第二十八話「梅雨明け」


 あれから一ヶ月が経とうとしていた。

 だけど、たぶんいつもと変わり映えしない日常。

 時が流れれば、当然、季節も移り変わっていくわけで。


「あっつぅ~……」


 自動ドアが開いた途端、生暖かい熱風が身体を覆った。

 ここに来るまではあれだけ風が心地よく吹いていたというのに、来店する客は額に汗を滲ませながら、早々とアイスを買う人間ばかり。その理由が今になって、ようやく理解できた。


「こんだけ暑いんなら、先に言っといてくださいよね~……」

 今日は夏を先取りしたような、猛暑日らしい。それも今年最高気温の。

 店裏の蛇口をおそるおそる触ると、手が途端に引っ込むくらいには熱されていた。

 試行錯誤して、どうにか蛇口を捻ることに成功させるが、


「あ、ちょ……‼」


 捻りすぎたのか、水が跳ね返って飛び散るくらいの強い勢いで蛇口から水が溢れ出てきて、女は急いで、ジョーロに溢れんばかりの水をパンパンになるくらいまで入れた。


「おもっ‼」


 腰に力を入れて両手で持っても、膝はぷるぷると震えた。

 水をやるのは店前の通路に置いてある花が植えられている花壇。

 話によると、イメージアップ目的で年明け頃から店長がいろいろと調べていたらしい、管理くらい自分でやってくださいよなんて言ったらまた口うるさく言われるか。


「お、こんにちは。水やりかい?」

「あ、そうなんすよ。めんどくさがりの店長の代わりで」


 話しかけてきたのは高齢社会の癌ともいえるような、足が悪くて杖をつくオンボロの麦わら帽子を被ったジジイ。

 こんな夏日によく外に出るなぁ……あ、働いてる恋美はもっと偉いっすけど。


「きょ、今日は暑いから、熱中症には気を付けなー」

「ご親切にどうもっす」


 簡単に挨拶をすると、恋美はゆっくりと一歩一歩を噛みしめて歩く男の後ろ姿をじっーと見つめるが、今日も店に入る素振りは一切見せずに、通りすがりの人として過ごした。

 たぶん、一度も店内に入ったことはないんじゃないだろうか。

 悪口を心の中で垂れることはできるのは、彼が客ではないから。

 買い物するわけでもなく、ただ挨拶をするだけのジジイとして恋美は認識してる。

 ジジイの散歩コースなのかは知らないけど、恋美が花壇の水やり担当になってからは、二週間に一度は決まった時間に、ここで顔を合わせる気がする。それも朗らかな笑顔で。

 恋美はまた、老人のトボトボと遅いペースで歩く後ろ姿に目をくれる。


「…………」


 あんな、ゆっくり歩いて大丈夫なのかな。

 恋美は最後の花まで水を一滴たりとも残さずにくれてやると、空になったジョーロをクルクルと振り回しながら、早々に店の中に戻った。


「ま、どうでもいいか。なんかボーっとするし、休憩もらおっと」


 あー、最悪。前髪くずれたかも。


 ※ ※  ※


 気付かないうちに眠っていたらしい。

 起きないと……。

 そう言って、目を開けても視界は焦点を合わせることができずに、


「やば……」


 真っ暗なまま。

 誰かの声も聞こえたり、聞こえなかったり、はっきりしないまま時間が流れて。

 空気を段々と求めているのが、自分でも判り始める。

 自分の身体なのに痺れたみたいになって、言うことが効かない。

 水の中にいるみたいに、声が遠のいていく……けど。

 誰かが必死に呼び掛ける声だけが耳の奥から、聴こえてきた。


「せ、んぱい……?」

「残念だったわね。アンタに先輩と言われる筋合いはないわ」


 ぼやぼやする視界の中で見えたのは、不服そうな顔でこちらを覗く……多分、あの人。


「……あー、先輩と同じくらい好きっすよ。マジで」

「アンタと会うのは、これで二度目なわけだけど」

「恋美はその二度だけで慕っていますよ。愛梨先輩」


 額に伝わる冷たい感覚に、包容力のある膝枕。

 決め打ちで言ってたけど、外れてたら申し訳ない……な。

 安心したのか、耐え切れなくなったみたいに、恋美はもう一度、瞼を閉じた。


 ※ ※  ※


「あら。落ち着いたかしら?」

「やっぱり、愛梨先輩だった」

「なによ、それ」


 目の前に広がる光景は白色が霞んで灰色になった薄汚い天井。横目をやると、狭いバックルームの空間で窮屈そうにしながら椅子に座ってこちらを見下ろす花前愛梨。肩と腰あたりに酷い痛みを感じる。

