存在しない今へ

にゃー。

にゃー。

みー。

みぃー。


そんな声がどこからともなく聞こえてくる。

と思えば足元にいるではないか。


花奏「わあ、かわええなぁ。」


麗香「でしょー。」


怖くないように

手を下から差し出すようにするも、

びっくりしてしまったのだろう、

飛び上がってぱーっと

走り去ってしまった。

反面、麗香の周りには

自然と猫が寄っていき、

2匹程度は隣に座って眠り始める始末。


花奏「懐いてるんやなぁ。」


麗香「まあ、よく来るし。」


花奏「そうなん?」


麗香「そうけぇ。」


花奏「まさに常連?」


麗香「そのまさに。結構いろんな人と来てるけぇ。」


花奏「愛咲とか?」


麗香「とか、羽澄先輩とか。あとは幼馴染。」


花奏「え。」


麗香「え?」


花奏「幼馴染おるん?」


麗香「いるけど…。」


花奏「ええやん、めっちゃ青春っぽい。」


麗香「幼馴染に対してどんな夢を抱いてるけぇ…。それに、相手は3つ年下の女の子。」


花奏「じゃあ妹みたいなもんやね。」


麗香「その通りけぇ。」


からり、と手ぐせのままに

氷を鳴らしてみる。

猫は寄ってくることも

逃げることすらもしなかった。


花奏「そういえば、話し方ってこういう公共の場でも出してて大丈夫なん?」


麗香「馬鹿にしてるけぇ?」


花奏「いや、違うんよ。ただ単純に」


麗香「冗談けぇ。そこまで真面目に取らずとも。」


花奏「意地悪や。」


麗香「好きにいえばいいけぇ。流石に他人が近い時には止めるし心配無用。」


花奏「そんなこと出来るもんなん?」


麗香「上司には敬語、同僚にはタメ口みたいなもんけぇ。意外と区別はできる。」


花奏「そうなんやね。あれ、バイトしてたっけ?」


麗香「してないけど何で?」


花奏「上司と同僚を例に出したから。」


麗香「ああ。だってあても先輩にはタメ口だし。」


花奏「そっか。イメージしやすい方を選んだんやな。」


麗香「そういうこと。」


少しの間の空白の時間。

何だか居ても立ってもいられなくなり、

近くの猫に手を伸ばしてみるも

また逃げられてしまった。


花奏「むぅ…。」


麗香「そもそも、今思えばなんだけど何でこうなってるけぇ?」


花奏「ん?あぁ、2人でここにいるかってこと?」


麗香「そう。」


花奏「そりゃあ、ゆっくり出来る場所がいいって話になったからや。2人やしお互いの家やとちょっと気まずない?って言ったんは麗香やで。」


麗香「そーうだっけぇ。」


花奏「そうそう。」


麗香「ま、そんなこともあるけぇ。」


花奏「そうよな。私もそう思うわ。」


麗香「適当言ってるけぇ。」


花奏「バレてもうた。」


えへへ、と笑ってみると

麗香はそっけなく顔を背けた。

確かに歩とは似た反応をするけれど

似ているだけにすぎない。

全く違う感情を持ち

そうしているかもしれないのだ。

違う人間なのだから。


あの日、皆に話した日を経て

次に学校に行くとき、

怖くて怖くて仕方なかった。

もしも避けられたら。

もしも誰かが学校中の人に

話して噂として広がっていたら。

どうしよう、無視されたら。

またあの時のような目に遭ったらどうしよう。

沢山、沢山考えた。

考えたけれど、答えなど出るわけもなく

渋々学校に向かった。


そしたらなんと、

驚く程いつも通りだったのだ。

クラスの人も勿論、

偶々廊下ですれ違った羽澄や麗香までも。

何なら相手側から声をかけてくれるほど。

だからいつものように歩のところに

遊びに行ってみた。

すると、やはりいつも通りに接してくれる。


なんだか、拍子抜けだった。

大きく世界が変わったような

気がしていたけれど、

実際全くそんなことはなかった。

あれだ。

学校を数日間休んでから久々に登校すると、

クラスの雰囲気が違って見えるあの現象。

あれとは真逆のことが

起こっていると思えばいいだろう。


花奏「私さ、お礼言いたかってん。」


麗香「何けぇ。改まって。」


花奏「そりゃあ改まりもするよ。後からざっとTwitterを見返したんやけど、ずっと動いてくれてたし。」


麗香は私のことが

嫌いだったと公言している。

それは私も知っている。

目の前で言われたのだから。

けれど、今はどうやら違うらしい。

何がきっかけになったのか

未だに細々としたところまでは

分かっていないものの、

今は以前ほどまでの蟠りが

