第最終話「ロックもドリームも解らぬまま」


 晴れ渡った青空。

 夏めいてきた厄介な陽射し。

 涼しくはない、けど爽やかな風が自分の身体を包むように覆った。

 額から垂れてくる汗をタオルで拭き取ると、眼前に誰かがいることに気付く。

 目元を赤くしてまんまるとした瞳で呆然とその場で立ち尽くす、小さな子ども。

 どこか遠い目をしながら、自分のいる方角をただずっと、見ていた。


「……どうかした?」


 問いかけると、子どもは短い腕で指を差した。

 視線の先は自分の顔ではなく、肩から下げているアコースティックギターだった。

 空のプラスチック製通箱をトントンと手でたたくと、子どもは走って隣に座った。


「お母さんは? はぐれたの?」

「あっち」


 子どもは右前方にある鮮魚店を指差す。


「ああ、そう」

「外で遊んでなさいって……」


 落ち込んだ様子。

 消え入りそうな声で子どもはそう言った。


「なにしたの?」

「魚、触った」

「そう……」

「うん」

「遊んでこないの?」

「知らない人だから、やだ」


 子どもは、プイっと、背後から目を背けた。


「私も知らない人だと思うけど」

「弾いて」


 子どもはまた、それを指差した。


「弾かないよ。そろそろお昼の時間だから」

「弾いて」

「弾かない。文無しに弾く余裕はないから……」

「文、無し……?」

「いや、冗談だけど」


 子どもは、地面に置かれた縦長い缶の存在に気付くと、ぶきっちょにズボンのポケットに手を突っ込んだ。


「足りる?」


 手のひらに載せられたのは昼食代くらいにはなりそうなバラバラした小銭の束。


「さすがに、子どもからはもらえな――」

「早く弾いて」

「でも」

「弾いて」

「…………まいどあり」


 水道から流れる水を受け取るように、空から振ってくる金を両手でキャッチした。


「リクエストは?」

「なんでもいい」


 女は、弦に手を置いて、右手を一振り。

 背後からは、白波が大きな音を立てて、飛び散る音が聞こえた。


     ※ ※ ※


 少女は海を眺めていた。

 人々が騒いで、はしゃぐ、じゃりじゃりした砂浜からではなく、

 遠巻きに眺めるように、見晴らしのいい上の方に座って。

 緩やかに押し寄せてくる波の音。

 ぶらぶらと宙に浮いた足を無意識に動かした。

 戻りたいとはもう思わないけど、聴き慣れているせいか、心地はよかった。

 だけどある日から、突然、人はその海には来なくなった。

 浜辺は煌びやかな水着を着る人も、子どもと一緒に遊んでいた家族も、居なくなった。

 波は、主張するみたいに歯を剥き出すようになっていた。

 誰にも必要とされていない、可哀想な海。

 私だけがそこに残って、海をまだ、眺めている。


     ※ ※ ※


 電車を乗り継いで、薄暮ごろには次の目的地に着く予定だった。

 今日の分の稼ぎはちょっと少ないけど、食いつなげるくらいにはある。

 だが、予定というものを一人で実行するには遠い目をしたくなるくらい、難儀なもので。


「……嬢さん、お嬢さん」

「……ここは?」

「終着ね」


 着いた頃には陽は完全に沈み切っていて、そこは路線の終着点だった。


「乗り越し精算はこっちね」


 金はそこでほとんど巻き上げられてしまった。

 田舎の駅員というのは阿漕な商売だ。

 二時間は眠っていて、私一人しか客はおらんというのに起こそうとはしないのだ。

 きっと、私が眠っている間にニヤニヤしながら夕食は何にしようか、今日は海の幸か山の幸をたらふく食らおうと談話していたのだろう。想像するだけで腹が立つな。


「お嬢さん、これ終電だけど大丈夫なのかい?」


 駅の周りを見渡すと動物が多数住んでいそうな森林が生い茂る山の中。

 栄えている街には到底見えないが、ATMのあるコンビニくらいはあると信じたい。


「ご心配なさらず。私、今は流浪の民ゆえ……」

「そっか、気を付けんだお~。んじゃ飲み行くべえ」

「今日はどこにするべか?」

「んー、そうだなぁ……伊東さんのところとか」

「あそこはおんめ、この前やらかして出禁になったべ」

「謝ればどうにかなる。親父の遺言や」

「不倫親父の言葉なんぞ信用できるかぁ!」


 あれはもう既に酒が入っている声の大きさだろう。絡まれる前にさっさと出るか。

 嫌な夢も見たし。

 ガハハッっと高らかに笑う二人の声を後にしながら、女は早歩きで改札を抜けた。


     ※ ※ ※


「着いた……」


 海の見える場所に着く頃には朝陽が昇り始めていた。

 栄えている街並みはおろか、集落すら見当たらない駅で降ろされたみたいだった。

 砂浜まで降りた後、女は靴を脱ぎ捨てて、寝起きの波打ち際を足でじっくりと感じる。


「つめたっ」


 濡れた砂は足全体を包み込むみたいに柔らかくて、指と指の間に着々と浸食していく。

 一歩一歩と踏み込むたびに、泥みたいな砂が足裏にくっついてくる感覚がある。


 バカみたいだ。

 これじゃあ、まるで、子どもに戻ったみたいじゃないか。


 ひとしきりに歩いた後、女は浜辺の石壁に背を向けて、砂浜に座り込んだ。


 この後はどうしようか。

