第4話 異なる時間
初めは顔や胸、両腕、両足がやけに熱かった。そして熱く硬い何かの上に乗っている感じがした。
そのうちに気持ち悪さに加えて、頭も痛くなって来た。体が熱いので向きを変えたいが、手足が自由に動かせない。
体が重い。
聡は自分がどうなってしまったのかが分からなかった。とにかく全身が熱い。痛い。
近くで子供の甲高い笑い声や大声ではしゃぐ声がしている。それと一緒に水しぶきの音と、笛を鳴らして叫ぶ大人たちの声も重なって聞こえる。
(……懐かしい……近くにプールでも……?え、でもバス停の近くにプールなんかなかった……)
「あ、バス……」
喉がカラカラだった。
目を閉じていたらしい。熱い瞼をようやく開けると、自分の声がくぐもって聞こえたのは熱せられた地面、アスファルトの上に自分がうつ伏せになっていたからだと知った。
(……え、何、これ……)
頭が痛い。熱い。いつしか気持ち悪さよりも体の熱さと痛みと喉の渇きの方が勝っていた。
(起きな、きゃ……)
両腕に力をこめて半身を起こしたいが、熱い体には力が全く入らない。
(え、なんで……)
だんだん意識が薄れていく。眠気のような感覚が体の辛さを遠ざけていた。
もう、子供たちの声も賑やかな音も聡の耳には届かなかった。
スマホの着信音が鳴り響いても、周囲の雑音も何も聞こえてはいなかった。瞼が自然に下りていく。
聡は再び意識を手放した。
「どうした!
通りがかった
再び体の痛さと頭のもやもやを感じたのは、俗に言う『知らない天井』を視界に捉えた時であった。
(……僕……ギャグで目が覚めたのは初めてかも……いてっ)
いつかテレビで見たシーンのように、点滴のチューブや機械がセットされて、腕も固定されていた。
「聡くん?大丈夫か?」
頭の横で聞き慣れた声がする。
「……
かすれた声が自分の声とは違う声に思える。声の方へ頭を向けると、家庭教師で保護者代理の山本貴史がベッド横に座っていた。
(あれ?ここはどう見ても病院、だよな……?どうして貴史さんがここに?)
「ナースステーションにちょっと行って来る。そのまま動かないで」
そう言うと、急ぎ足で病室を後にした。
動くなと言われても、なぜか力が入らない。頭の向きを変えるのもしんどかった。
だが、だんだん頭のもやもやが晴れて来た。スッキリとしているようだ。
聡は熱射病と脱水症で歩道で倒れていたところを通りがかった長距離ドライバーに発見されて、救急車で運ばれたという。
(熱射病……?脱水症?)
「ここがどこだか分かる?」
病室に入って来た医師が尋ねた。この顔は知っている。それもそのはず、この病院は聡が中等部に入る際の身元保証人になってもらった院長先生が経営する病院であったのだ。
いつもは分院のクリニックで診療を行い、病院は息子二人に任せている院長は、橋本家の遠縁にあたると両親から聞いていた。
入学時にお礼と挨拶を兼ねてクリニックへお邪魔した時から、体調の悪い時は
「……
「俺が連絡したんだ。いつも聡くんの診察をして頂いているだろう?だから一応お話をしておいた方がいいと思って」
「うん、良かったよ。ここはね、息子たちに任せている病院なんだよ。まあ院長は僕だけども。普段の聡くんの健康状態を把握しているから担当医師にも情報を伝えることが出来たよ。有難う山本くん」
「いえ、いつもお世話になってます」
大学生の貴史はぎこちなく言葉を返す。保護者代理として、人ひとり預かることとはこんな時、責任重大なことなんだと思い知らされる。
点滴が終わり、看護師が手際よく後処置をし、装置を取り外して部屋を出て行く。
「今日から山本くんのアパートで過ごすらしいね。もう重症化はしないと思うけど、念のため今夜一晩は
「え……」
「その方がいいですよね。俺も安心です」
「え、でも……」
聡は学校内での体調不良の件もあり、もしまた気持ち悪さが復活などすれば追及されるだろう。そうすれば、今日のことは完璧に両親へ報告が行くだろうし、更に体調不良が重なれば、夏休み中は実家に連れ戻される可能性が高くなる……。
体の怠さ、痛さは殆ど感じとれなくなっていた。点滴は凄いんだな、などと感心している場合ではない。
「あの、ずいぶん体が楽になりました。頭痛もしないし、体の痛みもありません。あの、ちょっと僕……」
点滴で干からびていた体に水分が行き渡ったが、体内の別の臓器にも水分が溜まったようだ。
「歩ける?歩いてみる?」
院長の傍に付いていたもう一人の看護師が、聡の顔色を見て声をかけた。
「は、はい、あの」
「分かってます。おトイレでしょ?歩けるようなら行きましょう」
恥ずかしさをこらえながら、聡は看護師に付き添ってもらいトイレへと向かった。
「他に何か変わったことがあったら、僕の携帯に連絡してください。夜間でも深夜でも気にせずに。橋本家には僕から連絡を入れます。山本くんは今まで通りに。もしかしたら、何かが始まった可能性が高い」
「何かが?」
「君たちが出会った時のことは覚えているね?それとも忘れてしまった?」
「は?え、あの?覚えています。あ!聡くんが少し忘れてしまった部分があったかも……」
柚山院長の顔つきが変わった。
「やはり、君たちは……!」
意味の分からない言葉を発して、院長はハッ、とした表情を一瞬だけ見せて口をつぐんだ。
「?」
「もし、歩けるようならば体の方は大丈夫でしょう。帰宅していいですよ」
先程とは異なる見解に変わっていた。
聡が病室に戻って来る前に、今後の注意点を伝えると院長は足早に退室して行った。
(なんだ?今の会話……何かが始まった……って言ったよな?聞き間違いか?)