ないことくらい分かる。


私がTwitterに浮上していない間、

麗香や歩が主だって

かえ、というアカウントに

コンタクトをとっていた。

皆に被害がいくかもしれないこと、

そして私情に巻き込んでしまったことに

酷く罪悪感を覚えたのだが、

猫カフェに来るまでの間に

麗香は気にするなと言ってくれた。

たったひと言だったけれど、

十二分に嬉しかった。


花奏「それに、誰にでもあるって言ってくれたから。」


麗香「ん?」


花奏「…ほら、未遂とか、色々の話。」


麗香「んー、あぁ。」


花奏「やから、ちょっと心が楽になった。」


麗香「にしし。そりゃあ何よりだけぇ。」


麗香は足を組んだのか

上半身を緩く動かして、

しなやかな所作で肘をついた。

まるで、麗香自身が猫本体のようで、

どうにも猫に好かれる理由に

気づけたような気がした。


麗香「おかえり。」


花奏「…!…ただいま。」


私たちの距離感は

近くもなく遠くもなく

言葉で言い表すには

いい言葉が思い浮かばない。

頻繁に出会うような仲でもない。

以前も、今後もそうだろう。

しかし、知り合いというには

離れた表現すぎるし、

特にべったりというわけでもなく。


これもひとつ、友達の距離感なのだと

実感する他なかった。

私たちは、私たちなりの関わり方でいいのだ。

きっと、それでいい。

それがいい。


麗香「ところで花奏は犬っぽいよね。」


花奏「急やな。」


麗香「だから猫に好かれないんだけぇ。」


花奏「あ、そんなこと言われると傷つくわー。」


麗香「にしし。」


楽しそうに笑う彼女を見ていたら、

もう何でもいいかと思った。

これがいいや。

これがいい。


良い友達、なのだろう。





***





花奏「…ふぅ…ただいま。」


学校終わりに猫カフェに寄ったものだから

自然と疲労は蓄積していた。

猫カフェではゆったりとした

時間を過ごしたものの、

それでもどこか気を張っていたのだろう。

家に帰って手を洗った後

布団に潜って大の字で

眠ってしまいたくなった。

けれど、そうしてしまっては

生活サイクルが乱れてしまう。

夏休みも終わったのだから

少しくらい気合を入れて生活したい。


…とは思うものの、

リビングの低い机の真横で

不意に寝転がってしまった。

布団に潜るには抵抗があったのだ。

ここならまだ勉強しようと思えば

勉強に手を出せるはず。

そう考えた結果だった。

手をぐっと伸ばして

近くにあった座布団を手に取り

頭の下に滑り込ませる。

あぁ、楽だ。


学校があったので

勿論左腕にはお化粧をして

大胆な傷跡を隠してある。

とはいえ、気づけば傷跡に触れてしまっていた。

ぼこぼことしている。

部分的に周りとは違い

少々固くなっているところもある。

どういった時にこの傷跡に触れるという

動作をしたくなるのだろうか。

暇な時、眠たい時…。

様々浮かぶが、行き着く先は

考え事をしすぎているという点な気がした。


花奏「………ふぅ…。」


井草の香りが鼻を刺激する。

あぁ、そうだ。

匂いの話で思い出したことがあった。


それは、私が皆に対して過去の全てを話し、

そして皆が帰った後のことだった。





°°°°°





全てが終わった。

全て、全て話してしまった。


皆を玄関先まで送ってから

どうにも抜け殻のようになってしまい、

手足を動かすことすら億劫だ。

玄関に座り、ぼんやりと上を見上げた後、

心臓がきゅう、とするものだから

膝を抱えて丸くなる。


花奏「……ぅぅ…。」


息をしただけと言うのに

細々とした声が漏れた。

はじめは自分の声が分からず、

もう1度同じように呼吸をすると

同様の音が鳴ったものだから、

そこで漸く理解した。


提示された条件に添い、

過去あった出来事の全てを話した。

話している時、

それ以前に起こった出来事

…それこそ歩さんに問い詰められた日のこと、

麗香さんに寄り添ってもらった日のこと…

その時々で思うことが多大にあった。

けれど、感情が大きく動いたことは

記憶に残っているのだが、

あまり細々とした変化までは

覚えていないのだった。

もう忘れるべきだと

体側が判断してくれたのだろうか。

今起こっていることではない出来事を

100思い出して語ることは不可能だ。


…そうだ。

思い出さなくていいのだ。

態々、そんなことしなくともいいじゃないか。