 なけなしの所持金でさっき買ったサンドイッチを食べて、近隣住民の人が見えたらギターを弾いて、あ、ATMも昼になったら使えるかも。そしたらまだ余裕ができるから……


 そんなことを考えているうち。

 疲れのせいか、緩やかな波音が睡魔を誘ったのか。

 女は、ギターを抱えながら、瞼を閉じた。


     ※ ※ ※


 瞼を開けると、目元から若干の涙が零れ落ちた。

 潮風の荒っぽい匂いが鼻孔を刺激する。


 浜辺でそのまま寝ていたみたいだ。早く今日の準備をしないと……

 女はぼやけた目をこすりながら、慌ててギターと財布の所在を確認する。

 ケースの中身もある、お金は……ないけど、中身は変わってない。

 近くの酒屋に頼んで、昨日より座り心地が少し悪いプラスチック製通箱を借りた。


「今日はここら辺かな」


 波打ち際の音が背後に聴こえて、邪魔にならないところ。

 通行人は……いまのところ見当たらない、国道沿いの道端。

 目の前で車がビュンビュンと快速に走り抜けていく、それほど過疎地ではなさそう。

 そこらへんに落ちていた空のトマト缶を洗った後、足元に置く。

 あとは、ギターを抱えて客を待つだけ。

 私を知らない、私の曲を聴きに来る客を待つ、だけ……


     ※ ※ ※


 もう、誰も迎えには来ない。

 幼い少女は一人で泣くこともできずに海をただ、呆然と眺めるんだ。

 私が眺めても、美しいとはもう思えない、虚ろな海を。


     ※ ※ ※


 自分の首が下がった衝撃で意識が覚醒した。

 地面には何粒か液体の跡がついていた。


「私、また……」

「よだれ?」

「え? これは……」


 女が驚いて顔を上げると、眼前に立ち止まっていた男はまずったような顔をして、


「いや、なんでもない」


 と、バツを悪そうにして、頭をボリボリと掻いた。


「ひ、弾かないのか?」

「どうして、貴方がここに?」

「そりゃ、歌を……」

「じゃあ、ここにお金……」

「いや――違うな」


 男は後ろ髪を引かれる想いで、言葉を選ぼうと熟考する。

 ここに来た意味。

 ただの思いつきなんかで来れるものじゃないことは分かっていて、

 だからこそ、口を噤んで応えを待っていてくれている彼女の期待にも応えたくて、

 厚かましいかな、ここにいる瀬崎翔を、一人のファンとして見てほしくなくて、

 翔は、周到に用意していたとっておきの手紙を暗唱する。


「夏が来るから、その……キミと、美成子と――どこかに出かけたいなと思って」


     ※ ※ ※


「…………どういう意味?」



「まだ夏じゃないというなら、夏を迎えに行こうよ!」


 乗ってきた二人乗りのできる250ccの二輪自動車を指差す。


「海でも山でも。美成子が好きなところに僕が連れてくよ」


 ここに来るまでに道の駅で買い溜めたグルメブックをカバンから取り出す。


「貯金はそんなにないけど、僕が毎日一食分だけ我慢すれば夏まで過ごせるよ」


 自信満々とはいかずに、顔をくずして細めた瞳で無理にでも、微笑みを作る。


「キミをもう、一人にはさせない。だから……」


 真剣なんだ。

 真剣なんだけど、その後に用意していた言葉が出てこない。


 だから。


 夢中になって思い出そうとする僕に、抱きついてくるキミを受け止めきれずに

 そのまま、倒れ込むんだ。


「えっと……これはいいってことで合ってる?」


 倒れこんだ彼女の顔色は窺えない。

 ただ、僕の胸元で、呟くように言葉を発し始める。


「貴方は」

「はい」

「貴方は、一緒に海を見てくれますか?」

「見に行くために僕がここまで来たんですけど……」

「私の歌じゃなくて?」


 彼女は俯いていた顔を勢いよく上げて尋ねる。


「それは難問だけど……」

「悩むな!」

「はい! 美成子さんのために来ました!」

「……そう」

「うん……」


 倒れこんだ僕を放って、キミは先に立ち上がった。

 沈黙が張り詰めていくごとに鼓動が痛く、鳴り響く。

 顔が燃えるように熱い。

 キミもそうであって欲しいけど、顔は後ろ姿からじゃよく見えない。

 焼け石に水とはよくいうけど、塩水でもいいから顔を突っ込みたい気分だ。


 そう――。


 キミは僕を放って、何処かに消えてしまうんじゃないかと心配するんだ。

 消えたと思って不安になる僕は、辺りを見渡すけど、やっぱり姿は見当たらない。

 何故ならキミはギターを背負って、既にタンデムに座っているから。


「行こ」




 *

 いつもよりふかしてみたエンジン音に、二人でビビりながら。

 *

 遠慮もせずに腰に腕を巻いて、身体を重ねた。

 *

 時間が許す限り、ずっと海道沿いを走り抜けていく。

 *

 思い出が簡単に消えてしまわぬよう、ゆっくりと。

 *

 ひとときの幸を噛みしめるように、心に刻んで。

 *

 日が暮れるまで――。




                完。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

憧れの"あの人"と良好な関係を築きたくないお話 るんAA @teyuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