生きる意義と生産性至上主義の刻印

 クトゥルフ神話には、知ってはならない事実を知ってしまったがために死ぬ以外の選択肢がなくなってしまう登場人物がよく描かれる。今の私の心境は、それに近い。


 あなたには、幼少期に親から言われて印象的だった言葉というのはあるだろうか?

 私にとってそれは、「時間を無駄にするな」だった。もしかすると、「1秒たりとも」という冠詞がついていたかもしれない。

 この言葉は私の人生を形作る骨子になった。


 親というのは、だいたい子供よりも長く生きているので、30年なら30年なりの”含蓄”というものが言葉に宿る。ゲームの攻略サイトのように、「こういうふうに生きるとうまくいきやすいよ」ということを教えてくれる。

 しかし、あらゆる親は親素人で、どんなに経験豊かな親であろうとも2,3人育てたくらいがいいところだろう。素人の親は、「子供が自分とは違う生き物である」という当たり前の事実に気づけない。


 さまざまな精神的障害や知的障害が子供に遺伝するという。それをもって、私は子供を持たない、と決心する精神障害者や知的障害者の人も多い。子供には自分と同じような苦しみを感じてほしくないから、と。そう考えるとき、私たちは「価値のある子供の人生」と「価値のない子供の人生」を思い浮かべている。


 高校生の頃、部活の後輩から「先輩はいつも、人の評判ばかり気にしてますね」と言われたことがある。私は、音楽を聴くにしても、映画を観るにしても、いつもレビューサイトを見て決める。特に、何件のレビューが集まっているか、平均点は何点か、というのは大事な要因だ。まず、お金と時間をかけてつまらないものを見るのは無駄だというのが一つ。そしてもう一つは、他の人と同じものを体験しているということ自体が生み出す価値が一つ。みんなが見ていれば、「私はつまらないと思った」という感想自体も一つの価値を持つ。

 誰も観ていない映画に、「この映画つまらないよ」と言っても何の意味もない。


 うつが酷かったとき、大学からの帰り道、家に向かう途中、いつもの坂をのぼっているときに、ふと、足が動かなくなった。歩く意味を途端に見失ってしまったからだ。しばらく立ち止まって、俯いていた。それでも、足を右、左と前に出さなければ、家に帰ることはできない。家に帰るために、歩くという行為は意味を持つ。決して無駄ではない。

 でも、家に帰ることにはなんの意味があるんだろう?


「時間を無駄にしては行けない」という教訓は、私の父の人生においては、非常に効率的に働いたのかもしれない。

 しかし、どんなに無駄なく生きようとしても無駄が発生してしまう私の人生において、その言葉がどのように機能したか、というと、それは興味深い問いではないですか?


 フィクションを読むことはくだらないと言って、ノンフィクションばかりを読む読書家というのが、世の中にはいるらしい。この話を初めて聞いたとき、私は(フィクションの楽しみを理解できないなんて可哀想だ)と思ったものだ。しかし、私は最近その気持ちが少しわかるようになってきてしまった。

 結局、みんな死ぬのが怖いのだ。いつか死んで、自分がいなくなってしまう。そうなったとき、自分の人生のこの苦しみには何の意味があるのか。その答えを求めて神を創り出したりするらしい。

 フィクションには意味がなく、ノンフィクションには意味がある、というのは、それが事実に基づいているという事実によって、価値が担保されると思っているということだ。これはすごく幸せなことだ。この宇宙には、人間の想像を凌駕する冒涜的な神々が存在することにまだ気づいていない。


『A Ghost Story』という映画の中で、登場人物がいつか全ての人が死んでしまうことについて話す。いつか自分も死に、自分が愛した人も、自分を知る人もいつか死ぬ。小説を書けば、自分や知人の死後もそれは時間を超えて残るような気もするが、それもやがて地球がなくなり、太陽系がなくなり、宇宙が無くなった後には残らない。これに対して、この映画は「いいや愛は時間を超えて残るよ」という言葉にすると陳腐なメッセージを非常に映画的に見せてくれる。鑑賞中は、なるほど、と思うものだ。

 映画を観終わってからしばらくすると、やっぱりそんなことはないよな、と思う。

 ”愛”に意味を付与しているのは人間なのだから、人間の死後にはやっぱり”愛”も意味がなくなってしまうはずだ。


「人の役に立ちなさい」とか「お国の役に立ちなさい」とか「幸せに生きなさい」とか、いろんな人がいろいろな価値を持っている。私はその人たちにいちいちおせっかいにも「人のために生きて何の意味があるんですか?」とか「お国のために生きてなんの意味があるんですか?」とか「幸せになってなんの意味があるんですか?」と問い返す人になりたい。『ライ麦畑でつかまえて』の中で、ホールデン・コールフィールドは「ライ麦畑から落っこちる子供を捕まえる人になりたい」と言っていた。私は彼に羨望を抱いた。だけど私は、ライ麦畑の間をあくせくと通り抜ける大人を崖から突き落とす人になりたい。


「それには何の意味があるんですか?」は魔法の質問だ。

 これはありとあらゆるものに適用でき、そして、この質問に対するありとあらゆる答えに対して、同じ質問を重ねることができる。


「時間を無駄にするな」

「価値を生産し続けろ」 


「暴走するトロッコが走ってくる。このままだと5人が轢かれて死ぬけれど、あなたの前には連結器があり、レバーを操作すれば1人が死ぬルートに切り替えることができる。さて、あなたはどうする?」と聞かれたとき、生きることにそもそもなんの意味があるのかと考えると、途端にどうでもよくなってくる。

 家路で足が止まる。俯いて自分の足を見下ろす。足を動かさないと家には帰れない。しかし家に帰ったところで、それに何の意味がある?「時間を無駄にするな」「1秒足りとも」家に帰って、風呂に入って夕食を食べて、寝て。いっときの幸せ。いっときの健康。しかし、やがて人は死に、地球は滅び、宇宙は消滅する。「時間を無駄にするな」「1秒足りとも」そうだ、時間を無駄にしては行けない。でも、私の人生は、そもそも……。


「時間を無駄にしてはいけない」



 なんで全てに意味がないのに、なんで私たちは生きていられるの?

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