第6話 トンネルの向こう側

 確かに廊下の一角は、薄暗く見える。が、怖いなどとは貴史には思えない。に震えるほど恐怖を示している聡に安心感を与えようと貴史は両腕にぎゅっと力を込めて抱き寄せた。

 「大丈夫。何もないよ」

 貴史の胸に顔をうずめているので表情が見てとれない。貴史の背中に回した腕は、ブルブルと震えてはいるが、僅かながら力が弱まったように感じた。

 二人とも玄関で靴を履いたまま座り込んでいる。聡の腕にはレジ袋がぶら下がったままである。

 「ほら、聡くん?靴を脱いで部屋へ入ろう?生ものはないけどさ、早く買ってきたものをしまおうよ?」

 (なんでこんなに怖がってるんだろう……それにどうやって俺よりも早く帰れたんだ?今通って来た道が一番近いはずなのに?レジ袋を持っているから買い物だって済ませたわけだよな?それに……人間てこんなにガタガタ震えるものだっけ……)

 「もしかして、寒気がしてる?それなら尚更部屋へ入ろうよ」

 「寒く、ない、暑い……違、う、黒い……トンネルが……」

 そう言うと、聡は顔を上げて虚ろな眼差しで貴史を一瞬だけ見つめると、自分たちの足下を見た。

 (……だ……トンネルの中から見えたのはこの地面と床だ!)

 聡の両腕から急に力が抜けた。震えは僅かに残っているが、貴史の背中から腕を外して足下のコンクリートをじっと見続ける。

 (なんで!?なんでからが見えた!?なんで?)

 貴史は抱きしめていた腕を外して聡の肩と背中にそっと添えると、玄関先に座らせた。聡はぼうっとしていて、貴史のなすがままである。若干の震えは収まっていた。

 「靴を脱がすよ?上がろう」 

 (さっきから言ってるトンネルってなんだろう?)

  されるがままに靴を脱がされた聡は、座ったままでそこから動こうとしない。

 「……聡くん?」

 貴史は聡の顔色を確かめようと、正面に屈んで膝をつき、同時に聡の腕に絡まったままのレジ袋を抜こうと腕をそうっと持ち上げた。 

 「…………」

 「聡くん?大丈夫か?」

 聡は貴史の声が聞こえないのか、俯いたままだった。聡の顔は真っ青になっていた。

 やおら貴史が立ち上がって部屋へ先に入ろうとする。このままではがおかしい。柚山医師に指示を仰ぐか、救急医療を受けるべきか。

 「ちょっと待ってて。今、柚山先生に連絡を……」

 玄関から上がりながらスマホを取り出して、電話をかけようとしたその時、聡がビクッと身動きして、貴史のジーンズの足首部分をいきなり掴んだ。

 「わっ、危なっ!」

 「……お願いです……連絡しない……で……」

 「何言ってるんだ?最近君は体調が悪かっただろう?何かあったら先生に連絡しなさいと言われているんだ。橋本さんからお預かりしている大事な息子さんなんだし。ご両親だって心配されていて……俺には責任があるんだよ。ちゃんと先生に診て貰おう」

 「大丈夫……黒いトンネルが悪いんだ……さえ見なければ」 

 トンネル……?

 貴史は聡が何を指してトンネルと呼んでいるのかが分からない。

 (薄暗がり?それとも、霊感でもあって幽霊でも見えているのか?)

  「さっきの薄暗い場所なら、何もないよ。大丈夫」

 「……うん、そこには……もう、ない……」

 ……もう、ない?

 (さっきまではあった?ということか?)

 聡は先ほどは目を背けた箇所を今ではしっかりと見つめることが出来ている。

 「今は……見えないんだね?」

 「……うん……だからお願いです……家にも先生にも連絡しないで……連れ戻されちゃうから……!」

 「連れ戻す?」

 (連れ戻す、って。家だろう?普通家に帰る事をそんな強制連行みたいな言い方……するか?)

 掴んだジーンズの裾から手を離し、新たに現れた貴史の右横の楕円形の暗闇から目を背ける。

 貴史はその反応を見逃さない。

 「

 「……っ、大丈夫…!」

 (見なけりゃいいんだ!見るからそっちに引っ張られてしまうんだ……多分)

 確かに、スーパーの駐車場を抜けて、歩道へ出たはずだった。角を曲がったその先にアパートが見えるはずだった。

 記憶はしっかりとある。曲がった先にアパートではなくて、黒いトンネルと、この今自分が座っている玄関が見えたのだった。 

 (多分……あのトンネルとここが繋がってたんだ!今、貴史さんの横にあるヤツを見てしまったら、もしかすると、また何処かへ飛ばされてしまうかも!)