貴史には訳が分からなかった。
もうひとつ、貴史には訳が分からないことがあった。
「えっ!僕はバス停で倒れていたんじゃないんですか!?」
「うん。そう聞いたよ。運送業者のトラック運転手のかたが、三吉町の小学校辺りのスクールゾーンで倒れていた聡くんを見つけてくれたんだって」
(小学校!じゃ、あのプールみたいな音は夢じゃなかったんだ……)
「……でも僕はバスには乗れなくて……」
「えっ!!」
病院から貴史のアパートへ向かう車の中で、運転中の貴史は危うくブレーキを踏みそうになり、背筋に嫌な汗が流れた。
聞き捨てならない。あのバス停から三吉町の小学校へはずいぶんと距離がある。しかも反対方向だ。駅東口前行きのバスではなく、合同庁舎行きのバスに乗らなければあそこまでは到底辿り着けない。
「俺が聡くんに電話したんだけど、何時だったか履歴を見てくれる?」
ゴソゴソとバッグからスマホを取り出すと、聡は目を見張った。
「三時……二分です……」
「聡くんはその時間はどこにいたの?」
「いつものバス停で……三時六分発の駅行きを待ってて……確か三時前にはバス停に着いていたと……あれ?おかしいな」
聡はスマホでマップを確認する。杲星学園前から三吉町の小学校までは徒歩で三十分以上かかり、バス停を探すと、小学校前までは逆行きのバスに乗り、十分足らずで到着すると示された。
「えっ?えっ?なんで?僕、バスには乗ってないよ!?えっ?」
しかも、貴史が連絡をくれた時間ならば、学園前のバス停にいた時刻に近い。もしかしたら倒れた後かもしれないが、まだバス停のところに居たはずである。
貴史は聡が勘違いをしているのだろうと思っていた。体調が悪くて、朦朧として間違って逆方向のバスに乗り、誤って下車した後で倒れたのだろう、と。確かに体調が悪かった。なので貴史はそれ以上は聡に深く聞き出そうとはしなかった。
二人は反対方向へ向かうバスの発車時刻を確認することはなかった。聡は気分が悪かったので、確実に覚えていなかったのだろうと自分を納得させた。
バス停の時刻表には二時四十五分と記されている。その時間、聡はまだ校庭に居たはずであった。
その日を境にして、聡はある幻覚を見るようになる。
既に萌波の体調不良を感知している件など、どうでもよくなっていた。
歩いていても、部屋の中で座っていても、どこにいても不意に薄暗い楕円形の空間が見える。
頭がおかしくなったのか、それとも視力の関係か?初めのうちは恐ろしくてその薄暗い空間を直視出来なかった。
不意に現れては即座に消える場合が多い。いつまで経ってもその空間が消えずに存在し続ける時は、道を変え部屋を移り視界に入らないように気を付けた。気味が悪かった。
だんだん薄暗い空間は漆黒の闇へと変化していく。気味は悪くとも多少は慣れて来たので目を凝らしているうちに、暗闇の向こうには光の円が見えることが多くなった。
聡が貴史のアパートへ来てから六日が経っていた。
聡は貴史には話せずに、また悟られないように一緒にいる時はそちらを見ないように無視を決め込んだ。
聡にはその闇に飲み込まれた記憶がなかったのだ。
その先を覗いてみようなどとは決して考えられない聡だった。本能が拒否していた。
鮮明に存在を現すようになった
何かは既に始まっていたのだ。本人たちは気付かずに。
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