは、近代人として辻褄が合わない。欧州人は信仰においてキリスト教という迷信を信じる未開人なのであって、そこをまず一度は呑ませなければ相対主義も構造主義も始まらない。未開人であることを恥じるでもなく、直近の戦争の敗者の思想的背景を理由に己の正当化を図る迷信家たちを、未開人であるという理由で罰する必要があるのだが、これが難しい。


 以上の反キリスト教論は、一言で言えば「嘘をつくな」という点に収束する。世界に対する素朴な理解か、初めから他人を謀るつもりで書かれた偽書か、既存の文書に対する誤解に基づいて、キリスト教徒の世界観は構築されている。


 大乗経典は今あげた三者のうちの第二者に相当する。仏教教団が己を維持するため蒙昧な民衆の呪術的世界観に譲歩しつづけた結果、教団はバラモンのような祈禱を行うようになり、ついには固有の神話を捏造するに至る。まず浄土の観念が捏造される。六道輪廻――そもそもこれ自体現代の自然学上の合意と一致しない――の外に、涅槃とは別の領域(そもそも涅槃とは空間的なものなのか、むしろ心理的な状態を指すものではないのか)である浄土が、そしてそこを治める仏が想定される。覚者が超越的な神々へと変容する。浄土は涅槃に至ることの困難な人間のための場で、浄土へ転生した人間は涅槃に至るための修行に励む、と当初は言われた。浄土の性質が変容することで、釈迦牟尼に紐付けられる教義の核心が別のものになる。中国及び日本の浄土教に話を限っても、浄土が来世の楽園と同一視される。この時点で既に釈迦牟尼は過去生の仏陀の化身であるとされているため、もはや歴史的釈迦牟尼の生老病死に対する苦悩をはじめとする逸話は意味を持たないとしても、仏陀の説が救済と楽園を志向するということになるとは、阿呆の妄言かと疑わしい。一連の浄土経は捏造された神話的文書であり、私はあらゆる浄土宗門徒に対して「嘘をつくな」と言わなければ事の辻褄が合わない。


 嘘をついてはならず、嘘を本当のこととして信じさせようとしてはならず、嘘を本当のこととして信じてはならず、嘘に根拠付けられた物事を認めてはならない。


 しかしそれは非常に難しい。ある宗派の家に生まれた人間は、その後どのような意思を持つかにかかわらず、ある程度成長するまでの間、その家の宗派に属して生きていくことになる。家ではなく町の単位でも同じことが言える。町一つが同じ宗旨に属しているばあい、そこかしこに信仰を示す建造物や道具類、象徴が配置されており、ひとはそこに馴染んで成長する。現存在の共同存在に何らかの宗旨の象徴体系が組み込まれる。その現存在は、自ら親しんだ宗旨には手元存在的な愛着を、愛着と意識しないまでもそれをごく自然と感じる性格を身に着ける。同時に別の宗旨に対して警戒心を持つようになる。


 ラテン世界の哲学者が軒並みキリスト者に靡いているという事実、またキリスト者が今なお実在するという事実は、かれらの蒙昧というより、現存在一般がもつ上記の特質に由来する。共同の現には十字架が照らし出されて在る、したがってキリスト者はそのように存在する。同様に、大乗仏教圏で生まれ育った現存在は地蔵菩薩の石像や寺の甍に手元存在的に親しみ、自然科学的世界観の下で生まれ育った現存在は現代の自然学上の合意に手前存在的に親しむ。


 わたしは十字架に架けられたナザレのイエスよりも地蔵菩薩により親近感を覚える、歴史的実在性で言えば前者の方がはるかに勝るにもかかわらず。


 これは明らかな不合理であり、わたしは嘘を信じている。


 歴史的事実に反する事柄を事実として信じてはならず、事実に反するテーゼによって根拠付けられた事柄を認めてはならないのだが、この愛着は覚めた意識の判断や対象の客体的実在性よりも共同存在に組み込まれた象徴体系によって成立している。何を信じるにせよ、故意に信じたわけではなく、過失である。したがって、父なる神や地蔵菩薩の超越的実在を信じる一連の蒙昧には、減刑が求められなければならない。



 嘘、と書いてきた。しかし嘘という語もここではかなり乱暴に使われている。嘘でないものは何か、真実なのか、真理なのか。何が真理だと思っているのか。


 釈迦牟尼による感覚・認識の分類とそれらを束ねる実体の実在の否定の教義はいたく好ましく、救済者を語らず菩提に専心する禅宗の姿勢もまた好ましい。可能なかぎり再構される歴史的釈迦牟尼の根本教義は、超越的実在の否定の一点にある。仏性、無。


 問題はその好ましいという感覚にある。わたしは何によってその好ましさを得るに至ったのか。世俗化しつつ仏教色の濃い社会の中でかろうじて受容できる教義が禅宗だったというだけのことではないのか。恐らくそうだろう。そしてその禅宗にしてもどれだけ知っているか怪しい。どう思っているのか言語化してみよう、そうしよう。


 卒然と悟る、と言われる。『仮往生伝試文』からの又聞である。ふとしたきっかけで悟りを開く、そして遁走したり、普段と変わらず過ごしたりする。悟ったからと言って往生の際に花の香りを芬々とさせるようなことはない、それはあまりに嘘くさい。この悟りというのは何か。禅宗まで議論が煮詰まってくると、菩提はいよいよ明晰な言語化を拒みだす。しかし禅僧たちが何か真実の事柄を覚知していることは確かである。その真実の事柄がひどく晦渋な表現でしか語られないか、何かの謎かけでしか表現されない、ということもしばしば起こる。余人には伝わりがたいが、それだからこそ悟りは悟りなのだと言って有難がられる。


 真理を知っているというパフォーマンスなのか?


 わからない。


 すると、真理を知るということを諦めるか、真理であるということになっている体系に参画するか、そのどれかになってくる。何であれある種の信頼が必要不可欠としたら、その信の舟に乗って世界を眺める外ない。


 この半世紀かそこらの間、真理の形而下的構成に関する諸理論が欧州でも北米でも進展を見せているように思われる。真理は形而下的自然の中で構成される。その構成要素は言葉であったり、その根拠は権力であったりする。日常生活という虚飾の覆いの下に真実が隠れている、ということはないので、表象の戯れにシラケつつノることが勧められる。そういう時代もあった。


 よその舟からの報告を読む。ここからはどうも見えないことが書かれている。しかし向こうの舟からはそのように見えて聴こえているのだろう、と信じるよりほかない。少なくともそれが率直な報告であるかぎり、このような報告が存在するという事実は疑いえない真なる事実として在る。

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