花奏「…。」


さらに膝を強く抱きしめ

小さく丸くなる。

遠くでカラスらしい声がした。


本当は、全部話したくなかった。

森中らが怖かったことも勿論ある。

あいつらは大学生や社会人になると同時に

上京する可能性があるものだから、

それを思うと体が震える。

しかしそのこと以前に、

昔の話をすることで

嫌われることが怖かった。

今、きっと幸福の最中。

それを自分で捨てに行くのが怖かった。

もう同じ過ちをしたく無いと思いながら

学ぶことなく同じ道を辿ってはいないか。


…そして、皆を信用できていないことに

負い目を感じることが嫌だった。

その事実を突きつけられることが苦だった。

明日以降、避けられるのでは無いか。

距離を置かれるのでは無いか。

…と。

距離を置きたければ置いてほしい。

そうすることで、皆の心が穏やかになるなら。

そう考えていても、

内心やはりどこか引っかかる。

私はどうなってもいいと思うほど、

その時の相手の反応が気になり

結局人は信用できないだなんて方向へ

ねじ曲がってたどり着く。


森中も、物静かな子も深見さんも

人を信用できないままだった。

私も、いつからか仲間入りしてたようで。


花奏「………ぁ…はは…。」


随分と乾いた笑いだなと

自分でも思った。

連鎖的に自分に対して嘲笑しそうなところ。

その時、唐突にも

インターホンが鳴ったのだ。


ぴんぽーん…。


配達の人が来たのだろうと思った。

夕方だから、あり得ないことでは無い。

そこでふと思う。

そうか、結構長い時間

話していたのだな、と。


玄関から立ち上がるまで

少々時間を要したけれど、

1歩、それでも1歩と踏み出して扉を開いた。

夕方らしく斜光が迎え入れてくれる。

いい天気だった。

紛うことなき晴天だ。


花奏「……っ!?」


歩「……。」


そこにいたのは、

皆と一緒に帰ったはずの歩さんの姿だった。

少しばかり気まずそうな顔をして

じっとこちらを眺む。

その視線の真っ直ぐさに

いつも心が絞られるような想いをするもので、

今回だって例外では無い。

そっと視線を逸らしたのだ。


花奏「……えっと…。」


歩「…。」


花奏「…………忘れ物?」


歩「ま、そう思うよね。」


花奏「…うん。」


歩「あがっていい?」


花奏「……ご自由に。」


歩「じゃ、今日泊まっていい?」


花奏「…………ん?」


歩「泊まっていいかって聞いてんの。」


花奏「……あ、えと……え。」


歩「…ま、一旦は上がらせて。」


ずけずけと入ってくるものだから

脳の処理が追いつかなくて

呆然と立ち尽くした。

ああ、普段歩さんは

こう言う気持ちだったのだろうと感じる。

ご飯を一緒に食べようと言って

無理やり押しかける時は

こんな気持ちだったんだろうな、と。

自分でも思う。

これは迷惑だったんだろうな、と。

前々からそのことは分かっていたけれど

ここまでひしひしと感じることはなかった。


歩さんは先ほど同様

1度手を洗いに洗面所に向かった。

何を言い出したかと思えば

その挙動へと移ったので

私もどぎまぎして仕方がない。

とりあえずリビングで

待つことにしたものの

心は騒つくばかりで、

座ることもできず彼女を待った。


歩さんは戻ってくるや否や

お母さんの仏壇にまっすぐ向かったのだ。

何をするのか、不思議でならなかった。


歩「……。」


花奏「…えっと……。」


歩「お線香、ある?」


花奏「え?」


歩「お線香。まだご挨拶してなかったから。」


花奏「あ、あぁ…。」


言われるがままにそれを探す。

確か、低い方の棚に入っていたはず。

すると、その記憶は間違ってなかったようで

すっぽりとそこに収まっていた。

お線香を1本取り出し彼女に手渡す。

それから、共に格納されていたライターも

一緒に渡すのだった。


歩「ありがと。」


ひと言告げてから私の手から

その2つを受け取る。

そしてお線香をつけて火を消し、

2つを私へと一旦預けてから

そっと手を合わせたのだ。

親族の家ならまだ分かるものの

私たちはたかが他人だ。

愛咲さんが口にした通り

他人でしかないのだ。

なのに、仏壇に手を合わせて

挨拶をすると言い出すあたり、

何という言葉を用いればいいか、

簡素に言えば大人だなと感じた。


私も最近はお線香をあげれてなかった。

お線香はあげられてなかったけれど

