よりよい生の模索のいき詰まり

よりよい生(よりよい生:そのまんまのふんわりとした意味)をいくら模索しても、いつか人は死ぬ。つまり、その模索がどのように行われ、どのような結論を出したとしても、いずれは価値判断の及ばない領域に行き着く。つまり、本質的には私たちに、よりよい生を生きねばならない必然性はどこにもない。


にも関わらず、「どうせ生きているのであればその生はよりよいものであったほうが良いだろう」という合理的帰結(合理的帰結:自身の体感・体験に基づいた判断)が、人によりよい生の模索を強制する。

これが、人がよりよい生を模索せざるを得ない理由となる、合理的帰結の1段階目だ。


1段階目で至った合理的帰結に対して、さらなる合理的判断を加えることができる。2段階目の合理的帰結は、以下の通りだ。

「『生まれてきたからにはよい生でなくてはいけない』といった回避的な動機づけに基づく生よりも、『よりよい生を生きたい』といった滋養的な動機づけに基づく生のほうが、よりよく、どちらを選ぶせよ生き続けていることに変わりはないのだから、よりよい人生を選ぶことが合理的に望ましい」

このような合理的帰結によって、人は、積極的によりよい人生を模索することを義務づけられる。

言わずもがな、この合理的帰結は自己言及的な矛盾を孕んでいる。このウロボロスの蛇のような自己矛盾の中で、私たちは第2段階目の合理的帰結が意図するところの"自分のものとしての生"にいつまでたってもたどり着くことは出来ず、ひるがえって人生は常に責め立てられ続けているかのような義務感・自動操縦感を伴うものとなる。


そこで、「合理的であることが真だ」という前提条件を否定することが、この矛盾に対するひとつの打開策になる。

試しにその打開策を適用してみよう。すると、その先には、なにごとも価値づけることのできない世界が広がっていることに気づくだろう。

それは、「自身にとってよりよいことはよりよいことだ」というトートロジーが、価値判断の根源的なものであるためだ。


つまるところ、私たちは「よりよい生を模索し続ける人生」か「なにごとにも価値を見出さず、虚無の中を生きる人生」のどちらかを選ばなければいけない。

そして、この二者択一において、中間択は存在しない。根源的な価値基準を選ばないということ自体が、虚無を生きることにほかならないからだ。

したがって、虚無を生きることを選ばないのであれば、件のトートロジーを受け入れるよりほかに道はない。





追記:もうひとつの選択肢を見つけた。それは「選ばない」のではなく「結論を留保」し、生の滋養的な意義が己の中に立ち顕れるときがくることをただ「待つ」ことだ。

幸い、死ぬまでもう少し時間がありそうなのだ。

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