 「……あ……もしかして……」

 「何?何がもしかして?」

 聡は少しだけ顔色がよくなったように見えた。

  貴史は立ったまま、座っている聡を見下ろしている。すぐ横にあるには全く気付いていないようだ。

 聡はやっとのことで立ち上がり、貴史の隣に現れた楕円形の回廊をなるべく見ないようにして貴史の腕に両腕を絡めた。

 「?どうした?」

 腕にしがみ付くことなどされた記憶がない。貴史は聡の顔を覗き込む。聡は黙ったままである。

 (もしかしたら、貴史さんと一緒にいれば飲み込まれないかも。全然見えてないみたいだし……)

 「……貴史さんは、横に何かあるか見えない……?」

 聡は玄関先の方を向きながら、黒いトンネルが現れた場所が貴史の横にあると暗にほのめかした。

 「は。横?てどっち?両側?壁とドアだよな……あ、あと聡くんがいるよ。まだ何かあるのか?」

 当たり前と言えば当たり前な回答である。壁と反対側には洗面所とトイレに繋がるドアがある。

 「え、あのさ、まさか背後霊とか幽霊の類のことを言ってるのか?俺に何か憑いてる?俺は霊感が全然無いから分からないんだ」

 今度は貴史が青ざめて、聡が掴んだ腕に鳥肌が立った。

 「違、違います!そんなんじゃ……」

 絡めている聡の腕に力が入る。もしかしたら……この状態でトンネルをしっかりと見たら……?

 聡は深呼吸をして、暗闇に拡がる回廊に視線を向けた。恐怖よりも正体、得体の知れないが何であるかを知りたい。怖れよりも知りたい方が勝った。 

 「貴史さん……これ……」

 聡は楕円形状の暗闇に指をさした。

 「え?こっち……?」

 聡は既にトンネルの向こう側の光差す出口に景色が広がっている様を見つめていた。

 (……これ!学校前のバス停だ!)

 思った通り、暗闇には引き込まれない。大丈夫だ。貴史さんは?と、無言の彼の顔を見ると、目をしばたかせ、まるで視力検査でも受けているかの如く細目にしたり見開いたりしている。

 「見える?黒いトンネル!向こう側も見えますか?」

 「え……黒いトンネルなんて見えないけ……オワッ!なんだ!アレ!?」

  「何が見える?貴史さん、言ってください!」

 貴史の腕にしがみ付きながら、言葉こたえを催促する。僕だけじゃない、と安心感を得たいのだ。

 「……なあ、これって白昼夢とか言わないか?俺は薄ぼんやりとなんかバス停みたいなのが道路脇に見えるような……?あ、ヤバい、クラクラしてきた」

 聡の腕を触ろうとしたが、眩暈の為にそのまま膝をついてしゃがみ込んだ。同時に腕を離したくない聡も同じく廊下に座り込む。

 「見える?本当に見えるんだ!よかった!僕だけじゃなかった!アレ、学校近くのバス停ですよね?」

 貴史の目に映るは、壁をぶち抜いた先にぼんやり浮かんでいるバス停らしき風景である。

 聡の見えている暗闇の回廊の向こう側だけが見えたと言うべきか。

 「聡くん……気持ち悪くないか……眩暈が……」

 (同じだ!僕がここにいきなり飛ばされる前と!)

 「貴史さん!有難うございます!もう、見ないでください!引っ張られてしまうかも、だから」

 貴史は頭を抱えた。クラクラがグラグラに変わりそうで、そのまま動くことが出来ない。

 聡には、気持ち悪さや眩暈などは感じられなかった。安心を得て落ち着いたのか、そっと貴史の腕から手を離した。

 「引っ張られる……?て、なん、あ。消えた……」

 バス停の画像は貴史の目の前から消えて、いつもの壁がはっきりと現れた。

 「貴史さん、大丈夫ですか?」

 聡の視界からもトンネルは消え去った。聡は初めて暗闇が閉じる瞬間を見たのだった。

  (ああやっていつも閉じてたのかな……貴史さん、気持ち悪いだろうな。悪いことしちゃったかな……確かめてみたかったとは言ってもなあ……)

 自分のことしか考えていなかった聡は、これまでの体調不良があの黒いトンネルのせいだったのか?と思い始めた。貴史が今、この場で眩暈を起こしている。蒸し暑いこの廊下で。

 「あっ、僕、水持って来る!」

 始め、頭痛と眩暈があった。その後はとても怖かった。気持ち悪かった。歯の根が合わないくらいガチガチに震えた。

 貴史さんにぎゅっとされて、少しずつ震えが収まった。

 こんなに一度に色々な感覚に移り変わることなど経験したことが無い。

 あんなに怖かったのに。あんなに気持ち悪かったのに……今は普通に動ける。聡はコップに水を汲みながら、不思議に思った。

 (貴史さんにも見えた……あのバス停が)


 そこは聡が初めて飲み込まれた黒いトンネルがあった場所であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

眠る一族 永盛愛美 @manami27100594

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る