手を合わせて、それから少しばかり

お話をするのだ。

とはいえ、私が一方的に

その日あったことなどをつらつらと語るだけ。

この1週間では、そんな穏やかな時間も

作ることが出来なかったけれど。

お母さんが生きていたら。

真帆路先輩が生きていたら。

……。

大きく違ったのだろうな。


歩さんは少ししてからすくっとその場を立ち、

畳を僅かに鳴らしてこちらを向く。

その姿が何とも凛々しかった。


花奏「戻ってきた理由ってそれ?」


歩「も、ある。」


花奏「…そう。」


歩「お線香、ありがとね。」


花奏「…ううん、こちらこそ。」


歩「…。」


ちら、と私の手元のものを見たようで、

視線が下へと下がっていた。

私は歩さんの合掌する姿を

ぼんやり眺めるが故に、

何ひとつ動けていないまま。


歩「…。」


花奏「…?」


歩「…それ、怖くないの?」


花奏「え?」


歩「…いや、何でもない。」


お手洗い貸して、と

続けていうものだから、

手持ちのものを全て低い机に散らして

きぃ、と軋む床を踏み軽く案内した。

平家なだが意外にも部屋数は多く、

部屋と部屋がよくわからない

繋がりかたをしているもので、

随分と開放的な家だと前々から思っていた。

けれど、他の人からはそうとは

映らないのかもしれない。

キッチンからほぼ直進すればいいだけだが

歩さんには複雑に映ったのか、

少しばかり眉を顰めていたっけ。


彼女を待つ間、

リビングに戻ってみるも

いつもの風景でなんだかほっとした。

…いや、いつもの風景ではないか。

座布団はいくつも転がっているし、

机の上にはお線香とライターが

置きっぱなしになっている。

どこをどう見ていつも通りだと

思ったのだろうか。


花奏「………あ。」


机の上に無残に寝転がっている

その2つを目にして、

そこで漸く歩さんの言葉の意味を理解した。





°°°°°





歩「…それ、怖くないの?」


花奏「え?」


歩「…いや、何でもない。」





°°°°°





過去の話でライターは

火周りの話が出てきたものだから、

歩さんなりに気を遣ってくれたのだろう。

…。

優しいのだと、漠然と思う。


徐にポケットに忍ばせていた

ジップロックに入ったストラップを手に取る。

両手で掬うように、

それから、穴が開くほど眺めた。


焼け落ちてしまった部分が結構ある。

黒目のピースが片方落ちてしまったので

後で拾い上げて一緒に

この袋に入れたのを覚えている。

だから、片目だけくっついている状態だった。

軽く振ってみると、

同封されたもう片方の目が

からりころりと遊び出した。


花奏「…。」


歩「お借りしました。」


花奏「はーい。」


歩「…あんた、それ…。」


花奏「ん?…あぁ、さっきも見せたやつ。」


歩「知ってるよ。」


花奏「そうだよね。」


刹那、微妙な時間が空く。

この空気に息が詰まりそうだった。

何を言われるのだろう。

次に襲い掛かる言葉はなんだろう。

私のこと、卑下しただろうか。

どうしようもないやつだと思っただろうか、

ああ、そういう人なんだと

思ったのだろうか。

無意識のうちにストラップを

ぎゅう、と握りしめて

胸元に持ってきていた。

まるで、物に縋って

願い事をするように。


その様子に居た堪れなくなったのか、

歩さんは細々と声を漏らした。


歩「…花火の時のこと、ごめん。」


花奏「……。」


歩「無理させた、と思う。」


花奏「…さっきの話の中でも言ったけど、大丈夫。」


歩「…。」


花奏「苦じゃなかった。」


歩「…。」


花奏「本当だよ。線香花火、最後まで見たいのだって本当だった。」


歩「……そう。」


花奏「うん。」


これは失礼な話かもしれないのだが、

歩さんが素直にありがとうや

ごめんと口にするなんて意外だった。

いや、常識のある人だとは

感じる場面が多かったから、

そういう時になればちゃんとするのだろうとは

思っていたのだけれど。

…今がそういう時であることに

驚きを隠せないでいた。

みし。

1歩後退ったせいか

畳が奇妙な鳴き声をあげた。


歩「…あのさ、知っておきたいの。」


花奏「これ以上何を?」


歩「小津町が今、大丈夫なことと苦手なこと。」


花奏「…あぁ、花火とか?」


歩「そう。」


何が駄目で、何がいいか。

何がいい?

駄目?


