第5話 時空を越えた疑惑
「聡くん、今日は買い出しに行こうか」
聡が貴史のアパートへ来てから八日が過ぎた。朝食の後片付けを終えて、食器を棚に戻しながら聡は食料が入っている箇所を眺めた。
食べ盛りな年頃とはいえ、聡が体調不良であるので食料はそんなに減ってはいない。聡はまだ食べ物や日用品は在庫がたくさんあるのに?と思った。
「え、今日ですか?」
「そう。今日は俺、バイトが休みだし。次の休みまでは行けそうにないから買っておこうと思って。スーパーはすぐそこだから歩きで行けるんだ。どう?」
貴史は、部屋にこもりきりな聡を心配していた。昔から活発な子でなかったとはいえ、いくらなんでも動かなさすぎる。体調がまだ万全ではないのだろうか。それならば、柚山医師に報告しなければならない。
聡は日を追うにつれ、突如現れる暗闇の空間とその先の光が見え隠れする回廊のようなトンネルに恐怖を抱いており、外出は極力避けたかった。
(でも……行かないと、体の具合を疑われてしまうだろうな……行きたくないけど……)
「はい、行きます」
少しほっとした表情を見せた貴史に、聡も安心する。良かった、あちこちに連絡されることはないだろう、と。
「今日はお昼ご飯と夕ご飯を何にしようか?それともたまには外食でもする?ご両親から食費として沢山預かっているのに、聡くんの食が細いから……随分残っているよ。何か食べたいもの、ない?」
朝ご飯を食べたばかりで満腹感が頂点を極めており、食欲がないのも手伝って余計に言葉に詰まる。
「え……と……」
(何か言わなくちゃ。貴史さんが心配してしまう)
「まあ、腹いっぱいの時はそんなこと考えられないかな。じゃ、洗濯が終わったら、ちょっと出掛けてみようか?」
貴史にそう言われてあからさまに一安心した聡だった。
その貴史の背後に、暗闇の回廊がじんわりと拡がり始める。
聡は目を逸らして回廊の向こう側を視界に入れないように努める。貴史は聡が顔色がスッと変わったことを見逃さなかった。
(なんだろう……?最近やけに元気が無いな。橋本さんに報告する必要があるかな?いや、その前に柚山先生かな)
聡に落ち着きが無い。部屋の中の移動が多い。
寮生活を送っていて、土日は貴史のアパートで、週末家庭教師を受けている。以前はこのような動きはなかった。
貴史は聡が中等部の二年生から週末家庭教師を引き受けていた。二人が知り合ったのは、それより三年前の聡が小五、貴史が高一の時である。
何かを忘れている気がする。しかし、それが何か分からないから忘れているのだろう。貴史は逆説的に捉えて、気にも留めなかった。大事なことならば覚えているはずだ、と。
大して広くないアパートであるので、洗濯も掃除も二人で手早く済ませることが出来た。
近くのスーパーへは、アパートを出てすぐの大通りの歩道をほぼまっすぐに進み、左に曲がるとスーパーの駐車場へと行き着く。その中を通り抜けるとスーパーの入り口に出る。隣にはホームセンターが併設しており、とても便利だった。スーパーでは主に食品を、隣では日用品をと使い分けている。
聡は何年も土日のみ貴史のアパートへ通っているが、スーパーへは同行したことはなかった。
二人の買い物の量はごく僅かなもので、ウインドウショッピングの趣味もないので短時間で購入が終わってしまった。
「本当に近くて便利ですね」
「だろう?初めてでも迷わず行けるし、友達にウチに来る前に頼んで買って来てもらうのにも都合がいいんだよ。楽で」
「はい、迷わないですね。殆ど一本道だし」
「どうする?隣のホームセンターを覗いて見る?結構色々なものが揃ってるよ」
いつもならば、興味をそそられて足を向けていたかもしれない。夏休みもあってか、昼近くの時間帯は両店舗とも結構人混みが激しかった。聡は買い物客といきなり現れる暗闇のトンネルに恐怖を感じて、首を横に振った。
「いえ……暑いし、早くアパートに帰りたいです……」
アパートよりも店内の方が涼しいことは明白である。貴史はやはり体調が良くないのでは、と気を付けて行こうともう一度思った。部屋の温度にも注意を払う必要がある。
「分かった。じゃ、そこでアイス買ってから帰ろうか?とけそうになったら歩きながら食べよう」
もちろん、アイスは素早くとけだしたので、店の前で食べ終えた。
駐車場を抜けると、後は右に曲がり、直線コースでアパートに戻れる。聡は初めての店に向かう緊張感がないことを有り難く思った。
(アイスを食べたのに、体が熱いな……久しぶりに歩いたせいかな?あ、そうだ、冷却シートや瞬間冷却剤!買っておかなきゃ!)