 床は布団代わりのダンボールが敷かれていて、とても安眠できるような環境ではない。


「身体は痛いだろうけど、倒れる方が悪いのよ」

「はい。肩と腰が尋常じゃないくらい痛いっす」

「寝相のせいね」


 いや、床のせい。なんて無粋なことは言わないことにした。

 枕代わりに使われていた誰かの上着のおかげで頭と首にダメージはなさそうだったから。

 愛梨が半袖だったり、部屋の温度が生ぬるいことを考えると誰のかはすぐに判りそう。


「……恋美、どのくらい眠ってました?」

「店長さんがタバコを吸いに行くくらいまでは」

「ということは夕勤の時間っすか。昼寝じゃ済まされないかもな~」

「給与は午前だけ付けとくって言ってたわよ」

「まあ、そうっすよね」


 あーあ。金を稼ぎに来てるのに、一日を無駄にしちゃった気分。


「愛垣さんは何をしていたか覚えているかしら?」

「トイレ行くときにケータイいじってるのが店長にバレて以降、罰としてやらされている花の水やりをしに行ったら、外が想像以上に暑くて、たぶんバテたって感じっすよね」

「その通りよ。記憶は大丈夫そうね」

「熱中症っすよね」

「みたいわね。しばらく横になってれば、身体も少しは良くなると思う」

「そうっすか。ならよかった」


 人の心配してる場合じゃなかった……と。


「前も」

「はい?」

「前もこんなことがあったらしいわね?」


 愛梨の顔は下からでは見えなかった。


「あー、そんなこともあったかもしれないっすね」

「店長さんの顔、青ざめてた。前は危なかったって」


 声色がさっきと違って、どことなく震えているような気がして。


「あんときは新人で慣れなかったから……あ、でも先輩のおかげで……」


 気付いたときにはもう溢れ出ていた。


「じゃあ、その先輩は、アイツはどこに行ってんのよ!」


 燻っていた炎が貯め込んだものを爆発させるみたいに、頭ごなしに愛梨は叫んだ。


「あたしが偶然、ここに来なかったらあなたは危なかったのよ?」

「忙しい昼時、店には店長一人。看病できる状況ではなさそうっすね」

「この前がどうだったかは知らないけど、意識が朦朧としていて、本当に危なくて」

「この前は先輩に看病してもらいましたよ。それも一晩付きっきりで」

「アイツはもういないの。一ヶ月も学校を休んで、消えたのよ」

「一ヶ月っすか、もうそんなに経つんすね」

「随分と落ち着いてるわね。どんな時でも恋美が正妻っす、とでも言いたげね」

「いやいや、恋美は何も知らないっすよ。ここに帰ってくることだけは知ってますけど」


 恋美の信頼にも足る発言を聞いた愛梨は、不意に圧力的な視線を送った。


「アイツのこと、なんにも知らないくせに」

「なんとなくは知ってるつもりっすけどね。そこそこ話しますし」


 あー、この答えは誘いに乗ったと捉えられてもおかしくないかも。


「へぇ……そう」


 愛梨は訝しげに目を光らせると、何かを企んだ様子で恋美の顔色を窺った。

 恋美からは純粋な視線を送った。恋美に非はなさそうなそんな純粋さ。

 一触即発。愛梨は容赦なく鋭い刃を突きつけるみたいに、鞘を抜いた口を開いた


「好きな食べ物は?」

「エビアボカド」

「好きな数字は?」

「366」

「その理由は?」

「一日多い366日ある年があることはロマンティックに感じるから」

「ロマンティックの定義は?」

「男と女の気分が良くなること……っすよね」


 互いの息遣いが荒々しく部屋に響く。


「な……なかなか、やるじゃない」

「そ、そうっすかね……。普通っすけど~」


 中学からの幼なじみとは聞いてたけど、案外恋美と同等の知識量っすね。

 これなら、記憶がなくても知識でカバーできる。


「じゃあ、アイツがチキンで臆病なチェリーってことも知ってるのかしら」

「あー、それは……」


 って、チェリー? 先輩の動揺ぶりからしたことはしたはずだけど。


「詰まってるみたいね? 知らなかったのかしら」

「し、知ってはいましたよ。ただ、愛梨先輩が嘘をついてるかもしれないと思って」

「信じられないわけね。いいわよ、信じてもらえる情報はまだあるから」

「信じるか信じないかは恋美次第っすよね。恋美、ほら吹きには慣れてるんで」


 でたらめだ。仮にしていても、先輩があんな動揺ぶりをする理由がない……


「翔は、神坂美成子のことを初めから知っていたわけではない」

「え?」

「アイツ、古参ぶっていたでしょ。あれはあたしの受け売りなのよ」

「それは……」

「どう驚いた?」


 横になっている恋美に不敵な笑みで笑いかけて来る愛梨に若干、狂気さを覚える。

 この人、こんなに上機嫌なことあるんだ……。


「いや、それは正直、どうでもいいっす」

「どうしてよ!」