…。

言われてみれば、そこに境界を

作ってこなかったことに気づく。

境界を作ってしまったら

その時点でそれらは

「出来ないこと」に分類されて、

一生出来なくなるのではないかと思ったから。

だから、レッテルを貼らずに

なあなあにしてきた。

けれど、きっと自然と

駄目なこと、出来ないことからは

距離を置き続けていたのだろう。


何が。





°°°°°





先生「ねえ、小津町さん。」


花奏「…はい。」


先生「この学校にはね、いじめはないのよ。」


花奏「……………ぇ…?」


先生「学校にも、私のクラスにもいじめはないの。」






°°°°°





何が…。





°°°°°





森中「左腕貸してな。」


花奏「…あ、え…?」


森中「掌上に向けろや。そうそう。そのままなー。」



---



花奏「い゛っ…。」


森中「癖にならへんか?」


花奏「…痛い。」


森中「そうなんやぁ、うちは好きなんやけどなぁ。」





°°°°°





一体何が。





°°°°°





深見「私といるのは気が楽?」


花奏「…ずっと気張ってる。」


深見「…ふふ、あはは。そりゃあいいね。」


花奏「…。」


深見「私も。」


花奏「え?」


深見「私も、同じ。」



---



深見「人って信用ならないよね。」





°°°°°





何が、駄目なんだろう。





°°°°°





「いじめがお、落ち着くまで来ないの!?」


花奏「えっと、そうじゃなくて…」


「は、早く来いよぉ!」


花奏「…!」


「あ、あんたが来ないと、わ、私がターゲットになるんだよ!だ、だから、早く来いってば!」





°°°°°





…。





°°°°°





森中「ええ子やなー。」


花奏「…。」


森中「うちな、お前と似てるところがあると思うねん。」


花奏「…ない。」


森中「あるで。そうやな、環境に恵まれてへんところとか。」



---



森中「信頼できる人が居らへんところとか。」


花奏「…!」





°°°°°





歩「小津町っ!」


歩さんのひと言が降る頃。

降る、という時点で疑問に思った。

次に、視点がやたらと低いことに気づく。

手には畳の感触がする。

力が抜けてしまったのだろう、

へなりと臀部を床につけ

座ってしまったようで。

ぱっと片手を離して掌を上に向ければ、

畳の皺の跡と対面する。

ついでに白い傷が目立つことから

左手だったことがわかった。


花奏「……あ、はは…。」


歩「…。」


思わず笑いが溢れた。

歩さんの顔は見えない。

俯いているのだから当然だ。

髪、解いておけばよかった。

そしたら横顔すら見られず

表情を窺われることもなくてよかったのに。


花奏「……………人…。」


歩「…。」


花奏「人、と……痛い、こと…。」


歩「…っ。」


花奏「火は、使えないと不便に…なるから……。」


それが克服できたのは

ここ1年あたりの話だが。

勉強に打ち込めるようになってから

少ししたあたりの話だったのではないか。


花奏「あと、包丁も…料理……。」


料理するのに必要だから。

父さんが頑張って働いているのだから

帰ってきた時くらい休んで欲しかったから。

その言葉が出なかった。

連なって出てくれない。


花奏「………だから…それは大丈…」


大丈夫。

それらは普段生活に支障がないくらいには

克服したんだよ。

そう伝えようとしたところで

頭にふと感触があった。


何かと思ってみれば、

きっとそれは彼女の手。


歩「……偉いよ。」


柄にもなくそう呟いた。

柄にもない。

寂しそうに、振り絞るように。


歩「偉い。」


ゆっくりと手ぐせのように