「……聡くん?どうかした?」
ふと立ち止まった聡に気付いて貴史が振り向く。
「貴史さん、買い忘れた物があるから、買って来ます。先に戻っていてください」
そう言いながら、体を反転させる。
「俺も行くよ」
「大丈夫ですよ。すぐそこを曲がればまっすぐだし、アパートだってこの辺から見えるし。入り口近くに目当ての物はあったからすぐ買えるし」
「すぐ買えるなら待ってるよ」
「え……大丈夫ですって。あ、先に行って部屋を涼しくしていて欲しいな……なーんて」
冗談半分で言った聡だったが、貴史は体調不良の為だろうと受け止めた。
「わかった。ギンキンに冷やしておくよ。じゃ、先に行ってるね、袋かして」
聡が持っていたレジ袋を受け取って、貴史はアパートへ向かった。直線コースとは言え、少々距離がある。大人の足でゆっくり歩けば約七、八分はかかるだろう。
聡は急いで店内に戻り、入り口近くの熱射病対策コーナーで目当ての品を買い外へ出た。その時に軽いめまいを感じたが、短時間に店の出入りを繰り返し、急な温度差を感じた為だと考えた。
再び駐車場を通り抜け、アパートの見える右に曲がったところで、立ちくらみよりも強いめまいに襲われた。
(う……マズい、また……)
めまいだけではなかった。曲がった先に、暗闇の回廊が聡を待ち受けていた。
その先にはアパートが遠くに見えるはずである。聡はめまいを感じながら、いつもならば目を逸らすトンネルの先の光が差す場所を見据えてしまった。
(え……なんか、見え……うわあっ)
先日のバス停で暗闇のトンネルに飲み込まれた際には気を失っていた為に記憶がなかった。
が、今回は暗闇に飲み込まれた瞬間の体がぐにゃりと捻れながら、何かに包まれているような、空間に何がしかの抵抗感を感じ取っていた。
(き、気持ち悪い……向こうに何かが見えるし……引っ張られている……?)
圧迫感とも感じる。空気の抵抗感とも感じる。暗闇の回廊を自らの意思と関係なく歩いていないはずの自分が光の差す方へと移動している。
光が次第に近付いて来た。いや、自分がそちらへ引き寄せられているのだ、と思った瞬間に、まるで空間から吐き出されたように違う場所へと聡は放り出された。
空間は再び異様な空気抵抗を全身に与えて、ドサッ、という音と共にコンクリート地面に投げ出された聡は、その場で気を失った。
丁度その頃、貴史はアパートの階段を上りきり、鍵を開けて中に入ろうとして、妙な物音を聞き取っていた。
(え、俺、鍵かけたよな……まさか、泥棒!?)
そうっと鍵を回してドアを開け、中の様子を覗おうとして、貴史は足元に目が釘付けになった。
「な、え!聡くん!え、な、ちょ、大丈夫か!」
買った品物など投げ捨てて、貴史は足元で横たわっている聡を抱き起こした。聡の腕には新しいレジ袋がぶら下がっている。
「え、何、聡くん?なんで先に、っておい、きゅ、救急車か!」
呼吸は、意識は、などと顔を近付けようとすると、「……う……頭……痛い」と言いながら聡は意識を取り戻した。
「ああ、良かった!頭を打った?救急車呼ぶ?大丈夫か?」
貴史の腕の中で抱きかかえられていた聡は、ぼうっとしていた意識をだんだんはっきりと元へ戻すと、信じられない顔をして貴史を見つめた。
「……あれ……?貴史さん……?あれ?」
「大丈夫か?聡くん、俺が帰って来たらここで倒れてたんだよ……熱射病かな……柚山先生に診て貰おう。往診を頼もうか?」
……ここで?倒れていた?
聞き間違えたに違いない。貴史は聡よりも先に帰宅したはずである。
「あれ……俺、聡くんに合鍵渡したっけ?よく俺よりも早く戻れたね?」
合鍵など渡されていない。先に帰って来た覚えもない。
「た、貴史さん……っ!」
貴史に抱き抱えられたまま、聡は両腕を貴史の背中に回してしがみ付く。ガタガタと震えながら、精一杯声を振り絞り言葉に出した。聞き間違いではない。貴史ははっきりと聡の方が貴史よりも早く帰っていたと言った。
「こ、怖い……黒いトンネル……怖、い……」
聡はようやく理解した。信じられないことだった。貴史よりも先にアパートへたどり着くはずがない。
あの急に現れた黒いトンネルに飲み込まれたんだ、それしかない……。
「トンネル?黒い?トンネルなんかこの辺には」
「あ、あるよ、ここにも、ど、どこにも……怖いよ……」
「……え……」
倒れる際に頭を打ったのかもしれない。柚山医師に診察をお願いしよう、と聡をしっかりともう一度抱き抱え直すと、体勢を変えて移動しようと体を動かした。
「だ、だめ……そっち、だめ!」
背中に回した腕に力を込めて、聡は震えながらも貴史を止めようとする。
「そっち?」
普通ではない聡の言葉に反射的にそちらに視線が傾いた。
「だめ!見ないで!」
聡はその方向から目を逸らして貴史の胸に顔をうずめる。
一体何が見えると言うのか、と返って疑惑を感じてしまう貴史は、聡が見るなと言う空間を眺めてしまう。
(ほら、何もないだろ……え?)
目をしばたいて、もう一度見つめてみる。聡がガタガタ震えているので貴史に振動が伝わっている。だからぶれて見えるのか、変なように感じるのか?
玄関を抜けた廊下の突き当たりだけが、薄暗くなっていた。
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