 愛梨はちょっと悔しがった。

 恋美には悔しがる必要がないから。


「だって……恋美にとって、先輩以外の存在は付録でしかないですから」

「夜の修学旅行のノリみたいに言ったわね」

「恋美はいつだってそのくらいのノリっす」

「あなた、やっぱり翔のこと……」


 訝しげにこちらを見つめる……というより睨む愛梨。


「そんなこと、どうでもいいじゃないっすか。それより、もう弾切れすか?」

「神坂美成子への妄想癖があるアイツのどこがいいんだか」


 恋美を釣らんとばかりにまたもや、気になる言葉が宙を舞う。


「妄想癖……ちょっと気になるっすね」


 この際、すべてを暴露してもらおう。


「翔が神坂美成子のファンクラブのリーダー的存在っていうのはあなたへの見栄っ張りね。本当は下っ端もいいところで、ライブの振り付けも雑で合わせようとしないから厄介がられているくらいよ。本当は神坂美成子の楽曲を全曲も聴いたことないだろうし、リトルロックドリーム以外は三桁も聴いてないわよ。あ、でもアイツグッズだけは持ってるわね」

「それは……ちょっと驚いてます」


 恋美の口は既に見栄を張ることを止めていた。

 幼馴染って、ここまで執念深いのか……と。

 なんなら、ちょっと引いていたまである。


「アイツ、たぶんそこまで神坂美成子のことを見てないのよ。信仰的な意味でもなく、圧倒的な歌唱力でもなく、彼女を……まあ、ここまで言えばあなたにも分かるかしら」


 そして、恋美が勘づいていたことも、やっぱり、愛梨先輩は気付いている。


「恋美、実は先輩に申し訳ないことを言ったと思ってました」

「安心した?」

「はい。愛梨先輩に言われてから、なんだかそんな気がしてきました」


 よくよく考えてみれば、簡単に分かっていたこと。


『顔に泥が塗られたままでいいのか』


 そんな問いを受けて、熱狂的なファンが怒らないはずないのに。


「そっちの方が納得できるわよね」

「まったくです」

「困ったものよ。なんせ、翔自身が……」

「愛梨先輩」

「な、なんでもないわよ」

「いいえ、違うんです」


 口止めしたみたいになったので、恋美は丁寧に否定する。


「どうせだったら、直接、先輩に言ってあげた方がいいかなと思って」

「そう?」

「はい。絶対に効くんで」


 マウント祭りで強張っていた場の空気も、その瞬間は少しだけ緩んだ気がした。


「あたし、そろそろ帰るわ」

「あの、そういえば愛梨先輩の用事って……」

「終わったわよ?」

「あ、そうなんすか」

「ええ、鬱憤晴らしに来ただけだもの。最近、ムカついてたのよ」


 この人、本当にすごい。

 もちろん、いろんな意味で。

 だから、余計にそんな横顔で寂しそうに見えて。


「虚言癖でチキン野郎の先輩ですけど」

「……うん」

「きっと、帰ってきますよ。恋美は先輩のことを一番知ってるつもりなんす」


 つい柄にもなく、そんな無責任なことを口ずさんでしまう。

 恋美が知らない先輩を、恋美は信じたいから。


「あたしは知らないわよ。あんな奴」


 愛梨は鼻を曲げるみたいに、ツンと冷たい口調でそう言い放った。

 あはは、これは失敗かな? 分かんないっすね。


「もう少し、ゆっくりすればいいじゃないっすか」

「あなたと話すことはもうないわよ」

「恋美、寂しいな~……って聞いてます?」


 後ろ姿にも反応は見えない。

 忘れ物でもなければ、これ以上は踵を返すこともなさそうだ。心細いなぁ。


「あ」


 言ってるそばから愛梨は顔をもう一度、こちらに戻す。


「忘れ物っすか⁉」

「気のせいだったわ。お大事に」


 愛梨は、また扉の方にそっぽを向いた。


「愛梨先輩のいじわるぅ~」

「机の上に置いてある麦わら帽子返しておくのよ。あなたの恩人なんだから」

「麦わら帽子……?」


 身体を起こしてみると、机に置かれていたのは確かにオンボロの麦わら帽子。

 あれ。この帽子、どこかで……


「心配してたわよ、あのご老人。歩様がおぼついていて危なかしかったって。実は、近所の方でね。通りすがりに言われなかったら、あたしもここに来なかったかも」

「……お礼、言わなきゃっすね」


 歩様が危なかったのはお互い様ってことっすか。


「なんだか、嬉しそうね」

「職場の先輩に教えてもらったんすよ」

「なにを?」

「それは企業秘密っす」


 働くことは、悪いことばかりじゃないって。


「そ。じゃあ、あたしもここでバイトしようかしら」

「先輩は一人で十分っすねー」

「なに言ってるのよ。いまから入ったらあたしは後輩よ」

「後輩も一人で十分っすよ!」

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