何回か頭を撫でてくれた。


歩「…よく頑張った。」


それは、森中のものとは違う。

犬のように扱うのではなく、

ちゃんと人間として

扱ってくれている撫で方だった。


歩「頑張ったよ。」


花奏「……ぅ…ぁ………っ…。」


あれ。

なんだか変な声が漏れた。

すると、何故だろう。

視界が唐突に霞むものだから

どうしようもなくなってその場で固まる。


堰を切ったようにぼろぼろと涙が溢れてゆく。

別に、泣こうとしたわけじゃないのに。

人の優しさに甘えようなんて

考えていたわけじゃないのに。

同情を誘いたいわけでもないのに。


何で泣いているのかが

私には当分理解できそうにない。


歩「……小津町、ありがとう。」


本当、柄にもなく

歩さんはそっと抱きしめてくれた。

覚えてる。

だって彼女は人に触れられるのを

極端に嫌っていたはずだ。

だから、こんなことをするはずがないのに。

ぼろぼろと溢れては

止まるところを知らず、

歩さんの肩を濡らした。

鼻を啜れば、初めて彼女の香りを

直で吸ってしまった。

少し柑橘っぽいような香りだった。

やがて鼻は詰まっていき

何の匂いも分からなくなってゆく。


声が漏れた。

情けない声が。

左腕の傷に触れた。

傷は今の一瞬で無くなったなんてことはなく

未だに凸凹とした肌触りで。

それから片手で自分の肩を抱いた。

浅黒くしみになった肌が隠れている。

綺麗とは決して言えなかった。

私は私が苦手だった、

1番苦手だった。


何故。

何で、優しくするのだろう。


私はまだ、みんなのことを

信頼し切っているとは言えない。

100%信頼しなければ

いけないわけでもないとは

頭では理解している。

けれど、その部分がどうにも引っかかるのだ。

私の中ではそれがつっかえて

喉の奥で焼けるような痛みになっているのだ。

綺麗ではないのだ。

もう戻れないのだ。


怖い、と伝えた。

何が、とはもう言わなかった。


歩「…ゆっくりでいいよ。」


そう、人間のように

答えてくれた。

それから、少し笑うようにいうのだ。


歩「さんじゃなくて呼び捨てね。」


いつの間にか名前を読んでたのだろう。

囁くように安心を歌った。

それが擽ったくて仕方がなかった。

泣いたのはいつぶりだったろう。

…。

泣けたのは、いつぶりだったろう。





***





泣き止むまで相当な時間を要したと思ったが、

泣き続けるのにも疲れるもので

思っている以上に短く済んでいた。

歩の服を汚してしまったのだが、

こんな程度放っておけばすぐ乾くといい

微塵も気にしていない様子で。

けれど、申し訳なさでいっぱいになった。

離れてゆく体温に対して

恋しかっただなんて思ってしまって。


落ち着いて以降、火は普段使う程度、

それこそ料理等は大丈夫であること。

刃物も包丁や鋏など普段使いするものは

大丈夫であることを伝えた。

けれど、カッターと手持ち花火は

まだ怖いことも付け加えて。


花奏「あ、でも…線香花火はまだましな方。」


歩「ん。分かった。」


花奏「後は…何かある?」


歩「え。質問コーナー?」


花奏「何が駄目なのか、私もぱっと浮かばなくて。」


歩「あー…さっき自然としちゃったけど触るのとかは?」


花奏「大丈夫。肩組まれるのも平気。」


歩「そうなの?無理してない?」


花奏「うん。さっき重要そうなところは頑張って思い出して話したけど、結構忘れちゃってるし。」


歩「そんなもんなの?」


花奏「私は…うん。」


歩「そっか。」


花奏「多分、今日寝たらまた少し忘れてるんじゃない?」


歩「それは大丈夫なやつ?」


花奏「忘れろって願いながら寝る。」


歩「あぁ…。」


花奏「合法だよ。」


歩「いや、違法かどうかを疑ってはないから。」


花奏「うん。」


歩「ん…後は……あ、そうだ。」


花奏「…?」


歩「……苦手かどうかって質問とは外れるけど、成山ヶ丘って共学じゃん?」


花奏「そうだね。」


歩「何でうちにしたの?…本当によかったの?」


花奏「どういうこと?」


歩「あー…その、男子もいるじゃん。」


歩は気まずそうにそう口にした。

きっと、話の中にあった

一件について危惧してるのだろう。

態々遠回しにそれを伝えようと

してくれていたと気づいて尚、

優しさに触れ続けていると感じる。


花奏「うん…まあ、そんなに今は怖くないよ。」


歩「他にも女子高だとか、選択肢はあったわけじゃん。」


花奏「でも、この高校じゃないと意味なかった。」


歩「…。」


花奏「真帆路先輩の母校。それに、歩が通ってるから。…それだけで理由は十分。」


歩「そっか。悔いなさそうだもんね。」


花奏「ないね。」


歩「なら少しくらいは杞憂だったのかもしれない。」


そういいながら1度目を逸らした後、

憂げにこちらを見てくるものだから

どう返事をしたらいいか分からず、

押し黙るのみとなってしまった。


以降はあっという間だった。

気づけば夜だったために

程なくして父さんが帰ってきた。

歩が泊まると言ったのは

唐突なことだったにも関わらず、

仕事で疲れているであろう父さんは

笑顔で迎え入れてくれた。

食卓を3人で囲み、

話しながら食べて。

そしてお風呂に順番に入っていく。

服は下着以外私のものを貸すことにして、

歯ブラシは予備があったので

それを使ってもらった。

私や父さんはもう慣れてしまったのだが、

いちいち軋む床に対して

歩は不安げな顔をしていた。

昔に改装工事をしてあるから

床は抜けないだろうことを伝えても、

不安になるものはなると口にしていて。


それから、お風呂上がりに少しばかり

テレビをつけてぼうっとする。

今は父さんがお風呂に入っていた。

時間は…そろそろ日付を越えそう。


花奏「…。」


歩「眠い?」


花奏「…それなりに。」


歩「まあ、今日は疲れたろうに。」


花奏「うん。」


歩「さっさと寝な。」


花奏「歩は?」


歩「前言わなかったっけ。ショートスリーパーだからあんま寝ないって。」


花奏「言ってたかも。」


歩「でしょ?だからいいの。」


気まぐれだろうか。

ぷつ、とテレビを消す彼女。

さー、とシャワーの音が

遠くの扉の奥から聞こえてくる。

ことん、とキッチンの蛇口から

大粒の涙が1滴落ちた音すら耳に届いた。


歩にも手伝ってもらい、

お客さん用の布団を取り出す。

しばらく使われてなかったはずなもので、

虫食いやその他諸々に不安があった。

圧縮されていたので

袋をぱっと開けてみたところ、

古めの匂いがすること以外は

特に問題なさそうだった。

私の布団を取り出した時もそうだっけ。

圧縮されていて、不備がないのはいいものの

古い匂いに鼻が慣れなくて、

その日はよく眠れなかったのだ。


一式を取り出し、

1番上にあった布団を両手で抱えて匂いでみる。

…。

やっぱり、2年前を思い出した。

何もやる気が起きなくて

ただただ家に篭り続けた数ヶ月が過ぎった。

やる気も動く気すらなくとも

お腹が空いたり尿意を感じたりするもので、

その度に重たい体に力を入れたんだっけ。

生きる気力はなくとも

無意識のうちに生きようとするものだなと

自分でも感心した。

数ヶ月間、布団の中で過ごすうちに

古い匂いも気にならなくなっていった。

慣れてしまったのだ。

きっと、正確には私の匂いが

染み付いていったのもあるだろう。


花奏「…。」


歩「…何してんの?」


花奏「匂い嗅いでる。」


歩「…なるほど。」


花奏「ちょっと臭い。」


歩「ぷ…あはは。なにそれ。」


花奏「本当本当。」


歩「あんたって結構鼻効くよね。」


花奏「多分、そこそこ。そんな遠い距離まで嗅ぎ付けれるってわけじゃないけど。」


歩「ふうん。」


歩は息を吐ききるように

軽く小さく吹いて笑った。

こんなふうに笑うことってあるんだと

妙に感心している自分がいる。


そして何を思ったのか、

歩も枕かシーツを抱え

すん、と鼻を鳴らした。


歩「…小津町の家の匂いだね。」


花奏「そう?」


歩「そ。他の人ん家の匂い。」


それをそっと床に置いて、

敷き布団を開き始める。

私もそれに乗っ取るように

シーツを引いたり枕カバーを装着させたりと

出来ることに着手した。


歩「あ、そうだ。」


花奏「…?」


歩「気が向いたらでいいけど、話し方前のに戻してよ。」


花奏「…え…?」


歩「小津町の方言、煩いけど気に入ってたから。」


花奏「ひと言余計な。」


歩「それだけ言えるんならよし。」


小さいながらに

ばさ、と大きく布団を広げた。

それすら挙動を大きくしなければ

難しかったようで、

全身を使って布団を敷くあたり

少しばかり笑みが溢れそうになる。


私が先に自分用の布団に潜り、

左側を下にして膝を抱えるように縮こまった。

すると、襖が目の前にあって

歩に対して背を向ける形になると気づく。

…。

それでもいいか。

すん、と鼻を鳴らす。

歩の匂いがここまで

漂ってきそうな気はしたけれど、

全くもってそんなことはなかった。


歩「おやすみ。」


花奏「うん。おやすみ。」


顔を見ることなくそう告げて、

その後彼女は電気を消してくれた。

こち、こちとどこかにある時計が

規則正しく時を刻む。

ああ、そうだ。

こんな感じだった。

と、淡白な感想が頭を覆った。


…。

…。

…。

…。


どれほど時間が経ただろう。

夢と現実の間を

うろうろとしているあたりのこと。

話し声が少しだけ聞こえた気がした。

初めはテレビの音声だと思った。

否、確かにテレビは鳴っていた。

けれどその他にも

声がしていたのだ。

紛れもなく歩と父さんだろう。


父さん「ーーーみがあの三門さんかい。」


歩「はい。…あの、とは。」


父さん「いやぁね、花奏が時折話してくれるんだよ。ーーーーー人と…ーーー…。」


歩「ーー…ーーーー…。」


父さん「楽しそうに話すもんだから、どんな人か気になってたんだ。けどまぁ、ーーーーー…。」


歩「…。」


父さん「しっかりしたーーーーー…。」


まだまだ会話は続いていそうだったのに、

眠れなかったのにも限界が来たのか

段々と意識がフェードアウトしていく。

一体何を話していたのだろう。

起きたら父さんか歩に聞いてみようか。

…いや、聞かなくていいか。

これはきっと、私が聞かなくてもいい話…

寧ろ、聞かないままでいた方が

いい話なのだろうから。

そっと意識の奥へと潜っていく。

布団はあったかく、

抜け出せないほどに心地よかった。





°°°°°





もしかしたら、

それらは夢だったのかもしれない。

夢の現実の合間に窺えた

ただの私が作り出した幻想かもしれない。

夢だとしても、

続きを見たいとは思わなかった。

そう思わずに済んだ。

それは、その場にいた2人のことを

少なくとも程々には

信頼していたからだろうか。


花奏「……ようし、少しだけ勉強でもしようかいな。」


ぐっと背伸びをしてから下ろすと、

どこか肩が軽くなった気がした。


ああ。

こんな何もない日々のことを

幸福というのだろう。


そういえばと思い、

ふと窓の外のその先にある空を眺む。


今日は、真帆路先輩の命日だった。








幸福 終

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